7.もういちどプロット
まず、プロットを命題によって記述してみよう(記号とか、命題とか、キライって言わずに、ちょっとだけ辛抱してください。けっこうおもしろいから)。
ルーシーがライナスに語った物語をここでも使ってみよう。
「人が生まれました。生きて死にました。」
これは
1.t1時に、「人」が生まれる(AはXである)。
2.t2時に、「人」が生きる(Aに事件Yが起こる)。
3.t3時に、「人」は死ぬ(AはX’である)。
と書くことができる。
物語が物語であるためには、不変の登場人物Aが存在することと、発端部の述語Xと結末の述語X’が何らかの関係を持つことである。(参考:ジャン=ミッシェル・アダン『物語論―プロップからエーコまで』末松壽/佐藤正年 文庫クセジュ)
あらゆる物語のプロットは、基本的にこの構造を持っている。
「桃太郎」は
1.t1時に、桃太郎が桃から生まれる。
2.t2時に、桃太郎は鬼退治する。
3.t3時に、桃太郎はお姫様とお宝を持って帰ってくる。
※t2時をさらに区切って細かく記述することも可能である。
フローベールの『ボヴァリー夫人』は、
1.t1時に、エンマが生まれる。
2.t2時に、エンマは結婚する。
3.t3時に、エンマは一度目の不倫をする。
4.t4時に、エンマは二度目の不倫をする。
5.t5時に、エンマは服毒自殺する。
ボーイ・ミーツ・ガール式のラブ・ストーリーなら
1.t1時に、AとBが会う。
2.t2時に、AとBの間に何かが起こる。
3.t3時に、AとBは結ばれる。
映画『アンタッチャブル』なら、
1.t1時に、エリオット・ネスはアル・カポネを刑務所に送ろうと決意する。
2.t2時に、エリオット・ネスのチームはさまざまにカポネファミリーと闘う。
3.t3時に、エリオット・ネスはカポネを刑務所送りにすることに成功する。
いくらでもできるが、涙を飲んで終わりにしよう。
ところが「物語」ではない「三つの石の話」を記述しようと思っても
1.t1時に、お父さんの石とお母さんの石と赤ちゃんの石がいた。
それだけなのである。
あるいはオチのない話、というのは、発端部の述語Xと結末の述語X’が何らかの関係を持たない話のことなのである。
では、歴史は果たして物語なのだろうか。
歴史としての記述は、
「×年に○○が起こる」ではないのだろうか?
命題の形で記述しようと思えば、
t1時に、Aが起こる。
これだけのはずだ。少なくともアリストテレスが想定する歴史的記述はそうなっているだろう。
ところがアーサー・C・ダントは「物語文」を
「少なくともふたつの時間的に離れた出来事を指示し、そのうちの初期の出来事を記述する」と規定する。つづいてさらに「この構造はまた、ある意味で通常行為を記述するすべての文に現れている」
と、規定し直す。
こうして、この「三十年戦争は、一六一八年に始まった」という「物語文」によって、出来事Aと出来事Bは結びつけられ、ひとつの「出来事」を形作る。「こうした無数の物語文が相互に連関しあって形作るネットワークこそが、まさに『歴史』にほかならないのである」(野家啓一『物語の哲学』)。
さて、よたよたと進んできた拙文も、そろそろまとめに入らなければなるまい。ということで、明日は最終回なのである。うまく着地できるのだろうか。ちょっと心配なのである。
まず、プロットを命題によって記述してみよう(記号とか、命題とか、キライって言わずに、ちょっとだけ辛抱してください。けっこうおもしろいから)。
ルーシーがライナスに語った物語をここでも使ってみよう。
「人が生まれました。生きて死にました。」
これは
1.t1時に、「人」が生まれる(AはXである)。
2.t2時に、「人」が生きる(Aに事件Yが起こる)。
3.t3時に、「人」は死ぬ(AはX’である)。
と書くことができる。
物語が物語であるためには、不変の登場人物Aが存在することと、発端部の述語Xと結末の述語X’が何らかの関係を持つことである。(参考:ジャン=ミッシェル・アダン『物語論―プロップからエーコまで』末松壽/佐藤正年 文庫クセジュ)
あらゆる物語のプロットは、基本的にこの構造を持っている。
「桃太郎」は
1.t1時に、桃太郎が桃から生まれる。
2.t2時に、桃太郎は鬼退治する。
3.t3時に、桃太郎はお姫様とお宝を持って帰ってくる。
※t2時をさらに区切って細かく記述することも可能である。
フローベールの『ボヴァリー夫人』は、
1.t1時に、エンマが生まれる。
2.t2時に、エンマは結婚する。
3.t3時に、エンマは一度目の不倫をする。
4.t4時に、エンマは二度目の不倫をする。
5.t5時に、エンマは服毒自殺する。
ボーイ・ミーツ・ガール式のラブ・ストーリーなら
1.t1時に、AとBが会う。
2.t2時に、AとBの間に何かが起こる。
3.t3時に、AとBは結ばれる。
映画『アンタッチャブル』なら、
1.t1時に、エリオット・ネスはアル・カポネを刑務所に送ろうと決意する。
2.t2時に、エリオット・ネスのチームはさまざまにカポネファミリーと闘う。
3.t3時に、エリオット・ネスはカポネを刑務所送りにすることに成功する。
いくらでもできるが、涙を飲んで終わりにしよう。
ところが「物語」ではない「三つの石の話」を記述しようと思っても
1.t1時に、お父さんの石とお母さんの石と赤ちゃんの石がいた。
それだけなのである。
あるいはオチのない話、というのは、発端部の述語Xと結末の述語X’が何らかの関係を持たない話のことなのである。
では、歴史は果たして物語なのだろうか。
歴史としての記述は、
「×年に○○が起こる」ではないのだろうか?
命題の形で記述しようと思えば、
t1時に、Aが起こる。
これだけのはずだ。少なくともアリストテレスが想定する歴史的記述はそうなっているだろう。
ところがアーサー・C・ダントは「物語文」を
「少なくともふたつの時間的に離れた出来事を指示し、そのうちの初期の出来事を記述する」と規定する。つづいてさらに「この構造はまた、ある意味で通常行為を記述するすべての文に現れている」
と、規定し直す。
私がかかわっている種類の記述は、ふたつの別個の時間的に離れた出来事E1およびE2を指示する。そして指示されたうち、より初期の出来事を記述する。……「三十年戦争は、一六一八年に始まった」は、戦争の開始と終りとを指示しているが、戦争の開始のみを記述している。その戦争が、それが続いた期間によってそう呼ばれているという仮定に立つと、それが一六一八年に――もしくは一六四八年以前に――「三十年戦争」と記述できるものは、おそらく誰もいないだろう。(『物語としての歴史』)
こうして、この「三十年戦争は、一六一八年に始まった」という「物語文」によって、出来事Aと出来事Bは結びつけられ、ひとつの「出来事」を形作る。「こうした無数の物語文が相互に連関しあって形作るネットワークこそが、まさに『歴史』にほかならないのである」(野家啓一『物語の哲学』)。
さて、よたよたと進んできた拙文も、そろそろまとめに入らなければなるまい。ということで、明日は最終回なのである。うまく着地できるのだろうか。ちょっと心配なのである。