陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

絵空事の意味(※一部補筆)

2010-10-31 23:39:35 | weblog
似たような話を続ける。

「どんでん返し」というのは、果たして日常の中で起こりうることなのだろうか。

その昔、こんなことがあった。
クラスに、バスケット部のエースで下級生からも人気の、カッコイイ男子がいた。

ある日、その男子の机の中にラブレターが入っていたのだ。差出人は、およそぱっとしない、クラスの中でもみんなから軽く扱われている(もっと有り体に言えば、軽くバカにされている)ような、誰がどう見ても彼とは不釣り合いな女の子だった。

彼も、自分がもらってうれしい相手であれば、そんなことはしなかったのだろうが、なにしろ相手が普段、友だち扱いしていないどころか、眼中にさえ入れていないような女の子である。「マイッタナー、ちょっとこれ、見てくれよ」と、その手紙を周囲の子に向かって放り出したのである。

おもしろがって手紙を音読する男の子も出てくるし、女の子たちも、あんな子がよくそんなことをするよね、とクスクス笑ったりもした。なにしろ、そうでなくてもその手のことには感じやすい年代である。少女マンガの出来の悪いパロディのような話ではないか。なんだかみんなすっかり興奮してしまい、直接、口には出さないまでも、クラス全体に、差出人の女の子を笑い者にするような空気が生まれてしまったのである。

そのうち、その男の子が好きだという噂の、クラスの中でも派手な女の子が、手厳しい調子で「自分の顔を鏡で見たことがあるの?」と、直接、本人に向かって、ひどく残酷なことを言い始めた。
――ねえ、ちょっと立ってみて。みんな、わたしとこの子、どっちが足、長い?
まあそんなことを、しつこく言い立てた。

こんな冴えない女の子が。
わたしの方がずっとカワイイのに。
何で、そんな身の程知らずの真似をするの。

その言葉は、周りにいるわたしたちの中にもある言葉だった。
だが、その言葉を実際に耳で聞かされて、今度は逆に、自分の中にある意地悪な気持ちを、鏡で見せつけられたような気がしてきた。わたしたちは、自分たちがひどいことをしていることに、徐々に気づいたのである。

誰も自分の顔を考えて人を好きになるわけではない。誰かを好きになってはいけない権利なんてあるわけじゃない。そうして、その好きという気持ちを伝えたくなるのも、自然なことじゃないか。
うつむいて自分の席に着いている差出人の女の子の横に立って、あんたなんかが○○君に好きだなんて言うなんて、百年早いよ、少なくとも体重十キロ減らして出ておいで……、という言葉を聞きながら、わたしたちの間に、そんなことを言う子の方がひどい、差出人の女の子がかわいそう、という空気が生まれてしまったのである。

突然、クラスのほとんどの子が、差出人の女の子に、ごめん、心ないことを言ってしまって、と謝り始めた。
ごめんね、ごめんね……。
その子は不器用に微笑みながら、いいの、いいの、と言うばかりだった。その結果、罪悪感から、みんなはその子に親切にし始めたのである。手紙をもらった男の子も、みんなと一緒に謝り、そのあとふたりで話をするようになった。
逆に、意地悪なことを言った女の子は、みんなの意地悪さの象徴とみなされて、そっぽを向かれてしまったのである。
まさに「どんでん返し」だ。

ところがである。そんな状態が続いたのは、いったい何日ぐらいだっただろうか。じき、手紙の差出人は、もとのぱっとしない、誰からもかえりみられることのない女の子に逆戻りし、ラブレターの相手の男の子は、彼女に向かって、朝の挨拶すらしなくなっていた。そうして、「意地悪な女の子」のイメージが定着してしまった女の子は、といえば、サッカー部だったか、陸上部だったかのキャプテンとつきあいだしていた。

ある期間で区切ってしまえば、どんでん返しも成立する。ところが日々は続く。さまざまなことがつぎつぎに起こり、わたしたちの気分はそのたびごとに揺れ動く。古い出来事の記憶は薄れていくが、それでも、わたしたちがいったん思い込んだ「その人のイメージ」は、新しい出来事で上書きされたはずなのに、じきに薄れ、いつのまにか元のイメージに戻ってしまっている。「どんでん返し」が起こった瞬間は、それがどんでん返しとも気がつかず、ただただ巻き込まれるが、事態が沈静化すれば、せっかくひっくり返ったどんでん返しも、たいていは元に戻ってしまう。

何かが起こったときというのは、わたしたちは最初、それが何だかわからない。その出来事が「何か」ということは、徐々に姿を現し始め、その出来事がはっきりした形を取るように、わたしたちがすすんで手助けをする。その出来事の姿をわたしたちがはっきり見届けた、と思ったところで、わたしたちの多くはその出来事から離れてしまう。ところが時間が続く限り、その出来事はほかの出来事へとつながっていき、決して終わることがない。わたしたちが忘れてしまっても、姿を変えてつづいていく。

事実は小説とはちがうのだ。仮に、「小説より奇」なことが起こったとしても、じきに日常の波に洗われ、色あせ、日常に織り込まれてしまう。

だとしたら、やはり小説というのは、しょせんは絵空事、意味のないことなのだろうか。

小説は、あるひとりの人間に起こった出来事を通して、人間の生きる意味を提示しようとする。そうして、小説を読むわたしたちは、それを自分の経験として読む(たとえば、少し前に訳したヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」のように)。そこにふくまれたあらたなものを、自分の経験として、内に蓄える。

確かに始まりと終わりのある「どんでん返し」は、小説の中でしか味わえない。けれど、わたしたちは、いま思っている自分の見方がすべてではないこと、まちがいないと思っているその見方も、ほんのささいなきっかけでひっくり返るものだということを、小説を通じて知ることになる。思いこみの恐ろしさや、見かけにだまされること、そんな経験を、なによりもはっきりとさせてくれるのは、小説を通してなのである。

そうして、たとえ「事実は小説より奇なり」であっても、「奇」な事実をくっきりと浮かび上がらせてくれるのは、それを全体から切りとる「小説」の方法があってこそなのである。

どんでん返しの楽しみ

2010-10-30 23:52:02 | weblog
中学のころ、親しいクラスメイトが何人か集まって、文化祭で劇をやろうという話になった。わたしが台本を書くよ、と勇んで名乗りをあげ、どんな話にしようか、しばらく頭をひねった。

当時のわたしが何より好きだったのは、あっと驚く話、最後の最後でどんでん返しが待っているような話だった。すでに読んでいて結末はわかっているような話でも、だからこそいっそうその途中や伏線の張り方がおもしろく、繰りかえし、飽きることなく読んだものだった。そんな話なら、みんなに「おもしろい」と思ってもらえるにちがいない。

かといって、衣装や舞台装置のこともある。そんなに大がかりなことができるわけではない。観客も同じ学校の生徒たちである。自分たちと同じような中学生の話にしよう、と思った。荒唐無稽ではない話、誰もに思いあたることがあるような。

そこで考えた「どんでん返し」が、いやな子だ、と思っていた子が、実は誤解だった、と、最後であっと思わせてはどうだろう、ということだった。劇を見ている人にも、なんだ、いやなヤツだな、と思わせる。ところが最後にそれが誤解だったことがわかる、というどんでん返しである。

誤解を受ける人物を主人公にすると、当然主人公は悩んだり、葛藤したりするだろう。そうなると、話がシリアスになりすぎるかもしれない。だから、主人公の友だちにしよう。ある出来事がきっかけで、みんなから誤解される子がいる。ところがその子も、ある人物をかばって、誤解を解こうとする代わりに、自分から進んで、みんなが誤解しているような、悪い子のふりをする。

主人公は最初、友だちはそんな子ではない、と弁護するのだが、その相手からひどいことを言われ、傷つき、彼女から離れていく。

ところがある出来事がきっかけで誤解は解けて、みんなは彼女に謝る。主人公も心から詫び、ふたりは仲直りする、というものだった。

こんなふうにまとめてみると、えらくすっきりしておもしろそうにも思えるのだが、それは骨子だけを取り出しているからで、実際はいまのわたしがずいぶん整理し、逆に足りないところは補っているのだろう。おそらくはこんなにすっきりとまとまったものではなかっただろうし、もっとわかりにくかったり、散漫だったりしたのだと思う。

ともかく、舞台に立った子たちがみんなそれぞれに熱演し、見ている方も感情移入しやすかったのか、劇は拍手喝采を浴びた。ついでにわたしも何人かから、おもしろかった、よく書けていたと褒められて、得意になったものである。

ところがやがて、あの子ってイヤな子だよね、と、誤解される登場人物のことを批判する友だちが現れた。当時、その子はわたしと仲が良く、その気安さもあったのだろうが、そう言われて、わたしの方は内心かなりムッとした。なにしろ自分としては、鍵を握る人物だけに、苦心に苦心を重ね、その分思い入れもある登場人物だったのだから。

その後何年か経って、イーディス・ウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス』という小説を読んだ。

この小説では、主人公のニューランド・アーチャーは、ヨーロッパ帰りの伯爵夫人オレンスカに恋愛感情を抱く。だが、主人公を取り巻く環境は、出戻りの年上女性との恋愛などは許さない。主人公は、自分の恋心を押し殺して、誰もが妻にふさわしいと認める若い女性メイ・ウェランドと結婚する。

退屈な三十年の結婚生活を経て、ニューランドはあるきっかけから、最初から自分の妻が、オレンスカと自分のことを知っていたことを知る。若く純真とばかり思っていたメイは、実はニューランドの恋愛感情など、すべてお見通しで、オレンスカと別れさせる算段までしていたのである。ニューランドは、メイの手のひらの上で転がされていたのだ。

このどんでん返しでわかるのは、知は力なり、ではないけれど、知っていることは、力関係で相手より上回る、ということだ。

Aさんが「わたしは○○ということを知っている」とBさんに告げるとする。BさんはAさんが知っていることを知っているから、このとき、ふたりの力関係は対等だ。

ところがAさんが「○○を知っている」ことを隠すとする。BさんはAさんが知っていることを知らないために、力関係はAさんが上回る。Aさんは、つねに「Bさんは、わたしが知っていることを知らないんだ」という心理的優位に立っている。

わたしが劇で書いた、みんなから誤解されている女の子も、当時、書いていたわたしも気がつかなかったのだが、彼女が誤解を積極的に解こうとしなかったのは、「自分だけは知っている」という心理的優位を手放そうとしなかったからなのかもしれないのだ。確かに「イヤな子」という評価は当たっているのかもしれない、と思うようになった。

それからさらに時間が過ぎて、もうひとつわかったことがある。
「どんでん返し」が楽しいのは、最後の最後にわたしたちが真相を知ることによって、それまで誰かが隠していたことが明らかになり、隠すことによってわたしたちより上回っていた力関係が、最後に逆転するからなのである。

隠すことによって心理的優位にいた登場人物は、それを暴かれて、今度は読者の方が優位に立つ。読者は最後の場面ですべてを俯瞰することができる。神の視点からいっさいを見渡せるのだ。日常生活では決して立つことのできない視点から。

もちろん「どんでん返し」が楽しいのは、あっという驚きの楽しさもある。けれども、何より、すべてを知る、すべてを見渡せる、そんな地位を得ることのできる楽しさなのだろう。


運がいいとか悪いとか

2010-10-29 07:12:20 | weblog
ところで、あなたは運がいい方ですか。

こんなふうに聞かれると、たいていの人は、これまでのことをざっと振り返って、まあいろいろあったけど、不慮の事故に遭ったわけでもなく、こうやって元気でいることだし、まあまあ運がいいと言えるんじゃないか、などということを考えるのではあるまいか。もちろん、悲観的な人なら、あれもダメだった、これもうまくいかなかった、と、悪い結果ばかりつなぎ合わせて、自分は運が悪い、と考えるかも知れないが。

ところで、特に深く考えるでもなく、わたしたちが使っている「運」というのは一体何なのだろう。

サイコロを振って、五回連続で1の目が出たとする。わたしたちは何だか不思議な気がしてくるだろう。一回につき、1の目が出る確率は1/6、二回続くだけでもその確率は1/36だ。五回ともなると、1/7776じゃないか。すごい確率だぞ。もしかして、いま、ツいているのかもしれない。宝くじを買ってみようか……。いや、運をこんなところで無駄に使ってしまったのかもしれない。とまあ、こんなところで「運」という言葉が登場する。

ではこんな場合はどうだろう。
手に持っていた鍵を、床に落としたところ、チャリンと音がした。わたしたちは別にそれを不思議にも思わず、かがんで鍵を拾うだろう。

けれど、仮に鍵を落としたところ、とんでもなく大きな音がしたとする。予期せぬ音に驚いてから、この床はえらく音が響く床だ、きっとそんな材質が使われているにちがいない、それともこの床の下が空洞になっていて、音が反響する構造になっているのだろうか、などと、さまざまに思いをめぐらせるはずだ。

このように、「鍵を落とす」という原因と、「音がする」という結果が、わたしたちに何ら違和感なく受け入れられるとき、わたしたちはその理由を求めたりはしない。というか、そもそも音の大きさに気がつくこともなく、原因と結果に思いをめぐらせることもない。けれども、その音の大きさが予想外だったり、音色が異なっていたり、つまりは原因と結果の関係が非対称であるとき、わたしたちはその「理由」を求める。

さきほどのサイコロの例も同じだ。
1の目が五回続いて、何だか不思議な気がする。サイコロを放る→1が続く、という「原因」と「結果」の非対称から、「1が続くことの意味」を求めてしまうのである。

だが、サイコロの出目に、そもそも意味などない。だから「単なる偶然」で片づけてもいい(もちろんこの「偶然」というのも、わたしたちが原因と結果の非対称を埋める「意味」として持ち出した説明のひとつであることには変わりない)。それでも1/7776という数字が「単なる偶然」とは「釣り合わない」と感じた人は、そこからさらに説明を求める。「不思議さ」に見合う意味がほしい。だからその「原因」を無理矢理どこかに求めることになってしまう。

そんなものはないのに、無理に探すわけだから、いきおいそれは非合理的なものにならざるをえない。そこに「つき」とか「運」とかあるいは「超能力」とか、「こっくりさん」(?)とか、まあなんにせよ、摩訶不思議なものが持ち出されてくるのである。

昨日まで紹介していたシャーリー・ジャクスンの話の中で、あれほど多くの人が「くじ」という作品を非難したのは、結果(ジャクスンは暗示するに留めているが)の恐ろしさに対して、「どうしてそんなことをするのか」という原因が一切明らかにされていないからだ。

たとえば、人柱というのも残酷なものだが、「雉も鳴かずば撃たれまい」の元になった故事、長柄橋に橋を架ける、という原因がはっきりしている話であれば、おそらく誰も腹を立てたりはしないだろう。このように、原因と結果の非対称というのは、わたしたちを落ち着かない気持ちにさせる。もちろんその不安を煽っていくのはジャクスンの腕だが。

小説ではいくつか約束事があって、その中のひとつは、出来事にはかならず意味がある、というものである。ある出来事にはかならずその「原因」があるし、また、のちに「結果」を生む。だからこそ、わたしたちは虫眼鏡を持った探偵よろしく、ひとつひとつの出来事を、丹念に拾い集めていくのである(そうして、小説を読んで、どういう意味かわからない、筋が追えない……という場合は、出来事をうまく拾えていないのだ)。逆に、だからこそ、ある朝起きたら巨大な「虫」になってしまっていて、家族に厄介者扱いされて、半ば自殺するように死んでしまったあと、残された家族が悲しむどころか、ピクニックに行ってしまうような小説を読むと、宙づりにされたような、不思議な気持ちになる。これはいったい何のアレゴリーだろう、「虫」は何のメタファーだろう、ザムザは一体何を体現しているのだろう、カフカは一体、『変身』を通して何が言いたかったのだろう……などと、頭を悩ましたり、読書感想文を書いたりすることになるのだ。

けれども、それはあくまでも「小説」という枠組みの話であって、わたしたちを取り囲むさまざまな出来事は、そんなわけにはいかない。ちょうど、朝起きてみたら自分が虫になっていたことに気がつくザムザとまったく同様に、自分に何かが起こっていることはわかっても、いったいそれが「何」なのか、「どういうこと」なのか、そのことは、結果が十分に出てしまうまでわからない。

日常に起こる無数のことを、そこまで意識的にやっていては、わたしたちはすっかり疲れてしまうので、ほとんどのことは、飛行機が自動運転で運航しているように、意識される前に自動的に処理されてしまっている。そうして、何か非日常なこと、自動的に処理できないことが出来したときのみ、「これは何だ?」とわたしたちのセンサーが働き始めるのである。

何かが起こった。わたしたちは「これは何だ」「どういうことだ」と過去を振り返る。自分に大きな影響を与えるような「結果」には、それに対応するような「原因」が必要だ。そうならなかった可能性だって十分あったのに、6分の1どころではない、無数の可能性の一つ一つが重なって、この結果を生みだしたのだ……。
そう考えたとき、「運命」が生じる。

結局、「運」という言葉の一方の端は、いまのわたしたちが握っているのだ。過去の「偶然」を結びつけ、ちょうど星をたどって星座を見つけ、不思議な物語にあてはめるように、過去における無数のできごとを結んで、「運命」という物語を創り出していくのは、わたしたち自身なのである。

おそらく、ばくぜんと自分が「運がいい」と感じている人は、いまの状況がその人にとって、居心地良いものであることを示している。逆に、「運が悪い」と感じている人は、そうではないのだろう。「運」は、「いま」の自分が創り出す物語だからだ。

今日のわたしは何をやるか。どんなふうに、一日を過ごすか。
これから三年後、五年後、十年後、「自分はまあまあ運がいい方だな」と思えるように、過ごしたいものだ。



シャーリー・ジャクスン 「くじ」を語る 最終回

2010-10-27 21:42:36 | 翻訳
その7.

 飛び抜けて強硬な手紙を書いてきたのは、好きなだけ罵詈雑言を浴びせることができるチャンスに飛びついた人たちです。まあ、こうした書き手の動機をわざわざ解明してみようとは思いませんし、そんなことが可能であったとしても、単に小説を書いているだけの他人に向かって胸が悪くなるような手紙を出す手合いに対しては、言うべき言葉もありません。ここでは彼らの見解の一部を紹介するだけにとどめましょう。
【カナダ】 ミス・ジャクスンに、カナダに入国するな、と伝えてください。

【ニューヨーク】 作家みずからによる謝罪を要求したい。

【マサチューセッツ】 どうやら「サタデー・イブニング・ポスト」に切り換える潮時らしいですね。

【マサチューセッツ】 これから先、決して「ニューヨーカー」は買わないことにします。『くじ』のような邪悪な小説を、策略に引っかかって読まされたことについて、大変な憤りを感じています。

【コネティカット】 シャーリー・ジャクスンって誰だ? 天才なのか、オーソン・ウェルズの陰険な女版なのか、判断がつかない。

【ニューヨーク】 私たちは、高等教育を受け、教養ある階層の一員であると考えていますが、文学の真実性に対する信頼の一切が、消え失せてしまいました。

【ミネソタ】 「ニューヨーカー」に掲載されるような小説に抗議をするとは、夢にも思っていなかった。だが、編集部のみなさん、ほんとうに『くじ』は、信じがたいほど悪趣味である。私はこれを湯船に浸かって読んだのだが、自分の頭をそのまま沈めて、何もかも終わりにしてしまいたくなった。

【カリフォルニア】 ある世界的に高名な人類学者から】 作者の意図が、象徴化によって完膚なきまでに人を迷わし、さらにいわれのない不快感を与えることにあるのだとすれば、確かに女史は成功していると言えよう。

【ジョージア】 「ニューヨーカー」の発行部数を考えると、この作品はあまりに少数の読者だけを対象としてないでしょうか。

【カリフォルニア】 『くじ』を楽しんだ者もいましたが、それ以外はみんな、ただただ腹を立てていました。

【ミシガン】 確かに現代風ではある。

【カリフォルニア】 こんな作品を読むにつけ、貴誌が「リーダーズ・ダイジェスト」ほど人気がなく、海外でも発行されている雑誌でなくて良かったと思います。ドイツやロシアや日本の現実主義者さえも、アメリカ人にくらべれば、自分のことを純粋だと思うにちがいありません。内輪の恥はさらけ出すな、という古くからの格言は、おそらく当代ではすっかり時代遅れのものになってしまったのでしょう。いずれにせよ、この作品を読んで、来年からはもう貴誌の講読をしないことに決めました。

【イリノイ】 最大級のお世辞を言ったとしても、『くじ』は好きになれないという以上のことは言えません。

【ミズーリ】 この作品を送ってきたとき、おそらく作者はどこでこんなことが起こったかとか、こうした状況が確かに存在しうるという証拠を同封したにちがいない。そうであるなら、読者にはその証拠の一部を見る権利があるのではないか。もしそうでないなら、故意に人間性に対する虚偽の叙述をした咎により、読者は編集部を告訴する権利がある。おそらく編集者諸氏は、人間の邪悪さの最低値を新たに提示する作品を掲載したことを、得意がっているにちがいない。だが、諸氏が悪に心を奪われた結果、人びとを悪しき道に迷い込ませたのであるから、証拠を開示する責任も諸氏にあると考える。こんな作品をあと数回掲載するつもりなら、諸氏は最も熱心な読者層――つい先日まで私もそこに含まれていた――にも離反されるだろう。

【ニューハンプシャー】 『くじ』という作品には、非常に失望させられた。この類の話は「エスクァイア」あたりにこそふさわしいもので、「ニューヨーカー」らしさとは無縁のものである。

【マサチューセッツ】 この話の結末は、妻にひどい衝撃を与え、実際、読後一日、二日というものは、この話の何から何までが、腹が立ってしょうがないようでした。

【ニューヨーク】 隅から隅まで読んだのですが、正直言って、何の事やら皆目わかりませんでした。話はおぞましいし、読後感は陰々滅々、こんなものを掲載する意図がわかりません。

 さて、ここでイリノイから来た手紙の全文を読んでみましょう。
編集長殿

 私はこれまで、貴誌六月号に掲載されたような、巧妙にして邪悪な作品を読んだことがありません。この作品が、私がこれまで高く評価してきた雑誌の編集者の好みを反映しているのだとすると、アメリカ文学のこれからはいったいどうなってしまうのでしょう。この作品を掲載することにした背景に、一体どのようなお考えがあったのか、不思議でしょうがありません。どう考えても読者を楽しませるようなものではないし、だとしたら、そこにどのような意図があったのか。

確かに作品の中に、天才的なひらめきがあることは明かですが、ただそれはおぞましい奇形を創り出す、よこしまな才能です。貴誌は、こうした低俗なものを選ぶことによって、読者の信頼を裏切りました。読者は気がつかないうちに村人たちの日常会話に引き込まれ、徐々に高まっていく緊張を感じるだけです。そうして読者は、熟練した手際で念入りに作り込まれた結末に衝撃を受け、作品全体に対する吐き気と、こんなものを掲載するような雑誌に対する不信の念とともに残されるのです。

 私は自分自身が経験した感覚をもとに、これを書いています。この感覚が貴誌の読者の大多数を占めるものでないのであれば、私の推測も的はずれになってしまいますが。倫理や人格を高めることなど、貴誌の関知するところではないのでしょうし、また、期待されてもいないのでしょうが、編集に携わる者として、『くじ』のような作品を受け入れないためにも、健全かつ良識的な採用基準を設ける必要があると感じます。

 これまで私は「ニューヨーカー」に対して、株主のような誇りを持って接してきました。ほかの私有物同様、友人とともにこの雑誌を分かち合い、何よりも楽しんできました。ところがこの最新号が届き、茶色の包装紙を取ろうとしたとき、私はいまだかつて味わったことのない嫌悪感がこみあげ、手が動かなくなり、とうとうその号はくずかごへ直行することになりました。これから先、新たに興味を抱くようなことはもうないでしょう。毎週読者を不快にさせるあなたがたのご尽力を無駄にしないためにも、即座に講読をやめさせてください。


さらにもう一通、これはインディアナ州から来た手紙です。
拝啓

 最新号では胸がむかつくような、小説らしさのかけらもない話を読ませてくれて、どうもありがとう。たぶんあれは外国の話のほんやくですよね。

 ひっこししやらなんやらで数週遅れたんだけど、幸か不幸かあんたたちの雑誌も、つづりと句読点の位置を最初から最後までひとつもまちがえなかったジャクスン女史も、私たちに追いついたんです。

 おそらくあの人の話を読んで、編集のあんたたちも、幸せな子供のころのことを思い出したんでしょう? そうと思うと、私たち、うれしくなります。あのころは、水面を跳ねさせるのにもってこいの石を、うちの年取った婆さんに投げても良かったから。もちろん理由なんてない、ただ、村の郵便局長が親切に持たせてくれたとか、丸々とした指先でさわるのがすべすべと気持ちよかった、ってだけで。

 別にジャクスン女史のとてつもなく明晰な文体や、ジャーナリストみたいな観察力に、文句が言いたいわけじゃないんです。あと、この田舎の投石者たちが体現しているはっきりした主題とか、どうやら私たちが途中で読み落としたらしい、ほのめかしだとか含みだとかに文句をつけてるんでもない。

 ただ、おれたち、これを読んだのは、食後じゃなくて、食前だったんです。おれたちはいまみんなして頭をつきあわせて、親切な隣の人の頭を、電動泡立て器の中に突っこむ話を書いているところです。隣の人のもつれた頭がほどけたところで、同じもの、送りますね。きっとこれは「ニューヨーカー」の大勢の読者をクスクス笑わせたり、そうでなかったとしても、少なくともお高くとまった連中をひそかに興奮させてやることができると思います。それに、うちのかみさんとおれが、庭のすべすべした丸っこい石を集めて、隅っこに小さなピラミッドみたいに、きれいに積み上げてるところなんです。これを知ったら、きっとあなたたちにも喜んでもらえるんじゃないかと思って。おれたち、そんなことをするぐらい、感じやすいんです。


 最後に紹介する手紙については、わたしはこれまで何度も悪ふざけではないのかと疑ってきたものです。『くじ』にまつわる手紙の中では、わたしの大のお気に入りなので、悪ふざけでなければ良いとは思っているのですが、絶対にそうではないとは言い切れません。この手紙の宛先は「ニューヨーカー」で、発信はロスアンジェルス。ありがちなことですが、鉛筆書き、ノートを破った、罫の入った紙に書かれています。つづりもめちゃくちゃです。
拝啓

 昨日、ロスアンジェルス駅で、6月26日付けの貴誌を入手しました。私は毎号欠かさず貴誌を読むという類の読者ではありませんが、今号は家へ持ち帰り、家族に見せたところ、あなた方は率直に読者に語りかけているという私の意見に、みんな賛成してくれました。

 私の叔母さんのエリースも、「崇高なる回転者」教団の巫女になるまえは、よく話を聞かせてくれていましたが、ちょうどシャーリー・ジャクスンが書いた『くじ』そっくりの話でした。ミス・ジャクスンが「崇高なる回転者」教団の信者かどうか、私にはわかりませんが、丸い石のことを書いているので、そう考えてまちがいないでしょう。ただ、彼女のお告げのいくつかについては、エリース叔母も私も賛同しかねます。

「崇高なる回転者」はくじ引きの箱なんて真じないし、お告げが実現するときは、救いの光による正しい福音がみんなに受け入れられるだろうと真じています。おそらく私たちは自分の罪の罰を受けることになるのだろうと思います。悪魔のおもちゃ(原子爆弾)による天罰の戦争で。贖罪のために人身御空を立てる必要があると、私は思いません。

 私たちの同胞は、ジャクスン嬢こそ真の預言者で、救いの光による真の福音のしとだと思います。つぎはいつ啓示を発表してくれるんですか。

魂の友

 わたしがこれまで投げかけられたありとあらゆる質問のなかで、いささかの躊躇もなく率直に答えられるのは、たったひとつだけです。この紳士の手紙の末尾に書かれた質問の答えです。つぎの啓示の発表はいつなのか。彼はそれを知りたがっているし、わたしは声を大にして答えます。二度とありません。わたしは永久に、くじ商売から足を洗ったのですから。






The End



※後日手を入れて、サイトにアップします。

風邪に罹って二日ほど遅くなってしまいました。
楽しみにしてくださった方、遅くなってごめんなさい。
また再開していきますので、どうぞよろしく。



閑話休題(※一部補筆)

2010-10-22 23:50:02 | weblog
いつも拙ブログにご訪問くださるみなさま、こんばんは。
明日、明後日と所用でちょっと更新ができないので、シャーリー・ジャクスン、何とか今日中に仕上げようと思っていたんですが、最後まで行けません。ほんのちょっとだけ残して、二日間、空けるのは、申し訳ないので、今日は予定を変更して、これまでくださったコメントについて、思ったことなどを書いていきたいと思います。

ええ、いい加減な企画です。ゴメンナサイ。

その1.


「デンプン食について語るときに我々の語ること」のログにいただいたコメントに

Mutsukiさん、こんにちは。


コメントくださったのに、レスがこんなに遅くなってしまってごめんなさい。

食べることって、ちょっと不思議なところがあると思いません?
わたしの友人に、外国人と結婚した人が何人かいるんですが、みんないずれも、自分が慣れ親しんできた食べ物と、相手が慣れ親しんできた食べ物の中間地点に「そこの家の食べ物」の着地点を見出しているんです。

もちろん、夫側、妻側、どちらにより近いか、というのはそれぞれなんですが、どちらかが「自分の最初のポジション」から一歩も動いていないというケースはない。やはり女性の方が順応性が高いかと思うのですが、あちらが譲り、こちらが譲り、で、端で見ていると、「真ん中当たり」で着地したふたりが、やはり一番うまくいっているように思えます。

おふくろの味と言いますが、わたしたちの舌は、意外に簡単に「親離れ」できるように思うんです。好みの味は変わっていく。良い例が、ピーマンやほうれん草で、小さな頃、あの苦みが駄目だった子供が、あるときを境に、その苦みこそを好ましく思うようになる。
逆に、小さな頃あれほど好きだった食べ物が、なんで当時そんなにおいしく思えたのだろう、と思うこともあります。新しい環境に馴染んで、それまで慣れ親しんだはずの「おふくろの味」を久しぶりに食べると、懐かしい反面、同時に「あれ、こんなに甘かったっけ?」と、舌のどこかで拒絶したりもする。

そのきっかけとなるのがひと皿の料理だったり、特別な出来事だったりと、はっきりと意識されることもありますが、「いつの間にか」ということも少なくありません。

ただ、いずれにせよ、自分の好みの変化に気がつくときは、おもしろいことに、たいてい「自分自身の変化」として意識されるところです。

「ぼくな、ピーマン、食べれるようになってん」という子は、ピーマンが食べられるようになった自分が誇らしいのだし、おそらく、薄い色のだしのうどんでなくては、と思うようになられたMutsukiさんは、そうお感じのとき、「北海道民」でいらっしゃったかつてのご自身と、いまのご自身の変化として感じていらっしゃるのだと思います。

好みの変化は、単にそれにとどまるものではなく、自分の変化として意識される。このことは、わたしたちがさまざまな局面において、「いまの自分」を確認していることを教えてくれます。

つまり、「わたし」という言葉によって焦点化される「何ものか」は、それを映し出す鏡がつねに必要だということなんですね。

「自分とは何か」という問いも、それを映し出す鏡がなければ、何もわからない。あるときはそれが親しい人との会話だったり、またあるときは、ある出来事に直面して、なんらかの選択をせまられたり。そうして、「食べること」というごく身近なこともまた、わたしたちが「いまの自分」を確かめる鏡としてあるのでしょうね。


「死んだ肉の思想 その2.」のログにいただいたコメントに

こちらにもありがとうございます。

> 違う考えを「叩き合わせる」。それは決して無益ではない。

わたし自身は、あまり議論というものを好まないんですよね。

十代の頃は、おそらくクラスメイトたちより、少しばかり本を多く読んでいたこともあるのでしょう、言葉の使い方が達者で、人から説明がうまい、話に説得力がある、などと言われ、白を黒と言いくるめるぐらいはお手の物……などと思い上がっていたのです。

ところがそのうち経験を積むにつれ、その場でいくらいいくるめても、その人を動かすことはできないことがわかってきました。説得しようが、論破しようが、おだてようが、人の気持ちなど、自分の言葉によって動かすことなど、できることではないのです。

そんな風に思うようになるにつれ、相手が自分に賛同してくれていないことがわかる場面では、何をしゃべっても、自分の言葉がぼろぼろ手の間からこぼれ落ちていくのが見えるようになってきたんです。ああ、自分はなんと空しいことをやっているのだろう、と。

そもそも意見がちがう人と、その意見を「叩き合わせる」ことにどれだけ意味があるのでしょうか。結局は双方が意見をぶつけあい、それぞれが自分の「正しさ」を、いっそう強く思うだけに終わる。そうなるのではないか。

相手の意見を聞き、自分が変わっていく……ということを思った時期もありましたが、それもちょっとちがう。その場では、そんな気分になったとしても、冷静になればやはり自分の方が正しかった、ということになりがちなのです。

むしろ、自分の意見が変わり、ものの見方が変わるとき、というのは、そのようなものとは意識されないことの方が多いように思います。

ある人に相対しているうちに、それまで思いもよらなかったようなことを自分が言い出している。

> ひととき、今まで自分が考えも及ばなかった「視点」に目を向け交わる。

これはほんとうにその通りなのですが、これって意識してできるものではありませんよね。いつのまにかそうなっている。

> そして「自分の個の考え」に立ち返り、その交わりを反復する。
> そこには「発見」があります、気付かなかった自分の新たな側面の様なものが。

この「反省」の作用は意識的なものであっても、「変わる」というのは、意識してしようと思っても、どうにもなるものではない。だからこそ、人との交わりというのは、おもしろくもあり、緊張するものでもあり、不思議なものでもあるのだろうと思います。


いろいろ刺激をくださった書き込みでした。ほんとうにありがとうございました。

その2.

「お世辞を言われたら」のログにいただいたコメントに

maicouさん、こんばんは。
毎週ラジオを楽しく聞かせていただいてるんですよ。最近、おふたりとか3人で番組をやっていらっしゃるでしょう? ずいぶん自然な感じで楽しそうにしゃべっていらっしゃって、やはり、人間というのは、ひとりで話し続けるというのは、不自然なことなんだなあ、と改めて思ったのでした。そう思うと、DJというのは、大変な仕事ですね。


> 最近私、女性の方に最初好かれては、やがて嫌われ去っていかれるという事が非常に多くなっております。

ごめんなさい。笑っちゃいました(笑)。
いや、悲壮感がちっとも滲んでいないので。
もちろん、ほんとうにそれを悩んでいる人は、こんなふうに言わない、というのもあるんですが、それ以上に、そのような事態を少し上から見て楽しんで(?)いらっしゃる、maicouさんの目が感じられる、
不思議なんですが、なぜそういうことって伝わるんでしょうね。

> 昔は、恐らくそうしたほうが付き合いも順調なのかと思い、一生懸命無理しておりましたが

きっとそれも伝わってたんだと思うんです。
そうしたmaicouさんの努力を、ありがたいと思う人もいただろうし、そこで自分の優越感みたいに感じていた人もいただろう。でも、なんとなく、肩が凝るなあ、みたいに漠然と思っていた人もいたのかもしれませんね。

> 私の場合、本心からそう思ったときは、本当に相手を褒めますけども、そうじゃないときにお世辞が言えません。

お世辞、言ってる人ってわかりますよ。
気が弱くて言わずにいられない人もいますけれども、人によっては、こっちを操作しようとしている人もいて、それが感じられると、やれやれ、と思ってしまいます。「お世辞が言えません」という構えの人もわかる。だから、褒められるとうれしい。やった、またがんばろう、もっと褒めてもらおう、と自然に思える。お世辞だと、悪い気はしないけれど、先へは続いていきませんよね。そこでおしまいです。

愛想が悪いと気を悪くする人って、実際にはどれだけいるんでしょう。
もちろん敵意を剥きだしにされると別です。けれども、お世辞で相対してくる人には、わたしたち、どこかで警戒するんじゃないでしょうか。

こう考えると、お世辞って一種の武器や防具なのかもしれませんね。人によって、武器として使う人(相手を操作しようと目論む人)、防具として使う人(相手の歓心を買うことによって弱い自分を守ろうとする人)と、使い方はいろいろだけれど。

だから、お世辞を使う、使われるというのは、この武器や防具を身につけた、いずれにせよ緊張感を伴う関係なんです。だからその状態を楽しめる人(お世辞を言われたい人)というのは、結局自分の力を味わいたい人なのかもしれませんね。

> 先に「私自身」じゃなく、「私の音楽」のほうを知った方は、概ね好意的に接していただけるので、

何が理由であっても、自分に好意的に接してくれる人とは、こちらも楽に相対することができる。それがために、会話は楽しく弾み、相手はいっそう好意を持ってくれる。

当然、逆のスパイラルもある。

上方向のスパイラルならいいのだけれど、不幸にしてマイナスのスパイラルになったらどうしましょうねえ。簡単な方法は「避ける」なのですけれども、相手が、なんとかしてその向きを逆転させようと努力している場合は「避ける」わけにもいかない。

ひとつには、「自分はこんな人」という看板をあらかじめ出しちゃうっていうのはあると思うんです。自分は「職人」だから、つきあいではなく仕事で判断してくれ、みたいな。それは、わかってくれる人には有効な手ですが、逆に自分がしばられることもある。

わたしはいったんそのわだちにはまりこんじゃうと、つい、過度に相手に気を遣って、やがてイヤになって投げ出す……ということをこれまでやってきたのですが。
歳も取ってきたので(笑)、なんとか淡々としたつきあいをやっていきたいと思っています。

相手が「お世辞を言ってくれ」という空気を出して来たときは、まあ、それにうまく乗れるくらいの柔軟性が持てればよいのですけれど。

書き込み、どうもありがとうございました。


いつも拙ブログを読んでくださってありがとうございます。
そうして、コメント、ほんとうにありがとう。


ということで、明日、明後日とブログはおやすみです。
月曜日にシャーリー・ジャクスンの最終回をお送りします。



シャーリー・ジャクスン 「くじ」を語る その6.

2010-10-21 23:25:21 | 翻訳
その6.

 さて、このような手紙に共通するテーマの二つ目を、わたしは推測と呼んでいました。机に向かって、この作品の意味や、これを書いた理由をあれこれ考えた人たちが、自説を得々と披露していたり、この物語はおよそ意味などないという見解を聞かせてくれたりする手紙です。

【ニュージャージー】 おそらく作者が単にこんな悪夢を見たというだけのことですね。

【ニューヨーク】 これって本気にしてほしいだけなんでしょう?

【ニューヨーク】 唯一の目的は、読者に不快な衝撃を与えることにあったのですね。

【カリフォルニア】 作者はこの作品を通して、我々の社会を通底する、みずからの攻撃性をマイノリティに対する偏見を媒介させて解放しようとする論理に対し、スケープゴートを選ぶという、現行の論理と同様に合理的な(もしくは、さらに合理的ともいえる)論理を対置させようと挑戦を試みている。被害者を選び出す上での完膚なきまでに恐ろしく、血も凍るような方法は、我々の心の奥底に潜む敵意を処理するやり方の写し絵なのである。

【ヴァージニア】 この作品に対する疑問点を列挙しようとしたのですが、わたしにとってそれは、未知の言葉で話そうとするに等しいことがわかりました。たったひとつ、わたしの頭に浮かんだことは、作者は、わたしたちが大統領候補者に対して、あまりに厳しい見方をすべきではないと言いたかったのではないか、ということです。

【コネティカット】 「ニューヨーカー」は知的悪ふざけという編集方針を、今後も引き続き採用していくつもりなのでしょうか。

【ニューヨーク】 そんなに有名になりたかったのか?

【ニューオーリンズ】 みんながかわいそうに怯えきった犠牲者を石打ちの刑にする前に、せめてその日の女王にしてやるとか、何かいいことをしてやればよかったと思う。

【ニューヨーク】 一般大衆とコミュニケーションを求める人は、少なくとも正気でなくては。

【ニュージャージー】 以前、わたしはこれを夢に見たことがあり、そのとき感じた気分は、この作品の催眠効果の一部なのかどうか、教えていただけますか。

【マサチューセッツ】 あわてて甥っ子の百科事典に飛びつき、謎を解く鍵はないかと「石打の刑」や「罰」について調べたのですが、何の役にも立ちませんでした。

【カリフォルニア】 これは単なるフィクションなんですか? どうしてこんなものを掲載したんですか? たとえ話なんですか? 説明を求める手紙は、ほかには来ていませんか?

【イリノイ】 仮にこれが人間の内なる残酷さについての単なるたとえ話であったとしても、あまり趣味の良いものではありませんね。人間は、確かに愚かであり残酷でもあるにせよ、自分たちが迫害しようとする対象には、何らかの罪の理由を想像したり、でっち上げたりする程度の分別は持っているものです。キリスト教における殉教者やニューイングランドの魔女、あるいはユダヤ人にせよ、黒人にせよ、みなそうでした。けれどもこの作品では、だれひとりとしてミセス・ハッチンスンに対して含むところがあるわけではありません。彼らは単に、さっさとすませて、家に帰りたい、昼食を取りたい、と考えているだけです。

【カリフォルニア】 これは何かの寓話なんですか?

【カリフォルニア】 全部ただの冗談だと言ってください。

【ロスアンゼルス デイリーニュース】 テシーは魔女だったのだろうか? いや、ちがう。魔女はくじで選ばれたりはしない。いずれにしろ、ここにいるのは現代人なのである。核戦争後の世界では、急増する人口を養うのに十分な食糧がなく、毎年ひとりずつ抹殺しなくてはならないのだろうか。そんなバカなことがあるはずがない。あるいは、単なる古くからの慣習で、打破するのが困難というだけなのか。もしかしたら、そうなのかもしれない。だが同時に、ひょっとしたらこの物語には意味などないのかもしれない、という不愉快な印象も受ける。いくつかの雑誌は、いつからか、こうした方向へねじ曲げられてしまっているが、我が愛する「ニューヨーカー」もそうなってしまったようだ。

【ミズーリ】 この作品で、あなたはデモクラシーをねじ曲げるとどうなるか、教えてくれたのですね。

【カリフォルニア】 曖昧模糊としすぎです。

【カリフォルニア】 妻と私がこのような苦境に陥ったらどうしたらいいだろうとの空想に囚われていました。私であれば、逃げ出すでしょう。

【イリノイ】 村のゴシップがどのようにして犠牲者を滅亡に追いやるかという象徴なのでしょうか。

【プエルトリコ】 あなたがたは、手に入れたものならなんでも刊行するのですね。最後のパラグラフなど、雑誌に載るよりもむしろゴミ箱に投げ捨てた方が良さそうなのに。

【ニューヨーク】 人間は、自分の個人的なことに及ばないうちは、どれほどまがまがしいことであっても、受け入れてしまうとあなたは言いたいのですか?

【マサチューセッツ】 わたしは中年にさしかかろうとしている人間ですが、耄碌というのは、こんなにも早く始まるのでしょうか。それとも、自分がいままで思っていたほどには、頭が良くなかったということなのでしょうか。

【カナダ】 言いたいことはただひとつ、これは一体、何なんだ?

【メイン】 雑誌はとうてい話題になるところのないようなものでも、掲載に踏み切ることがあるようですね。

【カリフォルニア】 あなたがおっしゃりたいことが、どうして読者の頭を混乱させることになるのか、私にはわかりません。これほど明白なこともないように思われますが。

【スイス】 何を意味しているのですか? 微妙な寓意が隠されているのでしょうか。

【インディアナ】 このあと残酷なことが起こる続きのところはどうなったんですか?

【カリフォルニア】 私は何か読み落としてしまったようです。おそらく犠牲者の性格には、村人の嫌悪を煽るようなところがあったのでしょう。人びとが嫌悪感や恐怖、そうでなければ嗜虐的な喜びを見せるものと予期していたのですが、彼らは無口で感情に乏しいニューイングランド人としか思えません。

【オハイオ】 友人が、貴誌の編集方針は、明らかに赤化しているのではないかとひそかに危ぶんでいて、この作品もそのようなものとして解釈しています。彼をなんとか落ち着かせることができるよう、どうか私に助言をお願いします。彼は、あなたがたはいまやスターリンの道具であると確信しています。もし、あなたがたが実際に破壊分子であり、この話題について議論したくなくても、責めるつもりはありませんし、もちろんあなたがたはあらゆる面で、憲法上の権利によって守られています。けれども、最低限、このくそいまいましい話の説明だけはしてください。

【ヴェネズエラ】 この作品を二度読み返し、そのことで判明したことはたったひとつ。ここから得られるものは、頭の中の石ころだけだ。不毛な話である。

【ヴァージニア】 植字工が三行ほど、タイプし忘れています。

【ミズーリ】 あなたが本にしたんです。今度は説明する番です。

【ニューヨーク】 我々のうち数名の者は、ここには人間の残酷さについての象徴化された悪が描かれていると考えています。

【インディアナ】 この小説を最初に読んだとき、ここには道徳的な意義は提示されていない、この物語は単なる恐い話であって、それだけのことだと思っていました。けれども、これほど多くの人をぎょっとさせたのですから、何らかの意図があったはずです。そこにはただひとつの答えしかないように思います。すなわち、社会の力が個人を圧倒していることを示しているからこそ、かくも多くの人びとが困惑したのでしょう。私たちは社会がやすやすとひとりひとりを押しつぶすところを目の当たりにしてきました。そうして同時に、社会には、個々人や、少人数、ときには大勢の人びとさえも押しつぶすのに、なんら合理的な理由を必要としないことがわかったのです。

【コネティカット】 おそらくこの作品は、先の大戦が勃発したときに、選択徴兵制の機能を持つようになった抽選制を、小規模で再現したものではないのでしょうか。







(この項つづく)



シャーリー・ジャクスン 「くじ」を語る その5.

2010-10-19 22:10:26 | 翻訳
その5.


【イギリス】 申し訳ありませんが、わたしには年に一度、人身御供を選び出すような国があることを想定することができません。率直に言わせていただきますが、合衆国といえど、そのようなことが起こりうるとは、信じられません。少なくとも、リンチを生業とするような法人組織や、全米葬儀社連合といった強力な組織がスポンサーなしには。わたしはかつてラオス(インドシナ)中央部のある原始的部族から、赤ん坊を供物として捧げられたことがありますが。通訳(中国人)は、わたしがその赤ん坊を殺して、血に対する欲望を満足させ、ほかの部族民に対しては、手出しをしないよう、ということだと教えてくれました。どうか合衆国では決してそのようなことが起こっていませんように。


 さきほども述べたように、もしこれが一般読者のサンプルだとしたら、わたしは執筆などとうにやめていたでしょう。当時、わたしは日に十通から十二通の手紙を家に持ち帰り、「ニューヨーカー」から週に一度、小包が届いていたのですが、その中に一通、ほかのどの手紙にも増して、わたしを悩ませた手紙がありました。

それはカリフォルニアから来た手紙で、ごく短い、楽しげでざっくばらんな調子で書かれていました。差出人は、自分の名前や評判は、当然わたしも知っているものと思っているようでしたが、わたしにはその名前に心当たりがなかったのです。返事を書く前に、何とかその人を思い出そうと、数日頭を悩ませました。名前を思い出しかけては、するっと滑り落ちてしまうのは、どんなときでもいらだたしいものですから。

おそらく最近この人の本を読んだか、書評を読んだかしたのだろう。それとも雑誌の最新号で小説を読んだのかもしれない。もしかしたら――そもそもわたしはカリフォルニア出身ですから――高校の同窓生じゃないかしら、と。ともかく返事は書かなければなりませんから、何か当たり障りのない外交辞令を並べておくことにしました。

返事を出して数日が過ぎたある日のこと、わたしと同じく、カリフォルニア出身の友人が数人、遊びに来ました。そうして、その頃、誰もがわたしに聞いてきた質問をしたのです――最近、どんな手紙をもらった?

そこでわたしは例の、どうしても思い出せない謎の差出人の手紙を見せました。みんなが、あら、まあ、と言います。あなた、ほんとうにこの人から手紙をもらったの? と。

誰か教えて、と、のどから手が出そうな勢いでわたしは聞きました。この人はいったい誰なの?

あらあら、どうしてこの人のことが忘れられるのよ。もう何週間も、カリフォルニア中の新聞に載ってたじゃない。それに、ニューヨークの新聞にだって。

その彼は、妻を斧で斬殺したあげく、かろうじて謀殺罪だけはまぬがれた人物だったのです。冷汗が背筋を伝わるのをはっきりと感じながら、わたしは彼に出した手紙のカーボンコピーを探しに行きました。

「わたしの作品に好意的な手紙をくださってどうもありがとうございます」とわたしは書いていました。「あなたのお仕事も、大変にすばらしいものと尊敬しております」と。


 

 

(この項つづく)



シャーリー・ジャクスン 「くじ」を語る その4.

2010-10-18 23:00:59 | 翻訳
その4.


【ニューヨーク】 こうした信じがたい儀式が、中西部のいくつかの州では行われているのでしょうか。いったいいつぐらいから始まったもので、その目的は何なのでしょう。

【ネヴァダ】 この作品はフィクションだとは思いますが、もしかして事実に基づいてるなんてことがあるんでしょうか。

【メリーランド】 ここに出てくる風習が実際に存在するかどうか、教えてください。

【ニューヨーク】 どうかわたしの好奇心に答えを与えてやってください。このような儀式が未だに行われているかどうか、行われているのなら、その場所について。

【カリフォルニア】 これが事実に基づいているのなら、由来となった出来事が発生した日時と場所を教えていただけませんか。

【テキサス】 合衆国のどの地方で、このような組織的かつ合法的な、明らかにリンチと見なされる行為がなされたのか、さしつかえなければ教えていただきたい。ニューイングランドや同程度に開けた土地において、このような集団的サディズムの発露が、平均的市民の生活のかなめになっていることが、はたしてあるのだろうか。

【ジョージア】 お時間がありましたら、この作品で描かれた奇妙な風習について、どうかもっと詳しく教えてください。

【ブルックリン N.Y.】 この作品のもとになった出来事や言い伝えに関する特定の資料、もしくは典拠があるのなら、勉強してみたいと考えています。この作品を読んで、合衆国の儀式やくじに関して自分が何の知識も持っていないことがわかって、刺激を受けました。

【カリフォルニア】 もしほんとうに起こったことなら、記録が残っているはずです。

【ニューヨーク】 こんな話は『事件の真相』誌でも読んだことがない。

【ニューヨーク】 これは実際に起こったことにもとづいているのですか? 豊作を祈願して、人間を生け贄にするようなならわしが、英国の田舎ではまだ続いているのですか。恐ろしい思想ですね。

【オハイオ】 この作品は事実にもとづいているのだと思います。そうではありませんか? 精神分析医として、わたしはこの時代錯誤的儀式のもつ精神力学的可能性について、興味をそそられました。

【ミシシッピ】 この作品は、わたしがまったく知らなかった風習のことを書かれていたように思います。

【カリフォルニア】 かなり前、こんな風習がフランスのある地方で、ある時代に行われていたと読んだ記憶があります。けれども、これがこの合衆国でも実施されていたとは、聞いたことがありませんでした。このような情報をどのようにして得られたのでしょうか。また、この種のことが、現代においても行われているかどうか、教えていただけないでしょうか。

【ペンシルバニア】 いまも続いている習慣を描かれたのですか。

【ニューヨーク】 豊穣祈願のために人身御供を捧げるところがニューイングランドにはいまなお存在しているのですか。

【ボストン】 この話は明らかにイギリスのならわし、もしくは伝統であって、我が国は一切関知しないものである。

【カナダ】 このくじ引きは、合衆国で未だに受け継がれている、おそらくは中世あたりに端を発する野蛮な行事と考えてかまいませんか。国内のどこで行われているのでしょうか。

【ロスアンゼルス】  これまで奇妙なカルト的集団についても読んできたが、この作品には当惑させられた。

【テキサス】 このグループは、おそらくイギリスから来た初期入植者の末裔ではないでしょうか。彼らはドルイド教の豊作祈願の儀式を受け継いでいるのではありませんか。

【ケベック】 これはアメリカのどこかでいまなお行われている習慣なんですか。

【ロンドン在住 心理学者】 私は英国の友人や患者たちから説明を求められています。合衆国では野蛮な石打ちの刑がいまなお存続しているのか、この作品全体として、いったい何を言おうとしているのか、さらに、どこでこの事件が起こったか、知りたがっています。

【オレゴン】 合衆国のどこかには、わたしたち極西部に住む者の知らない魔女の業の名残りが未だ存在するのでしょうか。

【インド マドラス】 この作品が事実にもとづくものなのかどうか、もしそうなら、この中で描かれているように、ある家族をくじ引きによって選びだし、ほかの村人が石打ちの刑を執行するという風習が、合衆国のどこかにいまなお残っているのかどうか、知りたいと思います、『ニューヨーカー』は我が国でも、私共の勤務しておりますUSIS図書館にて読まれており、未だこの作品についての問い合わせはないものの、そのことは起こりうる事態として想定されます。回答できるように準備をしておきたいと考えております。



(この項つづく)


シャーリー・ジャクスン 「くじ」を語る その3.

2010-10-16 23:42:20 | 翻訳
その3.

作品や本を世に送り出す上で、何より恐ろしいのは、自分の書いたものを人が読む、それも、見ず知らずの他人がそれを読むとはどういうことなのかを、はっきり思い知らされることにあります。ところがわたしときたら、それまでそれがどういうことなのか、およそ理解してはいなかったのです。もちろん、何百万という人びとが、わたしの作品を読んで高揚し、心が満ち足り喜んでくれるところを夢想して、うっとりすることはあったのですが。

ところがその何百万人が、元気を出す代わりに、腰を下ろしてわたしに手紙を書く、それも、開くのも恐ろしい手紙をよこすようになるとは、夢にも思いませんでした。その夏届いた三百通余りの手紙のうち、わたしに好意的だったものは、たったの十三通、しかもそのほとんどは、友人からでした。母でさえ、叱責の手紙をよこしたのです。

「お父さんもわたしも、『ニューヨーカー』に載ったあの小説は、どうにも好きにはなれませんでした」と容赦なく言ってきました。「なんだか最近の若い人たちときたら、こんな陰気な話ばかりが頭にあるみたいですが。どうしてみんなの気持ちを前向きにするようなものを書かないのでしょう」と。

 七月も半ばになると、わたしはヴァーモントで安全に暮らせているだけでも、運が良かったのだ、と思うようになっていました。こんな小さな町では誰も「ニューヨーカー」という雑誌の名前など聞いたこともなかったし、まして、わたしの作品を読んでいる人などいなかったからです。何百万という人びと、加えてわたしの母が、わたしに対する嫌悪を表明しているというのに。

 雑誌社では、通話記録は残していなかったのですが、雑誌社気付けで届くわたし宛ての手紙は、こちらで返事が出せるよう、すべて転送されてくることになっていました。「ニューヨーカー」宛ての手紙(そのいくつかは、編集長ハロルド・ロス氏個人に宛てられたものでしたが、その種のものがほかのどれより憎悪に満ちていました)には、雑誌社の方で返事を出し、その返事のコピーに元の手紙を添えて分厚い束にして、わたしの元へ届けられました。わたしはいまでも手紙をすべて保管していますが、もしこれが「ニューヨーカー」の読者を代表するサンプルであるなら、というか、その号に限っての読者大衆のサンプルであったとしても、わたしは即座に書くことそのものを断念したにちがいありません。

 手紙から判断するなら、小説の読者というのは、何でもすぐ真に受ける人びとであり、無作法で、しばしば無教養で、しかも笑われることをことのほか怖れているようでした。差出人の多くは、「ニューヨーカー」が誌上で自分たちをバカにしようとしたのだ、と確信していて、なかでも警戒心に満ちた手紙は、大文字で 〔公開を禁ず〕 とか、〔この手紙を雑誌に転載しないでください〕 とか、きわめつけは 〔この手紙を公表するに当たっては、御社規定の原稿料をお支払いください〕 などと書かれていたのです。匿名の手紙も二、三混ざってはいましたが、それは破棄されることになりました。

それまで「ニューヨーカー」は掲載作品に対して、いかなる論評も加えることはなかったのですが、そのときに限っては一度、これまで掲載したどの作品より大きな反響があったことを明らかにしました。すでに新聞が数紙、同様のことを書いていました。真夏の頃、「サンフランシスコ・クロニクル」は一面で、この物語の意味するところを教えてほしいものだ、と書いたし、ニューヨークやシカゴの新聞は、一連のコラムの中で「ニューヨーカー」の定期購読が続々とキャンセルされていることを報じました。

 おもしろいことに、夏の初めに来た手紙には、特徴的な三つのテーマがありました。当惑と、推測と、昔ながらの罵詈雑言、この三つの共通点を持っていたのです。後年、この作品がさまざまなアンソロジーに所収され、戯曲化されたりテレビ化されたり、さらには原形を留めぬほど、不可思議な改変を経てバレエにまでなったりするうちに、わたしの元に届く手紙の調子が変わってきました。概して言葉は礼儀正しくなり、その内容は、おもに質問に限られるようになりました。たとえば、この物語は一体何を意味しているのか、といったことです。

初期の手紙からは総じて、ショックのあまりに目をまん丸くして、無邪気に驚いている人びとの様子がうかがえました。その頃、人びとの頭を占めていたのは、この物語が意味するところなどではなかく、もっぱら、いったいどこでこうしたくじ引きが行われているのか、そこへ行けば自分も見物できるのか、といったことでした。一部を引用しますので、その声に耳を傾けてみてください。

【カンザス】 この風習が見られる場所・年をご教示ください。

【オレゴン】 この話に出てくる野蛮な風習は、いったいどこで行われているのでしょうか。

【ニューヨーク】 このような裁きの儀式が未だに存続しているのでしょうか。だとすれば、どこに?

【ニューヨーク】 この国(おそらくこの話の舞台はアメリカ合衆国であると思われます)のさまざまな場所で行われている伝統的儀式については、限られた知識しか持ち合わせていない読者にとって、ここに描かれた儀式の残酷さは、信じられないとまでは言えないにせよ、はなはだ常識を外れているように思えます。おそらく単にわたしがこうした風習や儀式に疎いだけのことなのでしょうが。



(この項つづく)




シャーリー・ジャクスン 「くじ」を語る その2.

2010-10-15 23:11:21 | 翻訳
その2.

ただ、編集者は一箇所、訂正するように言ってきました。物語のなかでふれられる日付を、作品が掲載される号の発行日に変えることはできないか、というのです。わたしは、かまいませんとも、と答えました。

それから彼は、先生はこの作品について独自の見解といったものをお持ちでしょうか、と、ためらいがちに聞いてきました。当時、「ニューヨーカー」の編集長だったハロルド・ロス氏も、この作品を完全に理解しているかどうか、確信が持てずにいる、というのです。そこでわたしに、この作品についてさらに詳しく解説してもらうことはできないか、と持ちかけてきたのです。わたしは、お断りします、とだけ答えました。

編集者によれば、ロス氏は、この作品に頭を悩ませる読者が出てくるかもしれないと考えているようでした。さらに、ままあることなのだそうですが、誰かが内容について、雑誌社に電話で問い合わせたり、手紙を寄越したりするかもしれない、そのとき、これだけは言っておきたいという点があるか、と重ねて聞いてきました。いいえ、特にありません、とわたしは答えました。これはわたしが書いた、ただの物語なのですから、と。

 わたしにはその言葉以上、何の心づもりもしていませんでした。毎日、郵便物を取りに行き、娘を乗せた乳母車を押して坂を昇ったり降りたりし、「ニューヨーカー」から届くはずの小切手を楽しみにし、食料品の買い出しに出かけました。天気の良い日はなおも続き、すばらしい夏になりそうでした。そうして6月28日、わたしの作品を掲載した「ニューヨーカー」が発売されたのです。

 幕開けはごく穏やかなものでした。「ニューヨーカー」で働く友人から手紙が来たのです。彼は「あなたの作品は、社の内外で、ちょっとした騒ぎを引き起こしているみたいです」と書いていました。わたしはうれしくなりました。友だちが自分の書いたものに注目してくれるなんて、と思うと、気分が良かったのです。

その日、手紙のあとで「ニューヨーカー」の編集者も電話をくれました。作品について数人の読者が電話を寄越してきた、これから先、もし同様の電話があった場合、作者として伝えておかなければならない点はないか、と聞いてくるのです。ありません、とわたしは言いました。ただの物語にすぎないのですから、と。

 さらに別の友だちから来た不思議な手紙は、わたしをいっそうとまどわせるものでした。「今朝、バスの中で、あなたの作品のことを話している男性がいました」と彼女は書いていました。「なんてステキなこと。わたしはその人に、作者を知ってるんですよ、と言おうかと思いました。でも、その人の話の中身を聞いてしまってからは、何も言わなくて良かった、と思いました」


(この項つづく)