サキ 『ハツカネズミ』 その1.
ひきつづき、サキの短編『ハツカネズミ』をお送りします。
原文はhttp://www.classicshorts.com/stories/mouse.htmlで読むことができます。
***
幼いころから中年にいたるまで、セオドリック・ヴォラーは息子を盲愛する母親の手で育てられた。その母親がずっと配慮してきたのは、自分が「薄汚い世間の現実」と呼ぶものから、息子をなんとしてでも庇ってやらなければ、ということだった。母親が亡くなり、相も変わらず現実的で、セオドリックからすれば不必要なまでに薄汚いと感じられる世間に、たったひとり残された。
セオドリックのような気性と育ちかたをした人間は、ただ汽車に乗って旅行するというだけでも、ちょっとしたことで苛立ったり、気分を害したりを繰り返す。だから九月の朝、二等車の客室に落ち着いたときも、自分が落ち着かず、なにがなしうろたえていることに気がついていた。
それまで田舎の牧師館に滞在していたのである。牧師館の人々は、確かに粗暴な振る舞いをするわけでも、酒を飲んで騒ぐわけでもなかったが、家内の切り盛りに対する監督はだらしなく、先行き大変なことになりかねないものだった。
セオドリックを駅まで乗せて行くはずの、ポニーが引く馬車の準備がろくにできていなかったのだ。出発間際になって、必要なものを整えてくれるはずの下男は、どこにも姿が見えない。緊急事態ということで、セオドリックは口にこそ出さなかったが、内心ムカムカしながら、牧師の娘と一緒に、ポニーに馬具をとりつけなければならなくなり、そのため、厩と呼ばれている、薄暗い小屋の中を手探りする羽目になったのだった。そこは確かに厩にふさわしい臭気のたちこめるところだった。ただし、いたるところ、ハツカネズミくさいのを除けば、の話ではあるが。
ハツカネズミを怖がっているわけではなかったが、世間につきものの薄汚いものぐらいに考えていて、神の摂理がほんのすこしでも働いていたなら、とうの昔にいなくてもすむ生き物だとみなされて、はびこることもなかっただろうに、と思わないではいられなかった。
(この項続く)
ひきつづき、サキの短編『ハツカネズミ』をお送りします。
原文はhttp://www.classicshorts.com/stories/mouse.htmlで読むことができます。
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幼いころから中年にいたるまで、セオドリック・ヴォラーは息子を盲愛する母親の手で育てられた。その母親がずっと配慮してきたのは、自分が「薄汚い世間の現実」と呼ぶものから、息子をなんとしてでも庇ってやらなければ、ということだった。母親が亡くなり、相も変わらず現実的で、セオドリックからすれば不必要なまでに薄汚いと感じられる世間に、たったひとり残された。
セオドリックのような気性と育ちかたをした人間は、ただ汽車に乗って旅行するというだけでも、ちょっとしたことで苛立ったり、気分を害したりを繰り返す。だから九月の朝、二等車の客室に落ち着いたときも、自分が落ち着かず、なにがなしうろたえていることに気がついていた。
それまで田舎の牧師館に滞在していたのである。牧師館の人々は、確かに粗暴な振る舞いをするわけでも、酒を飲んで騒ぐわけでもなかったが、家内の切り盛りに対する監督はだらしなく、先行き大変なことになりかねないものだった。
セオドリックを駅まで乗せて行くはずの、ポニーが引く馬車の準備がろくにできていなかったのだ。出発間際になって、必要なものを整えてくれるはずの下男は、どこにも姿が見えない。緊急事態ということで、セオドリックは口にこそ出さなかったが、内心ムカムカしながら、牧師の娘と一緒に、ポニーに馬具をとりつけなければならなくなり、そのため、厩と呼ばれている、薄暗い小屋の中を手探りする羽目になったのだった。そこは確かに厩にふさわしい臭気のたちこめるところだった。ただし、いたるところ、ハツカネズミくさいのを除けば、の話ではあるが。
ハツカネズミを怖がっているわけではなかったが、世間につきものの薄汚いものぐらいに考えていて、神の摂理がほんのすこしでも働いていたなら、とうの昔にいなくてもすむ生き物だとみなされて、はびこることもなかっただろうに、と思わないではいられなかった。
(この項続く)