1.修道院での食事
小学校三年の夏休みのことだった。
当時「飼育係」だったわたしは、一週間ほど、鶏小屋の掃除をしに行かなければならなかった。
鶏小屋があるのは、校舎のはずれ、ニセアカシアが繁る、昼間でも薄暗い木陰だった。
白いペンキが塗ってある小屋は、高さが二メートル強、幅が三メートルほど、奥行きが一メートルぐらいではなかったかと思う。上下で区切られ、上にはチャボが三羽、下にはウサギが二羽いた。どちらも金網を開けて、フンを箒で掃き出し、水を換え、エサをやるのだが、おとなしいウサギはともかく、チャボたちが暴れて逃げ出さないよう、ひとりないしはふたりが箒で押さえている隙に、ほかの人間が内部の掃除をするのだった。
三羽のチャボは、一羽は白く、一羽は黒いぶちがあり、もう一羽は茶色いオスだった。このオスが気が荒い。十年ほど前に掃除をしていたときに、眼をつつかれて失明した、という悪名がとどろいていたのだが、いま考えてみると、そのチャボが十歳以上とは考えにくく、チャボの寿命がどのくらいかは知らないけれど、おそらくよくある学校の「伝説」のようなものだったのだと思う。それにしても、確かにそのチャボは、生徒たちを威嚇するように黄色い眼でにらみつけ、くぁっ、くぁっ、くぁっ、と、猛々しい声をあげるのだった。
学期期間中の、掃除当番も多いときなら問題はなかったのだが、夏休み、当番はたったふたりである。わたしのパートナーはえっちゃんという子で、ふたりとも小柄なほう。チャボたちがいる上の階の床は、わたしたちの胸よりも高い位置にある。簡単な下を終わると、ふたりで胸をドキドキさせながら、ナンバー錠を開け、金網を開いた。えっちゃんが押さえ、わたしが掃き出すのだが、なかなか高い位置は箒がうまくつかえない。もたもたしているうちにえっちゃんが、きゃっ、と悲鳴をあげて、箒を放り出し、しりもちをついてしまった。例の茶色いチャボが、バタバタッと飛び上がったのである。あっ、と思ったときには、外へ飛び出していた。わたしも怖くて身がすくみ、箒を前に出して押さえることなどできなかったのだ。
外へ飛び出したチャボは、とっ、とっ、と走っていく。わたしはとりあえずバタンと金網を閉め、残った二羽が逃げ出さないようにして、それから、えっちゃんとふたりで、なんとかチャボを追いかけていった。
チャボは広い世界に出られた喜びを満喫するかのように、校舎とは反対側の方向へ走って行く。
ところがわたしもえっちゃんも、そのチャボをつかまえるのが怖いのである。とりあえずわたしは箒をもって走ってはいたが、どう考えてもそれで取り押さえられるはずはなかった。
なおもチャボは走り、とうとう同じ敷地にある修道院の裏庭に入っていった。そこがどうやら気に入ったらしく、地面をついばんでいる。
修道院の礼拝所には、何度か入ったことはあったが、普段シスターたちが生活している裏口のほうにはまわったことがなかった。それでも、なんとか助けを借りようと、裏口をノックした。
シスターのうち、何人かは顔見知りだった。フランス語の授業が週に一度あったのだが、それを教えてくれるのが、外国人のシスターだったのだ(どうでもいいけれど、わたしはこの時期に習ったフランス語など、何一つ覚えていない。いわゆる「早期教育」というものが、どれほどクソの役にも立たないものであるか、身をもって知っているのだ)。
わたしは二年生のときに教わった、東ドイツ出身のシスターが好きだった。余談になってしまうのだが、あるときこの人が、小さい頃に両親と別れ、叔父さんにつれられ、弟と一緒に、貨車に隠れて西ベルリンへ亡命した、という話を教えてくれた。白黒の東ドイツの写真と一緒に聞かせてもらったその話はおそろしく、後に「東ドイツ」と聞くと、そのときに見たモノクロの、ひどく暗い写真を思い出す。ところがわたしときたら、当時『アンネの日記』を読んだばかりで、そのシスターに、ヒトラーは西ドイツにいたんですか、それとも東ドイツにいたんですか、と聞いたのだ。西にも、東にもいました、と答えてくれたのだけれど、どんな思いでその質問を聞いたのだろう、と思うと、当時の自分をひっぱたいてやりたくなる。
ともかく、修道院の裏口から出てきたのは、見たこともない、小柄な中年の日本人だった。チャボが逃げて、つかまえられないんです、と言ったら、それは大変、いまお料理をしてるからちょっと待ってね、と、いったん引っ込むと、ふたたび出てきて、チャボはどこ? とわたしたちに聞いた。あそこです、と指さす。すると、その日本人シスターは、そうっと後ろから近寄って、ぱっと両腕で抱えたのだ。その鮮やかな手際を、わたしはいまでもはっきり覚えている。
しっかりと両手で押さえられて身動きできないチャボは、右や左をキョトキョトと見まわすばかりで、そうしていると、ちっとも猛々しく見えないのが不思議だった。ともかく、シスターのおかげで、無事に鶏小屋に戻すこともできたのだった。
ありがとうございました、とお礼を言ったあと、どうした流れでそうなったのかよく覚えてないのだけれど、わたしとえっちゃんはそのあと、修道院でお昼をごちそうしてもらうことになったのだ。裏口から中に入り、机に食器を並べたりするのを手伝った。見たこともないシスターたちがたくさん入ってきて、ここにはこんなに人が暮らしているのか、とびっくりした。ひどく年寄りの、腰が曲がった外国人のシスターもいた。夏用の薄いグレーのベールをつけたシスターたちが、木のテーブルを囲んだ。
今日はお客様にお祈りをしてもらいましょう、とシスターに言われて、わたしたちは、普段教室で給食を食べる前にしている「日々の糧をお与え下さってありがとうございます」といった内容のお祈りを、いつもどおりに暗唱した。「父と子と精霊の御名によりてアーメン」と十字を切ったところで、ほかのシスターたちが「アーメン」と唱和する。教室とはちがう、大人の声がいくつも響くのが、普段とはずいぶんちがうと思った。
修道院での食事は、確か、豆とキャベツが入っている味の薄いスープとバターロールだった。あなたたちが食べてる給食のように、おいしくはないでしょう? と聞かれて、そんなことありません、こっちのほうがずっとおいしいです、と答えたら、みんなが笑っていた。
それから後も、礼拝所のほうには何度か入ったけれど、奥の方には行ったことがない。チャボをうまくつかまえたシスターにも、もう会うことはなかった。
豆とキャベツのスープは、いまでもときどき作る。タマネギと米をひとつかみ入れて、リゾットのようにすることもある。鶏肉(チャボではないが)を少し入れるとボリュームも出るし、味も濃厚になる。でも、シンプルな、ごく薄いスープが一番好きなのは、やはりこのときの食事の記憶が残っているせいだろうか。
(この項続く)
※サイトで「7777」のキリ番、踏まれた方は、是非、ご連絡ください。
小学校三年の夏休みのことだった。
当時「飼育係」だったわたしは、一週間ほど、鶏小屋の掃除をしに行かなければならなかった。
鶏小屋があるのは、校舎のはずれ、ニセアカシアが繁る、昼間でも薄暗い木陰だった。
白いペンキが塗ってある小屋は、高さが二メートル強、幅が三メートルほど、奥行きが一メートルぐらいではなかったかと思う。上下で区切られ、上にはチャボが三羽、下にはウサギが二羽いた。どちらも金網を開けて、フンを箒で掃き出し、水を換え、エサをやるのだが、おとなしいウサギはともかく、チャボたちが暴れて逃げ出さないよう、ひとりないしはふたりが箒で押さえている隙に、ほかの人間が内部の掃除をするのだった。
三羽のチャボは、一羽は白く、一羽は黒いぶちがあり、もう一羽は茶色いオスだった。このオスが気が荒い。十年ほど前に掃除をしていたときに、眼をつつかれて失明した、という悪名がとどろいていたのだが、いま考えてみると、そのチャボが十歳以上とは考えにくく、チャボの寿命がどのくらいかは知らないけれど、おそらくよくある学校の「伝説」のようなものだったのだと思う。それにしても、確かにそのチャボは、生徒たちを威嚇するように黄色い眼でにらみつけ、くぁっ、くぁっ、くぁっ、と、猛々しい声をあげるのだった。
学期期間中の、掃除当番も多いときなら問題はなかったのだが、夏休み、当番はたったふたりである。わたしのパートナーはえっちゃんという子で、ふたりとも小柄なほう。チャボたちがいる上の階の床は、わたしたちの胸よりも高い位置にある。簡単な下を終わると、ふたりで胸をドキドキさせながら、ナンバー錠を開け、金網を開いた。えっちゃんが押さえ、わたしが掃き出すのだが、なかなか高い位置は箒がうまくつかえない。もたもたしているうちにえっちゃんが、きゃっ、と悲鳴をあげて、箒を放り出し、しりもちをついてしまった。例の茶色いチャボが、バタバタッと飛び上がったのである。あっ、と思ったときには、外へ飛び出していた。わたしも怖くて身がすくみ、箒を前に出して押さえることなどできなかったのだ。
外へ飛び出したチャボは、とっ、とっ、と走っていく。わたしはとりあえずバタンと金網を閉め、残った二羽が逃げ出さないようにして、それから、えっちゃんとふたりで、なんとかチャボを追いかけていった。
チャボは広い世界に出られた喜びを満喫するかのように、校舎とは反対側の方向へ走って行く。
ところがわたしもえっちゃんも、そのチャボをつかまえるのが怖いのである。とりあえずわたしは箒をもって走ってはいたが、どう考えてもそれで取り押さえられるはずはなかった。
なおもチャボは走り、とうとう同じ敷地にある修道院の裏庭に入っていった。そこがどうやら気に入ったらしく、地面をついばんでいる。
修道院の礼拝所には、何度か入ったことはあったが、普段シスターたちが生活している裏口のほうにはまわったことがなかった。それでも、なんとか助けを借りようと、裏口をノックした。
シスターのうち、何人かは顔見知りだった。フランス語の授業が週に一度あったのだが、それを教えてくれるのが、外国人のシスターだったのだ(どうでもいいけれど、わたしはこの時期に習ったフランス語など、何一つ覚えていない。いわゆる「早期教育」というものが、どれほどクソの役にも立たないものであるか、身をもって知っているのだ)。
わたしは二年生のときに教わった、東ドイツ出身のシスターが好きだった。余談になってしまうのだが、あるときこの人が、小さい頃に両親と別れ、叔父さんにつれられ、弟と一緒に、貨車に隠れて西ベルリンへ亡命した、という話を教えてくれた。白黒の東ドイツの写真と一緒に聞かせてもらったその話はおそろしく、後に「東ドイツ」と聞くと、そのときに見たモノクロの、ひどく暗い写真を思い出す。ところがわたしときたら、当時『アンネの日記』を読んだばかりで、そのシスターに、ヒトラーは西ドイツにいたんですか、それとも東ドイツにいたんですか、と聞いたのだ。西にも、東にもいました、と答えてくれたのだけれど、どんな思いでその質問を聞いたのだろう、と思うと、当時の自分をひっぱたいてやりたくなる。
ともかく、修道院の裏口から出てきたのは、見たこともない、小柄な中年の日本人だった。チャボが逃げて、つかまえられないんです、と言ったら、それは大変、いまお料理をしてるからちょっと待ってね、と、いったん引っ込むと、ふたたび出てきて、チャボはどこ? とわたしたちに聞いた。あそこです、と指さす。すると、その日本人シスターは、そうっと後ろから近寄って、ぱっと両腕で抱えたのだ。その鮮やかな手際を、わたしはいまでもはっきり覚えている。
しっかりと両手で押さえられて身動きできないチャボは、右や左をキョトキョトと見まわすばかりで、そうしていると、ちっとも猛々しく見えないのが不思議だった。ともかく、シスターのおかげで、無事に鶏小屋に戻すこともできたのだった。
ありがとうございました、とお礼を言ったあと、どうした流れでそうなったのかよく覚えてないのだけれど、わたしとえっちゃんはそのあと、修道院でお昼をごちそうしてもらうことになったのだ。裏口から中に入り、机に食器を並べたりするのを手伝った。見たこともないシスターたちがたくさん入ってきて、ここにはこんなに人が暮らしているのか、とびっくりした。ひどく年寄りの、腰が曲がった外国人のシスターもいた。夏用の薄いグレーのベールをつけたシスターたちが、木のテーブルを囲んだ。
今日はお客様にお祈りをしてもらいましょう、とシスターに言われて、わたしたちは、普段教室で給食を食べる前にしている「日々の糧をお与え下さってありがとうございます」といった内容のお祈りを、いつもどおりに暗唱した。「父と子と精霊の御名によりてアーメン」と十字を切ったところで、ほかのシスターたちが「アーメン」と唱和する。教室とはちがう、大人の声がいくつも響くのが、普段とはずいぶんちがうと思った。
修道院での食事は、確か、豆とキャベツが入っている味の薄いスープとバターロールだった。あなたたちが食べてる給食のように、おいしくはないでしょう? と聞かれて、そんなことありません、こっちのほうがずっとおいしいです、と答えたら、みんなが笑っていた。
それから後も、礼拝所のほうには何度か入ったけれど、奥の方には行ったことがない。チャボをうまくつかまえたシスターにも、もう会うことはなかった。
豆とキャベツのスープは、いまでもときどき作る。タマネギと米をひとつかみ入れて、リゾットのようにすることもある。鶏肉(チャボではないが)を少し入れるとボリュームも出るし、味も濃厚になる。でも、シンプルな、ごく薄いスープが一番好きなのは、やはりこのときの食事の記憶が残っているせいだろうか。
(この項続く)
※サイトで「7777」のキリ番、踏まれた方は、是非、ご連絡ください。