陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

お世辞を言われたら

2010-09-29 23:11:44 | weblog
子供の頃、母と一緒に歩いていると、近所の人の立ち話の輪に遭遇することがよくあった。そんなとき、挨拶だけですめばいいのだが、よくよく急いでいる場合は別にすると、そんなに簡単には終わらないのである。

日常的につきあいのある、親しい人なら最悪で、もう出かけた本来の用事などどこへやら、情報交換にいそがしい。いまなら、日ごろ家にいる母が、そんなおしゃべりの機会をどれほど楽しんでいたか理解もできるのだが、子供時代のわたしにとっては、ただただ退屈なだけで、わたしがよほど不機嫌な顔をしていたのか、あるいは子供にはあまり聞かせたくないような話でもあったのか、よく、先に行ってて、とか、これ持って帰ってて、と言われたものだ。

そうは言っても、そこに留まらざるを得ない場合もあった。そんなときは、散歩に連れて行ってもらっている犬と一緒で、飼い主ならぬ母親の隣でじっと待つしかないのだが、あるときおもしろいことに気がついた。

それほど親しくない、ふだん母がネットワークを形成しているわけではないような人、母の言葉も、少し気を置いた、家では聞くこともないような声で話す相手の場合だと、エールの交換ならぬお世辞の交換が始まるのである。

向かい合うふたりの女性が、相手の髪型を褒め、着ている服を褒め、持ち物を褒め、家や庭や掃除のやり方を褒め、相手はついでに隣にいるわたしまで褒めてくれる。ところがせっかく褒めてくれたというのに、母ときたら、まだまだねんねで……、とこちらを落とすのが常で、端で聞いているとおもしろくなかった。

ともかく、見ていると、お世辞を言われると、とんでもない、わたしなんて……と謙遜してみせる人と、とんでもない、といったん否定しておいて、でもね、このあいだはこんなことを言われたの、と自慢につなげていく人、大きく分けて二通りの人がいることがわかった。

小学生だったわたしは、たいしたことを発見したような気になって、得意げに母にも報告した。ところが母は苦い顔をして、わかりもしないのにそんなことを言うんじゃないの、と叱られた。そのときは、せっかくの大発見を、そんなふうにたしなめられて、憤懣やるかたない気分でいたのだが、自分も大人になってみると、なんとなくその気持ちもわかるような気がした。

まず、人がお世辞を言うのは、おそらくは相手を喜ばせるためだ。言われた側は、お世辞だと十分わかっていても、やはりうれしい。なぜうれしいかというと、何が褒められているにせよ、そうしてそれが口先だけのものであろうと、お世辞の中にこめられている「わたしはあなたに好意を持っていますよ」というメッセージがうれしいのだろう。そこから、こんなふうにいい気分にさせてくれるなんて、この人はいい人だな、という気持ちが生まれる。

お世辞を言う人は、相手に「この人はいい人だ」と思ってもらうために、お世辞を口にするのだ。言葉を換えると、お世辞は、相手を認める自分を認めてもらうために口にする、ということになる。

そう考えると、お世辞に対して「とんでもない」と謙遜するのは、自分を下げることによって、相手を持ち上げようとすることだ。だから、謙遜している人は、お世辞に対してお世辞で返しているのだ。お世辞にお世辞で返すから、お世辞のラリーはいつまでも続く。それはそれで一種のコミュニケーションではあるのだろうが、実際にはわたしはいい人、わたしはいい人、と言い合っているのに等しい。

反面、お世辞に対してそこから自慢話に続けていくというのは、お世辞を言った相手は、自慢話まで聞かされるのだから、たまらない。一種のルール違反、この人はそういう人だから……というレッテルが張られることになるだろう。

ところで、お世辞というのは、果たしてそんなに必要なことなのだろうか。「わたしをいい人と思ってほし」がる必要が、どこまであるのだろう。

いい人と思うか、感じの悪い人と思うか、それは相手が決めること。それよりも、むしろ気持ちの良い話し合いを相手と続けられれば良い。そんなふうに考えられないものだろうか。

その上で、お世辞を言われたときは、お礼を言うのはどうだろうか。お世辞を言ってくれて、すなわちわたしをうれしい気持ちにしてくれてありがとう、とお礼を言う。だが、お礼を言うことで、そこでケリがつく。

「そのカバン、いいわね」
「どうもありがとう」

「その髪型、似合ってるよ」
「どうもありがとう」

「このあいだ、いい仕事したんだって? 聞いたよ。すごいね」
「どうもありがとう」

お世辞の交換を終わらせるのはもってこいの返しではあるまいか。
問題は、そこから先、話題が見つかるかどうかなのだが、見つからなければ、じゃ、また、と挨拶して離れる。わたしはいいやり方だと思うのだが。

うーん、こんな対応をしているから、わたしは世間が狭いのかもしれない。




早く、短く

2010-09-27 22:43:01 | weblog
考えてみれば、ほんの数年前のことなのに、ひどく昔のことのように思えてしまうのだが、Eメールという言葉がまだ生きていたころの話だ。

そのころ、Eメールは感情的になりやすいので、一晩置いてから送信した方がよい、ということを何度か読んだことがある。なぜ感情的になりやすいかを説明する本も、何冊か出ていたような気がする。

ほんとうに感情的になるのかどうなのかは定かではないのだが、確かに、パソコンだと手書きよりも簡単に文章が作れるし、考えるのとほとんど時間差なく、文書成形が可能だ。そう考えていくと、頭の中から出てきて、まだ熱を持った状態のままの文章が、そのまま相手に届くのかもしれない。

手紙でも日記でもそうだが、夜中に書いたものを翌朝読み直すと、ワッ、ギャッと言いたくなる。なぜ前の晩にそんなものを平気で書いてしまうのかというと、やはり、ひとり、頭の中で、現実の介入も受けずにあれこれ考えていると、思考が暴走してしまうのだろう。そうして、一晩置いて、つまりは十時間ほどインターバルを置くことによって、「その文章を書いたわたし」と、「寝て起きたあとのわたし」は少しだけちがう人間になっている。だから、熱を持ったままの頭で読み返したときには決して気がつかない、思考や感情の暴走が、容易に見て取れるのだろう。

手書きより簡単なメールとなると、この暴走にも加速度がつくのだろうか。確かにわたしも、自分の頭の中であれこれと考えたあげく、すっかり暴走してしまい、そのままメールを出して恥ずかしい思いをした経験があって、以来、その面ではずいぶん慎重になった。単に自分の思考の暴走しやすさに気がついただけかもしれないが。

最近、メールの主流はパソコンから携帯に移ったのかもしれない。わたしは携帯をポチポチ打つのが苦手なので、携帯メールをほとんど使わないのだが、周囲を見ていると、普通なら電話をかけるようなところでも、メールを送っている。そうして、送ったと思うが早いか、着信音がなり、返信されているようすなのである。「一晩置く」どころではないのだ。

「明日の待ち合わせはどこでする?」
「図書館の前」

「今日はお疲れさま。ゆっくり休んで」
「ありがとう。じゃ、明日また」

こうしたメールのやりとりなら、瞬時の送信-返信で十分なのかもしれない。

だが、どうもこうしたやりとりに慣れていないわたしは(ええ、旧世代の絶滅危惧種なんでしょう)、なんだかな、と思うのである。

そんな短いやりとりなら、わざわざ文字を打たなくても、電話したらよくないか?
電話だと、そんな短いやりとりは、不可能かもしれないが。もう少しあれやこれや言わなければならない、それが面倒で、そんな短いやりとりになっているのかもしれない。

そもそも文章を書くということは、書きながら考え、自分の考えを文字にして確かめ、さらにそこから考えていくということだとわたしはこれまで思ってきた。だから、現実のリアリティの介入がなくなれば、この自分との対話がどんどん暴走してしまうことにもなるのだ。

ところが、フラッシュが瞬くようなメッセージが届き、それに条件反射のように答える。最近では「予測変換」なる機能まであるから、言葉を考えることすら必要ない。いくつかある中から、パッパッと選んでいくわけだ。

おそらく、こんな言葉をこんなふうに使っていたら、わたしたちの思考もずいぶん変わっていくだろう。「一晩置いて」なんてことが死語になる人は、あとで、ワッ、ギャッ、となるようなメールは送信しないですみそうではあるが。



頭が良いとか悪いとか

2010-09-24 22:40:18 | weblog
一昨日の話の続きなのだが、確かに、ときどき「自分は頭が良い」と主張する人はいる。まあ、あからさまにそう言う人は、あまり賢そうには見えないので(笑)、実際には三段論法の小前提をいうわけだ。曰く、どこそこの大学を出た、センター試験で××点を取った、偏差値がどれだけあった、自分のIQはどれだけある……。
そんな話はいずれも

大前提:偏差値が75以上ある人は頭が良い
小前提:わたしは偏差値が75だった
結論:わたしは頭が良い

の小前提なのだが、実際に彼もしくは彼女が主張したいのは結論部なのである。

ところで、「頭が良い」というのは、いったいどういうことだろう?

わたしたちはしばしば、誰それは頭が良いとか、有名大学出身らしいが頭の良さはそれほどでもない、とかと口にする。中には、頭の良さと、大学出か否かは関係ない、という人とか、勉強をやらなくったって頭が良い人は良い、とか、まあいろんなバリエーションがあるのだが、どうもわたしたちは「頭の良さ」という言葉で一定の意味が伝えられると考えているらしい。

だが、ほんとうに、たとえば液体が「酸性かアルカリ性か」というように、人間の「脳」が「頭の良い脳」「頭の悪い脳」という具合に分かれているのだろうか(ここでは病気や外傷による脳の損傷は除くものとする)。あるいは ph の濃度を測るように、「頭の良さ」を測ることができると考えているのだろうか。

確かに偏差値や試験の点数、あるいはIQなど、「客観的な指針」はあるにはあるけれど、どうも、ここでもわたしたちは原因と結果を取り違えているような気がするのだ。

たいてい学生時代の偏差値や点数を口にする人は、いま本人が納得する地位にはいないことが多い。いまのステイタスが自分にふさわしいと思っていないから、自分がふさわしいと認める過去の実績を口にする。

だが、わたしたちが目にするのは、現在の彼や彼女の地位であり仕事ぶりである。過去の数値を口にされても、わたしたちは説得されない。

逆に、わたしたちが「頭が良い」と思うのはどんなときなのだろう。

たとえば、水際立った仕事ぶりを見せる人がいる。雑然としたさまざまな数値を統計へとまとめあげ、さらにそれをグラフ化し、綜合することによって、それ自体では意味のない情報の断片が、みごとな分析へとまとめあげられている。わたしたちはそうした報告書を見て、ほれぼれし、つぶやく。
「ああ、あの人は頭が良いなあ」

あるいは。
これまで誰も思いつきもしなかったアイデアを出す人がいる。みんな、それを聞いて、目からウロコが落ちる思いだ。ああ、こんな考え方があるなんて、夢にだに思わなかった。すばらしいアイデアだ。「ああ、あの人はほんとうに頭が良いなあ」

つまり、「頭の良さ」という「何ものか」が水際だった仕事をさせたり、誰も思いつきもしないアイデアを思いつかせたりするのではなく、わたしたちはある種の行為の特徴をとらえて、「頭が良い」というカテゴリーに分類しているのである。

当然ながら、この「頭が良い」のカテゴリーは、かなり幅が広い。しかもその人が生活する環境によって、何をそこに加えるか、差が生じる。たとえばアフリカのサバンナで生活する人びとにとっての頭の良さは、複雑な微分方程式を苦もなく解くことではなく、風に潜む獣のにおいを察知することかもしれない。わたしたちは「頭の良さにもいろいろある」と言うけれど、「頭の良さ」がいろいろあるわけではなく、わたしたちはさまざまな行為を「頭が良い」カテゴリーに分類していく、というだけの話なのである。

確かに、人の能力は同じではない。生まれつき走るのが速い人、練習すればするだけどこまでもタイムを縮めることができる人、足の遅い人、練習しても一向にタイムが縮まない人、短距離が得意な人、中距離が得意な人、トラックを走っているときは、凡庸なタイムしか出せないのに、マラソンになると恐るべき強さを発揮する人。

「走る」という一事をとってみても、ちょっと考えただけで、わたしたちの能力はこんなにも差がある。能力の優劣ばかりではない。生まれた場所、育った環境にも優劣がある。けれども、間違いなく言えることは、その優劣が、そのまま人間の優劣になるわけではない、ということだ。

誰もが親から受け継いだ資質や、生まれ落ちた環境が定めた自分のままではいられない。経験を積みながら、自分を作っていくしかない。自分がある面では人より優れていると思えば、さらに新しい場へ移って、そこで自分を試してみる。すると、そこには自分よりはるかに優る人がいるだろう。確かにそれは苦い経験ではあるけれど、そのとき人は、もっと優れた人を知る経験でもあり、自分の視野を広げ、経験を深めていく機会でもある。そうやって、もう一度、自分を組み立て直していくしかない。

もし仮に、人間に優劣があるとしたら、自分を組み立て直さなければならない時期にそれをせず、過去のある出来事を後生大事に握りしめ、ことあるごとに水戸黄門の印籠のごとく「小前提」とふりかざす、そんな生き方ではないかとわたしは思うのだけれど、どうだろうか。

そんなふうに考えていくと、「頭が良い」とか「悪い」とかというのは、およそどうでもいいことのように思えてくる。




論理的に話してみる

2010-09-23 22:39:36 | weblog
三段論法というと、わたしたちの日常とは無関係のようにも思えるけれど、昨日も話したように、人を説得しようとするようなときに、わたしたちは半ば無意識のうちに、この方法を使っている。

よくある「化学調味料無添加」という表示。

大前提:化学調味料は体に悪い。
小前提:この製品は化学調味料を使用していない。
結論:ゆえにこの製品は体によい。

このなかで、小前提だけを提示することによって、わたしたちに結論を導き出させようという寸法なのである。昨日の「ぼくはワセダを出た」というのと一緒だ。結論を自分から明らかにしてしまうと、押しつけがましい。結論の押しつけは、共感より反感を買う。だから、結論はわかるでしょう? 汲みとってね、と匂わせるだけに留めて、そこから先は省略してしまうのである。

だが、議論の正しさを支える大前提を見てみると、「化学調味料は体に悪い」は、どれだけの科学的データに基づいたものか、かならずしも判然としない。反面、わたしたちは「なんとなく」「気分で」そんなふうに感じている。省略されている箇所をわたしたちが共有しているから、あえて書く必要がない、と広告主は考えているわけだ。だから省略する。

だが、省略の理由はそれだけではない。むしろ、この大前提の部分をはっきりさせると、いろいろ問題が出てくるから、ともいえる。みんなが共有している「気分」や「何となく」、さらには「常識」や「慣習」がかならずしも正確なものではないことも、わたしたちは同時に知っている。だから、その部分を省略しないで明らかにすると、逆に批判を招くことになる。だから省略されているわけだ。

わたしたちが怪しげな説得にだまされまいと思うなら、まず、隠された前提を明らかにすることだ。

「この浄水器はトリハロメタンも除去してくれるんですよ」という宣伝文句が隠すのは、「水道水には危険なトリハロメタンが含まれている」という大前提である。だが、トリハロメタンとはいったい何なのか。トリハロメタンはほんとうに人体に危険なものなのか。水道水に含まれるトリハロメタンは、果たしてどのくらいの割合なのか。それを日常的に摂取し続けることの危険性はどれほどのものなのか。

相手の主張の中に省略されている部分を見つけるだけで、わたしたちが騙される確率は、ぐんと減ってくるはずだ。

一方、何を言っているのかわからない人もいる。
たとえばこんな感じ。

「わたしは女だけど、運転はずいぶんやってきた。運転には結構自信もある。もちろんA子はすごくいい子だけど、ペーパー・ドライバーの運転は恐い、っていうのは当然よ。でも、運転手がわたしひとりだと大変」

ね、こんな話し方をする人が、あなたの近くにもいるでしょう?

さて、これを整理してみよう。
大前提:ペーパー・ドライバーの運転は恐い。
小前提:A子はペーパー・ドライバーである。
結論:ゆえにA子に運転を任せるわけにはいかない。
   ゆえに自分ひとりが運転しなければならない。

となるわけだ。ところが
・自分は運転には自信がある
・A子は良い子
という、議論に関係のない文が含まれているために、一見すると、そもそもが結論を持っていない日常会話のように見えてしまう。
だが、これは目的のない日常会話ではない。この話者は明らかに伝えたいことがあるのだ。でも、これではなかなか伝わらない。

ときに「あんたの話は何が言いたいんだか、ちっともわからん」と言われる人がいる。
そういう人は、少々押しつけがましいと思われても、結論をはっきりさせた方が良い。その結論を証拠立てる大前提、小前提をきちんと明らかにしておけば、そうして、その大前提が間違っていなければ、「A子は良い子」といった「気遣い」の文言は、この流れの中では必要なくなるはずだ。

もうひとつ、昨日も言ったように、自慢話はバカに見えることだけ忘れずにいれば、これでもう大丈夫。
「何が言いたいんだかちっともわからん」話をしないですむ、と思うのですが。



自慢の弊害

2010-09-22 23:27:10 | weblog
ちょっと前のことになるが、ついていたテレビを見るともなしに見ていたら、奇妙な人が出ていた。こう書くと、すぐにわかるほど有名な人なのか、もしかしたら新手のお笑いなのかもしれないけれど、若い男性が自分のことを頭が良い、とひたすら自慢しているのだ。

さすがに「ぼくは頭が良いんです」とあからさまには言わないが、「自分はワセダを出た」「自分は英語とフランス語(ドイツ語かイタリア語だったかもしれない)がペラペラだ」「三歳のときにナントカができた(何ができたかは忘れた)」……と、口に出すすべてがこんな具合なのである。

別に、自分は早稲田大学出身です、と言っている人がみな、自慢話をしているわけではない。単に事実を述べているだけのことも多い。そういう人と、自慢話がどうちがうかというと、事実を述べている人が、そこからつぎへ話が進んでいく(「自分は97年の卒業ですが、田中さんは何年ですか」という具合に)のに対し、自慢話はそこで止まってしまう。というのも、自慢話の「自分はワセダを出た」は、

大前提:ワセダを出た人は頭が良い
小前提:自分はワセダを出た
結論:ゆえに自分は頭が良い

という三段論法の大前提と結論を省略した表現だからである。自分の中で結論を出してしまっているのだから、話がそこで止まってしまうのも当然だ。

結論を出されてしまっては、聞き手は「あっ、そう。良かったね」以上の反応を示すことはできない。つまり自慢する人は、周囲とのコミュニケーションをみずから遮断しているわけだ。だから、自慢を始める人がひとりでも出てくると、会話は停滞するのだ。ところが自慢屋は、その停滞を良いことに、独演会を始めてしまう。みんなが内心うんざりして、陰で悪口を言われることになるのも気がつかずに。

ところで、自慢には、コミュニケーションを不活性化してしまう以外にも、難点がある。それは、自慢している当人をバカに見せる、ということだ。

自慢する人は、三段論法の大前提の正しさを当たり前だけれど前提として話をしている。だが、頭が良いとはどういうことか、とか、どこかの大学を出ている人は等しく「頭が良い」という形容が妥当なのか、とか、ちょっと考えてみただけで、そんなことは一概に言えるものではないことに気がつく。

さらに語学を少しでも真剣にやった人ならわかると思うけれど、母語ではない言葉は、深く勉強していけばいくほど、母語と同じようにはではない壁にぶち当たるものだ。語彙も知識も増えれば増えるほど、母語で考えることと、あとから学んだ言葉で考えることのギャップに悩むようになる。「ペラペラ」なんてことを平気で言える人は、英会話の例文程度の会話したことがなく、それで不自由を感じないほどの貧弱な言語環境にあるのではないか。

つまり、自分のことを「頭が良い」と主張する人は、その人がどれだけ狭い、限られた世界でしか生きてこなかったか、そんな狭い世界しか目を向けてこなかったかを、自ら明らかにしているのだ。逆に、自分のできなさ、能力のなさ、欠陥、足りない部分を知っている人は、自分の能力を超える世界を知っていることでもある。できない自分を知っている人は、それを理解できるほどの能力を持っているとも言えるのだ。

となると、人前で自慢することには、どう考えても得なことはなさそうだ。

テレビに出ていた彼は、そういうことがわかっていながら、あえてそんな「憎まれっ子キャラ」を演じているのだろうか。何となく見ている限りでは、単純に自慢するほど純朴な男の子を、わざと「キャラを演じている」ことにして、みんなで笑い物にしているように見えたのだけれど。



殴る男、殴られる女

2010-09-21 23:09:26 | weblog
わたしが大学に入って間もない頃のことである。寮のすぐ近くに、いわゆる1K、六畳サイズの部屋に台所がついている学生マンションがあった。マンションといっても、敷地といえば普通の一軒家分くらいしかない。そこに三階建てのマッチ箱のような白いコンクリートの建物が建っていたのだ。

寮を出て路地を歩くと、そこの出入り口である階段のところに出る。だから、よくそこの住人とは顔を合わせた。女子学生も、男子学生もいるようだった。

いつものように大学からの帰り、その脇を通りかかった日のことである。なにやら悲鳴のような声が、頭の上の方から上がったかと思うと、二十代半ばくらいの女性が何ごとか叫びながら、ダダダッと階段を駆け下りてきて、呆然としているわたしの目の前を駆け抜けていった。後ろ姿を見送ったわたしは、その女性が、片方の足はサンダル、もう片方の足はスリッパだったので、あれでは走りにくいだろうなあ、と、いささか的はずれの感想を抱いたものだ。自分の足元に構うゆとりすらないほど、動転していたのだろう。

それから数日後(実際には数ヶ月ぐらい経っていたのかもしれない)、いつものようにそこの前を通りかかると、今度は男性がひとり足早に階段をおりてきた。そこへ、上の方でドアが開く音がしたかと思うと、女性が何やら叫んでいる。と思うと、電話帳だったか、雑誌だったかがわたしめがけて、というか、正確にはわたしの脇を通っていった男性めがけて飛んできた。男の方は、自分のかたわらをかすめて落ちたそれを、一瞥するでもなく、うつむいたまま足早に歩いていく。顔色の悪さと、表情の暗さが目に焼き付いた。すぐに追いかけるように降りてきたのは、例のあの女性だった。

猛ダッシュで追いかけたものだから、通りに出る手前、路地の入り口のところで女は追いつく。そこで男を引き留めると、人目もはばからず、大声でわめき始めた。ひどい、とか、それですむと思てんの、とか、言葉の切れ切れしか聞こえてこないが、とにかく行こうとする男の腕に両手でしがみつくようにして、わあわあとわめいている。男の方が邪険に腕をふりほどくと、女は吹き飛んでしまった。男は歩いていき、女の方は起きあがると、体勢も立て直さないまま、よろよろしながらなおも追いすがる。今度は背後から腰に手を回し、抱きつくような体勢になった。すると、男は体をゆすりながら、何とか女をふりほどこうとする。女は必死でしがみつく。その腕を男はつかむと、反対側の手で、女の頬を思いっきりなぐりつけた。平手打ちではない。手首の固いところでなぐったのである。鈍い音がして、女はそこへ倒れた。男はそのまま歩いていく。通りへ出ると、姿はわたしのところからは見えなくなってしまった。

見ると、その女の人は地面に倒れたままだ。わたしは急いで駆けよった。大丈夫ですか、と助け起こすと、その人は顔を上げてわたしの方を見た。鼻血が流れ、わたしは慌ててカバンからティッシュを探し、相手に渡した。その間にも、顔は見る見る腫れていく。殴られた人間の顔は、こんなふうになるものか、とわたしは思わず見入ってしまった。

その人を助け起こし、ふらふらするのを助けながら、そのマンションのところまで一緒に歩いた。階段下で、その人は、「もういいの、どうもありがとう」とわたしに礼を言う。気にはなったが、どこまで関わっていいものやらよくわからなかったし、正直言うと、係わり合いになるのが、恐くもあったのだ。わたしは、お大事に、と、わけのわからないことを言って、その人と別れた。

わたしには一切関係ないふたりだったが、一部始終を見ていたわたしの心臓は、ずっとドキドキと鳴りっぱなしだった。そんなふうな男女関係のもつれというか、修羅場というかをそれまで見たことがなかったのだ。

それまでわたしが知っていた、「つきあっているふたり」というのは、実際に親密な関係を持っているにせよ、もっと楽しげだった。ケンカしようが、仲違いしようが、その結果、別れることになったとしても、たとえていえば中島みゆきの歌に出てくるような、恨んだり、ひそかに怨念を燃やしたりするようなどろどろとした感情とはおよそ無縁で、部屋で中島みゆきの歌を聞いて、陰々滅々となっている子でさえも、間違っても「修羅場」など繰り広げそうになかった。

殴られた女性は、実際の傷以上に、ひどく打ちのめされているように見えた。何というか、あんな関係は間違っている、あんな男は許せない。でも、あの女の人は、きっとあんなことをされてもあの男と別れないのだろうなあ、と考え、なんともいえない気がした。大学院生なのか、もっと上の年代の人なのかはわからないけれど、大人の恋愛はそういうものなのかもしれない、と、恐いようにも思ったものだった。

まだDVなどという言葉が出てくる前のことだったのだが、のちにその言葉を目にするたびに、見る見る腫れていったその人の頬を思い出したものである。

それから月日は流れ、その女性の歳も過ぎ、自分なりに経験も重ねてきたけれど、わたし自身は、幸か不幸かそんな修羅場とは無縁の日々を過ごしている。DVについての報道を見て、あのときのことを思い出しながら、自分に暴力をふるうような相手と別れない女性のことを、ひどく遠いものに感じていた。どこかで、自分はそうならない、なりたくはない、という気持ちもあったのかもしれない。

ただ、それからさらに歳を経て、何というか、考え方が少し変わってきた。当時は、そういう人は間違っている、不幸だ、と一面的に思っていた。けれど、彼女たちが、そんな濃密な人間関係をこそ求めているのだとしたら、その結果(殴った、殴られた)だけをとらえて、不幸だ、間違っている、と言えるのだろうか。確かに暴力で傷を負う、精神的にダメージを受けるというのは、望ましいことではない。できればそういう目に遭わないでいてもらいたい。それでも、求めているのが、そうしたぎりぎりの関係の人もいる。そういう関係を幸せと思う人もいる。
そもそも、人間にまつわるあれこれを、幸福・不幸の二項対立で語ることができるのだろうか。

その関係を間違っていると、いったい誰に言えるのだろう、とも思うのである。
肯定はしないけれど、否定もしない。そんな立ち位置でいる。





「家族のため」は誰のため?

2010-09-17 22:45:21 | weblog
「ゲゲゲの女房」を見ていて思い出したのだが、森鴎外の歴史短篇に、「安井夫人」という作品がある。

安井仲平は、もともと背が低かった上に、幼い頃にわずらった疱瘡がもとで片目を失い、非常に醜い外見となってしまった。そんな彼を、みんなは「猿」と誹る。それでも彼は昌平坂学問所に学び、懸命に学問を修めた結果、藩の学問所で講壇に立つまでになる。

ところが偉くなっても、その外見ゆえに、縁談もまとまらない。従姉妹に、豊(とよ)と佐代(さよ)という姉妹がいるが、妹の方は器量よしと評判で、まだ十六ではあるし、三十の仲平とは、年齢・容姿ともにはなはだしい隔たりがある。だが、豊の方は、年ももう二十歳だし、顔も十人並み、内気な妹とはちがって快活で素直で、なんのわだかまりもない性格で、これなら仲平の嫁に来てくれるかもしれない。そこで人を頼んで、縁談を持ちかける。ところが豊は「いやでございます」ととりつく島もなかった。

仲人が気落ちして引き返していると、その家の使いがやってきて、美人で聞こえた妹の方が、「安井さんへわたくしが参ることは出来ますまいか」と言ったというのである。

周囲の人のみならず仲平も、自分と相手の容姿の差を考えて、いぶかしく思う。それでも、ふたりは無事祝言をあげた。

いざ結婚してみると、佐代はきれいなだけのお人形さんではなかった。内気な態度を脱却し、「美しくて、しかもきっぱりした」学問所の若夫人となっていく。

結婚生活は、順風満帆とはいかない。長い、困難な日々が続いていく。それでも佐代は、無心に、一筋に、夫のために尽くす。

やがて佐代は五十一で亡くなるが、小町と称された美貌だったにもかかわらず、自らを飾ることもなく、贅沢とは無縁の一生だった。

鴎外は、「お佐代さんは何を望んだか。」と書く。
世間の人は、夫が出世することを望んだのだ、というかもしれない。けれども商人が、ゆくゆく大きな利益を得るために、その元手としていくばくかの金銭を投下するように、自分の日々の労苦と忍耐を夫に提供し、報酬を得る前に亡くなったのだ、というふうには「自分」は考えない、という。
 お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。

この短篇を最初に読んだ十代の頃は、この部分がよくわからなかった。さらに、鴎外がなぜこの安井夫人について、わざわざ書きとめて置かなければならないと考えたのかも、よくわからなかったのである。それが、「ゲゲゲ…」を見ていたら、なんとなくわかるような気がしてきた。

井上陽水の歌、「人生が二度あれば」の中に、今年九月で六十四になる母は、「子供だけのために 年とった」という箇所がある。息子であるらしい語り手は、「そんな母を見てると 人生がだれのためにあるのかわからない」という。

自分が子供の頃は、なんとなく母親というのは、そんなものだろうと思っていた。事実、母親の口癖は、「あんたたちのために」であったし、それに続くのは、自分は何を犠牲にした、ということだった。だからその分、一生懸命勉強しなければならない、というのが結論に来る。「あんたはお母さんみたいに、家族のために自分を犠牲にするような生き方をしちゃだめよ、家なんかに入らずに、しっかり自分を活かせるよう、いまは勉強しなさいよ」というわけである。

現実には、親の言うことも聞かず、勉強するふりをしては部屋でも授業中も本ばかり読んでいるようなわたしだったが、心のどこかで、そんな犠牲を払っている母の言うことを聞かないで申し訳ない、と思っていたものだった。母親を悲しませてはいけない、という歯止めが、陰に陽にわたしの生活を縛っていたような気がする。

そんなわたしだったので、「安井夫人」のような一生の、いったいどこに価値があるのか、まるでわからなかったのだ。

ただ、自分が歳を取り、それなりに経験を重ねてみると、「誰かのため」に働くということは、かならずしも「自分を犠牲にする」ということではないことがわかってくる。むしろ、「自分のため」と言っているだけではあまりに漠然としすぎ、行動に指針も立てられないようなことが少なくないのに対し、「誰かのため」というふうに問題を立てていけば、つぎに何をすべきかも見えてくるし、自分を取り巻く状況も、一定の秩序の下に整理し直すこともできる。

家庭を営むということは、毎日おなじことを再現もなく繰りかえすことでもある。自分だけなら、省略も、さぼることもできるが、自分が面倒を見なければならない家族がいれば、そんなことはできない。鉄道ダイヤを時刻表通りに正確に運行させるように、「家族のために」仕事に行き、あるいは、洗い、片づけ、料理し、さらに洗い、掃除する日々は続く。これは、「家族のため」であると同時に、家族がいてくれるからこそ、そういうことが毎日続けていける、とも言えるのである。「子供のため」、「家族のため」、という言葉は、自分を奮い立たせ、怠け心に鞭を入れる呪文でもある。そういう意味で、家族の存在は、逆に「自分のため」でもあるのだ。

「~のため」という言い方を、わたしたちはよくする。あなたのため、子供のため、家族のため、あるいは、自分のため。けれども、昨日も書いたように、わたしたちはかならずしも自分の行為の理由を知っているわけではない。「子供のため」と言いながら、それがどこまでほんとうに「子供のため」なのか、「自分のため」はどのくらいあるのか、さらにはそれ以外の「~のため」があるのか、自分でもほんとうのところはわからないでいる。

自分でもよくわからないけれど、何かのために、おなじことを繰りかえす。雨が降っても、雪が降っても、霧が出ても、時刻表通りに正確に運行させるべく最大限の努力を払う鉄道会社のように、わたしたちは毎日おなじことを果てしもなく繰りかえしていく。「家族のため」「子供のため」と、折々に自分を納得させながら。
けれどもほんとうのところは、「~のため」の「~」には、いったい何が入るものやら、自分でもよくわからない。それでもその「~のため」という呪文のおかげで、わたしたちはどんなときもおなじことを繰りかえすことができる。そうして繰りかえす日々は、その人に蓄積され、きっと明日も大丈夫、という保障をしてくれる。

鴎外のいう「その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか」というのは、そういうことなのではないだろうか。



嘘とほんとうのあいだ

2010-09-16 22:34:41 | weblog
似たような話を続ける。

昨日は、自分でもどうしてそんなことを言ったかわからないような嘘を、つい口にしてしまって、あとになって困る、という話を書いた。

あとになって困るのは、もちろんつじつまが合わなくなるから困るのだが、もうひとつ、どうしてそんなことを言ってしまったか、自分でもうまく説明ができないからだ。

たとえば旅行のおみやげといって、温泉饅頭をもらたとする。ところがあなたは甘い物が苦手で、饅頭など大嫌いだ。けれども、そう言って断るのも気まずいから、ありがたくいただいて、数日放置したあと、罪悪感と一緒にゴミの日に出してしまったとする。

数日後、温泉饅頭をくれた人と一緒にいるところに、別の人がやってきた。その人はにこやかに、「このあいだ、うちも旅行に行ったんだけど、あなた、お饅頭、ダメだったよね、かわりにしば漬けを買ってきてあげた」と話しかけてくる。おかげで温泉饅頭をくれた人も、あなたも、たいそう気まずくなってしまう……。

だが、こんなときの嘘は、気まずいけれど、嘘の理由は明白だし、相手の好意を無にすまいとした善意から出たことは伝わるから、気まずくはなっても、困ることはない。

それに対して、なりゆきとか、その場の勢いで、なんとなく口から出てしまったような嘘、別にそれまで好きでもなかったようなタレントを、ファンだ、と思わず言ってしまったり、いない叔父さんをでっちあげてしまったり、飼ってもいなかった犬を存在させてしまったり、というのは、それが嘘だと明らかになったとき、嘘自体はごくごく罪のないものであっても、その深刻さのレベルとは無関係に、ついうっかり口に出してしまった人を困らせることになる。

というのは、わたしたちは日常的に、ある行為をすることに、かならずその理由、すなわちその行為の「動機」があると考えているからだ。その行為が望ましくない結果をもたらしたとき、周囲の人はかならず「どうしてそんなことをやったのか」と行為の「動機」を求める。

それが、なんでそんな嘘を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。相手はてっきり何か深い動機、もしくは理由があったのだろうとかんぐってくる。どうして言えないの、と問いつめられ、いよいよ困ることになってしまう。

だが、ほんとうにある「動機」が行為を引き起こすのだろうか。

ああしようか、こうしようか、と迷いに迷っているような行動に関しては、もちろんはっきりとした「動機」がある。Aをしたいという動機、だがBだって同じようにやりたいのだという動機、このように、いずれの動機にも軽重がつけがたい場合だけではない。Aをしなければならないことはわかっていても、Bがしたいという「動機」。だがなんにせよわたしたちはどうして自分が迷っているか、ちゃんと説明できる。

けれども、わたしたちはいつも深謀遠慮を重ねて行動しているわけではない。特に意識することもなく、駅からの帰り道をひょいといつもとちがうルートを取ってみたり、入ったことのない店に、何となく入ってみたり……そんな思いつきで行動するようなことは決してない、という人はいないのではあるまいか。

話すことにしてもそうだ。ふとした失言、別にふだんから思っているわけではないのだが、ひょいと口から出てしまった言葉、まわりの状況や雰囲気に流されてしまったり、相手に対する反感から、つい思ってもないことをいってしまったり、それまでやるつもりなどまったくなく、自分にできるとも思わなかった仕事を引き受けてしまったり、わたしたちの話すことの中には、よくわからない嘘ばかりでなく、振り返ってみれば、自分の意図に反する発言や、自分でも理由のよくわからない発言がいくつもある。

それで支障がなければ、わたしたちはそのまま忘れてしまう。何の気なく取った行動が、良い結果をもたらした場合(いつもの角で曲がらず、ひとつ先で曲がった結果、旧友とばったり出くわしたり、「やるよ」と何気なく言ってやる羽目になったことがうまくできてみんなに感謝されたり)、わたしたちは「良かったな」と思う。けれど、コンビニに特に用もないのに、何となく入ったら、たまたまばったりコンビニ強盗と鉢合わせして、ナイフで刺されてしまったら、「自分はどうしてコンビニなんかに入ってしまったのだろう」と痛みをこらえながら振り返ってしまう。つまり、「動機」や「理由」が求められるのは、悪い結果が起こったときなのである。

このように考えていくと、わたしたちの行動というのは、かならずしも「動機」がある行為を引き起こしているばかりとはいえない、ということがわかってくる。むしろ、動機が問題になってくるのは、良くない結果が起こったとき、なのである。良くない結果を前にして、わたしたちは過去を振り返る。どうしてそんなことをしてしまったのか。そうして、自分に説明しようとするのだ。

さらに言葉というのは、「何でも言える」という側面がある。現実に一キロ歩こうと思ったら、まず一歩、つぎにもう一歩と、一キロ歩き続けなければならないが、言葉でなら何万キロだって「歩く」ことができる。だから、そのぶんよけいに「ひょいと」とか「何気なく」が厄介なことになってしまう。ひょいと口にした言葉は、その場では実体を伴う必要がないから、嘘だって簡単につけてしまう。

言葉はその意味で、大変恐いものともいえるのだ。

だが、そうかといって、人は自分にまるきり無縁のことを言うことはできない。そもそも英語がしゃべれない人は、英語で話すことはできないし、ふだんから貧弱なボキャブラリしか使わない人は、抽象的かつ深淵な話をすることはできない。ほんの少し知っていることなら、知ったかぶりができても、まったく知らない世界のことは、口にすることさえできない。いくら「嘘」をついてもいい、と言ったところで、その人の現実からそれほど離れたことは決して言えないのである。

わたしたちの嘘は、どこまでいっても、自分の周囲からそれほど離れていけるものではない。それを考えると、ひょいと出てしまった嘘、不用意に言ってしまった実体とはいささかちがう言葉を、「嘘」と断罪しても良いものかどうか、ちょっと考えてしまうのである。

確かに嘘は褒められたことではない。けれども、かならずしも本当ではない、かといって、その人の現実と無縁でもない。そんなグレーの領域を含めて、わたしたちのつきあいというのはあるのではあるまいか。



なんでまたそんなことを

2010-09-15 23:00:59 | weblog
その昔、入院していたときに、病室で隣りになった人が、年齢を詐称していたことがある。なんでもその人は最初に病院にかかったとき、保険証を持たずにやってきたらしく、入院後、家族が持ってきた保険証の生年と、カルテに書いた生年がちがっていることが明らかになったのだ。

個人情報の取り扱いがやかましくなった今なら、カーテンで仕切られているとはいえ、話などまる聞こえの大部屋で、看護師さんもそんなことを言ったりはしないだろうが、ともかく、いまよりずいぶんおおらかだった頃のことである。

それが、サバを読む、といったところで、実際には二十七歳だったのを、三つサバを読んで二十四歳としていたのである。わたしは隣で寝っ転がって本を読みながら、聞くともなしにその話を聞いていた。病院へ来て年のサバを読むなんて、保険証を見れば一発でばれるのだから、二十七にもなって、ずいぶん考えの足らない人だなあ、と思っていたのだが、当時はまだ十代だったわたしからすれば、二十七と二十四ではどこかちがいがあるのだろうか、と不思議だった。看護婦さん(当時はまだ「看護師」なる呼称もなかったので、ここでは当時の呼び名で押し通す)も、何でまたそんなことをしたの、と言っていたが、本気でその答えを知りたがっている、というより、咎めるニュアンスの方が強かった。

いまとちがって、当時は「適齢期」なる言葉が生きていた頃である。それから数年経って、女性が「売れる」のを「クリスマスケーキ」になぞらえて、二十五歳になると一気に価値が下落する、という話を聞いたときに、その人のことを思い出したものだ。二十四歳と二十七歳は、ある種の人たちにとっては、わざわざ嘘をつきたくなるほど、断絶があるのかもしれなかった。

ところが後年、その人は別に周囲の人に、自分を二十四歳と思ってほしいから、カルテにそう記入したのではなかったかもしれない、と思ったことがある。というのは、知り合いが、困った困った、どうしよう、と頭を抱えていたからなのである。

その人は、最近妊娠が判明したのだが、最初に産婦人科に行ったときに、体重を記入する欄に、3キロサバを読んで、というのは、実際より軽く、という意味なのだが、その数字を書いたのだそうだ。つぎに行くときは、病院に備え付けの体重計で正確な数値が出る。まだ妊娠三ヶ月にもならないうちに、体重がいきなり3キロも増えてしまっては不思議がられるのではないか、と言うのである。

いや、3キロくらいなら一ヶ月で太るときは太るから、知らん顔してればいいんじゃない? とわたしが言うと、彼女はさらにばつの悪そうな顔になって、ごめん、ほんとは3キロじゃないの、5キロなの、と言った。ほんとうのところは一体何キロサバを読んだのだろう、と一瞬頭をかすめたが、何となくわたしもバカバカしくなって、じゃあ正直に言うしかないね、と突き放した。

そうよね、でも、きっとどうしてそんなことをしたのか聞かれると思う、と、相手は浮かぬ顔をしている。そりゃそうだ、なんでまたアンタもそんなこと言っちゃったの、とわたしも聞いた。

すると、相手は、自分でもよくわかんない、と言うのである。どうでもいいが、しかるべき職場に勤めている三十代初めの女性である。その女性が、自分でも何でそんなこと言っちゃったのかわかんない、つい、言っちゃったんだ、と頭を抱えていた。理由があるのなら、まだいいのだ。自分でも説明できないから、困っているのだ、と。

そういえば、わたしもそんなことがあった、と思い出した。
小学生の頃だった。家に手乗り文鳥がいる、と教室で言ってしまったのだ。なぜそんなことを言ったのか、まるで記憶にないのだが、手の上に留まるんだ、とってもかわいいよ、と話していると、なんだかほんとうに飼っているような気がして楽しくなってしまい、いよいよ話はディテールまで細かくなって、そんなにかわいい文鳥がいるなら、今度家に見に行っていい? と聞かれて、一転青ざめてしまった。

いいよ、今度の土曜日の午後、遊びにおいで、と引くに退けず、約束までしてしまった。それから悩みの日々が始まった。実際、どうしよう、どうしようと気分が悪くなるほど思い詰めたあげく、母親に問いただされて、ひどく叱られてしまったところまでは覚えているけれど、そこから先は記憶にない。友だちから「うそつき」と責められた記憶はないので、うまくごまかしたのだろうか。

ともかく、あとになってなんでそんなことを言ったのかと問いただされても、うまく説明がつかない嘘というのを、人間はたまについてしまう、と言ってしまったら、言い過ぎになるだろうか。

たとえば家にグランドピアノがある、などというような嘘とはちがって、ことさらに見栄を張るつもりがあるわけではないのだ。だから、説明に困る。こう思ってほしかったから、自慢したかったから、そんな動機は褒められたものではないにせよ、とりあえず納得してもらえる。だが、ばくぜんと、文鳥がいたらいいなあ、という想像が、ひょいっと口をついて出てしまった。そんな事実はないから、たしかに嘘にはちがいない。けれども、騙したいという意図があるわけでもない。だから「どうしてそんなことを言ったのか」と言われても、説明ができないのだ。果たしてこういうのも嘘ということになるのだろうか。

そう考えていくと、二十四歳といった人も、体重をいくばくか軽めに申告した知り合い同様に、嘘という意識もないまま、つい、そう言ってしまい、あとでああ、シマッタ、なんでこんなことを、と頭を抱えたのではあるまいか。

人間というのは、しばしばこんな馬鹿なことをしてしまうものだ、と言ってしまうと、まとめすぎだろうか。

デンプン食について語るときに我々の語ること

2010-09-14 09:30:50 | weblog
関西に来て驚いたのは、「うどん定食」なるものがあって、たとえば「きつねうどん定食」ならば、「きつねうどん」に「かやくごはん」がついてくることだった。

店によっては「かやくごはん」の代わりに「おにぎり」がついてきたり「いなりずし」がついてきたり、単に蓋つきのお椀やこぶりのドンブリに入った「白ごはん」がついてきたりもするのだが、うどん屋に行くと、かならず、といっていいほど「うどん定食」なるメニューがあり、そういうものをよそに「きつねうどん」と注文すると、わざわざ「単品ですか?」と確認を求められるのである。もちろん「ソバ定食」もある。そう思って店内を見渡すと、圧倒的多数の客は、小さなお盆に載せられたうどんプラスごはんものを注文しているのだった。

関西人からは、関東のうどんのつゆは真っ黒いでしょう、こっちへ来て驚かんかった? とよく言われたものだが、そもそもわたしの母は中国地方の出身で、日常的に使うのは薄口しょうゆだった。例のヒガシマル薄口醤油である。酒屋で配達してもらう、やや緑がかった薄水色の一升瓶が、いつも台所の流しの下に置いてあった。後年、酒屋とつきあいがなくなると、近所のスーパーにはキッコーマンしかない、とよく母がこぼしていた。醤油だけのために、電車に乗って買い物に行っていたものだ。おかげで家で食べるうどんは決して「真っ黒」ではなかったのである。

おかげで何より驚いたのは、うどんにご飯がついてくることだ、と相手に言うと、みな一様に、そんな当たり前のことのどこが珍しいのだ、と、そんなことを言うわたしの方に驚くのだった。

うどん屋に来て、ご飯が食べたいか? と当時のわたしは不思議だった。うどんが食べたいからうどん屋に行くのであろう。これではまるで、うどんをおかずにご飯を食べるようなものではないか。お盆の上に載っているのは、汁に浮かんだデンプンと、お椀に入ったデンプンだぞ。デンプンをおかずにデンプンを食べるのか? それでいいのか?

そんなことを関西人に向かって言うと、多くの場合、何をおかしなことを言っているのだ、と、一顧だにされないのである。
「うどんだけやったらお腹が一杯にならんもん」
「うどん食べても、ちょっとご飯ものがほしくなるでしょ」
「ご飯食べて、みそ汁飲むのと一緒」……

当時のわたしは、そんなことが理屈になるか、と、かたくなに「きつねうどん、単品で」を繰りかえしていたのである。

ところで、アメリカやイギリスの小説を読むと、starch すなわちデンプンは、結構な悪役である。
"diet rich in starch" これは「ダイエット」とあっても別にデンプンでダイエット、というわけではなくて、デンプン質を多く含む食品のこと。肉など、タンパク質を多く含む食事("protein-rich meal")に比べて、二流品というか、粗悪品というか、低級というか、そんなものを食べているのは邪道、という文脈で出てくることが多い印象を受ける。

わたしたちはふつう、ご飯を「主食」と考えて、同じ文脈で欧米人は「パンが主食」と考えがちだが、欧米での「パン」の扱いは、ご飯とはずいぶんちがう。わたしたちは食事のことを「ご飯を食べる」というように、「ご飯」すなわち食事ともいえる位置を、ご飯、というかコメは占めているわけだが、欧米ではパンの扱いはもっとずっと軽い。パンが出ない食事ももちろんあるし、ステーキと山盛りのポテトフライだけ、という場合もある。

昔、英会話教室でバイトをしていたころ、「主食」という概念をめぐってアメリカ人やイギリス人と話をしたことがあるが、結局「欧米ではパンは主食ではない」というところで一致した。ひとりのアメリカ人は、主食は赤身肉である、と主張し、イギリス人はジャガイモだ、と主張したのだった。

ともかく、本の中でも"diet rich in starch" ばっかり食べて……という批判的な文脈でよく見かけた。そう批判される登場人物が食べているのはビスケットとか、ポテトフライだったかで、つまりジャンクフードのことだったのだ。

どうやら体を作るタンパク質は良い栄養素、それにくらべ、デンプン質というのはお腹ばっかり膨らせるもの、といった発想が根底にあるのではなかろうか。

さらに、中華料理はデンプン質ばかりだから、食べてもお腹がすぐ減る、という記述を読んで、仰天したこともある。日本人の発想からいけば、中華料理というのは「食べてもお腹がすぐ減る」という食事ではないように思える。やはり「主食が赤身肉」の人びとにとっては、焼きそばやチャーハンの食事は、「デンプン質ばかりだから、食べてもお腹がすぐ減る」ということになるのだろうか。

いまは欧米でも、Diet Pyramid なる考え方が広く普及してきて、食事の基本になるのは、コメや小麦などの「デンプン質」である、という受けとめられ方が中心になっているのかもしれない。だから、"diet rich in starch" が粗悪な食事、という発想は、なくなってきているのかもしれないのだが。

話はあちこちしているのだが(というのは、結論を考えずに書き始めたら、昨日終わらなくなってしまって、日付をまたいで書いているのだ)、日本人は昔からデンプン質が中心の食生活をしてきた。というのも、米は必須アミノ酸を含むから、小麦などとちがって、タンパク質を別に摂取しなくても何とかなるのである。だから昔の日本人は、大量の米を食べてきた。

そう考えていくと、小麦粉でできたうどんと、米を食べることは、別におかしな話ではない。「お米」と「うどん」はそもそも別のものなのだから。
「汁に浮かんだデンプンと、お椀に入ったデンプン」と考えるから、奇妙に思えるだけなのである。つまり、「うどん」や「ご飯」をどういう文脈に置くか、なのである。

汁物とご飯物、という文脈に置いても、「うどん定食」は成立するし、味の濃淡という文脈に置いても成り立つ。さらには、あくまでも「主食」の座は占めにくい「うどん」を、ちゃんとした食事として成立させるために「主食」のご飯を加える、という考え方もできる。あまり胃にもたれないものでお腹を一杯にする、という考え方でもあるかもしれない。

「うどん定食」が変なら、幕の内弁当の端についているスパゲティやマカロニサラダだって変だ。さらに言えばやきそばパンなど、小麦粉+小麦粉で変のきわみではないか。

「うどん」が持つ意味も、「ご飯」が持つ意味も、決してひとつではない。数多く持つ意味のいったいどれをとらえるか、つまり、どういった文脈に置くか、ということなのだろう。そんなふうに考えて以来、わたしは「きつねうどん定食」にもずいぶん寛容になってきた。

ただ、ソバだけは、特においしいソバならなおさらなのだけれど、ソバだけで食べたいと思う。デンプンだの地域性だのということに関わりなく、おそらくこれはただの好みである。