陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

オスカー・ワイルド『謎のないスフィンクス』~後編

2012-10-29 20:11:36 | 翻訳
※すいません。こんなはずじゃなかったんですが、急に身の回りが忙しくなって、こちらの方まで手がまわりませんでした。みなさん、もう覚えていらっしゃらないと思いますが(笑)、後半をどうぞ。

しばらくまたがんばって更新してゆくので、なにとぞおつきあいのほど。

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「謎のないスフィンクス  後編」






「それから一週間ほどが過ぎた、マダム・ド・ラスタイユの招待を受けていた日のことだった。晩餐会は八時からだったんだが、八時半をまわっても、客はまだ居間で待たされたままだった。そうこうするうちにドアがぱっと開いて、召使いが、レディ・アロイがいらっしゃいました、と告げたんだ。そのひとこそ、ぼくがずっと探していたひとだった。

そのひとは悠然たる足取りで入ってきた。まるでグレイのレースに包まれた月の光のようだったよ。しかもうれしいことに、このぼくが食事の席へ案内するように頼まれた。そうして席に着くと、ぼくはつい、うかうかと『レディ・アロイ、先日ボンド・ストリートであなたをお見かけしました』と言ってしまったのだ。

彼女はまっさおになると、低い声でこう言った。『お願いですから、そんな大きな声をお出しにならないで。他の方のお耳に入ってしまいます』

なにしろ皮切りがこんな惨憺たる具合だったから、ぼくはなんだかすっかりみじめな気分になって、やけくそになってフランス演劇についてまくしたててしまった。レディ・アロイはろくに答えてもくれず、せっかくの音楽的な声も、終始低いままだった。まるで、誰かに聞かれるのを怖れているかのようにね。

ぼくときたら熱にでもうかされたみたいに、彼女にすっかり夢中になってしまって、あのひとのまとっているなんともいえない謎めいた雰囲気に、好奇心はいよいよつのるばかりだった。だから、食事が終わるやまっさきに帰ろうとしていた彼女のそばへ寄って、一度訪問させていただいてもかまいませんか、と聞いてみたんだ。彼女はしばらくためらっていたが、周りをちらっと見渡して誰もそばにいないのを確かめて、『わかりました。明日の五時十五分前においでてくださいませ』と言ってくれたんだ。

そのあと、マダム・ド・ラスタイユに、レディ・アロイのことを教えてください、と頼んではみたのだが、わかったことといったら、未亡人だということと、パーク・レーンにある美しい屋敷に住んでいるということだけだった。そこからどこかのひどく退屈な科学者が、婚姻における適者生存の実例であるところの未亡人論を始めたので、ぼくは席を立って家に帰ったのさ。


「翌日、ぼくは刻限どおり、パーク・レーンに到着したが、執事から、アロイ様はちょうどお出かけになったところです、と言われてしまった。ぼくはひどく打ちのめされた気分で、なんだかわけのわからない思いのまま、クラブに出向いた。そこであれやこれや考えたあげく、手紙を書くことにしたんだ。後日の午後、改めてお目にかかる機会を持っていただけないか、と頼んでみた。返事が来るまで、数日かかったが、ついに短い手紙を受け取ることができた。それには日曜日の午後四時なら在宅しております、とあったんだ。ところがそれには、驚くような追伸が続いていたのだ。

どうかここにはもうお手紙をお寄越しにならないでくださいませ。わけはお目にかかった際に申し上げます。

 そうして日曜日、彼女はぼくを迎えてくれた。魅惑的で、まったく非の打ちどころのないひとだったよ。だが、ぼくが帰ろうかというときに、もしまた手紙をくださるおつもりなら、“グリーン・ストリートのウィッタカー図書館気付ミセス・ノックス”宛てて書いてください、と言ってきた。『あることから、自宅宛てのお手紙はいただけないのです』と。


「それからというもの、社交界のシーズンの間中、ぼくは何度もあのひとに会ったが、謎めいたところは、すこしも薄まりはしなかった。もしかして、誰かに弱みをにぎられてでもいるのだろうか、と思ったこともあったよ。でも、人を寄せつけないあの人のようすを見ていると、そんなことはとても信じられなかった。どうにもわけがわからず、どうやってもぼくの気持ちは落ち着かない。というのも、あの人は、ほら、博物館なんかにあるだろう、透き通っていたかと思えば、別の時はくもっている、例の不思議な水晶にそっくりだったんだよ。

とうとうぼくは、結婚を申し込むことに心を決めた。だって、会いに行ったり、手紙を出したりするたびに、絶対に秘密にしてくださいませね、と絶えず言われるのには、つくづくいやになってしまったからね。だから図書館気付で手紙を書いて、来週の月曜六時に会ってもらえないかと頼んだんだ。オーケーの返事をもらって、ぼくはもう天にも昇る気持ちだったよ。ぼくはもうあの人に首ったけだった。たとえ秘密があろうと、と、そのときは思っていた―― いまになってみれば、秘密があったからこそ、だったんだ、とわかるんだが……。そうじゃない、ぼくが愛していたのは、やっぱりあの人そのものだ。秘密はぼくを苦しめたんだ。気を変にしてしまったんだ。いったい何のはずみでそんなものの跡を追いかけることになってしまったんだろう?」



「ということは、君はそいつを突き止めたんだね?」わたしの声は大きくなっていた。

「そうかもしれない」と彼は答えた。「君が自分で判断してくれたまえ」



「月曜日になって、ぼくは伯父と一緒に昼食をすませ、四時頃にはメリルボーン・ロードにいた。伯父は、ほら、リージェンツパークに住んでいるから。ぼくはピカデリーに行こうと思って、近道のために裏通りを抜けていった。突然、向こうにレディ・アロイの姿が見えた。ヴェールを深く下ろして、足早に歩いていく。通りのはずれの家まで行ったところで、階段を上がり鍵を出して、中へ入ってしまった。

『あの人の秘密というのはこれなんだ』とぼくは思ったよ。急いでその家を調べてみた。どうやら貸家かなにからしい。戸口の踏み段のところにハンカチが落ちていた。彼女が落としたのだ。ぼくはそれを拾うとポケットにしまった。頭にあったのは、これからどうしようか、ということばかりだ。結局、あの人をスパイするような権利はないんだ、というところに落ち着くしかなかった。だから馬車に乗って、クラブに行ったよ。

六時になって、彼女を訪ねた。銀糸を織り込んだティー・ドレスを、いつも身につけている風変わりな月長石で留めて、ソファにもたれていた。ほんとにきれいだったよ。

『お会いできてうれしいわ』と彼女は言った。『一日中、家に閉じこもっていたから』

驚いたぼくは、まじまじと相手を見つめてしまった。そうして、ポケットからハンカチを出して彼女に手渡した。『今日の午後、カムナー・ストリートでこれを落とされましたよ、レディ・アロイ』とぼくは静かに言った。彼女の表情におびえが走り、ハンカチを受け取ろうとはしなかった。

『あそこで何をなさっていたのですか』とぼくは聞いてみた。

『あなたに何の権利があってそんなことをおたずねになりますの?』というのが、彼女の答えだった。

『あなたを愛している者としての権利です」とぼくは答えたよ。『ここに来たのは、ぼくの妻になってください、とお願いするためです』

あの人は両手で顔をおおうと、急に泣き出した。

『答えてくださらなきゃいけません』とぼくは続けた。

彼女は立ち上がり、ぼくの目をまっすぐに見てこう言った。『マーチソン様。申し上げなければならないようなことは何もないのですのよ』

『あなたは誰かに会いに行った』ぼくの声は悲鳴に近かった。『それがあなたの秘密なんだ』

彼女の顔が真っ青になった。『わたしはどなたともお会いしてはいません』

『ほんとうのことが言えないんですか?』ぼくは大きな声を出していた。

『申し上げたとおりです』それが彼女の答えだった。ぼくは怒り、気が変になりそうだった。言うべきこともわからないまま、何かひどいことを言ったのだと思う。そのまま家を飛び出したんだ。翌日、彼女が手紙をくれたが、ぼくは封も切らないまま送り返し、アラン・コールヴィルと一緒にノルウェイに発った。

一ヶ月後、戻って最初に見たのが、モーニング・ポストに載っていたレディ・アロイの死亡記事だ。オペラ座で風邪を引きこんだのがもとで、五日後に肺鬱血で亡くなった、とあったよ。ぼくは家に閉じこもって、誰にも会わなかった。愛していたんだ。狂おしいまでにあのひとを愛していたんだ。ああ、ほんとうに。どれほどあのひとを愛していたことか……」



「君はその通りへ、あの家へ行ったんだね?」とわたしは聞いた。

「ああ」


「ある日のことだ。ぼくはカムナー・ストリートに行ってみた。そうせずにはいられなかったんだ。疑いの念に苛まれて。

家の扉をノックした。きちんとした恰好の女性が、ドアを開けてくれた。ぼくは、空いている部屋はありませんか、と聞いてみた。

『実は』と女性は教えてくれた。『客間をお貸ししてあることになっているんですの。でも、そのご婦人の方はもう三ヶ月、お見えにならないまま、お部屋代もいただいておりません。ですので、お使いになっていただいてもよろしゅうございますよ』

『その女性はこの方ですか?』と、ぼくはこの写真を見せた。

『ええ、ええ、この方でございますとも。まちがいございません』と、声が大きくなった。

『で、この方はいつ戻っていらっしゃいますか?』

『このひとは亡くなったのです』とぼくは答えた。

『おや、まあ、なんてこと! この方はほんとうによいお客様でしたのに。ほんのときたま、客間でお過ごしになるだけで、週に三ギニーもくださったんですよ』

『誰かとここで会ったりはしていなかったのですか?』とぼくは聞いてみたが、女主人は、そんなことはとんでもない、いつもたったひとりで、ほかの誰も見かけなかった、と請け合ってくれたよ。

『いったい、あのひとはここで何をしていたんでしょう?』とぼくは嘆息をもらした。

『客間にただすわっていらっしゃっただけですわ。ご本を読んでいらっしゃたり、お茶を召し上がったり』と女主人は教えてくれた。ぼくには言うべき言葉が見つからなかった。だから、女主人に1ポンド渡すと、そのまま帰ったんだ。

さて、この話を聞いて、君はいったいどう思う? 女主人がほんとのことを言ったと、君には信じられるかね?」

「ほんとのことさ」

「じゃ、レディ・アロイはなんであんなところに行ったんだ?」

「なあ、ジェラルド」とわたしは言った。「レディ・アロイっていうのは、ただの秘密マニアさ。ヴェールを下ろして、ヒロインになった自分を空想する楽しみのために、部屋を借りたんだよ。秘密というものを愛してやまない人だったんだが、彼女そのものには何の秘密もない、ただの謎のないスフィンクスだったのさ」

「本気でそう思っているのかい?」

「まちがいないね」とわたしは答えた。

 彼はモロッコ革のケースを取り出すと、それを開け、写真をじっと見た。ようやく

「ほんとうにそうなんだろうか?」と言ったのだった。


The  End





(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)




オスカー・ワイルド「謎のないスフィンクス」~前編

2012-10-12 23:33:38 | 翻訳

前のログでちょっとふれた「謎のないスフィンクス」を訳してみました。
短いので、今日と明日で。

原文はhttp://www.eastoftheweb.com/short-stories/UBooks/SphWit.shtmlで読むことができます。

* * *


The Sphinx Without a Secret

「謎のないスフィンクス」

by オスカー・ワイルド



 ある日の昼下がり、わたしはカフェ・ド・ラ・ペのテラスに腰を下ろし、ヴェルモットを味わいながら、パリジャンたちの豪奢な、あるいはみすぼらしい暮らしぶりを眺めては、眼前に繰り広げられる壮麗と貧困が織りなすパノラマに驚嘆の目を見開いていた。そのとき、わたしの名前を呼ぶ声がした。

ふりかえると、そこにマーチソン卿がいた。マーチソン卿とは、大学で一緒だったとき以来、会わないままで十年近くが経っていたので、ここでまた会えたことがことのほかうれしく、わたしたちは固い握手を交わした。

オックスフォードでは、わたしたちはずっと親友だったのだ。彼がほんとうに好きだった。洗練されていたし、血気盛んで、しかも高潔な人がらだった。みんなでよく、あいつほどいいやつはいない、どんなときにでも本音をずけずけ言うくせさえなかったらなあ、と言い合ったものだった。とはいえ、誰もが彼のことを認めていたのは、その率直さゆえでもあったのだと思う。

ところが、その彼がかなり変わってしまっていた。不安げで、困惑しているようすで、何かのことで迷っているようにも見えた。当世ふうの懐疑主義のはずがない。マーチソンは筋金入りの保守主義者だし、モーセ五書を信ずること貴族院を信ずるごとしなのだから。となると女のことにちがいあるまい。そこでわたしは、結婚はもうしたのか、とたずねてみた。

「ぼくには女性というものがさっぱりわからない」とマーチソンが答えた。

「おいおい、ジェラルド」とわたしは言った。「女なんてものは愛するためにいるのであって、理解するためにいるわけじゃない」

「信頼できない相手を愛することはできないさ」

「どうやら君の身の上には秘密があるらしいな、ジェラルド」わたしは思わず大きな声を出してしまった。「話してくれよ」

「場所を変えよう」と彼は言った。「ここは人が多すぎるじゃないか。いや、黄色い馬車じゃない、ちがう色のだ――ああ、あの深緑の馬車がいいな」そうやってほどなくわたしたちを乗せた馬車は大通りをマドレーヌ寺院の方角へ駆けていった。

「どこへ行こう?」とたずねるわたしに

「どこだっていいさ」と彼は答えた。「ブローニュの森のレストランにしよう。そこで食事でもしながら君のことをあらいざらい、聞かせてくれよ」

「まずは君の話を聞きたいな」とわたしは言った。「君の秘密を教えてくれよ」

 マーチソンはポケットから、小さな銀の留め金のついたモロッコ革のケースを取り出し、渡してくれた。わたしはそれを開けた。中には女の写真が入っていた。上背のあるほっそりした女性で、たよりなげな大きな目と緩く結った髪が、不思議と目を引くのだった。透視か何かをする人のような感じで、豪華な毛皮に身を包んでいた。

「この顔を見てどう思う?」と彼は言った。「正直な人だろうか」

 わたしはしげしげとその写真を眺めた。秘密を持つ人間の顔のようにも思えたが、その秘密が良いものか、悪いものかはわからなかった。その美しさはいくつもの秘密からつくり上げられたもの――顔立ちの美しさは、造形によるものではなく、精神的なもので、口元に浮かぶかすかな笑みも、実際に魅力的というにははるかに微妙なものだった。

「おいおい」彼はじれたように声をあげた。

「セーブルを身にまとったモナ・リザだな」とわたしは答えた。「この女性のことを残らず教えてほしいな」

「いまはまだダメだ」と彼は言った。「食事がすんでから」そうして、ほかのことを話し出したのだった。

 ウェイターがコーヒーとタバコを持ってきたところで、わたしはジェラルドにその約束を思い出させた。椅子を立って、部屋を二、三度行ったりきたりしたのち、ふかぶかと肘掛け椅子に身を沈め、つぎのような話を聞かせてくれたのだった。

「ある日の夕方、五時頃のことだったが、ぼくはボンド・ストリートを歩いていた。通りは馬車がひどく混み合っていて、ほとんど立ち往生していたんだ。歩道のわきに小型の黄色い箱馬車が停まっていて、どういうわけだか、ふとそいつが気になった。ぼくが馬車を追い越そうとしたとき、さっき君に見せたろう、あの顔が窓の外を見ていたのだ。

ぼくはすぐに夢中になってしまった。その夜は、一晩中、あの顔のことを思っていた。そうして次の日もそうだった。ぼくはあのおもしろくもないロットン通りを行ったり来たりしては、馬車という馬車をのぞきこんで、あの黄色い箱馬車にでくわすのを待った。だが見知らぬ佳人とはお目にかかれず、しまいには彼女はただの夢だったのだ、と思うようになったのだ。


(この項つづく)




「秘密」の話

2012-10-04 22:26:22 | weblog
オスカー・ワイルドの短編に「謎のないスフィンクス」という作品がある。

ある女性に恋い焦がれた男が、彼女の後をつけていく。すると、その女性は一軒の見知らぬ家に入っていく。秘密の恋人がいるのだろうか。思い悩んだ男は、友人に相談する。

友人はやがてその秘密をつきとめる。彼女は必要もないのに部屋を借り、そこで本を読んだりお茶を飲んだりして「秘密」めかした気分を味わっていた。秘密がないのが彼女の「秘密」だったのだ。

ところで、谷崎潤一郎の短編に「秘密」という作品があるのだが、おそらくこれは、谷崎がワイルドを読んでインスパイアされたのにちがいない。発表が明治四十四年ということで、谷崎25歳、まだ短編集すら発表していない最初期の作品である。

ワイルドの短編では、語り手は第三者、謎めいた女性のことを愛していた友人から話を聞いて、種明かしをしてみせる、という役割に過ぎないのだが、『秘密』の「私」は、『スフィンクス』の謎の女性さながらに部屋を借り、イギリスのミステリを読んだり(ワイルドの名前はここには出てこないが)、密かに女物の着物の肌触りを楽しんだり、さらには女装しお化粧までして外出したり、密かに麻薬を懐に忍ばせたりして、「秘密」をこころゆくまで楽しむ。

さらに谷崎は、ワイルドの短編には出てこなかった、もう一人の「秘密」を抱えた人物を登場させる。

かつて主人公には行きずりの関係を持ったT女という女性がいた。自分に執着する彼女を、主人公が捨てたせいで、お互い名告ることもなく、それきりになっていたのだ。ところが女装してお高祖ずきん姿の主人公を一目見て、彼女はそれが誰か気がついた。

彼女は主人公に手紙を渡す。そこからふたりは再会の約束をしたのだが、彼女は主人公に対して、俥を迎えにやるが、目隠しをさせてほしい、と要求する。彼女は、自分がどこの誰であるかをあくまで主人公に対して「秘密」にしようとするのだ。

この「秘密」に主人公は夢中になってしまうのだが、同時に彼女の秘密を暴きたくもなる。結局、途中で一瞬だけ、目隠しをはずした主人公は、途中で見た看板から、彼女の居所を突き止め、相手が何者かわかった瞬間に、執着心もさめてしまう、というところで終わる。

こうした短編を見ていると、「秘密」の意味をあらためて考えてしまうのだ。

「秘密」ということばでわたしたちが思い浮かべるのは、多くの場合、何かしら後ろ暗い行為なり出来事なりがあって、それを隠している、といったことだろう。だから、親しい関係では「秘密」は障害物になるように思われるし、秘密のある人間というのは、後ろ暗いところのある人、というふうにみなされる。何も悪いことをしていないんだったら、秘密なんてあるわけがない、というふうに。

けれども、ワイルドや谷崎の短編は、「秘密」のまったく別の一面をあきらかにしている。相手から隠す情報など何もないにもかかわらず、「秘密」があるふりをすれば、それは「秘密」として通用する、ということだ。言葉を換えれば、「秘密」としてわたしたちがやりとりしているのは、言ってみれば単に「秘密」とレッテルの貼ってある箱なのではないか。その箱に何が入っているかは問題ではない、中が空っぽでもかまわない。

秘密というのは、その内容ではないのだ。
わたしたちは、相手が何かを隠していると思うと、それが知りたくなる。そのために「秘密」を握る側は、情報を与えないことによって、相手の優位に立つことになる。そうして相手を操縦することが可能になるのだ。秘密にされた側は、相手との関係を対等に戻そうとして、何とかしてその「秘密」を知ろうとする。

こう考えていくと、「秘密」というのは、実は力関係なのだろう。ありのままの自分ではまた捨てられる、と思ったT女は、なんとかして主人公を手に入れようとして、「秘密」によって力を得ようとするし、「スフィンクス」の女性は、「秘密」のひとときを過ごすことで、誰というあてはなくても密かな優越感に浸る。

わたしたちの周りでも、「親に隠し事をするな」と怒る親は、「秘密」を持つことではなく、子供が自分の手の届かないところに行ってしまうことを怖れているのだろうし、「自分の部屋に入るな」という子供は、「秘密」を持つことで、なんとか親と対等になろうとしているのだろう。恋人の携帯をこっそりのぞく人は、相手の不実を疑っているというより、実際には、相手のすべてを把握し、相手をそっくり自分の内に取り込んでしまいたいのだ。まあ、「一心同体」というのが理想だと思う人もいるのかもしれないが。

わたしはそういうのはイヤだけどね。