陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ものを食べる話 その2.

2006-03-04 22:35:18 | 
2.家族というやっかいなもの

『侍女の物語』のなかでは、食事はいつもひとりでとるものだった。司令官は「わたし」の身体を自由にはするけれど、食事は決して一緒にとらない。「侍女」は所有され、食物をあてがわれる。

本来ならもっとも親密なはずの肉体の交わりさえも、所有するものとされるものの間では、一切の感情を行き交わせることなく、ただ生殖の目的と、所有の確認のためのみに行われる。そういうなかでも、所有されるものは、あてがわれる食事を食べながら、生き、書きつけ、記憶し、なんとかそれを語ろうとする。そこでは食事の記録さえも、一種の抵抗なのである。

さて、こうした極限状況ではなく、もっとありふれた「食べる」に目を向けてみよう。
毎日毎日繰り返していく「食べる」。
家族との食事である。

1940年代から80年代までのアメリカのある一家を舞台にした長編小説『ここがホームシック・レストラン』(中野恵津子訳 文藝春秋社 ※原題は“ホームシック・レストランでのディナー”で、実はこれには深い意味がある。できれば原題どおりにタイトルをつけてほしかった)から、「家族が食べる」ことを見てみたい。

夫が出ていったあと、残されたパールは、食料品店で働きながら、頭が切れて扱いにくいコーディ、おっとりしてやさしいエズラ、優等生のジェニー、とそれぞれに個性的な三人の子供を育て上げている。プライドが高く気丈で、「子供たちをひとかどの人間にしよう」とけんめいにがんばるパールだが、生活の不安定さと寄る辺のなさから、ときどき溜まったうっぷんを爆発させてしまう。

 母が爆発した。「パールが荒れてる」とコーディは弟と妹に言った。そういうときの母を、コーディはいつもパールと呼んだ。「用心しろよ。ジェニーの引き出し、全部ぶちまけてるから」
「えーっ」とエズラ。
「八つ当たりしまくって、ぶつぶつ独りごと言ってるよ」
「あーあ」とジェニー。……

 母が階段の下で、「ごはんよ」と子供たちを呼んだ。蚊の鳴くような声だった。
 三人はとぼとぼ階段を下り、階下の浴室で皮がむけるほど丹念に手を洗った。一人が洗い終わっても、全員が洗い終わるのを待った。それから、三人そろって台所に入っていった。母は缶詰め肉の固まりを切っていた。子供たちのほうを見ようともしなかったが、三人が腰を下ろしたとたん、話しはじめた。「母さんが夕方五時まで働いても、まだ足りないっていうのかい。返っても何にも片づいてない。評判の悪い連中といつまでも外で遊んでいるか、学校のコーラスだ、クラブのミーティングだって時間をつぶして。食事の用意はしてない、夕ごはんも作ってない、掃除もしてない、郵便もとってない…略…

「でも、それは日曜日のことだろ」とコーディが言った。
「それで?」
「今日は水曜だよ」
「そうね」
「だったら、三日もたってるじゃないか。なんで今頃、日曜のことを?」
 コーディの顔にスプーンが飛んだ。「生意気言うんでないの」立ち上がりざま母の手がコーディの頬を打った。「このろくでなしのウジムシ」。その手はジェニーのお下げ髪にも伸び、ぐいっと引っぱったので、ジェニーは椅子から浮きあがった。「バカ、まぬけ」と、今度はエズラに矛先が向かった。パールは豆のボウルをつかむと、エズラの頭の上からドサッとかぶせた。ボウルは割れなかったが、豆が一面に飛び散った。エズラは両手で頭をかかえて身を縮めた。「あんたたちは寄生虫だよ。みんな死んじまえばいい。せいせいするよ。行ってみたら、みんな死んでればいいんだ」

 それだけ言うと、パールは二階へ上がってしまった。三人は皿を洗い、ふきんで拭き、棚にしまった。テーブルやカウンターの上を片づけ、床を掃除した。どこかにゴミが落ちているとなんとなくホッとし、シミを見つけると嬉しくなってボナミでごしごしこすった。


家庭というのは、家族がそれぞれ自分の不機嫌をぶつけ合う場でもある。逆にいえば、家族相手だからこそ、甘え、思いのままに振る舞うことができるのだ。
「団欒」を成立させようと思えば、いくつかの条件が必要である。それが満たされないとき、家族の食事は「団欒」とはほど遠いものになるのかもしれない。けれども、良いか悪いかは別として、それができるのも相手が家族だからなのである。

やがて三人は成長する。大学卒業後、コーディは成功した実業家になり、ジェニーは医学部へ、そうして残ったエズラは母親の反対を押し切って、地元のレストランで働くようになり、そこのコックであるルースに恋をする。ところが弟のものが何でもほしくなるコーディ、こんどはこのルースが気になってたまらない。

コーディは大きなパイの一切れにナイフを入れながら、食べ物について考えていた。食べ物というのは、ほかの人にとっては、言葉では説明できない重要な意味があるらしい。もしかしたら、食べ物に対する態度で人間を分類できるかもしれない。たとえば母は、「非・食べさせ型人間」の部類に入る。コーディが小さかった頃、子供たちが日々の栄養補給をまだ全面的に母親に頼っていたときでさえ、おなかが空いたと言うと、突然、急きたてられたように動きまわり、苛立ち、気もそぞろになった。夕方、仕事から帰ってきた母は、いらいらしながら台所をうろついた。戸棚から缶詰めが落ち、足元にポーク・ビーンズやスパム、ツナのオイル漬け、豆などの缶が散らばった。母は帽子をかぶったまま料理した。……

 それでも母は、コーディが病気で寝ているときには、ベッドに食べる物を運んできてくれた。まず、熱い紅茶。母の紅茶はうまかった。それから缶詰めのコンソメ。あっさりした流動食ばかりだ。母は腕を組んで、コーディが全部食べ終わるまで戸口のところに立って見ていた。他人が食べたり飲んだりしているとき、母は不快そうだった。自分ではほとんど食べず、ただ皿をつついているだけのこともあった。がつがつしたり、出された食事に関心をもちすぎる人間を、暗に批判した。……

 ルースの作ったパイを頬張りながら、コーディは、そんな母親の三人の子供たちについて考えた。まずジェニー。レモン水とレタスでダイエットして、甘いものを口にすることを自分に許さない。しょっちゅう食事を抜いている。今でも母の不快そうな表情が心に焼きついて離れないのかもしれない。コーディ自身も、食べ物に関するかぎりジェニーとたいして変わらない。彼にとって食べ物自体は重要ではなかった。ほかの人が食べたがるので(たとえばデートやビジネス・ランチのとき)、付き合いで自分も食事を注文する。だが、アパートの冷蔵庫にはコーヒー用のクリームとジン・トニック用のライムしか入っていなかった。朝食はとったことがない。昼食もよく忘れた。……

エズラだけはそうした事情を免れてきていた。……何より、エズラは「食べさせ型人間」だった。人の前に料理を出したあと、顎の下に両手を握り締め、食べる人のフォークを目で追いながら、顔に期待をみなぎらせてじっとそばに立っている。自分の作った料理を食べる人に対するエズラの態度には、優しさというか、忠実な愛に近いものが感じられた。

 ルースも似ている、とコーディは思った。
 彼はパイをもう一切れお代わりした。

家族というのは大変だ。欠点だらけの人間が親になり、子供を育てていかなければならない。欠点を取り繕わなくてすむのが家庭のはずなのに、そこであらわになってしまった欠点は、ときには取り返しのつかないほどの傷を、ほかの家族に与えてしまうこともある。

だれよりも身近で、だれよりも長い間ともに暮らし、それなのに異なる人間であるために、完全には分かり合えない家族。愛していても、思いやっていても、なかなかストレートな形では伝えられないし、あまりに身近すぎて本人でさえその気持ちに気がつかない。

家族との食事、というのは、決して「団欒」などという簡単な言葉でくくれるようなものではない。

(この項つづく)