ときどき、反論というのは、どこまで効果があるものなのだろうか、と思うことがある。
自分と意見を異にする相手に対して、真っ向から論争を挑むとする。あなたの言うことはここがおかしい、ここが誤っている。そうやって理路整然と話をしていけば、果たして相手はわかってくれるものだろうか。
相手が自分と異なる意見を持つに至った背景というのも、当然あるわけで、そこから論理的に導かれた結論であったりすると、相手も当然、自分の反論に対して、反・反論を言ってくるだろう。そもそも意見の拠って立つところがちがうのだから、それを摺り合わせていくしかないのに、互いに相手を論破しようとして、結局、泥仕合という見苦しい結果に陥ってしまうことになる。
そうではなくて、相手の意見をもっともだと思いながら、反論しないではいられない場合もある。そんなケースとしてわたしが思い出すのが、鴎外のこんなエピソードだ。
鴎外の『独逸日記』(森鴎外全集13 ちくま文庫)の中にこんなエピソードがある。原文は格調高い明治文語文なので、ちょっと慣れない人には読みにくいと思うので、わたしの格調低い大意要約で書いていく。興味のある方はぜひ原文に当たってください。
明治19年3月6日。
鴎外はドイツにいる。ドレスデンで地学協会が開かれた。その式場で、ナウマンが演説を始めたのである。
日本の文化はずいぶん開けてきたが、これは日本人自身が進取の気性を現したものではなく、外国人によって迫られ、やむなくそうなったのである、と言った。そうしてその演説の締めくくりに、「現在」の日本を象徴するエピソードとして、こんな笑い話を紹介したのである。
ある時日本人が一隻の汽船を買った。新しく航海術を学んだ日本人は、得意満面で外洋に出ていった。数ヶ月後、帰ってきたのだが、実は機関士は船を動かすことは知っていても、停止させることができなかったのだ。そこで近海をさまよって、船が自然停止するのを待つほかなかった。日本人の技術はたいていこんなものだ、だから早くこんな欠点から抜け出してほしい……。
鴎外はこれを聞いて憤懣やる方ないのだが、式場の演説なので反論するわけにもいかない。親しいドイツ人も、せっかくナウマンが、日本の文化がこれから開けることを望む、と言ってくれているのに、いったい何の不満があるのだ、とわかってくれない。やがて会食が始まったのだが、鴎外は飲んでも食べても一向に味がしない。
そこへ、ドイツ婦人をめぐる話やら幸福を願う万歳やらが始まり、その流れでナウマンがふたたび話を始めた。自分は長く東洋にいたが、仏教には染まらなかった、というのも、仏が、女子には心がないから、仏にはなれないと言うからである。自分はそれをどうしても信じられなかったから、仏教徒にはならなかった。
それを聞いた鴎外は、チャンスとばかり立ち上がる(まあ正確にいうと、ちゃんと発言の許可を求めたりはしているのだが)。酒の席の冗談なら反論してもかまわないだろう、と思ったのだ。
鴎外はドイツ語で話し始める。自分は仏教徒である。そうして、経典のなかには女子が仏になった例がたくさん書いてある。仏とはなにか。それは悟りを開いた者である。女子もまた悟りを開いた以上、どうして心がないといえようか。仏教徒が女性を尊敬することが、キリスト教徒に劣るものではないことをわかっていただきたい、と。
すると席上の女性たちは鴎外の演説におおいに感謝し、さらにドイツ人の友人は、鴎外の発言はナウマンの議論が、信用できないという印象を、会場の全員に植え付けるのに成功した、日本に対する罪を巧みに晴らしたのだ、ナウマンの演説すべてに反論したのと同じことだ、と言ってくれた。
ここでその日の日記は終わるのだが、この後、鴎外はナウマンに対して公開論争を挑むことになる。ともかく、ここでは鴎外-ナウマン論争について書きたいわけではないので、またの機会に譲る。ここでは、この地学協会での話に限る。
まず、ナウマンの講演の趣旨ははっきりしている。
・日本人は進取の気性から開化を行ったのではない。
・外圧によるものだった。
・自発的なものではないゆえに、汽船の機関士のエピソードに見られるように、格好だけ大人のまねをするような、幼稚なものに終わっている。
・私は日本がこのような状態から脱却することを願っている。
というものだ。ちょうど漱石が講演の中で日本の開化が「外発的」と指摘していることと、ほぼ同じことを言っている。
漱石が感じていたことを、鴎外は果たして感じていなかったのか。そうではあるまい。まさに鴎外が感じていたことを指摘されたのだ。
しかも、自分は外国にいる。日本人代表として、そこにいるわけである。ナウマンの発言が根本において正しいものであるがゆえに、鴎外の懊悩は深かったはずだ。おそらく鴎外がその場で反論しなかったのは、もちろん場の性格もあっただろうが、それ以上にそれに対して反論できるような意見を鴎外がそのときはまだ持っていなかったのだろう。
だが、日本人として、これをそのままにしておくわけにはいかない。一矢報いなければ、と、鴎外はその機会をうかがっていたのにちがいない。
そこでナウマンが仏教の話を始めた。鴎外は「余は之を聞きて驚き且つ喜びたり」と書いているが、まさにその瞬間の鴎外の「しめたっ」といわんばかりの顔が思い浮かぶ。
だが、ナウマンは別に仏教について、あれやこれや論評したかったわけではない。ひけらかすほどの知識があったわけでもない。単にナウマンは、自分は女性を尊敬しているのですよ、と、その場にいるご婦人方におべんちゃらを言いたかっただけだ。
それに対して鴎外は、どう反論したか。
ナウマンの「ご婦人方に心がないとは信じられない(から仏教徒になれなかった)」という消極的肯定に対して、「ご婦人方には心がある(と仏教は言っている)」と積極的に認め、いっそうの賛美をし、同時に言外に「ナウマンの日本に対する知識というのは、生かじりのものだ」と言ってのけたのである。
さて、鴎外は、自分のこの発言で、ナウマンの演説そのものの信憑性をも揺るがせた、と自画自賛しているのだが、実際のところどうだったのだろう。
確かに言い争いのなかで、こういう反論の仕方というのはある。相手の意見に正面から反論するのではなく、第三者に向かって、「こんないい加減なやつなんですよ、そんなことを言うやつの意見が正しいでしょうか」と言ってみせるやりかただ。一種の人格攻撃とも言える。以前、「漢字が読めない首相」というニュースがひとしきり紙面をにぎわせたことがあったけれど、まさにその記事がやろうとしていたのはそういうことだろう。
そうして、そんな攻撃が現実にどこまで有効だったのだろう。
確かにその場で鴎外の発言は賞賛された。けれども、それは日本人がドイツ語で、当意即妙に切り返し、しかもその場にいたドイツ人女性を当のドイツ人よりも巧みに賞賛したことに対する評価だったのではあるまいか。鴎外は「余の快知る可し」と書いているのだが。
もっとも、鴎外が後日、直接公開論争を挑んだことを見ても明らかなように、鴎外自身、そんな切り返しでは不十分だと思ったのだろうが。
明治19年といえば、鴎外24歳である。外国で日本を背負って懸命に生きている青年であることを思うと、その肩肘の張り具合もほほえましくはある。
自分と意見を異にする相手に対して、真っ向から論争を挑むとする。あなたの言うことはここがおかしい、ここが誤っている。そうやって理路整然と話をしていけば、果たして相手はわかってくれるものだろうか。
相手が自分と異なる意見を持つに至った背景というのも、当然あるわけで、そこから論理的に導かれた結論であったりすると、相手も当然、自分の反論に対して、反・反論を言ってくるだろう。そもそも意見の拠って立つところがちがうのだから、それを摺り合わせていくしかないのに、互いに相手を論破しようとして、結局、泥仕合という見苦しい結果に陥ってしまうことになる。
そうではなくて、相手の意見をもっともだと思いながら、反論しないではいられない場合もある。そんなケースとしてわたしが思い出すのが、鴎外のこんなエピソードだ。
鴎外の『独逸日記』(森鴎外全集13 ちくま文庫)の中にこんなエピソードがある。原文は格調高い明治文語文なので、ちょっと慣れない人には読みにくいと思うので、わたしの格調低い大意要約で書いていく。興味のある方はぜひ原文に当たってください。
明治19年3月6日。
鴎外はドイツにいる。ドレスデンで地学協会が開かれた。その式場で、ナウマンが演説を始めたのである。
日本の文化はずいぶん開けてきたが、これは日本人自身が進取の気性を現したものではなく、外国人によって迫られ、やむなくそうなったのである、と言った。そうしてその演説の締めくくりに、「現在」の日本を象徴するエピソードとして、こんな笑い話を紹介したのである。
ある時日本人が一隻の汽船を買った。新しく航海術を学んだ日本人は、得意満面で外洋に出ていった。数ヶ月後、帰ってきたのだが、実は機関士は船を動かすことは知っていても、停止させることができなかったのだ。そこで近海をさまよって、船が自然停止するのを待つほかなかった。日本人の技術はたいていこんなものだ、だから早くこんな欠点から抜け出してほしい……。
鴎外はこれを聞いて憤懣やる方ないのだが、式場の演説なので反論するわけにもいかない。親しいドイツ人も、せっかくナウマンが、日本の文化がこれから開けることを望む、と言ってくれているのに、いったい何の不満があるのだ、とわかってくれない。やがて会食が始まったのだが、鴎外は飲んでも食べても一向に味がしない。
そこへ、ドイツ婦人をめぐる話やら幸福を願う万歳やらが始まり、その流れでナウマンがふたたび話を始めた。自分は長く東洋にいたが、仏教には染まらなかった、というのも、仏が、女子には心がないから、仏にはなれないと言うからである。自分はそれをどうしても信じられなかったから、仏教徒にはならなかった。
それを聞いた鴎外は、チャンスとばかり立ち上がる(まあ正確にいうと、ちゃんと発言の許可を求めたりはしているのだが)。酒の席の冗談なら反論してもかまわないだろう、と思ったのだ。
鴎外はドイツ語で話し始める。自分は仏教徒である。そうして、経典のなかには女子が仏になった例がたくさん書いてある。仏とはなにか。それは悟りを開いた者である。女子もまた悟りを開いた以上、どうして心がないといえようか。仏教徒が女性を尊敬することが、キリスト教徒に劣るものではないことをわかっていただきたい、と。
すると席上の女性たちは鴎外の演説におおいに感謝し、さらにドイツ人の友人は、鴎外の発言はナウマンの議論が、信用できないという印象を、会場の全員に植え付けるのに成功した、日本に対する罪を巧みに晴らしたのだ、ナウマンの演説すべてに反論したのと同じことだ、と言ってくれた。
ここでその日の日記は終わるのだが、この後、鴎外はナウマンに対して公開論争を挑むことになる。ともかく、ここでは鴎外-ナウマン論争について書きたいわけではないので、またの機会に譲る。ここでは、この地学協会での話に限る。
まず、ナウマンの講演の趣旨ははっきりしている。
・日本人は進取の気性から開化を行ったのではない。
・外圧によるものだった。
・自発的なものではないゆえに、汽船の機関士のエピソードに見られるように、格好だけ大人のまねをするような、幼稚なものに終わっている。
・私は日本がこのような状態から脱却することを願っている。
というものだ。ちょうど漱石が講演の中で日本の開化が「外発的」と指摘していることと、ほぼ同じことを言っている。
漱石が感じていたことを、鴎外は果たして感じていなかったのか。そうではあるまい。まさに鴎外が感じていたことを指摘されたのだ。
しかも、自分は外国にいる。日本人代表として、そこにいるわけである。ナウマンの発言が根本において正しいものであるがゆえに、鴎外の懊悩は深かったはずだ。おそらく鴎外がその場で反論しなかったのは、もちろん場の性格もあっただろうが、それ以上にそれに対して反論できるような意見を鴎外がそのときはまだ持っていなかったのだろう。
だが、日本人として、これをそのままにしておくわけにはいかない。一矢報いなければ、と、鴎外はその機会をうかがっていたのにちがいない。
そこでナウマンが仏教の話を始めた。鴎外は「余は之を聞きて驚き且つ喜びたり」と書いているが、まさにその瞬間の鴎外の「しめたっ」といわんばかりの顔が思い浮かぶ。
だが、ナウマンは別に仏教について、あれやこれや論評したかったわけではない。ひけらかすほどの知識があったわけでもない。単にナウマンは、自分は女性を尊敬しているのですよ、と、その場にいるご婦人方におべんちゃらを言いたかっただけだ。
それに対して鴎外は、どう反論したか。
ナウマンの「ご婦人方に心がないとは信じられない(から仏教徒になれなかった)」という消極的肯定に対して、「ご婦人方には心がある(と仏教は言っている)」と積極的に認め、いっそうの賛美をし、同時に言外に「ナウマンの日本に対する知識というのは、生かじりのものだ」と言ってのけたのである。
さて、鴎外は、自分のこの発言で、ナウマンの演説そのものの信憑性をも揺るがせた、と自画自賛しているのだが、実際のところどうだったのだろう。
確かに言い争いのなかで、こういう反論の仕方というのはある。相手の意見に正面から反論するのではなく、第三者に向かって、「こんないい加減なやつなんですよ、そんなことを言うやつの意見が正しいでしょうか」と言ってみせるやりかただ。一種の人格攻撃とも言える。以前、「漢字が読めない首相」というニュースがひとしきり紙面をにぎわせたことがあったけれど、まさにその記事がやろうとしていたのはそういうことだろう。
そうして、そんな攻撃が現実にどこまで有効だったのだろう。
確かにその場で鴎外の発言は賞賛された。けれども、それは日本人がドイツ語で、当意即妙に切り返し、しかもその場にいたドイツ人女性を当のドイツ人よりも巧みに賞賛したことに対する評価だったのではあるまいか。鴎外は「余の快知る可し」と書いているのだが。
もっとも、鴎外が後日、直接公開論争を挑んだことを見ても明らかなように、鴎外自身、そんな切り返しでは不十分だと思ったのだろうが。
明治19年といえば、鴎外24歳である。外国で日本を背負って懸命に生きている青年であることを思うと、その肩肘の張り具合もほほえましくはある。