陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

カーソン・マッカラーズ 『過客』 その4.

2006-11-30 21:50:42 | 翻訳
過客 その4.

 フェリスとエリザベスはふたりきりになった。その情況がおもりのようにのしかかって、しばらくのあいだ沈黙がたれこめていた。フェリスは、もう一杯飲んでもかまわないか、自分でやるから、と言うと、エリザベスはテーブルのカクテル・シェイカーを彼の側に置いた。フェリスはグランドピアノに目をやり、台に楽譜がのっているのに気がついた。

「いまもあのころみたいにうまく弾ける?」

「まだ楽しめるぐらいにはね」

「何か弾いてもらえないかな、エリザベス」

 エリザベスはすぐに立ち上がった。頼まれればいつでも弾いてみせるところにも、エリザベスの気だての良さがあらわれていた。ぐずぐずしたり、言い訳したりすることがないのだ。ピアノに向かおうとするエリザベスの姿には、これで安心、と感じているようすがうかがえた。

 バッハの〈前奏曲とフーガ〉が始まった。前奏曲が、朝日が射しこむ部屋のプリズムのように、軽やかな虹の色となってきらめく。フーガの第一声が、ひとりきり、凛とあげた声のようにつづき、繰りかえすその音に第二声がかぶさり、さらに緻密な枠組みのなかでもう一度繰りかえされ、いくつもの旋律が平衡を保ちながら静かに、悠然たる威容を保ちながら流れていく。主旋律はほかのふたつの声部と織りあわされ、巧みな仕かけがそれをいろどる――主役に躍り出たかと思うと、背景に隠れ、全体の音に埋没することを怖れない、たったひとつの音の崇高さを維持していく。終結部に向かって音の密度は増し、中心になる第一主題は豊かに盛り上がり、主旋律が和音で最後に提示され、フーガは終わる。フェリスは椅子の背に頭をもたせかけ、目を閉じていた。音の消えていく静けさのなかで、よく通る高い声が廊下の向こうの部屋から届いた。

「パパ、どうしてママがフェリスさんなんかと……」ドアが閉じた。

 ピアノがまた始まった――今度は何の曲だろう。何とも定かではなく、そのくせ懐かしい、澄んだメロディは、もう長いこと胸の内に仕舞いこまれたまま眠っていた曲だ。いま、このメロディが別の時間、別の場所のことを語りかける――エリザベスがよく弾いていた曲。繊細な調べが混沌とした記憶を呼び起こす。過ぎた日々が、渇望も、諍いも、愛憎入り交じる欲望も何もかもが奔流のように押し寄せ、フェリスはそのなかで自分を失いそうだった。奇妙なのはこの曲が、混乱と無秩序の触媒となったその曲が、こんなにも静謐で透明であることだ。歌うような調べは、女中が入ってきて断ち切られた。

「奥様、お食事の準備が整いました」

 ベイリー夫妻の間の席についてからも、フェリスの耳には途切れてしまった音楽がフェリスの気分に影を落としていた。少し酔ったようだった。

"L'improvisation de la vie humaine(即興たる人間の生),"フェリスはフランス語で言った。「人間の存在のありようは即興でしかないんだ、って、はっきりと思い知らせてくれるのは、途切れた曲だね。そうでなきゃ、古いアドレス帳か」

「アドレス帳?」ベイリーが鸚鵡返しに問い返した。そうして曖昧にしたまま、礼儀正しく口をつぐんだ。

「あなたったら昔のままの大きな子供ね、ジョニー」エリザベスの言葉にはかつての優しさの名残りが響いていた。

 その夜の食事は正統的な南部料理で、皿には昔からフェリスが好きだったものばかりがのっていた。フライド・チキン、コーン・プディング、砂糖づけのサツマイモ。食事のあいだ、沈黙が続くとエリザベスは会話が盛り上がるように気を配った。そうして結局フェリスもジャニーヌの話をするように仕向けられたのだった。

「ジャニーヌに会ったのは去年の秋だ――ちょうどいまごろの季節だった――イタリアでね。ジャニーヌは歌手で、ローマで契約をしていたんだ。じき結婚することになると思うよ」

 言っていることはいかにもありそうな、間違いのないことのようにも思えたので、最初のうち、フェリス自身が嘘だとは気がつかないくらいだった。彼とジャニーヌとのあいだで、この一年、結婚が話題になったことは一度もなかった。しかも実際のところ、ジャニーヌはまだ婚姻は継続しており――パリで両替商をやっている白系ロシア人で、別居してもう五年になる。けれども嘘を訂正する機は失していた。すでにエリザベスがこう言っているところなのだ。「そのお話しを聞けて、ほんとうに良かったわ。おめでとう、ジョニー」

 フェリスは真実を語ることで穴埋めをしようとした。「ローマの秋は実に見事だよ。爽やかで、花咲き乱れて」こうも言った。「ジャニーヌにはね、七歳になる男の子がいるんだ。三カ国語がしゃべれる不思議な子でね。ぼくらはときどき、チュイルリー宮にいくんだよ」

 これも嘘だ。公園にあの子を連れていってやったのは一度きりだ。半ズボンをはいて細い足をむきだしにした、やせっぽちの外国人の子供は、コンクリートの池でボートを浮かべたり、ポニーに乗ったりした。人形劇も見に行きたい、といったのだ。だが、時間がなかった。フェリスはスクリーブ・ホテルで約束があったのだ。人形芝居はまたちがうときに行こう、と約束した。チュイルリーにヴァランタインを連れて行ってやったのはたった一度きりだ。

(明日最終回の予定)

カーソン・マッカラーズ 『過客』 その3.

2006-11-29 21:28:16 | 翻訳
過客 その3.

 エリザベスが女の赤ちゃんを抱いて入ってきた。

「ジョン!」そう言うと、赤ん坊を父親の膝にのせた。「いらっしゃい。来てくださって、ほんとうにうれしい」

 小さな女の子はベイリーの膝の上にちんまりとすわっていた。淡いピンクのクレープデシンのベビー服は、胸元の切り替えの部分にぐるりとバラの刺繍がしてあって、おそろいの絹のリボンで、淡い、ふわふわしたくせ毛をうしろでたばねている。陽に焼けた肌、茶色い目には金色の斑点が散り、声をあげて笑っていた。手を伸ばして父親の角縁眼鏡をさわろうとしたので、父親は眼鏡をはずし、ほんの少し、眼鏡越しの世界を赤ん坊にのぞかせてやった。「どんなふうに見えるかな、おちびちゃん」

 エリザベスはたいそう美しかった、というより、おそらく、これほどまでに美しいとは気がついたことがなかったのだ。くせのない清らかな髪は輝いていたし、おだやかな顔は、なんの翳りもなく澄み切っている。聖母の美しさ、家庭的な雰囲気が醸し出す美しさだった。

「ちっともお変わりじゃないのね」エリザベスが言った。「あれからずいぶんになるのに」

「八年だね」フェリスはうしろめたげに薄くなった頭に手をふれながら、なおも社交辞令のやりとりをつづけた。

 不意に、自分が野次馬になったような気がしてくる――ベイリー家への侵入者、と言った方がいいか。なぜ自分はここへ来てしまったのだろう。自責の念がこみあげてくる。自分の生活がひどく孤独なものに思え、歳月の廃墟のただなかに、一本だけ、何のささえもなしに立つ、いまにもくずれそうな柱のように思えた。もうこれ以上、家族団欒の部屋に留まることには耐えられそうもない。

 フェリスは腕時計に目を走らせた。「劇場にいらっしゃるんでしたよね」

「ごめんなさいね」エリザベスが言った。「先月から予約していたの。でも、ジョン、あなたもいずれそのうち、お帰りになるんでしょう。国を捨てたわけではないのだから、ね?」

「国を捨てた、か」フェリスは繰りかえした。「そういう言い方は好きじゃないな」

「じゃ、どう言ったらいいの?」

 しばらく考えてから答えた。「過客、っていうのはどうだろう」

 フェリスがまた時計に目をやり、エリザベスがまた謝った。「もしもっと早くわかってたら……」

「ここにいるのは今日だけなんだ。急に帰国が決まったからね。父が先週亡くなったんだ」

「お父様がお亡くなりになったの」

「そうなんだ。ジョンズ・ホプキンス大学病院で。もう一年近く入院してたんだよ。葬式はジョージアの家であげたけどね」

「まあ、ほんとうにお気の毒だったわね、ジョン。お父様のことは、わたし、ずっと大好きだったのよ」

 男の子が椅子の向こう側からやってきて、母親の顔をのぞきこもうとした。「だれが死んだの?」

 フェリスのはりつめた気持ちが切れた。父の死で頭がいっぱいになったのだ。棺の中、絹の布の上に横たえられた亡骸が、ふたたび目の前に顕れた。遺体にほお紅がさしてあるのがひどく不自然で、見慣れた手が体を覆うバラの上で固く組み合わされていた。記憶はそこで途絶え、エリザベスの穏やかな声にはっとした。

「フェリスさんのお父様よ、ビリー。ほんとうに立派な方だったの。あなたはお会いしたことはないけれど」

「だけど、どうしてママがお父様、って言うの?」

 ベイリーとエリザベスが、しまった、というふうに目配せした。子供の疑問に答えたのはベイリーだった。「もうせん」父親は言った。「おまえのお母さんはフェリスさんを結婚してたんだ。おまえが生まれる前……ずっと前だが」

「フェリスさんと?」

 男の子はフェリスの顔をまじまじと見た。驚いた、信じかねるような面もちで。男の子の視線を受けとめたフェリスの目にも、何か、信じられないとしかいいようのない色が浮かんでいた。ほんとうにそんなことがあったのだろうか。かつてこの見も知らぬ女を、エリザベスと呼び、夜ごと、愛を交わすたびに“かわいいアヒルちゃん”と呼んだようなことが。ともに暮らし、おそらく千もの夜と昼を共にし……そうして……突然落ちこんだおそろしいまでの寂寞、結婚生活をおくるなかで紡いできた愛という織物が、嫉妬や、アルコールや、金銭上の諍いのなかでひとすじごとにほつれていく惨めさに耐えていったことが。

 ベイリーが子供たちに向かって言った。「誰かさんの晩ご飯の時間になったぞ。さあ、行こう」

「だけど、パパ、ママとフェリスさんが……ぼく……」

 ビリーの相も変わらぬまなざし――考えあぐねたような、うちにかすかな敵意のこもるまなざし――は、フェリスにもうひとりの子供の目を思い出させた。ジャニーヌの息子――憂いをおびた小さな顔と、品のいい膝小僧を持つ七歳の男の子で、フェリスがなるべく考えないようにし、多くの場合に忘れてしまっている子供だった。

「さぁ、行進だ!」ベイリーはビリーの体をドアの方向に優しく向けてやった。「さぁ、おやすみなさいを言いなさい」

「おやすみなさい、フェリスさん」それから恨めしげに言い足した。「ケーキの時間まで起きてていいと思ってた」

「あとでケーキを食べにここに来ていいのよ」エリザベスが言った。「いまはパパと一緒に晩ご飯を食べに行きなさい」

(この項つづく)

カーソン・マッカラーズ 『過客』 その2.

2006-11-28 21:48:39 | 翻訳
「過客」 その2.

 フェリスは確認の電話を入れるために、アドレス帳を取りだした。ページをめくるうちに、いつのまにかそこに引きこまれていた。名前や住所はニューヨークのものもあれば、ヨーロッパの首都のものもある、なかには自分の故郷である南部の、記憶もおぼろげなものがいくつかあった。色あせた、活字体で書いた名前や、酔いにまかせて書いた文字。ベティ・ウィリス:ゆきずりの恋の相手、いまは結婚している。チャーリー・ウィリアムズ:ヒュルトゲンの森(※第二次世界大戦)の戦闘で負傷、以降消息不明。ウィリアムズ老はまだご存命だろうか。ドン・ウォーカー:テレビ業界での受注生産でひとやま当てた。ヘンリー・グリーン:戦後、落ち目になって、噂では精神病院にいるらしい。コージー・ホール:彼女は死んだという話だ。奔放で笑い上戸のコージーが……。あの他愛のない女の子だったコージーまでもが死んでしまうなんて、奇妙なことのように思える。アドレス帳を閉じたフェリスは、偶然というか、無常というか、ほとんど恐怖に近いような感覚に襲われたのだった。

 不意に、フェリスの身体がぎくっとした。窓の外を眺めている目の前の歩道を、別れた妻の姿が横切ったのだ。エリザベスはすぐ近くを、静かな歩調で歩いていた。どうしてこんなに胸が騒ぐのか、自分でもよくわからなかったけれど、胸が激しく波うち、やがて度を失った感覚となんともいえないやさしい気持ちが、その姿が消えてもなお、あとに残っていった。

 急いで精算をすませ、息せき切って歩道に出た。エリザベスは交差点に立ち止まり、五番街を渡ろうとしている。声をかけようとそちらへ急いだが、その前に信号が変わって、エリザベスは渡ってしまった。フェリスもあとに続く。反対側の通りでは、いつでも追いつくことができたのだけれど、自分でもよくわからないまま、歩みを速めることはできないでいた。明るい茶色の髪をすっきりとまとめた姿を眺めているうちに、かつて父親がエリザベスのことを「ものごしが美しい」と言ったことを思い出していた。つぎの角で曲がったので、フェリスもそうしたが、もはや追いつこうとする気持ちは失せていた。自分のエリザベスを見たことで、自分の身に起こった動揺、手は汗ばみ、心臓が高鳴ったことが、いまさらながら不思議だった。

 フェリスがまえに別れた妻の姿を見てから、八年が過ぎていた。再婚したということも、何年も前に聞いていた。いまでは子供が何人かいるはずだ。ここ数年は考えることもほとんどなくなっていた。だが、離婚してからあとしばらくは、エリザベスを失ったことは、耐え難い苦しみだったのだ。やがて時という鎮痛剤が効き、彼はまた恋を、それからそのつぎの恋を重ねた。ジャニーヌがいまの恋人だ。別れた妻に寄せる思いは、まぎれもなく過去のものになってすでに長い。なのにどうして身体はかくも動揺し、胸が騒ぐのか。自分にわかるのは、このふたがれたような心は、日差しの明るい、翳るところのない秋の日に、ふしぎなほど場違いなものだということだけだった。フェリスは急に踵を返すと、おおまたに、ほとんど駆け出さんばかりにしてホテルに戻ったのだった

 まだ十一時にもならない時刻だったが、フェリスは酒を注いだ。まるで疲労困憊したかのように、肘掛け椅子に身を投げ出し、バーボンの水割りが入ったグラスを少しずつ口に運んだ。翌朝パリ行きの飛行機に乗るまで、丸一日ある。やらなければならないことを確かめてみた。エア・フランスに荷物を持っていくこと、上司と一緒に昼食を取ること、靴とオーバーを買うこと。それから何か――ほかになかっただろうか? 酒を飲み終えたフェリスは、電話帳を開いた。

 別れた妻に電話しようと思い立ったのは、衝動的なものだった。電話番号はベイリーの項にあった。夫の名前である。そうして、あれこれ自問するより先に、電話をかけていた。クリスマスにはカードのやりとりをしていたし、結婚通知を受けとったときにはナイフとフォークのセットを贈った。電話をしてはいけない理由など、なかった。だが、先方を呼び出すベルの音を聞きながら待っているあいだは、不安が胸を満たしていた。

 エリザベスの声がした。懐かしいその声は、新たな衝撃を与えた。二度、自分の名前を繰りかえさなければならなかったが、だれだかわかると、エリザベスはうれしそうな声になった。今日一日しかニューヨークにいられないんだ、と説明した。わたしたち、劇場の予約をしてるのよ、とエリザベスが答えた。でも、早めの晩ご飯にいらっしゃらない? フェリスは、喜んでそうさせてもらうよ、と返事をした。

 用事をひとつずつこなしながら、何か大切なことを忘れているような気がする瞬間が、相変わらず胸に兆す。フェリスは午後遅くには入浴と着換えをすませ、何度かジャニーヌのことを考えた。明日の夜には一緒にいられる。「ジャニーヌ」こんなふうに自分は話をするだろう。「ニューヨークにいるとき、前の女房にひょっこり会ってね、一緒に飯を食ったんだ。もちろんご亭主も一緒だよ。こんなふうに何年も経ってから会うなんて、奇妙な感じだったな」

 エリザベスは東五十番通りに住んでいたので、フェリスはタクシーでアップタウンへと向かった。交差点にさしかかるたび、立ち去りかねているような夕日が見えていたが、目的地に着く頃には、秋の日はとっぷりと暮れていた。そこはひさしのついたビルで、ドアマンが立っており、彼女のアパートメントは七階にあった。

「フェリスさん、どうぞお入りください」

エリザベスか、想像することもできない夫のほうか、と身構えていたフェリスは、赤毛のそばかすの子供に虚をつかれた。子供がいることは知ってはいたが、フェリスの意識のうちではどういうわけかその存在を認められずにいたのだ。あんまり驚いたので、へどもどと後じさったほどだった。

「ここがぼくたちのうちです」その子は礼儀正しかった。「フェリスさんでしょう? ぼく、ビリーです。お入りください」

 玄関ホールから居間に入っていくと、こんどは夫に驚かされることになった。感覚的には、夫の存在もまた、認めていなかったのだ。のっしのっしと歩いてくるベイリーは、赤毛で、起居振舞いの慎重な男だった。

「ビル・ベイリーです。初めまして。エリザベスもすぐ来るでしょう。着換えももうすぐ終わるでしょうから」

 その最後の言葉を聞いて、昔の記憶があとからあとからすべるように浮かびあがってきた。白い肌のエリザベス、入浴するために、肌をバラ色に染めて裸でいるところ。下着姿のまま鏡台のまえで、美しい栗色の髪を梳かしているところ。甘やかでくつろいだ睦み合い、柔らかな肉体の美しさを、まぎれもなくわがものにしていたこと。フェリスはふと浮かんできた記憶にひるみ、ビル・ベイリーのまなざしを正面から受けとめざるを得ないような気持ちになった。

「ビリー、台所のテーブルから飲み物をのせた盆を持ってきてくれないか」

 子供は素直に言うことを聞いて部屋を出ていくと、フェリスは世間話でもするように「いいお坊ちゃんですね」と言った。

「ええ、いい子ですよ」

 黙ってしまったところに、その子はグラスとマティーニのカクテル・シェイカーを盆にのせて戻ってきた。酒をきっかけに、ふたりは話を盛り上げようとした。ロシアの話、ニューヨークの人工降雨、マンハッタンとパリの住宅事情、ふたりはそんな話をした。

「フェリスさんは明日飛行機に乗って、海を超えるんだよ」ベイリーは自分が座る椅子のひじかけにおとなしく行儀よく腰をおろしている小さな少年に言った。「おまえはフェリスさんのスーツケースに入れてほしいのだろう?」

ビリーは 垂れてくる前髪をかきあげた。「ぼく、飛行機に乗って、フェリスさんみたいに新聞記者になりたいな」そういうと、急に言明するようにつけくわえた。「大きくなったらぜったいにそうなるんだ」

ベイリーが言った。「おまえは医者になりたいんじゃなかったのか」

「そうだよ! どっちもなりたいんだ。あと、原子爆弾を研究する科学者にもなりたいな」

(この項つづく)

カーソン・マッカラーズ 『過客』 その1.

2006-11-27 22:10:34 | 翻訳
今日からしばらくカーソン・マッカラーズの短編 "The Sojourner" を訳していきます。
"The Sojourner" とは、短期滞在者の意ですが、従来からの訳を踏襲して、ここでも『過客』とすることにしました。芭蕉の「月日は百代の過客にして……」というわけです。
だいたい五日をめどにやっていきます。まとめて読みたい人はそのころにどうぞ。
原文は
http://www.carson-mccullers.com/mccullers/TheSojourner.html
で読むことができます。

* * *

過客
by カーソン・マッカラーズ


 今朝、眠りと目覚めのほの暗いあわいにあらわれたのは、ローマだった。水しぶきをあげる噴水やアーチを抜ける細い道、花と年を経て脆くなった石で飾られた金色の街。このまどろみのなかでパリに、あるいは瓦礫と化したドイツに、またスイスのスキーと雪のためのホテルにおもむくこともあった。またべつのときにはジョージアの休耕地で狩りをする夜明けに。だが、歳月の彼岸である夢のなかでは、この朝はローマだった。

 ジョン・フェリスが目を覚ましたのは、ニューヨークのホテルの一室だった。なにかしら気持ちの塞がれるような出来事が自分を待ちかまえている……いまはそれが何なのかわからないが。そんな気がしていた。朝のあれこれをやっているあいだは、いったん気持ちの後ろに引っこんでいたその感じは、身仕舞いを整え、階段をおりていくときも、やはり引きずったままでいた。雲一つない秋の日で、穏やかな日差しが柔らかな色合いの摩天楼に切れ目を入れていた。フェリスは隣のドラッグストア(※アメリカのドラッグ・ストアは薬ばかりでなく、新聞や文房具も売り、一角で軽食も取れる)に入り、歩道を見渡す窓際の席に腰を下ろした。スクランブルエッグとソーセージという、アメリカらしい朝食を注文する。

 フェリスは故郷のジョージアで先週執り行われた父親の葬儀のために、パリから戻ってきたのだった。父の死の打撃は、自分がもはや若くはないのだということを意識させた。生え際も後退しつつあるし、いまやむきだしになったこめかみには静脈が波うつのがはっきりとわかる。身体は細くなってきたのに、腹だけはそろそろせり出しかけている。フェリスは父親を愛していたし、ふたりの絆は、かつてはきわめて強いものだった――だが、歳月を経るうち、子供としての情愛も、いつのまにか弱くなってしまっていた。その死はずいぶん以前から予期されたものであったのだが、思いがけないほどの落胆のうちに取り残されたように思った。可能な限り、実家で母や兄弟たちと過ごした。そうして、翌朝の飛行機で、パリに発つことになっていた。

(この項続く)

サイト更新しました

2006-11-26 22:18:20 | weblog
先日までここに連載していた「この話したっけ ~家のある風景」加筆修正してサイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

そもそもはマイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」(かの有名な映画“エクソシスト”のテーマ曲)を不意に思い出して、その音の記憶から、何か書けないかなぁ、と思ったのが、そもそもの発端でした。

「家」ということでもう少ししぼったほうがいいような気もするのですが、まぁ今回はこういう形で。

お暇なときにでものぞいてみてください。

ということで、それじゃまた。

見ている子供たち

2006-11-25 22:51:17 | weblog
見ている子供たち

しばらく前から朝日新聞の一面に「いじめ(て/られて)いる君へ」という読み切りのコラムが連載されている。各界著名人がおそらく中学生ぐらいの読者を想定して語りかけていて、正面写真がかならずついているのは、おそらく直接、顔の見える人間が語りかけている、という体裁を取っているからなのだろう。

最近、新聞の購読数は明らかに落ちていて、わたしの住むアパートでも、同じ階の並びで新聞を取っているのは、わたしのところのほか、もう一軒しかない。その家はリタイアしたご夫婦が住んでいらっしゃるところで、新聞を支えている年齢層というのは、かなり高くなっているのではあるまいか。
わたしは文句を言いながらも、結構な新聞読みなので、さしあたっては購読を続けるつもりなのだけれど、実際、ニュースを知るだけなら、インターネットのニュース配信でだいたい十分なのかもしれない。
忙しいなか、毎朝新聞を読むような人というのは、今日的には、限られて来ているのかもしれない。

少なくとも近所で見る限りでは、中学生がいる二軒は、新聞は取っていない。
そんな状況で、実際に中学生が読むのかどうなのか、かなり疑問なのだが、なかにはそれを読んで、なるほど、と思う子がいないとも限らないし、伝染しやすいネガティヴな情報を、自殺のニュースなどという形で振りまいているのだから、それと反対の読み物があるのは、バランス的にはいいのかもしれない。

ただ、わたしが思ったのは、その記事の効果のことではない。

「いじめ」というのは、いじめる側と、いじめられる側しかないわけではないだろう。
おそらく、割合からいけば、傍観者である子が一番多いのではないのだろうか。

いまの「いじめ」は、過去のそれとはちがう、とよく書いてあって、そうなのかもしれない、とも思う。それでも、クラスの全員が一致してひとりの人間をいじめる、ということはまれで、いじめるグループがいて、いじめられる被害者がひとりいて、まわりはそれを知りながら、かわいそうに、と思っても、自分に火の粉が飛んでくるのがいやさに、ただ、見ているのではないのだろうか。

そうして、そんな子はどんな気分でいるのだろう、と思うのだ。

ジョディ・フォスターが主演した『告発の行方』という映画がある。
これはレイプされた女性が、レイプした加害者ではなく、まわりで唆した男たちを教唆罪で告発していくものだった。
まわりで煽る人間がいなければ、加害者もレイプ行為にまでは及ばなかった、という判断が下されるのである。

観客の存在によって、逆にわたしたちは思ってもみなかった行動に出てしまうことがある。
つい、期待に応えてしまったり、期待とまではいかない、場の空気、としかいいようのないものに流されて、冷静な判断を失ってしまったり、あるいは、見ている人に向かって、自分はこんな人間だとアピールするために、行動をとることもあるだろう。
観客、というのは、そこにただいるだけで、自発的に何もしなかったとしても、行為者にとって大きな影響力をもってしまうのだ。

たとえばクラスにA君という子がいるとする。
A君は、些細な逸脱をしている。校則より髪がほんの少し長いのかもしれないし、校則では認められない色の靴下をはいているのかもしれないし、i-podをこっそりかばんにしのばせているのかもしれない。

このA君が悪い、と、B,C,D君らが糾弾を始めるとする。
このとき、残りのクラスメイトは「観客」である。
「観客」に対し、B,C,D君らは、糾弾の正当性を訴えるために、一層糾弾は激しくなっていくとする。B,C,D君に対する賛同者は増え、徐々に勢力は拡大していくかもしれない。糾弾の声はいよいよ苛烈に、いよいよ執拗に、片時もA君を許さないものになっていくかもしれない。
この段階では、もはやA君が謝ろうが(一体だれに?)、反省の弁を口にしようが、何を言っても、火に油をそそぐばかりとなってしまうかもしれない。
「悪かった」と言ったところで、「反省もしてないくせに」と揚げ足をとられ、一層の糾弾の正当化に利用されるだけかもしれない。

ここでも、「観客」の存在は、糾弾する側にとって、大きい。
そしてまた、糾弾される側、A君にとっても「観客」の存在は大きいだろう。彼からすれば、観客の目は自分を排除する視線でしかないはずだ。

さて、「いじめ」というのは、いったいどの段階から該当するのだろう。
A君は、B,C,D君らは、観客のクラスメートらは、どこから「いじめ」であると判定するのだろう。

実際に現場の雰囲気を知っているわけではないので、もしかしたらこんなものではないのかもしれない。
けれども、もし「いじめ」がこんな状態で始まっていくとしたら。
排除している側が「いじめている」とまったく自覚していないケースだって、なくはないと思うのだ。
ましてその場にいることで、直接何もしていなくても、結果として加担することになってしまった側としてみれば、自分に一体何の関係があるのか、と言いたくもなるかもしれない。

こういうことをどう考えたら良いのか、わたし自身よくわからないのだけれど、少なくとも、そういう状態にある人間に「やめる勇気を持とう」と呼びかけることなど、まったく意味をなさない、ということだけはわかる。

ただ、「いじめ」という物語の枠組みがここまで大量にストックされてくると、みんなに糾弾されて、息苦しさ、やりきれなさを覚えているA君は、すぐに「これはいじめだ」と気がついて、声をあげることができるかもしれない。
大量にストックされているせいで「いじめは悪い」と結びつきやすいために、とりあえず「いじめ」の声を聞いて、止めに入る誰かが登場するかもしれない。
たとえそれが根本的な解決にはほどとおいにせよ、対処療法的な役には立つのかもしれない。

おそらく、これだけ「いじめ」をめぐる物語がストックされていくと、そんなわかりやすい形での「いじめ」は、おそらく減っていくだろう。
けれども、つぎにそれがどんな形をとって現れてくるかは、だれもわからないのだ。


昨日読みにきてくださったかたへ

2006-11-25 06:06:15 | weblog
すいません。
昨日のログはコピペに失敗していました。

尻尾が切れてます。
残りをはっつけましたので、「米屋の親爺」がどうなのか、気になる方はどうか続きを見ておいてください。
タイトルの意味もわかるはずです。
ほんと、読みに来てくれた人、ごめんなさい。

うーん……。
またやってもうた……。

情けないわたしとしては

2006-11-24 22:52:28 | weblog
「オイルショック」の話は、何度も聞いたことがあるし、どういうわけかトイレット・ペーパーや洗剤、砂糖までが店頭から消え、買い物カゴをさげた主婦らしい人が、何かを引っ張り合っている写真まで見たことがある。
なぜ中東戦争の影響で砂糖がなくなる、という話になったのか、いまだにわたしはよくわからないのだけれど、ともかく、「その当時の日本人は、風説で不安を煽られ、買いだめに走ったのだ」ということを、授業やらなにやらでしきりに耳にした。
つまり、当時のひとびとは、なんというか、ナイーヴだったのだ、といった見方である。

ところが、こうしたことは、ある年を境に、ぴたりと言われなくなったように思う。
そのある年、というのは、わたしはいまでもはっきり覚えているのだけれど、1993年のことである。

わたしはこういう記憶のしかたをしているのだけれど、1991年は湾岸戦争の年だし、1992年は小中学校が土曜日が休みになった年だし(当時小中学生相手の塾の先生をしていたのだ)、1993年は異常気象の年だ。夏に雨ばかりが続いて、夏らしい日がほんの数日しかなく、その結果、秋になって米がなくなる、という騒ぎになったのである。

別に米がなくても痛くも痒くもなかった当時のわたしは、米がない、だとか、タイ米はまずい、だとかいう大騒ぎを、自分にはまったく無関係の出来事として、外から眺めていた。
その年の秋ぐらいから徐々に騒ぎは大きくなり、スーパーの店頭からも米は姿を消し、輸入米が並ぶようになるまで、わたしはほとんど米を口にしていなかったかもしれない。それでもパンだってスパゲティだってうどんだっていくらでもあるので、自炊をしている身には、一向に痛痒を感じなかったのである。
やがて、評判の悪いタイ米も買ったし、カリフォルニア米もオーストラリア米も買ったような気がする。だからどうした、という記憶はほとんど残っていない。

近所に米屋があった。
それまでは、そんなところで米など買ったことがなかったわたしは(たいていスーパーで、2kg入りの小さな袋を買っていたのである)、そこに米屋がある、ということさえ知らなかった。ガラス戸のはまった古い構えの店は、たとえその前を何度通っても、興味を引いたことがなかったのである。

それが、その年に限って、にわかに注目を集めるようになってしまった。
「つぎの発売日は×日」という張り紙が、冬頃には出て、その日には店の前に長蛇の列ができるようになったのである。入荷のルートがある、というより、売り惜しみをしているらしい……などという噂も耳にしたが、ともかく、そこまでして国産米を買いたい、という気持ちはどうしたって理解できなかった。

それがある日、同じ寮に住む寮生に、一緒に米を買いに行こう、と誘われた。
彼女は、どうしても米がないと、ご飯を食べたような気がしないのだ、という。並んでまで買いたくない、とわたしは断ったような気もするのだが、もしかしたらそんなに国産米が特別においしいのか、確かめてみたい、という気持ちもあったのかもしれない。どういう流れだったのかは覚えていないのだけれど、ともかくわたしたちは連れだって「入荷」の日に、そこに並びに行ったのだ。

すると、その米屋の親爺が、並んでいる客に向かって、説教するのである。
あんたたちも米屋のありがたさがよくわかっただろう、とかなんとか、そんなことを言うのである。
ほんとなら、ウチの米は、ずっとウチを大切にしてくれはったお得意さんだけに回してあげたいのや。それをあんたらにも分けてやろう、ゆうのんやからな。ありがたい思うてもらわなな。

わたしはそれを聞いて、それ以上自分の番が来るまで待つのもバカバカしくなって、ひとり先に帰ってしまったのだった。ただ、苦労して手に入れた子からは、やっぱり国産米はちがう、あなたももうちょっと我慢したらよかったのに、と言われたときは、内心、その「おいしさ」は多分に苦労した経験が反映されているものではないか、と思ったのだった。

やがて94年の暑い暑い夏が来て、やがて新米が出回るようになる。
米屋の前はまた閑散とし、開いているのか、閉まっているのかわからないような状態になっていった。あのとき、辛抱して並んだ人も、米屋の親爺のイヤミを我慢した人も、二度とそこで買おうとは思わなかったにちがいない。

しばらくわたしはよく考えたものだ。
米屋の親爺にとっては、もしかしたら販路を拡大するチャンスだったのかもしれなかったのに。
確かに、長年、自分の店を無視し、スーパーになくなったからといってやってきたような連中に、自分が扱う大切な商品を売りたくなかったのかもしれない。
その気持ちはわからなくはない。それでもそれを客にぶつけて、何の良いことがあるだろう。
「わが世の春」は長くは続かない。やがて秋が来るし、新しい収穫もあるのだ。

米屋の親爺ひとりが

(※昨日コピペに失敗してました。眠かったから確認もしてませんでした。ゴメンナサイ。話はこんなふうにつづきます。)

どうかしていたわけではない。
タイで実際に食べている人がいるものを輸入して、まずいだの臭いだのと言っていたことも、国産米をどうしても子供に食べさせてやりたい、と何時間も並んだ人も、冷静に考えてみれば、どうかしていたのだ。
わたしはたまたまいろんな回り合わせから、その騒動の外にいることができたけれど、やっぱり巻き込まれて「どうかしてしまう」ことだってあるだろう。

そうやって、時ならぬ米騒動の年は終わっていった。
けれども、そのことでみんな学んだのではなかったのだろうか。
それまでは、オイルショックのときの騒動を見て、みんな自分とは関係のない、昔のバカな人々、と思っていたことが、自分たちにも、実際に起こるのだ、ということを。
そうして、いま取った行動は、確実に将来にはね返ってくる。
どうしたらいいかわからないとき――
結局は、日常的にわたしが他者と共有している知識に照らし合わせてみるしかないのかもしれない。

たとえば、人には親切にしておいた方がいい、とか。
自分はある状況においては、愚かなことをしてしまう、とか。

そんなことを考えていると、あまり「ザマアミロ」と気持ちがスカッとしたり、他人に引き比べて自分を誇りたくなったりすることはできなくなって、なんとなく、いつも少し自分が情けなく思えたりもするのだけれど、そのカッコ良くない自分、ちょっと情けない自分をつねに忘れないでいるかぎり、そんなにとんでもないことにはならないのではないかな、と思ったりするのだ。

家庭の問題

2006-11-23 22:12:44 | weblog
家庭の問題

(※今日はめちゃくちゃマニアックな話です)

十代だったわたしが聞く音楽には二種類あった。
ヘッドフォンを耳にかけ、半ば目を閉じて、ひたすら音に没頭して聞く曲と、踊る曲と。ツェップやイエスやピンク・フロイドが前者の音楽だとしたら、マドンナの曲が後者の曲だった。
たいがい、ツェップやイエスを聞いている連中に、わたしが“狂気”なんかと一緒に "ライク・ア・プレイヤー" のテープを持っているのが見つかってしまうと、フフンと鼻先で笑われ、一緒に"ラッキー・スター" を踊っている連中に、いま何を聴いてる? と聞かれて"War" などと答えようものなら、わぁ、クラーイ、などと言われ、どうやらふたつのまったくちがう世界をふらふらと渡り歩いていたらしい。
そのうちハウス・ミュージックがはびこり始め、ダンス・ミュージックの世界からは足が遠のいてしまい、そうしているうちにいつのまにかダンスというと、体をくねくねさせるだけで、空間のひろがりをちっとも感じさせないヒップ・ホップ(偏見であることは承知している。プラス、偏見を持つことは実は楽しいのだということも、理解している)が主流になって、ダンスそのものにも興味がなくなってしまった。つまり、まぁわたしのダンスに対する興味というのは、そのくらいのものだったわけだ。

とはいえ、80年代の終わりから90年代初頭にかけて、やはりわたしのイコンはマドンナで、90年代半ばにマドンナに関する本がドサッと出て、わたしはよくわからないまま、これってすごくおもしろい、と思いながら読んだのが、実はカルチュラル・スタディーズとの初めての出会いだ。ただ、出しているも、マドンナの関連本、ぐらいに思っていたのではなかったのだろうか。ともかくわたしはマドンナを使って、こんなにこむずかしい話ができるのか、と思うと、すっかり楽しくなってしまったのだった。

ただ、マドンナの関連本が日本でそんなふうに出ていたころには、アルバム“エロティカ”を出してしばらくのころで、わたしはあのアルバムは結構好きだったのだけれど、いわゆる人気の絶頂期は過ぎていたような気がする。

やはり人気のピークというと、なんといっても90年の“ブロンド・アンビション・ツアー”のころではなかったか。
わたしはこのステージを横浜で見ているのだけれど、この横浜のライブ・ビデオ、あとそのツアーを追ったドキュメンタリー映画“イン・ベッド・ウィズ・マドンナ”は、のちに大学に入ってTVとビデオを買ってから、ビデオテープに筋が入るまで見ることになる。

全体の構成といい、ステージのセットといい、ダンスといい、ミュージシャンといい、どういうわけか歌もダンスも冴えないふたりのバッキング・コーラスの女性をのぞくと、まあとにかくものすごい。なかでもゲイブリエルというバック・ダンサーのダンスはほんとうに超絶技巧で、わたしは途中から彼のダンスばかりを見ることになってしまうのだけれど、残念ながら彼は90年代の半ばにエイズで亡くなっている。

ともかくこのショーはいくつかのテーマに分かれているのだが、アンコール曲、というか、全体のフィナーレになるのが、“キープ・イット・トゥギャザー”という曲、家族をテーマにした曲なのである。

ところがショーではマドンナのオリジナル曲“キープ・イット・トゥギャザー”に、スライ・アンド・ファミリー・ストーンというグループの“ファミリー・アフェア”という曲が組み合わされているのだ。

マドンナは、曲が始まると、まず“ファミリー・アフェア”の冒頭部の“これは家族の問題さ、家族の問題さ”というバッキング・コーラスを受けて、こんなふうに歌い始める。これは“ファミリー・フェア”そのままだ。
ひとりの子供が大きくなって
勉強が大好きな子に育つ
もう一人の子は
恋に身を焦がすようになる
ママはどっちの子供も大好き
だってそれは血だから
どちらの子もママには優しい
血は泥よりも濃いものだから

“時計仕掛けのオレンジ”の主人公グループのような衣裳を身につけたマドンナが椅子の上に乗ってここまで歌うと、今度はダンサーを手で指し示して“これがわたしの家族”と紹介して、“ファミリー・アフェア”からそのまま自分の歌“キープ・イット・トゥギャザー(ずっと一緒にいるのよ)”と歌い始めるのだ。
ダンサーたちは、椅子の上で歌うマドンナを、小さな子供が母親を見上げるように、低い位置から見上げる。そうしてマドンナは、兄弟や姉妹のなかで身動きがとれなくなったわたしはここを出ていく、だけどパパは、お前には帰る家がある、って言った”と歌うのである。
家族とはずっと一緒
家族はこれまでの歴史を思い出させてくれる
兄弟や姉妹はあなたの心や魂の扉を開く鍵を持っている
そのことを忘れちゃだめ
あなたの家族は黄金よ

そうして、間奏に入るとダンサーたちを「家族」と呼びながら、“寂しくなると、ありのままのわたしを愛してほしくなる、みんながそうあってほしいわたしではなく”“家族こそ心が戻っていく場所”と歌い続ける。

ところが、“ファミリー・アフェア”でマドンナが切り捨てた方の歌詞は、そうはなっていかない。
一年前に結婚した
だけどお互い、チェックするのをやめられない
だれもどこにも行きたくない
だれも仲間はずれにされたくない
あんたたちはどこにも行けないよ、
だってあんたたちの心はそこにあるから
だけどあんたたちはとどまることもできない、
だってあんたたちはずっとどこかよそにいるのだから
あんたたちは泣くこともできない
壊れちゃったように見えるから
だけどあんたたちはどのみち泣くことになる
もう壊れちまってるから

こちらで歌われる「家族」は、そこから出ることもできず、いつづけることもできない家族なのである。

マドンナが「黄金(ゴールド)」と歌ったこの疑似家族は、ツアーのドキュメンタリー・フィルムが圧倒的な成功を収めることで、逆に空中分解していく。七人のバックダンサーたちの三人がマドンナを訴え、訴えたうちのひとりは先にも言ったようにエイズで亡くなる。
なんともかとも象徴的な話で、マドンナの「子どもたち」は、まさにマドンナが切り捨てた歌の歌詞のほうへと流れていってしまうのである。

アメリカで「家族の時代」とひとしきり言われたのが、ほぼこの時期。
離婚率や母子家庭の増加を背景に、家族の再生が言われたけれど、その状況は一向に変わってはいない。

そうではありながら、マドンナひとりは、しっかりと子供を産み、結婚し、「家族」の絆を着々と強固なものにしていっているようなのだ。

「これがわたしの家族」とステージの上で呼びかけられ、子供を演じていたダンサーたちは、その後どうなったのだろう、と思う。
輝くような才能があったゲイブリエルを除いたダンサーたちは、そこから出ていくことができたのだろうか。

どうでもいいような余談なのだが、そのバック・ダンサーのひとりのケヴィンはどういうわけか日本で松田聖子と一緒のコマーシャルに出ていた。
たまたま新宿アルタの巨大スクリーンでそのコマーシャルを見たわたしは、ひっくり返るくらい驚いてしまったのだが、マドンナのバックダンサーを知っている日本人はそれほど多くないと思うので、驚いた人も多くはなかっただろう。ケヴィンをそののち日本のメディアで見かけたことはないのだけれど、芸能情報に疎いわたしだから、よくわからない。
もしかして、ケヴィン・スティー、売れましたか。

この話したっけ ~家のある風景

2006-11-22 22:26:53 | weblog
6.家の記憶

これまで、いくつもの家に住んだし、いくつもの家に入っていった。一軒の家だったこともあるし、単なる部屋だったこともある。ひとりで住んだこともあるし、何人かで一緒に住んだこともある。

たいていのとき、自分の家は意識にのぼらない。
ところが他人の家に行くときは、その「家」が強烈に意識される。招待してくれたその家の主を超えて、「家」が圧倒的な存在感を持って、迫ってくる。
「家」はそこに住む人間の単なる「入れ物」ではない。

逆に、ふだん意識に上らないはずの自分の家が、引っ越したとき、あるいはだれかが家に来たとき、つまり自分の日常から逸脱すると、急に意識されるようになってくる。そうして、日常を取りもどすにつれ、また「家」のことは意識からこぼれおちてしまう。

わたしが初めて家族を離れ、長年住み慣れた家を離れて、新しい場所に移ったとき、どこか方向感覚を失ったような気がした。東西南北がやたらはっきりしている京都の街だったのに、自分の内に方向感覚を失っていたのだ。

そのとき、わたしは「家」が自分の感覚の起点となっていたことを知った。
そうして、寮の一室が自分の「家」になっていくとともに、わたしはふたたび方向感覚を取りもどしていたのだった。
そうして、そのときはすでに長年暮らした自分の実家は、「実家」であって、いま、ここにいるわたしの「家」ではなくなっていた。

「家」はまず、形を持つ。
木造の一軒家、二階建て、マンション、そうして建物の中の一室。
「家」というのは、建物ばかりではない。
「家」の中に入れられる家具調度の類は、そこに住む人間を伝える。生活をしていくうちに、家具調度類は生活を反映させていく。
そうなると、「家」は同時に生活の一要素ともなっていく。

隣家の犬の声がやかましいアパートの一室に住んだことがある。そこで生活した期間が短かったこともあるけれど、そこでの生活の記憶が妙に希薄なのは、あまりに犬がやかましかったせいで、その部屋と深い関係を結ぶことができなかったのではないか、と思う。「自分の家」という意識は、犬の声によってさえ左右される。

家は、雨露ばかりではない。
外の世界や外部の視線から、わたしを守ってくれる。
家にいれば、保護され、安心感を抱く。そうやって、わたしは家と絆を結んでいく。

建物であり、物理的な存在でありながら、それを超えてわたしの意識と結びつき、さまざまな記憶の背景となっている家。
同じような家は、何千軒、何万軒とあるのに、わたしの「家」はただ一箇所。


あんたたちはどこにも行けないよ、
だってあんたたちの心はそこにあるから
だけどあんたたちはとどまることもできない、
だってあんたたちはずっとどこかよそにいるのだから
―Sly and the Family Stone "Family Affair"


(この項終わり)