陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アリス・マンロー「局面」 その9.

2012-12-30 00:17:41 | 翻訳
その8.


 その週の終わりごろ、大きな封筒が職場にいるドーリーの下に届いた。宛先がモーテル気付けになていたのだ。中には紙が数枚入っていて、両面に渡って書きつけてある。最初、彼からだとは思わなかった――刑務所に入っている人間は、手紙を書くことなど許可されていないだろうとばくぜんと思っていたのだ。もちろん彼が収監されているのは、ちがう種類の施設だったが。彼は犯罪者ではない。触法精神障害者にすぎないのだから。

 書面には日付けも、書き出しの「親愛なるドーリー」という言葉さえなかった。いきなり彼女に向かって語りかける調子で、ちょうど宗教の勧誘ならこんなふうに始まるのだろうとドーリーには思えるような調子で始まっていた。

 人はみな、目を皿のようにして解決策を探し回っている。そのために心は傷を負っている(探し回るせいだ)。あまりにも多くのことどもに心を乱され、痛めつけられているのだ。人びとの顔は痣ができ、苦痛にゆがんでいる。悩みにうちひしがれているのだ。人びとはあちらへこちらへかけずり回る。買い物に行かなければ、コインランドリーに行かなければ、髪を切らなければならないし、生活費を稼ぐか生活保護給与を受け取るかをしなければならない。貧しい者たちはそんなありさまだし、金持ちは金持ちで、自分の手持ちを最大限有効に使う方法を探すのに必死だ。それもまた仕事なのだ。彼らは湯と冷水の出る蛇口つきの最高の家を建てなければならない。それからアウディや魔法の歯ブラシや最高級の機械製品、それから大量殺人者から身を守るための盗難予防自動警報機。金持ちも、貧乏人も、となり、いや、どちらも魂の平安など望むべくもない。「どちらも(neither)」と書こうとして「となり(neighbor)」と書いてしまったのだが、どうしてそんなことをしてしまったのだろう。ここには隣人などいないのに。少なくとも私がいまいるところではみんな、多くの混乱は超えたところにいる。自分が何を所有しているか、これから先、何を所有することになるかわかっているし、買い物をする必要も、自分の食べるものを料理する必要さえもない。所有するかどうか、選ぶこともない。選択は排除されているのだから。

 ここにいる私たちみんなが手に入れることができるのは、自分の心の中から取りだしたものだ。

 最初のうち、頭全体が混純(沌?)の極にあった。嵐が絶え間なく吹き荒れ、それを取り除けるのではないかと願って頭をセメントに打ちつけたりもした。懊悩と生命に終止符を打つために。そのせいで懲罰を受けた。ホースで水をかけられ、縛られ、血管に薬剤を射たれた。そのことに対して不平を言っているつもりはないが。なにしろ不平を言っても何の利益にもならないことを学んだからね。いわゆる現実の世界となんらちがいはないのだ。現実の世界では、苦痛に満ちた思いを消し去るために、人びとは酒を飲み、大騒ぎし、犯罪に関わったりする。そうして逮捕されたり、投獄されたりすることもあるのだが、それで向こう側に抜け出ることができるほど、長くそこにいるわけではない。だが、その向こう側とは一体、何なのだろう。完全な狂気か、それとも静謐か。          

 静謐。私は静謐な世界にたどりついたし、しかもいまだ正気でいる。おそらくあなたは、これから私がイエスや仏陀について書こうとしていると思っているだろう。まるで回心の境地に到達したかのように。そうではないのだ。私は目を閉じてはいないし、ある種の特別で崇高な力によって高められたわけでもない。そうしたものに意味があるのかどうか、私にはわからない。私が言いたいのは、「自分を知る」ということだ。

「汝自身を知れ」というのはどこかの戒律か何かで、たぶん聖書なんだろうが、そうなると、少なくともこの点に関しては、私はキリスト教の教えに従っていると言えるのかもしれない。もうひとつ、「汝自身に正直であれ」、これも聖書にあるのなら、私はこの教えも努力しようとしている。自分のうちのどの部分か、良い面か悪い面かということにはふれていないので、これは道徳律へと導くためのものではない。「汝自身を知れ」というのも道徳律とは関係がないね。私たちの理解する道徳律というのは、「行為」のうちに現れるものだから。だが「行為」などというものに、私はまったく関心がないのだ。なにしろ私はまちがいなく、“どう行為すべきかの判断力に信頼がおけない人間”と判断されたがために、ここにいるのだから。

「汝自身を知れ」の「知る」という点に戻ろう。私は完全に冷静だし、自分自身を知っている。自分になしうる最悪のことも知っているし、実際にそれを自分がやったことも知っている。私は世間に裁かれ、「怪物」とされたが、そのことに文句をいうつもりもない。ついでに言うなら、たとえ爆弾を雨のように降らせたり、都市を焼き払ったり、何百、何千という人びとを飢えさせたり殺したり殺すような手合いは、たいてい「怪物」とはみなされないで、勲章を授けられたり表彰されたりする。少人数に対してなした行為だけが、おぞましいだの、邪悪だのとそしられるのだ。私は言い訳をしているのではなく、ただ見解を述べているだけだが。

 私が自分自身を知っている、というのは、私自身の邪悪さを知っているということだ。それが私の平安の秘密なのだ。私は自分の最悪を知っている。ほかの人間の最悪より、まだ悪いかもしれないが、実際のところ私はそのことについて考えたり心配したりする必要がない。言い訳をしているつもりはないんだ。私は平穏な気持ちでいる。私は怪物だろうか? 世間はそうだと言うし、そう呼ばれれば、私は否定もしない。けれども私にとって世間など、現実に意味などないのだ。私は私自身であって、ほかの自己の出番はない。あのときは頭がおかしくなっていた、ということもできるが、そのことに何の意味がある?狂気。正気。私は私だ。あのとき私の「自我」を変えることはできなかったし、いまなお変えることはできない。

 ドーリー、もしここまで読んでくれているのなら、私には話しておきたいことがある。だが、ここに書くことはできないのだ。もし、ここにまた戻って来てもいい、と思ってくれるなら、話すことができるだろう。冷たいと思わないでもらいたい。やろうと思えばできるのに、それを変えようとしない、というわけではないのだ。

 これを君の仕事先に送るつもりだ。職場と街の名前は覚えているところをみると、私の頭もいくつかの部分では、まともに働いているらしい。


 ドーリーは、つぎの面会のときには、この手紙の話をするのだろうと考えて、何度も読み返してはみたけれど、何も言うべきことが浮かんでこなかった。ところがつぎに面会に行ったとき、ロイドは手紙など書いたこともないかのようなそぶりをしている。ドーリーは話題を探して、その週モーテルに泊まった、かつては有名だったフォークシンガーのことを話した。驚いたことに、ロイドはその歌手の経歴については、ドーリーよりも詳しかったのだ。ということは、彼のところにはテレビがあるか、少なくとも見ることはできて、いくつかの番組と、もちろんニュースも定期的に見ているのだろう。つまり、話ならほかにいくらでもあるということだ。だが、ドーリーはもうがまんできなかった。

「顔を合わせてからじゃないと話せないことって何?」

 そっちからそんなことは言わないでほしかった、とロイドは言った。そのことについて、話す準備ができているかどうか、わからないんだ、と。

 だからドーリーは、自分には手に負えないようなこと、何か、耐えられないようなこと、たとえば、まだおまえのことを愛している、といったふうなことではないかと怖れた。「愛」という言葉を聞くのはたまらない。

「わかった」とドーリーは言った。「きっとその話はしない方がいいのね」

それから続けて言った。「やっぱり、話した方がいい。もしあたしがここを出てから車に轢かれたら、あたしには金輪際、わかりっこないし、あなただってもう二度とあたしに話すチャンスなんてなくなってしまうから」

「確かにそうだ」

「それで、何なの?」

「つぎだ。つぎのときに。ときどき、おれはこれ以上話せなくなってしまう。話したくても、出てこなくなる。言葉が」


(この項つづく)




アリス・マンロー「局面」 その8.

2012-12-27 23:57:08 | 翻訳
その8.



 自分が何を思っていたのか、はっきりと理解したときに、ドーリーはバスを降りるべきだった。入り口で引き返すこともできた。実際、重い足取りで車寄せを歩いてきたのに、ゲートのところで引き返す女たちも数人いたのだから。道路を渡って市内に戻るバスを待てばいい。きっとあの人たちはそうしているのだ。面会のために来てはみたけれど、やめようと思った人たち。きっと人間はいつだってそういうことをしているのだもの。

 そうはいっても、そのまま行ったことがよかったのかもしれなかった。ひどく奇妙で、憔悴した彼に会ったことが。どう考えても、わざわざ非難するまでもない人間じゃないか。いや、人間とはいえない。夢のなかの登場人物のようなものだ。

 ドーリーはよく夢を見た。ひとつの夢では、子供たちを見つけたあと、家から飛びだしたところ、ロイドがなつかしい、気楽な調子で笑い出す。するとサーシャも背後で笑っている声が聞こえて、初めてドーリーにも、なんとすばらしいことに、みんなでいたずらをしかけていたことがわかるのだ。



「あの人に会ったら、気分が良くなるか、それとも悪くなるかって、おっしゃいましたよね? 前の面談で、質問なさいましたよね?」

「ええ。しました」とミセス・サンズは答えた。

「一応、考えてみたんです」

「そうなの」

「きっとそのせいでわたしの気分は悪くなってると思うんです。だからもう行ってないんです」

 ミセス・サンズがほんとうは何を考えているか、なかなかわからないのだが、うなずいているところを見れば、悪い気はしていないか、同意しているかではあるのだろう。

 だからドーリーがもういちど面会に行こうと決めたときには、そのことは口にしない方が良いように思われた。なんであれ、起こったことを話さずにいるのは――たいていのときは、何も起こりはしないのだが――たやすくはなかったので、ドーリーは電話でミセス・サンズとの面談をキャンセルした。休暇を利用して出かけることにする、と言ったのだ。夏に入っていたから、休暇を取ってもおかしくはなかった。友だちと一緒です、とドーリーは言った。



「ジャケットが先週とはちがうな」

「先週じゃない」

「そうだったか?」

「三週間前よ。いまはもう暑くなってる。こっちの方が薄手なんだけど、ほんとはもういらないの。ジャケットなんていらないぐらい」

 彼は道中のことを聞いた。マイルドメイからだと、どのバスに乗らなければならないのか。

 ドーリーは、もうそこには住んでない、と言った。自分がいまどこに住んでいるかを教え、三台のバスを乗り継いでくることを話した。

「それじゃちょっとした旅行だな。大きな街に住む方が好きなのか?」

「その方が仕事を見つけやすいもの」

「そうか、働いているんだな」

 ドーリーは前に来たときにも、自分が住んでいるところやバスの話、どこで働いているかを話していた。

「モーテルの部屋を掃除してるの」と言った。「前にも言ったけど」

「ああ、そうだったな。忘れてたよ。すまん。学校に戻ろうとは思わないのか? 夜間学校は?」

 考えてみたことはあるけど、そのために本気で何かしようとは思ってない、と言った。いまやってる仕事はそんなに悪いものじゃないから、と。

 そこから先はふたりとも、何も話題を見つけられなくなってしまったらしい。

 ロイドはため息をついた。「悪いな。ごめんよ。人と会話するのに慣れてないんだ」

「だったらいつもは何をしてるの?」

「本はしょっちゅう読んでる。瞑想もな。思いつきで」

「そうなの」

「ここに来てくれてありがたいと思ってる。おれにとっちゃ大きな意味があることだ。だが、これを続けなきゃいけないとは思わないでくれ。おまえが来たくなったときだけで十分なんだ。来たくなったときだけでな。何かあったとか、そんな気分になったりしたら――つまり、おれが言いたいのは、おまえが来てもいい、と思ってくれたっていうだけで、たった一回でも来てくれたってだけで、おれには法外な贈り物なんだよ。おれが言いたいこと、わかってくれるか?」

 ドーリーは、ええ、わかると思う、と答えた。

 ロイドは、おまえの人生に干渉しようとは思ってないんだ、と言った。

「あなた、そんなじゃない」

「おまえが言おうとしていたのは、ほんとにそういうことか? 何か別のことを言おうとしてたんじゃないのか?」

ほんとうは彼女が言いかけたのは、どういう人生よ? ということだった。

ううん、そんなことない。ほかに言いたいことなんてないわ、と言った。

「それならいいんだ」



 三週間後、ドーリーに電話がかかってきた。事務所の誰かを通さず、ミセス・サンズ本人が直接電話をくれたのだ。

「まあ、ドーリー。まだ出かけたままかもしれないと思っていたわ。戻ってたのね」

「ええ」とドーリーは言いながら、どこに行っていたことにしようかと考えていた。

「つぎの面談の日を決めてなかったでしょう?」

「はい、そうですね」

「大丈夫よ。ただ、確かめておきたかっただけだから。調子は悪くない?」

「元気です」

「それは良かった。もしわたしの手が必要だったら、ここに来ればいいってこと、わかってるわね。ちょっと話をしたくなったようなときに」

「わかってます」

「それじゃ、元気でね」

 ミセス・サンズはロイドのことはふれなかった。まだ会いに行くことを続けているのか、とも聞かなかった。もちろんドーリーは、もう面会には行かない、とは言っておいた。だが、ミセス・サンズはふだんから、ものごとのなりゆきを感知するのがとてもうまい。それ以上聞いても、もう何も引き出せないとわかったときに、引き下がるのもとてもうまいのだ。もし聞かれていたら、自分はなんと答えただろう。ドーリーにはよくわからなかった。前に言ったとおり、嘘を重ねただろうか。それともほんとうのことを話していただろうか。実際にはロイドから来ても来なくてもかまわない、といった意味のことを言われたそのつぎの日曜日、ドーリーはまた面会に向かったのだった。

 ロイドは風邪をひいていた。いったいどうやって風邪なんか拾ったんだか、わけがわからない、とも言った。

 ひょっとしたら前におまえと会ったときにはもう風邪にかかっていて、だからあんなに陰鬱だったのかな、と。

 陰鬱だなんて。近ごろではそんな言葉づかいをする人と、ほとんど交わることもなかったので、ドーリーの耳にその言葉はひどく奇異に響いた。だが、彼はいつだってそんな言葉をつかう癖があったし、当然ながら、その当時はそんな言葉を聞いても、とりたてて奇妙に思うこともなかった。

「おまえにはおれが別人になったように見えるか?」とロイドは聞いた。

「そうね。見た感じは変わった」ドーリーは注意深く答えた。「わたしはどう?」

「きれいだよ」彼の口調は悲しげだった。

 ドーリーの内部で、何かがほぐれた。けれどもドーリーはそれを拒んだ。

「何かが変わったような気がするのか?」と彼が聞いた。「ちがう人間になったような気分か?」

 わからない、とドーリーは答えた。「あなたは?」

「完全にな」と彼は言った。



(この項つづく)



アリス・マンロー「局面」 その7.

2012-12-26 22:08:07 | 翻訳
その7.


 実際のところ、彼の言うとおりになった。少なくともロイドの目から見る限り、事態はそうなったのだ。あるとき、ドーリーは自分がマギーの家の台所にいることに気がついた。夜中の十時、自分が涙をこらえながら鼻をすすり、ハーブティーを口に含んでいることに。ノックしたときは、ドア越しにマギーの夫の「やれやれ、いったい何なんだ?」と言う声が聞こえたのだった。マギーの夫はドーリーのことを知らなかった。眉を上げ、口を固く結んでドーリーのことをじろじろと見ているマギーの夫に向かって、ドーリーは「ご迷惑をおかけして、ほんとうにごめんなさい」と謝った。そこへマギーがやってきた。

 暗闇の中、ロイドと一緒に住んでいる家の近くの砂利道を歩き、さらに幹線道路をずっと歩いてきた。そこでは車が来るたびに、道路端の溝に身を隠していたので、すっかり時間がかかってしまった。追い越していく車がロイドのものかどうか、注意して見た。見つかるのはいやだった。いまはまだ。脅かしてやる。ロイドの頭を冷やすのだ。いままでは自分でなんとかしてきた。泣きわめきながら頭を床にガンガンぶつけて「そんなことない、そんなことない、そんなことない」と繰り返すのだ。するとロイドも辛抱しきれず、自分の言ったことを取り消してくれる。「もういい、もういいから。おまえを信じることにする。黙んなさい。子供たちがいるじゃないか。信じてやるよ、ほんとうだ、だからもうやめてくれ」

 けれども、今夜、ドーリーはまさにそのお芝居を始めようとしたところで、すっと気持ちが冷えるのを感じた。だからコートを羽織ってドアを出た。ロイドの「そんなことをするんじゃない。言っておくぞ。そんなことをするとどうなるか!」とわめく声を背にして。

 マギーの夫はベッドに向かったが、ドーリーが「ごめんなさい、ほんとにごめんなさい、こんな夜分におじゃましてしまって」と謝り続けても一向に表情を和らげるようすはなかった。

「もう謝るのはおしまい」マギーは親切だけれども現実的な調子でそう言った。「ワインでも一杯どう?」

「わたし、お酒は飲まないんです」

「じゃ、こんなときに初めてのことはするもんじゃないわね。お茶をいれましょう。とっても気持ちが落ち着くのよ。ラズベリー・カモミールなの。子供たちのことではないんでしょうね?」

「ええ」

 マギーはドーリーのコートを脱がせてやると、クリネックスの束を渡して、涙を拭いて鼻をかみなさい、と言った。「まだ話そうとしなくていい。じき、落ち着くから」


 あるていど落ち着いてからも、ドーリーはあらいざらいぶちまけようとは思わなかった。ほかならぬマギーが問題の根本なのだと告げることになるからだ。ロイドのことを、あらいざらいぶちまけるのは、もっといやだった。どれほどうんざりしていたにせよ、それでもロイドはドーリーにとってはこの世で誰よりも近しい存在だ。そんな人間のありのままの姿がどんなだか、誰かに話すような羽目にでもなれば、つまり、そんなふうにあっさりと不実な態度を自分が取ってしまえば、何もかもが根こそぎ崩れてしまうような気がしたのだった。

 だからこう言った。ロイドとあたし、ケンカしちゃって。言い争うのにうんざりしてしまったから、ちょっと家を空けたくなったの。でも、もう大丈夫、と言ったのだ。わたしたち、仲直りできるから。

「どんな夫婦だって、そのくらいあるわよね」とマギーは言った。

 そのとき電話が鳴り、マギーが出た。

「そうね。このひとは大丈夫よ。気分転換に、ちょっと歩いた方がよかったのよ。わかりました。いいわ、明日の朝、お宅まで送っていきますから。あら、全然かまわないわ。はい。じゃ、おやすみなさい」

「ご主人だった」とマギーは言った。「わかったと思うけど」

「どんな感じだった? いつも通りだった?」

マギーは笑った。「いつもがどんなだか知らないもの。酔っぱらってる感じじゃなかったわ」

「彼もお酒は飲まないの。うちにはコーヒーだってないんだから」

「トーストでも食べない?」


 朝になると早いうちにマギーはドーリーを家まで送った。マギーの夫はまだ仕事に出る前で、子供たちと家に残っていた。

 マギーは早く戻りたくて焦っていたので「じゃあね。話せるようになったら電話して」とだけ言って、庭でミニバンを方向転換させた。

 早朝の寒い時間帯で、地面にはまだ雪も残っていたのだが、ロイドはジャケットも着ないで外の階段に腰をおろしていた。

「やあ、おはよう」大きな声、嫌みなまでに馬鹿丁寧な口調だ。ドーリーも、おはよう、と返し、彼の声音など気がついていないふりをした。

ロイドは彼女が中に入れるよう体を横にずらそうとはせず、「入ることはできない」と言った。

ドーリーは、たいしたことじゃないわよ、と自分に言い聞かせた。

「お願い、って頼んでも? お願いよ」

 ロイドはドーリーをじっと見たが、何も言わなかった。きつく結んだままの唇が、にやっと持ち上がった。

「ロイド? ねえ、ロイド?」

「中へは入らない方がいい」

「あたし、あの人によけいなおしゃべりなんかしてないわよ、ロイド。出て行ったりして、ごめんなさい。ただ、ちょっと息をつけるところがほしかったんだと思うの」

「入らない方がいいんだ」

「どうしたの? 子供たちはどこ?」

 ロイドは頭を振った。まるで自分が耳にしたくないようなことをドーリーが口にしたかのように。なにか乱暴な言葉を、ちょうど「クソッ」といった言葉を。

「ロイドったら。子供たちはどこにいるの?」

 ロイドがほんの少し体の位置をずらしたので、入りたきゃ入れよ、というぐらいの隙間ができた。

 ディミトリはまだベビーベッドにいた。横を向いたまま。バーバラ・アンはベッド脇の床に。自分で抜け出したか、引きずり出されたかのように。サーシャは台所のとびらのところにいた――なんとか逃げようとしたのだ。彼だけが、喉に痣ができていた。ほかのふたりには枕が使われたのだ。

「昨夜、電話したときには」とロイドが言った。「電話したときには、もう、こうだったんだ」

「すべておまえが自分でまねいたことだ」と重ねて言った。

 のちに評決は彼の精神障害を認め、裁判を受ける能力がない、とされた。彼は触法精神障害者である、と。保護施設に収容すべし。

 だがそのときのドーリーは、家から飛び出すと、みぞおちのあたりで腕を固く交差させたまま、こけつまろびつしながら庭を駆けたのだった。まるで体をすっぱりと切り開かれたのを、なんとかつなぎあわせておこうとするかのように。マギーが見たのもその光景だった。引き返すことにしたのだ。何か悪い予感がして、通りに出てからミニバンの向きを変えた。最初に思ったのは、ドーリーが夫に腹を殴られるか蹴られるかしたのだ、ということだった。ドーリーが何かわめいていたが、ひとことも聞き取れない。だが、相変わらず階段に腰をおろしたロイドの方は、黙ったまま、鄭重にわきへよけたので、マギーは家の中に入って、こんなことになっているのでは、とあらかじめ予測していたものを見つけた。それから警察に電話をかけた。

 しばらくの間、ドーリーは手当たり次第に自分の口の中にものをつめこむことをやめなかった。泥や草のつぎはシーツでもタオルでも着ている服でも。そうしていれば、身体のうちからわきあがってくる叫び声だけでなく、頭の中の光景さえも、息の根を止めて圧し殺すことができるかのように。ドーリーは鎮静効果のある薬剤を注射され、しかもそれは定期的に続き、実際に効果はあった。つまり、ドーリーは緊張病の別の状態が現れたのではなく、ただ静かになったのだ。症状は安定した、と言われた。退院すると、ソーシャルワーカーが新しい場所にドーリーを連れて行き、ミセス・サンズが引き継いだ。ミセス・サンズは住むところと仕事を見つけてくれて、週に一度、定期面談するように段取りを組んだ。マギーも、もしよかったら会いに行きたい、と言ってくれたのだが、ドーリーにとって、会うことに耐えられない人がいるとすれば、それは彼女だった。そう感じるのは自然なことよ、とミセス・サンズは言った。連想が起こるのね。マギーだってきっとわかってくれるでしょう、と。

 ミセス・サンズは、ロイドとの面会を続けるかどうかはあなた次第よ、と言う。「わたしはそうしなさい、とか、そうしちゃだめ、とかと言うためにここにいるんじゃないんですからね。会えばあなたの気持ちがましになる? それとも悪くなる?」

「わからない」

 ドーリーにはうまく説明できなかったのだ。自分が会っている相手が、ほんとうの彼ではないような気がしていること。ちょうど、幽霊かなにかのような。ひどく青ざめていて。同じように青白い、だらんとした服を着て、ちっとも音を立てない靴、室内履きか何かだろうか、そんなものをはいて。髪の毛が少し薄くなっているような感じだった。豊かに波打つ蜂蜜色の髪だったのに。肩からは厚みというものがなくなったようだった。いつもドーリーが頭をもたせかけていた鎖骨のくぼみも消えていた。

 事後、彼が警察に言ったのは、そうして新聞にも引用されたのは、この言葉だった。「子供たちを不幸と悲しみから救うためにやったことだ」

どんな不幸と悲しみだ?

「母親が自分たちを残して出て行ったことを知ったときの、不幸と悲しみだ」

 その言葉はドーリーの脳裏に焼きついた。もしかしたら彼に会おうと決めたのも、その言葉を撤回させようと考えたからかもしれない。彼に見せてやるのだ、認めさせてやるのだ。実際には何があったか。

「あなたが言ったんでしょ、口答えするな、さもなきゃ家から出ていけ、て。だからあたしは家から出たんだわ」

「たった一晩、マギーの家に行っただけじゃない? 家出なんて夢にも思ってなかったのに。誰も捨てたりしてないのに」

 けんかがどうやって始まったか、ドーリーはあますところなく記憶していた。ほんのちょっとだけ、缶がへこんだスパゲッティソースを買ったのだ。へこみのせいで安売りになっていて、うまく節約できたと思うとうれしかった。かしこい買い物だった、と思っていたのだ。ところが、ひとたび彼にそのへこみを問いつめられたときには、そのことは言わなかった。どういうわけか、気がつかなかったふりをした方がいいような気がした。

 こんなへこみに気がつかないやつがあるか、とロイドは言った。みんな毒を盛られてたかもしれないじゃないか。おまえ、どうかしてるんじゃないか? ひょっとしたら、そのつもりだったのか? 子供たちやおれをどうかしてやろうなんて腹づもりでもあるんじゃないか?

 おかしなこと、言わないで、とドーリーは言った。

 おかしいのはおれじゃない。頭のおかしい女以外に、家族のために毒入りのものを買ってくるやつはいないだろう?

 子供たちが居間のドアからじっと見つめていた。生きている子供たちを見たのは、それが最後だった。

 自分が考えていたのはそういうことだったのだろうか――結局、頭がおかしいのはいったい誰だったのか、わからせてやることが自分にできるとでも?


(この項つづく)





アリス・マンロー「局面」 その6.

2012-12-08 23:21:15 | 翻訳
その6.


 ドーリーは、ええ、と即答した。ただ、そのことがあってから、もう少し自分のいうことに気をつけるようになった。わたしからすればあたりまえのことでも、ほかの人にはわかってもらえないことだってあるんだ、と感じたのである。ロイドのものの見方は、一種、独特、それがあの人なんだ、と。病院で初めて会ったときからそうだった。婦長は堅苦しい雰囲気の女性だったが、ロイドは本名のミッチェルではなく、「ミセス・ビッチ-アウト-オブ-ヘル」と呼んでいた。あまりに早口だったので、ほとんど聞き取れないのをいいことに。婦長にはお気に入りがいて、自分はそうではない、と思っていたのだ。いまのアイスクリーム工場でも、ロイドがひどく嫌っている男がいて、「おしゃぶりルイ」と呼んでいた。ドーリーはその男の名前も知らなかったが。だが、少なくともロイドが腹を立てるのは、女だけではないことははっきりした。

 その人たちはみんな、あの人が思ってるほど悪い人じゃないにちがいない、とドーリーは思っていた。けれども反論しても意味がなかった。おそらく男の人って、敵が必要なんだ。ジョークを言わずにはいられないように。そうして、ロイドはよく、自分自身を笑いのめすように、自分の敵すらも冗談の種にした。ドーリーが一緒になって笑っても怒られないことさえあった。先に笑い出さない限りは、だが。

 マギーのことを、ロイドがそんなふうに思わないでくれたらいい、とドーリーは思っていた。おりにふれ、そうなりそうな気配を感じていたのだ。もし、学校や食料品店に行くときに、マギーの車に乗せてもらうことを禁じられたら、ひどく不便になる。もっと悪いのは、そうなったときにドーリーが味わうであろう恥の感覚だった。マギーには、なんで乗らないのか説明するために、ばかばかしいウソをつくことになるだろう。けれどもマギーにはわかってしまう――少なくとも、ドーリーがウソをついていることが。そうして、つまりそれは、ドーリーが悪い――実際よりも悪い――状況に置かれているということだ、とマギーは解釈するだろう。マギーは頭が切れるし、合理的な考え方をする人だから。

 そのあとドーリーは、あたしったらなんでマギーがどう思うか、気にしなきゃいけないんだろう、と思った。マギーなんて、よそものじゃない。一緒にいて心からくつろげるタイプの人でさえない。大切なのは、自分とドーリーと子供たちだ。そう言ったのはロイドだったが、ロイドの言うとおりだ。あたしたちふたりのあいだにあるほんとうのもの、あたしたちの絆は、ほかの人にわかってもらえるようなものではないし、何の関係もないんだ。あたしが忠実でありさえすれば、そのことを片時も忘れなければ、万事うまくいくにちがいない。


**

 事態は少しずつ悪くなっていった。直接、禁止されたりはしなかったが、難癖がどんどんと増えていった。ロイドはマギーの子供たちのアレルギーや喘息は、母親が悪いのだ、と言い出した。原因は母親にあることが多いのさ、と言う。病院でしょっちゅうまのあたりにしたよ。度を超した管理だな。たいてい高学歴の母親だ。

「子供のなかには、うまれつきの子だっているでしょ」ドーリーは考えもなくそう言った。「いつも母親のせいだとばかりはいえないと思う」

「おっと。俺にはそんな話はできないとでも?」

「そんな意味じゃない。あなたにできないなんて言ってない。わたしはただ、あの子たちが生まれつきが生まれつきかも、って言いたかっただけ」

「おまえ、いつから医学の専門家になったんだ?」

「自分が何だとも言ってない」

「そうだよな。おまえは何でもない」

 事態はいっそう悪くなった。ロイドはふたりが、つまりドーリーとマギーが話す内容を知りたがるようになったのだ。

「わからない。別に何でもないもの。ほんとよ」

「変だな。女がふたり、車に乗ってるんだろ。最初にそう聞いたぞ。女がふたり、何もしゃべらないのか。あの女、俺たちの間を裂こうとしてるんだ」

「誰がそんなことするの? あのマギーが?」

「あの手合いは知ってるんだ」

「あの手合い、ってどんな手合いよ」

「あの女みたいな連中さ」

「バカなこと、言わないで」

「言葉を慎め。俺のことをバカなんて言うな」

「あの人がなんのためにそんなことをするの?」

「なんでそんなことが俺にわかる? ただ、そうしたいんだろ。まあ、見てろよ。おまえにもわかるさ。あの女、そのうち俺がどれだけクソ野郎か、おまえがメソメソ泣きながら愚痴をこぼすようにし向けるから」



アリス・マンロー「局面」 その5.

2012-12-08 00:08:40 | 翻訳
その5.



 ロイドは自分の子供たちは家で教育を受けるべきだと考えていた。何も宗教的な理由、先祖が恐竜だ、原始人だ、猿だ、といった話に反対だったから、というわけではなく、子供たちを世間の荒波のただなかに放りこむより、両親の下で、少しずつ慎重に世間のことを教えてやった方が良い、という考えだったのだ。

「よく、あの子たちはうちの子じゃないか、って思うんだ」とロイドは言った。「つまり、教育省なんかのものじゃない、俺たちの子供なんだ、って」

 自分がうまく対処できるかどうか、ドーリーには自信がなかったのだが、教育省には指導要項があって、地元の学校を通じて授業計画書を取り寄せることがわかった。サーシャは頭の良い男の子で、ひとりで字が読めるようになったも同然だったし、ほかのふたりはまだ小さくて、何か教える必要もほとんどなかった。週末の夜になると、ロイドはサーシャに地理や太陽系のことや、動物の冬眠のこと、車が走る仕組みなどを教え、教科の方はどれも、何かわからないことがあればそれに答えなるというやり方をとった。ほどなく、サーシャは学校の授業計画の先をいくようになったのだが、ドーリーはとりあえず計画書を持ち帰り、サーシャに予定表に沿って課題をやらせたので、法令に抵触することはしないですんだ。

 その地域には、自分の子供を自宅で学ばせている母親がもうひとりいた。マギーという名でミニバンを持っていた。ロイドは仕事に行くのに車が必要だったし、ドーリーは運転を習っていなかったので、週に一度、学校に行って、やり終えた課題を提出し、新しい課題をもらってくるときに、マギーが、一緒に乗っていきなさいよ、と申し出てくれたのはうれしかった。当然のことながら、子供たちはみんな一緒に連れて行く。マギーには男の子がふたりいた。上の子は多くのアレルギーを抱えていて、口に入れるものすべてに母親が徹底的に注意しておかなければならない――そのせいで、マギーは息子を家で教えていたのだった。ならば下の子も同じように在宅でやらせてもいいだろう、と考えたようだった。下の子も、お兄ちゃんといっしょを望んだし、事実、喘息持ちでもあったのだ。

 それにひきかえ、ドーリーは自分の三人の子供たちがみんな健康であることに、ひどくほっとするのだった。ロイドは、おまえはまだ若いうちに子供を産んだけど、マギーは閉経間近まで子供を先送りにしていたからだ、と言った。ロイドはことのほかマギーが高齢であることを強調したけれど、彼女が先送りしてきたのはほんとうだった。マギーは検眼士だ。ずっと夫と共同で働いてきて、彼女が業務を離れるようになるまで、そうして田舎に家を持てるようになるまで、子供を作ろうとはしなかったのである。

 ごま塩のマギーの髪は、たいそう短く刈り込まれていた。背が高く、平板な胸をしていて、陽気で、自分の意見をはっきり主張する人だった。ロイドは彼女のことを、レズ、と呼んでいた。もちろん、蔭で、だが。電話口でマギーに冗談を言いながら、ドーリーに向かって口の形だけで「レズからだよ」と言った。けれども、ドーリーはそのことをさほど気をもんだりはしなかった。というのもロイドが、レズ、と呼ぶ女性は大勢いたからである。気になったのは、冗談口をたたくなんて、マギーにはなれなれしすぎると思われてるんじゃないかしら、とは思った。そうでなければ、邪魔をしてくるとか、少なくとも時間のムダ、ぐらいには。

「うちの薹の立ったお嬢ちゃんと話したいんだろ。すぐに呼んできてやるよ。いま、俺の仕事ズボンを洗濯板でゴシゴシ洗っているところだ。ほら、俺はズボンを一本しか持ってないから。とにかく、あいつは忙しくさせといた方がいいんだよ」


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 ドーリーとマギーは、学校で教材を受け取ったあとは、一緒に食料品の買い出しに行くのがきまりになっていった。そのあと、ときどきティムホートンズ(※カナダのファーストフードチェーン)でテイクアウトのコーヒーを買い、子供たちを連れてリバーサイド・パークに連れて行くこともあった。ふたりがベンチに腰かけているあいだ、サーシャやマギーの子供たちが追いかけっこをしたり、ジャングルジムからぶらさがったりして遊び、バーバラ・アンはブランコにのり、ディミトリは砂場で遊んだ。寒いときには母親たちはミニバンの中に移った。話題はもっぱら子供の話や料理のことだったが、それでもなんとなく、ドーリーにはマギーが検眼師として訓練を受ける前に、ヨーロッパのあちこちを旅したことがわかったし、マギーにはドーリーがかなり若いうちに結婚したことがわかった。それに、ドーリーが最初はものすごく簡単に妊娠したのに、いまではもうなかなか妊娠しなくなっていて、ロイドがそのことですっかり疑い深くなってしまって、避妊用のピルを隠していないかどうか、ドレッサーの引き出しを探っている、密かに飲んでるにちがいない、と思って、ということも。

「で、飲んでるの?」とマギーが聞いた。

 ドーリーはショックを受けた。まさか、そんなこと。

「彼に言わないままそんなことするなんて、絶対ムリ。彼がピルを探してるのも、ジョークみたいなものだから」

「あらまあ」とマギーは言った。

 一度、こんなことをマギーが言ったこともある。「あなた、いろんなこと大丈夫? 結婚生活ってことだけど。あなた、幸せなの?」


(この項つづく)




アリス・マンロー 「局面」その4.

2012-12-04 23:07:42 | 翻訳
その4.


 サーシャ(※ここではアレクサンダーの愛称)が一歳六ヶ月のとき、バーバラ・アンが生まれ、バーバラ・アンが二歳のとき、ディミトリが生まれた。サーシャという名前はふたりでつけたが、そのあとは、男の子が生まれたら彼が名づけ、女の子が生まれたら彼女の方が名づけるという約束をした。

 ディミトリはひとりだけ、コリック(※3,4ヶ月の赤ちゃんが夕方になると激しく泣くこと)を起こした。ドーリーは母乳が足りていないのではないか、栄養がないのではないか、と考えた。それとも栄養がありすぎる? とにかく、何かがいけないのだ。ロイドはラ・レーチェ・リーグ(※母乳育児支援団体)に頼んで、彼女に話に来てもらった。その女性は、どんなことをしても補助ほ乳瓶は与えちゃだめよ、と言った。それがきっかけになるかもしれないんだし、そうなったらすぐ、赤ちゃんはおっぱいをまったく受けつけなくなるから。あたかもそれが重大な悲劇であるかのように、そう言ったのだった。

 ドーリーがすでに補助ミルクを与えていようとは、夢にも思わなかったらしい。事実、赤ん坊はそっちの方が好きなことは確かなようで、どんどんおっぱいをうるさがるようになった。三ヶ月になるころには、まったくほ乳瓶だけになってしまい、そうなるともはやロイドに隠しておけない。なので、彼には母乳がでなくなったから、粉ミルクをあげることにする、と伝えた。かっとなったロイドが、意地になって彼女の乳房を交互にしぼったあげく、二、三滴の乳汁が、見るも哀れなようすでしたたり落ちた。彼は、おまえは嘘つきだ、とののしった。ふたりは激しく言い合った。おまえなんか、おふくろと同じあばずれじゃないか。

 ヒッピー女なんてみんな、売女さ。

 すぐにふたりは和解した。だが、ディミトリは機嫌の悪い赤ん坊で、風邪を引いたり、上の子供たちが飼っているウサギを怖がったり、お兄ちゃんやお姉ちゃんが支えなしで歩けるようになった年になってもまだ、椅子にしがみついていたりしたときにはかならず、母乳育児の失敗が持ち出された。


**

 ミセス・サンズのオフィスに、ドーリーが初めて行ったとき、そこにいたどこかの女性グループのひとりが、パンフレットをくれた。表紙は金の十字架で、金色と紫の字で「喪失の痛みに耐えられそうもないときは……」と書いてあった。表紙をめくると、淡い色調でイエスの絵が描かれてあって、細かい文字が印刷されていたが、ドリーはそれを読まなかった。

 デスクの正面の椅子に腰を下ろして、パンフレットをまだにぎりしめたまま、ドーリーはガタガタふるえだしていた。ミセス・サンズはそれを取り上げるためにドーリーの手をこじあけなければならなかった。

「誰がこんなものを渡したの?」ミセス・サンズは言った。

ドーリーは言った。「あの人」ドーリーは頭をしゃくって、閉ざされたドアの向こうを示した。

「あなたにはいらないわよね?」

「弱ってる人を見たら、手を出そうとする連中」ドーリーは言ったあとで、この言葉は母親が言っていたのに気がついた。女たちが病院に、これとそっくりのメッセージをもってやってきたときだ。「あいつら、人がひざまずいていさえすれば、万事オーケーだと思ってるんだ」

 ミセス・サンズはため息をついた。

「そうね」と彼女は言った。「確かにそんなに単純じゃないわ」

「その可能性すらない」ドーリーは言った。

「かもしれないわね」

 その当時はふたりとも、ロイドのことは決して口にしなかった。ドーリーは可能なかぎり断じて考えまいとし、そののち、自然のもたらしたひどい事故のようなもの、と思うようになった。

「たとえわたしがこんなものを信じたとしても……」と彼女はパンフレットの内容について言った。「それってただの……」

 彼女が言いたかったのは、こんなものを信じれるなら、都合はいいだろう、ロイドが地獄の火に炙られているところとか、そんなたぐいのことを考えることができるのだから、ということだったが、その先を続けることはできなかった。あまりにばかばかしい話のように思えたのである。もうひとつ、もうなれっこになってしまった、口のきけなくなる感覚、腹部をハンマーで殴られたようなあの感じが襲ってきたから。


(この項つづく)