陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~いっしょにゴハン その3.~

2006-03-13 22:26:54 | weblog
ご飯なんて、大学へ入るまで、家庭科の調理実習以外では、炊いたことがなかった。
もちろん、ほかの料理など、なにをかいわんや、である。

お菓子なら、ごくたまに作ったことはあるけれど、それ以外のことでお勝手に立つのを、母は決して喜ばなかった。ほかに自分の部屋を持たなかった母の、そこはささやかなプライヴェート空間だったのかもしれない。

大学に入って、寮生活が決まった。けれどもそこは小規模な寮で、賄いがついていない。寮生は台所で自炊する。

アンタなんかに自炊ができるわけがない、学食で三食すませちゃいなさい、と母は言っていたが、なんのかんのと出費が続き、あっというまに三食外食なんていうことができる状態ではなくなった。

炊飯器を買うお金もない。商店街のはずれにある金物屋で、小ぶりの鍋をふたつ買って、ひとつで米を炊き、もうひとつでおかずを作ることにした。

鍋でご飯を炊く、というのは、経験がないので、本屋で料理の本を探した。ところが鍋でご飯を炊く方法、なんて、どこにも載っていない。
鍋で炊く、というのは、一種の飯盒炊さんのようなものだ、と頭を切り換え、アウトドア関連の棚に行ってみた。
沸騰したら、火を弱めて十五分、それからひっくりかえして、蒸らす、とある。ガスならともかく、野外の焚き火で火を弱めるなんて、そんなに簡単なことではないだろうに、と思ったのだが、幸い、わたしはほんとうに飯盒炊さんをするわけではないので、弱火にして十五分、ということだけ、覚えて帰る。ひっくり返して蒸らす、は鍋の場合関係ないので、本にあったように、十分ほど、そのまま蒸らそう。

一緒に米と、とりあえず豆腐と醤油、あじのひらきも買って帰る。
米をしゃっ、しゃっとといで、米の上にそっと置いた手のひらがみずにかぶるくらいの水加減。よくしたもので、せっぱ詰まると、あんなにキライだった家庭科の、これだけは結構好きだった調理実習の記憶がよみがえってくる。しばらく水につけて、炊き始める。沸騰したら弱火で十五分(何かの景品の共有タイマーが、冷蔵庫にマグネットで貼りつけてあった)、それから蒸らす。

あじのひらきもガスレンジで焼く。何度もひっくり返したので、できあがったころはずいぶんぼろぼろになっていたが、それでもなんとか焼けた。豆腐の一丁というのは、ずいぶん量があるのだな、ということも、始めて知った。こんどはだしのもとと味噌も買ってこよう。

そんな具合で、初めての自炊は、われながらほれぼれとするできばえだった。

ところが、そのうちさまざまな不具合が起きるようになった。

まずなによりも、ひとりで食べる量というのはしれている。豆腐にしても、野菜にしても、魚にしても、なかなか「一人前」という量は売っていない。それを使い切るためには、毎日料理し、使い切るという工夫をしなくてはならない。なによりも、いったん自炊を始めたら、それを毎日続けなくては、かえって不経済なことになる。

それが一般的な原則であるとしたら、他方で、わたしの個人的な問題もあった。

実は、ふっと意識が離れるのだ(遠のくわけではない。その点は大丈夫)。

単純作業をしていると、次第に意識はいま、自分がやっていることからさまよい始め、読んでいる本のことや今日あったできごとから連想の枝が四方八方に伸び始め、あっというまに頭の中はジャングルさながらになり、気がつくと自分がターザンのごとく、木から木へ飛び移っている。そういえば、そのことはあの本にあったんだっけ、と思うと、矢も立てもたまらず、自分の部屋にかけあがり、すっかり鍋のことは忘れてしまう。
それでどれほど鍋の底を真っ黒に焦げ付かせてしまっただろう。

煙が出てるよ……と、ほかの部屋にいた寮生が驚いて台所にかけこむと、タイマーがやかましく鳴り、鍋から煙がもうもうと出る中、こんろの前の床にすわりこんで本を読んでいるわたしを発見する、などということも、しばしばあるのだった。
焦げ付かせた鍋は、水につけて、翌日、焦げをこそげおとせばどうにかなるけれど、食べられなくなったおかずやご飯は、痛手だった。何度か失敗を繰り返した後、結局、あっという間にできるもの、料理するとしたら、ごく単純なものを作るだけ、というあたりに落ち着いたような気がする。

なんとか毎日の自炊にも慣れ、涼しい風が吹き始めたころだった。
高校のころ英語を習っていた先生が、観光がてら、わたしの様子を見てみたい、という連絡を受けたのだ。それも前日である。明日にはそちらに着く、というのだ。

わたしは大慌てで掃除し、翌日、駅に出迎えに行った。
どこかでお茶でも、と思っていたのだが、とにかくわたしのところへ行きたい、という。
休むのは、そこで十分です、とウィンクまでされてしまった。

とにかくコーヒーでもいれようと思っていると、先生は「お茶がいいです」という。
お茶、と言われて、困った。普段飲むお茶は、缶入りのウーロン茶くらい、当時のわたしには、お茶を入れて飲む、という習慣がなかったのだ。
それでも、確か春先に生協で安い煎茶を買った記憶がある。悪くならないように、冷凍庫に入れて置いて、そのまま忘れていたはずだ。

あわてて冷凍庫の奥をさがしてみると、ほかの寮生のシーフードミックスやらアイスクリームやらのそこに、わたしの名字をマジックで書いた煎茶が出てきた。

お湯を沸かし、共同の食器棚から、湯飲みと急須を取り出す。適当におちゃっぱを入れ、煮立ったお湯をそのままどぼどぼと注いだ。それをお盆にのせて、部屋に戻る。
買って置いた洋なしのタルトと一緒に、そのお茶を出した。急須から湯飲みに注ぐとき、いろんなところから垂れて、ひどくきまりが悪かった。
飲んだお茶の、まずかったこと。
タルトは「これはおいしいですね」と喜んでもらえたのだけれど。

わたしが教わった英語の先生は、日本人男性と結婚して、滞日期間も四半世紀に及ぶ。外国人向けの茶道も師範だかなんだかで、自宅には、小さな茶室まで持っている、という人だったのだ。
その人に、わたしは薄黄色の絵の具を溶かしたようなお茶を出してしまったのだった。味も、なんだかそんな味だった(もっとも絵の具を溶かした水は飲んだことはないけれど)。

そのときのことを思い返すと、未だにもうしわけない気持ちでいっぱいになる。

それから一念発起して、お茶の入れ方を本で調べ、自分でいろいろ工夫しながら入れてみるようになったのだ。
もちろん安い番茶には番茶なりの入れ方がある。
高い玉露には、それにふさわしい入れ方が。
そう、わたしは人生で必要なことのほとんどは、本を読んで学んだ。
ただ、そのきっかけは、そんなふうに、情けないものであることが多いのだけれど。

(この項、明日最終回。だけど、たぶんオチはない)