陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

今日はつなぎです

2006-03-08 22:48:29 | weblog
こんばんは。
昨日まで連載していた「ものを食べる話」、いま手を入れています。明日にはアップできると思います。

ということで、今日はつなぎです(笑)。

波平恵美子『いのちの文化人類学』(新潮選書)という本を読んだんですが、そのなかにこんな部分がありました。

一人の病人の存在は、その病人の周囲にいる人々に何らかの影響を与える。それは、職場グループで一人病人が出れば残りの人の労働の配分量が増えるとか、家族内に一人でも病人がいれば、家族全員の生活リズムが狂ったり、経済的に困窮したりということだけを意味するのではない。「病人がいる」というただその事実に、周囲の人々の気分や心理状態あるいは精神状態といわれるようなものが影響を受ける。まして、病人が絶えず激しい痛みを訴え続けたり、痙攣や嘔吐や麻痺などの異常な身体状況を示したりする時、周囲の人々は強い不安にさらされる。病気は、他から切り離された個別の身体を場として生じる現象であるのに、あたかも、病人の身体と周囲の人々の身体が何らかの形でつながっているかのように、病気は他の人々をも脅かす。

こんな経験はだれにもあるのではないかと思います。
わたしなど、自分が長いつきあいの慢性疾患を抱えていますから、自分が具合が悪くなると、これがどの程度大変な状態なのか見当もつくし、どうしたらいいかもわかっている。それに比べて、自分以外の人間が体調を崩したりすると、たいそう不安になるものです。

そう考えると、わたしたちは職場などで体調が悪そうな人を見ると、「病院に行きなさいよ」「家へ帰って休んだら」とすぐに言いますが、それは病院に行って、専門家の治療を受けて(わたしから心配を取り除いて)ほしい、ということであり、家へ帰って休んで(ともかくこの場で具合の悪そうな顔を見せないで)ほしい、という気持が、意識されていないにせよ、どこかにあるのでしょう。

先日ここで訳した『雪の中のハンター』、あの短編には、どこかリアリティを欠き、ゆがんだ感覚、雪が積もって白一色になった世界で遠近感を失ったような感覚、決して行き着くことのない悪夢のような感覚が一貫して流れているわけなのですが、その奇妙さの原因のひとつが、ライフルで撃たれた人間がいるのに、もちろんその彼を病院に運ぼうとしているわけですが、そのいっぽうで休んだり、悩みをうち明けたり、食べたりしている。
実際に、わたしたちが当事者になってみれば、あのとおり、本来「こうすべき」という優先順位とは無関係に行動してしまうものなのかもしれない。それでも、それにしても、なんともいえない奇妙な感覚に陥ってしまう。

その原因のひとつは、この波平の指摘にもあるように、病気をしたのが自分ではなくても、わたしたちの身体はそばにいるだけで何らかの影響を受ける、ということにあるのだと思います。おそらくそれは大けがでも同じことでしょう。一緒に狩りに出かけた友だちを撃ってしまう。友だちが撃たれてしまう。
これは大変な出来事であるはずです。
もちろんタブもフランクもできるだけのことをしようとするのですが、それも次第次第にずれていく。終いには、震えて歯を鳴らしているケニーから、毛布までとりあげてしまいます(おそらく一枚は残しているのでしょうが)。

このタブとフランクの、身近にいても不思議はないような等身大のリアルな人間が、そのいっぽうで、ふつうではありえないような行動を取る。その奇妙さが、この作品のひとつの要素になっているのだと思います。

波平の本では、昭和四十年代の初めの、農村部の聞き取り調査であきらかになったことが報告されています。
ムラのだれかが重い病気で危篤状態になる。あるいは病院で大手術を受ける。
そうすると、ムラの全戸から一人ずつ代表が出て、紋付羽織の正装で神社に集まり、昼間でも篝火をたいて、神官の指導の下、祝い歌を太鼓を打ちながら歌う。
そうやって、病気の回復を祈願するのです。
こうすることで、病気に対して周囲の人々が自分の生命力を少しずつ分け与える。病気で苦しんでいる人のみならず、影響を与えられた自分をも癒す。
この平癒祈願には、こうした意味合いがあったわけです。
この風習には深い意味を感じます。

こうやって考えていくと、身体というのは、不思議なものです。
病気というのは、「人間の身体の場」という、限られた場で起こる。にもかかわらず、他者の身体に影響を与えずにはおかない。

一緒にいると、確かに気持が通じあったと感じる瞬間がある。
相手がうれしそうにしていると、こちらの気持ちまで暖かくなるし、相手が表面に出さないようにしていても、どこか鬱屈しているように感じられるとき、その鬱屈はこちらにまで伝わって、一緒にいてうれしかったはずが、どこか塞がれてしまう。
わたしたちは、身体があるからこそ、他者と分かりあえるのかもしれません。

微妙に関係あるようなことを書いてしまいましたが、なんとか明日にはアップさせますので、また遊びに来てくださいね。
それじゃ、また。

梅の花も満開です。