陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

年末のごあいさつ

2011-12-31 22:47:04 | weblog
ブログ「陰陽師的日常」をのぞきに来てくださるみなさま、なかなか更新できなかったにもかかわらず、ご来訪くださってどうもありがとうございました。

今月22日、父が永眠いたしました。
目の回るような一週間を過ごしたのち、こちらに戻ってきましたが、何もかもが妙に実感を欠いていて、夢の中にいるような、おぼつかない気持ちでいます。

亡くなった父の枕元に、図書館から借りていた本がありました。通っていた病院のすぐ近くに図書館の分室があったそうで、時間待ちの折にでも、本を借りに行っていたのでしょう。藤沢周平全集の一冊で、『密謀』と『義民が駆ける』が所収されたものでした。

いまからもう二十年近く前のことですが、父と一緒に電車に乗る機会がありました。手持ちぶさたなようすで電車が来るのを待っている父に、たまたまわたしのカバンのなかに入っていた予備の文庫本を、「読む?」と渡したのです。中公文庫版の『義民が駆ける』でした。

ふたり並んで本を読みながら目的地に着き、別れ際、父は「この本、借りていいか?」と聞きました。買ったものの、まだ十数ページほどしか読んでいない本でしたが、いいよ、と渡したのでした。

家のどこかにわたしの中公文庫があるのだろうか、それとも処分してしまったのだろうか。父は、その全集を借りたとき、そのときのことを覚えていたのだろうか。そんなことを考えると、どうしてもその返却期限の切れた本を、図書館に持って行くことはできませんでした。

藤沢周平はほとんど読んでいるはずですが、『義民が駆ける』だけは、まだ読んでいないままです。


どうぞ皆様、よいお年をお過ごしください。


ではまた。



文化住宅の話

2011-12-08 22:50:12 | weblog
大阪には「文化住宅」というものがある。建物の横手に鉄筋の階段がついている木造二階建てのアパートのことで、たいてい「○○文化」という看板が階段を上がりきったところの手すりにかかっている。

たいていモルタルの壁も変色してなんだかどす黒くなっていて、ひびが入っていたり、中にはその一部がはがれ落ちていたり。鉄筋の階段もすっかり錆びてしまって、十年や二十年の古びようではない。昭和のにおいの濃い、といってもわたし自身もよく知らないころの「昭和」がそこにあるような、時間に取り残されたようなたたずまいである。

最初に「文化」という言葉を聞いたのは、高校生の頃、先に大学生になった先輩からの手紙だった。差出人のところに書かれた新しい住所のところに、「○○文化」とあって、最初は大学の施設か何かかと思ったのだ。

手紙の中身に、自分は父親が亡くなって下にきょうだいもいるのに、わがままを言って大阪の大学に進ませてもらったのだから、できるだけ母親に負担をかけないようにしなくてはならない、下宿も考えたが、それより家賃の安い文化住宅に住むことにした、とあった。北向きで日が差さないのだが、自分は昼間はいないから大丈夫だろう、とあった。

下宿より安い「住宅」というのはどんなところだろう、と想像はしてみたが、もうひとつよくわからなかった。北向きだから安いのだろうか。そんなことを考えていたような気がする。やがて――おそらく一年も経たないころ――その先輩の住所が変わり、「××文化」と新しい名前になった。前の北向きの部屋は日が差さないだけでなく、湿気がひどく、なんでもカビてしまう、押し入れの中もカビがひどく使うこともできない、だから引っ越すことにした、とあった。今度は南向きのところを探した、文化住宅は人気がないので、選び放題だったので、探すのは楽だった、などといったことが書いてあった。

二年になった頃からその先輩も忙しくなったようで、手紙も来なくなった。そのうち、今度はわたしが京都に住むようになり、大阪と京都で何度か会ったりもしたが、次第に疎遠になっていった。だからわたしがその「文化住宅」を見たのは、その先輩が住んでいたところではない。

バイトに行くために、ちょうど京阪電車に乗っていたときだった。電車の車窓からその「文化住宅」の看板を見たのだ。そんな古びた木造二階建てのアパートなら、東京にもまだ残っていた。けれどもそれを「文化」と呼ぶのは、大阪独自のセンスではあるまいか。

もしかしたら、そんな木造アパートが「文化的」な時代もあったのかもしれない。三十年、四十年と経って、いまだにその姿を保っているのは、それが「文化的」だった時代があったという何よりの証拠なのかもしれなかった。電車の窓の外を通り過ぎていく「文化住宅」を見ながら、自分が経験したことがない時代にもかかわらず、なんともいえない懐かしさのようなものを感じていたのだった。

さて、それからさらに二十年近くが過ぎて、いま住んでいるところの近所にも「文化住宅」がいくつか残っている。ここ数年の間にもずいぶん数が減ってしまったが、ときどき自転車で通る道沿いにも一軒、取り壊されることもなく残っている。

その文化住宅に目立つのは、二階の手すりにパラボラアンテナがいくつも立っていることだった。グレーのパラボラアンテナと、さびて赤茶けた手すりが妙にアンバランスで、しかもキノコのように、一定の間隔を開けて三つ立っている。衛星放送というのはずいぶん普及しているんだなあ、と、最初のうち、そんなことを思いながら横を走っていた。

それが、ちょうどワールドカップの時期になって、その理由がわかった。パラボラアンテナを立てている隣り合わせの三軒の家の軒先に、一斉にブラジル国旗がぶら下がったのである。ああ、ブラジルの人がそこに住んでいるのだ、とわかった。ブラジルから来ているから、衛星放送を見る必要があるのだろう。BSでどのくらいブラジルのニュースが流れるのか、わたしはまったく知らなかったけれど、ワールドカップでもやっていない限り、まずは聞くこともない「ブラジル」という国のことを定期的に知るには、衛星放送しか手段がないのかもしれなかった。

以来、その「文化」はわたしにとって「ブラジル文化住宅」となった。

つい先日、久しぶりにその文化住宅の前を自転車で通った。パラボラアンテナは一斉に姿を消し、玄関には空き家を示す、ガスや電気メーターの通知がはさんであった。そういえば、とこの地区にある工場が閉鎖されたニュースを思い出した。その人たちは、工場で働いていた人だったのだろう。

ブラジル人の借り手を失った「文化住宅」は、すっかりひとけがなくなり、わびしげにうずくまっているようだった。