陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ひとと会う話

2006-03-16 22:51:35 | weblog
「出会い」という言葉は、無色透明な言葉ではない。

試しに「出会い」をGoogleで検索してみると、延々と「出会い系」サイトが続いていく。「出会い系」という奇妙な用語も、Web上では確固たる地位を確立しているらしい。

「出会い系」というものが一体どんなものなのかまったく知らないのだけれど、少なくともこの言葉は、「出会い」という言葉の持つ独特なニュアンスに寄りかかったものであるように思う。

「あれは重大な出会いだった」
「運命的な出会いだったのではないか」
「貴重な出会いを大切に」
「彼との出会いがわたしの運命を決めた」

こんなふうに「出会い」という言葉は、「重大」だの「運命」だの「貴重」だのという言葉とやたら親和性が高い。

「巡り会い」というと、そこにたどりつくまでいろいろあって、紆余曲折の後、という感じだけれど、「出会い」というと、運命がいきなり人をばたんと引き合わせたようなニュアンスだ。
つまり、この「出会い」という言葉そのものが、すでに物語を内包している、とも言えるのかもしれない。
そうして、この物語が行き着く先は、重大で貴重で運命なのだから、大切にしなくては、という結論だ。そこから「一期一会」などという言葉も出てくる。

「出会い」によって導かれる人、というのは、すでに「あるべき関係でとらえられた人」ということになる。そこですでに一種の類型化がなされているのだ。

「彼との出会いによってわたしが得たものは」

と書き始めた文章は、それにつづくのが「たいやき」であってはならないのである(いや、ふと思いついたもので)。

言葉による類型化、というのは、逆に、個々の具体的なものを、そのカテゴリーの中にからめとっていく。

たとえば「血液型占い」がお遊びであるうちはいいけれど、それが問題になってくるのは、その人が、たとえば「B型」ということによって、「いわゆるB型」に類型化されてしまうことだ。
同じように、その人を「優しい人」と言ってしまうことは、そういうカテゴリーに押し込めてしまうことであり、「優しい」なんていう抽象的な言葉は、その人のいかなる側面も説明しない。逆に、わたしたちの理解を遠ざける。

「出会い」という言葉で類型化したくないひとに会ったとする。
そういうのを、なんと呼んだらいいんだろう。

シモーヌ・ヴェーユは『ヴェーユの哲学講義』のなかでこんなふうに言っている。

 人がふつうに考えているのとは反対に、《人間は、一般的なものから個別的なものへと高まっていくものなのです。》…

 子供たちに観察することを覚えさせたり、抽象的なものから具体的なものへ移行させたりするには、感情に訴えなければなりません。
物が抽象から抜け出して具体の中へ移行するのは、もっぱら感情のおかげです。

《このように、人がふつう考えているのとは反対に、個々の物について観想するということは、人間を高めることであり、人間を動物から区別することでもあります。》
(『ヴェーユの哲学講義』渡辺一民・川村孝則訳 ちくま学芸文庫)


わたしたちは、一般的にものを見ることに慣れてしまっている。それで、わかったつもりになっている。そうではない見方というのは、逆に、意識的に学んでいかなければならないのだ。どうやって? それは、個々のものや人を見ることによって。

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すいません。ちょっと更新が間に合わなかったので、ネタがないところで文章書いたら、こんなのになってしまいました。
明日はには「一緒にゴハン」の更新、できると思います。
それじゃ、また。