陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

がまんという美徳

2008-07-30 23:25:00 | weblog
昨日と関係のあるようなないような話を続ける。

おそらく「モンスターなんとか」と呼ばれる人が、そこまで理不尽な行為に出ることができるのは、「自分が被害者だ」「自分に対して害をなす人間は、許してはおけない」「断固、正義が行使されるべきだ」という意識に凝り固まっているのだろう。

そうして、何よりも恐ろしいのは、そうした「モンスターなんとか」を排除しようと考えるとき、今度はわたしたち自身が同じ思考のわだちにはまってしまうことだ。
わたしたちの共同体に害をなす「モンスターなんとかを許してはならない」「正義が行使されるべきだ」として排除しようとするとき、わたしたち自身が今度は「モンスターなんとか」になってしまうのだ。

まるでフォークダンスをするように、わたしたちの立場というのは容易に入れ替わる。
それこそニーチェの『善悪の彼岸』ではないが、「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とな」ってしまうのである。ところがひとりの理不尽は目立っても、集団の理不尽は目立たない。たとえ同じことをやっていても、ひとりならば「モンスターなんとか」とレッテルを張っておしまいにできるが、集団でそれをやると、集団全員が「モンスター」なものだから、だれひとりそれに気がつかない、ということになる。ほんとうにわたしたちが恐れなければならないのは、ひとりの突拍子もないことをする「モンスターなんとか」ではなくて、「気がつけばあなたもわたしもモンスター」の状態の方だろう。

このことには、もうひとつの問題もあるように思える。

たとえばわたしたちが、あるグループのなかで、何らかの責任のある立場なら、そこに少々気にくわない人間がいたところで、その人間に対して過度に攻撃的に出るようなことはしないのではあるまいか。腹が立っても、自分の体面を考えたり、影響力を考えたり、あるいは自分の行動が影響を及ぼしうる範囲を考えたりすると、ある行動について自分も他人も納得させられる動機を前もって見つけられないような場合は、おそらくそういう行動をなるべく避けようとするに違いない。

もちろん社会的ステイタスを棒に振るようなふるまいをしてしまう人のことも連日報道されているので、いちがいには言えないが、そうした社会的ステイタスのプレッシャーに耐えかねて、逸脱してしまう人の起こす犯罪的な行為と、いわゆるその「モンスターなんとか」と呼ばれる人の行為は、質が異なるように思える。

社会的に孤立している人間は、ある行動について、誰かに説明する必要がない。そういう人間が、何らかの行動を取る前に、自分だけでも納得させられる動機を前もって見つけようとするとは考えにくい。まして、他人が説得できないから、こういうことをするのはやめようと考えるはずがない。

そう考えていくと、共同体による意識・無意識の紐帯が弱い人物の方が、「モンスター化」しやすい、ということになる。

もともと孤立している人間が、孤立しているがゆえに、他人と望ましい人間関係が築けない、と腹を立て、突拍子もないことをしでかすのが「モンスターなんとか」であるとしたら、その人物を排除することは、もともと排除されかけているのだから、ものすごく簡単だが、問題の解決にはまったくなっていかないだろう。排除すれば、つぎの端にいる人間が、なんらかのきっかけで別の「モンスターなんとか」になる可能性はきわめて高い。

おそらく「モンスターなんとか」を生みださない一番いい方法は、一緒にいて不愉快な人間を、「モンスター」と思わないことだ。そのようなレッテルを張ることによって、関係に決着を与えないことだ。変な言い方だが、日常的に、イヤな人間を、イヤだと思いながら、それでも自分が苦しくならない方法を探る。もちろん人に「あいつ、イヤなやつだろ? そう思うだろ?」と同意も求めず、なんとか最小限の接触に留めながら、かといって関係を切ってしまわない。そうして、たとえ何かが起きても、それほど極端なことでなければ、あるていどは「仕方がない」と割り切りながら、成り行きにまかせることだ。

わたしたちはどこかで「備えあれば憂いなし」的な発想をしてしまう。事故や不測の事態が起こると、すぐ「誰の責任だ?」と考えてしまうのだが、実際のところ、わたしたちはどこまで制御が可能なのだろう。たとえばいましきりに「地球温暖化」ということが言われているけれど、地球の温度を制御することがほんとうにできるのだろうか(たとえばスーパーのレジ袋をもらわないとか?)。おそらくわたしたちは未来に対する不安があって、それが「温暖化対策」という名の制御願望になっているのではないのだろうか。おっと、話が大きくなっちゃった。

相手にこうしてほしい、と期待することにしても、自分ではない他者の行動を、どこかで制御しようとしているからではないのか。突拍子もない行動を取る人間に、共同体の一員として責任ある行動を取ってほしいと期待して、そうしてくれないから、と言って、批判したり怒ったりするのは、やはりちがうような気がする。相手にそれを求めるつもりはないけれど。

こんなとき、わたしはいつもE.M.フォースターの言葉を思いだすのだけれど。
寛容という美徳は、まことに冴えません。たしかに、おもしろみはなく、愛とはちがって昔からマスコミには人気がありません。消極的な美徳なのです。要するに、どんな相手でもがまんする、何事にもがまん、という精神なのですから。寛容を讃える詩を書いた人は誰もいませんし、記念碑を建てた者もいません。ところが、これこそ戦後にもっとも必要な美徳なのです。これこそ、われわれの求めている健全な精神状態なのです。各種各様の民族を、階級を、企業を、一致して再建にあたらせることができる力は、これ以外にはありません。
(E.M.フォースター「寛容の精神」『民主主義に万歳二唱』所収 小野寺健訳 みすず書房)

E.M.フォースターは、第二次世界大戦終結直後の1941年(※訂正:この部分、何か変なことを書いているような気はしていたのです。おそらく講演の日付がまちがっているのだろうと思っていたんですが、調べてみたら年代はあっていました。つまりわたしはこれは戦後まもなくの講演にちがいないと思いこんでいたんですが、フォースターはなんと戦争が始まって二年目に、すでに「戦後」の「再建」を考えていたんですね。注記2008-8-15)それも、この講演をおこなった。嫌いでもいいから、がまんする、がまんしながらそれでもつかず離れずの関係を維持していく。

フォースターが提唱してから半世紀以上が過ぎたけれど、わたしたちはまだこのことが上手にできるようにはなっていない、というか、フォースターに反して、徐々に不寛容になっているような気がする。

ということで、まず「モンスターなんとか」と呼ぶことを止めようと思うのである。


ここより先、怪物領域

2008-07-29 22:47:01 | weblog
「モンスターペアレント」などという言葉を初めて目にしたころ、なんだかイヤな言葉だなあと思った。確かにそういう言葉で名指されるような人の行為というのは、明らかに「おかしい」と誰もが思うようなものだ。おそらく、実際にそういうことをやっている人さえ、自分ではない、別の人が同じことをやっているのを見れば、「世間は食うか食われるかなんだから、自分の利益は自分で守ればいい、ぜひこれからも頑張りなさい」とは言わないような気がする。自分以外の人間がやっていれば、他の人と同じように「なんと自分勝手な行動なんだ」と腹を立てるにちがいない。

つまり、そんなふうにものすごく身勝手で、社会性の低い人であることにはまちがいないのだが、そんなタイプの人に「モンスターなんとか」とレッテル張りをすることにどういう意味があるのだろう、と思ったのだ。

理不尽な行動をする人がいる。それに対してどれほど注意しようが、理屈を言って聞かせようが、まったく聞く耳を持たない。
そこで「モンスターなんとか」とレッテルを張る。

そのあと、どうなるかといえば、その周囲の人は、あの人は「モンスター」だから関わらないように注意しよう、という結果にしか行き着かない。結局、関係から排除するしかなくなってしまう。

それも仕方がない、ということになるのだろうか。
あの人が悪いのだから仕方がないじゃないか、あの人がそういうふうに周囲をし向けているのだから……、という考え方は、わたしにはなんだかとても居心地の悪いものに思えてしまう。だからその「モンスターなんとか」という言葉を、イヤな言葉だと思っていたのだった。

ところが身近にまさしくそうとしか言いようのない人物が現れたのである。
わたしは直接の被害には遭ったわけではない、ただ、被害に遭った人から事情を聞いただけの傍観者の立場だ(明日は我が身、ということになるかもしれない、という危機感は多少あるが)。だから、直接に被害に遭った人とはまた感じ方もちがうのだろうが。

そのものすごい人(仮にX氏と呼ぼう)を身近に見てよくわかったのは、X氏が「自分が被害者だ」と信じて疑っていないことだった。自分は何も悪いことをしていないのに、「加害者」Y氏は自分にひどいことをした、と怒りを抱いている。だからY氏に対して「異議申し立て」をしているだけだ。X氏からすれば、そのいったいどこに問題がある? ということなのである。

端にいるものは、X氏とY氏の訴えに耳を傾け、一連の経緯を「どちらがどれほど悪いか」と比較する。そうしてどちらも同じ程度悪い、と判断すれば、確かにあんたがそうしたくなる気持ちはわかるが、相手だって理由があったのだ、ここはお互いに悪いところは認め合って謝って、これから先、なんとかうまくやっていこうじゃないか、と仲介の労を取る。

ところがX氏の行動が、Y氏に比較して極端に「悪い」場合は、X氏に対して「そういう考え方はおかしいではないか」と注意する。
それでも、端の指摘には耳を貸さず、「自分は被害者である」「自分はなにひとつ悪くない」と言い張ってやまないだけでなく、それ以降もむちゃくちゃを続ける人物を、周囲は「モンスターなんとか」と呼ぶわけだ。そう呼んでどうするかというと、先にいったように、関わらないようにする。

ここで、わたしが今回“X氏”を間近で見て奇妙だと感じたのは、そもそもX氏がY氏を「ひどい」と思ったのは、X氏が想定する「良好な人間関係」を満たす行動をY氏が取ってくれなかったからなのだ。自分が望む人間関係を相手が築いてくれないとわかったとき、あなただったらどうします? いきなり怒り出したりします? 

たぶん、たいていの人はまず、「なんでだろう?」と考えるのではあるまいか。自分の期待する行動を相手が取ってくれないようなときは、自分のこれまで行動をつらつら考えて、こういうところが悪かったんじゃないか、と反省してみたり、あるいは相手のことをもっと知ろうと、別の人に話を聞いたり、自分の期待の方を修正しようとしたりするのではあるまいか。なんにせよ、「怒る」というのはかなりあとの方の行動のはずなのだ。

だって、怒ったら、相手と「良好な人間関係」を決して築けないことは明らかだからだ。
さらに、自分と「良好な人間関係」を築けない相手に腹を立て、攻撃でもしたことなら、相手ばかりではなく、それ以外の人とも「良好な人間関係」など決して築けないことも明かだからだ。「モンスターなんとか」などと呼ばれでもするようなことになれば、もうその人は誰とも人間関係を築くことはできない。

X氏のような人は、そのぐらいのこともわからないのだろうか、と思う。結局、自分を苦況に追い込んでいるのは自分自身なのに。だが、わからないのだろう。自分が「被害者だ」と思いこんでいるから。自分が「正しい」と思いこんでいるから。
「正しい」か「正しくない」か、という基準なんて、社会の一員であって初めて意味のある基準なのに。自分にしかあてはまらない基準というのは、実のところ、基準などにはなり得ないのに。

そういうX氏に対して、どうしたらいいかという方策など、わたしにあるわけではないのだが、少なくとも自分の日々のありようを見直すきっかけにはなった出来事だった。このわたし自身、誰かに対して「こうしてもらえるのが当たり前」と勝手に期待して、そうしてくれなかった、と不満に思っていることがあるかもしれないのだから。

人と関係を築いていこうとするのは、面倒なことだし、簡単ではない。それでも、気の合う人とだけ、つきあっていこうと思っていたら、その関係はどんどん狭くなっていく。気の合う人が、いつもかならず気が合うとばかりは限らないのだから。
いやな人、やっかいな人、こまった人、それでもなんとか許容できる着地点を見つけて、それなりの関係を築いていかなくてはならない。

それは、おそらく好きな人と関係を築くより、もっとずっとむずかしいことなのだろうと思う。

サイト更新しました(補足つき)

2008-07-27 23:11:50 | weblog
先日までここに連載していたエリザベス・ボウエン「悪魔の恋人」をサイトにアップしました。


更新情報書きました。「翻訳作品と紹介」のページも更新しています。
本文も、微妙に手直ししています。
またお時間のあるときにのぞいてみてください。

さて、仕事だ仕事だ。行って来よう。


http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」最終回

2008-07-26 07:10:18 | 翻訳
最終回


二十五年間が煙のように消えてしまうほどのぞっとするほど生々しい感じがよみがえってきて、半ば無意識のうちにボタンをてのひらに押しつけたときに残ったみみず腫れの痕を探した。彼が言ったことや、その動作ばかりでなく、あの八月の一週間の、まるっきり宙に浮いていた自分をありありと思いだしてしまったのだ。わたし、どうかしてたんだわ――あのころ、みんなそう言っていたっけ。何もかもがよみがえったが、ひとつだけ空白は埋まらなかった。まるで写真に酸を垂らしたところが白く焼けてしまったように。どんな状況であっても、彼の顔は思い出せないのだった。

 だから、どこであの人が待っているにせよ、わたしにはわからないのだわ。顔がわからなくては逃げ出そうにもその時間がない。

 まず、しなければならないのはタクシーをつかまえることだ。それも約束の時間とやらが来ないうちに。こっそりと家を出て通りを行き、広場の角を曲がって、その向こうの表通りに出たらいい。タクシーで玄関のところまで来てもらえれば安心だし、しっかりした運転手に中までついてきてもらって、あちこちの部屋をまわって荷物を運び出そう。タクシーの運転手に来てもらう、という思いつきのおかげで、勇気がでてきたし、大胆にもなった。ドアの鍵を開け、階段のてっぺんに立つと、階下の物音に耳をすませた。

 何も聞こえない――静けさに耳をそばだてていると、階段のかびくさい空気が流れてきて鼻を突いた。地下室から吹き上げられたのだ。下で誰かがたったいま、ドアか窓を開けて、家を出ていったのだ。

 雨はやんでいた。ミセス・ドローヴァーがひとけのない通りへ一歩足を踏み出してみると、舗道は濡れて光っていた。廃墟と化した家並みは、傷ついたまなざしで彼女の顔をじっと見つめている。大通りに出てタクシー乗り場にたどりつくまで、絶対に背後を振り返るまいとした。あたりは静まりかえっていたので――ロンドンの路地はこの夏の空襲のあと、物音ひとつしなかった――どんな足音であれ、耳に入らないはずがなかった。人々がいまでも暮らしている界隈に来ると、自分の不自然な歩調に気がついて、足取りをゆるめた。広場の出口で、二台のバスが無愛想にすれちがう。女たち、乳母車、自転車に乗った人びと、交差点のところで二輪車を押す男、ふたたびありきたりの生活の流れのなかに戻ってきたのだ。広場で一番人の多い一画に、おそらくタクシーを待つ短い人の列があるにちがいないと予想していたのだが、実際にそのとおりだった。

今夜止まっているのは一台だけ――だが、こちらに背を向けた車は、ぽかんと穴の開いたような後部ランプがついていたが、ずっと彼女のことを待っていたような感じがした。それだけではない、彼女が後ろからやってきて、ドアに手をかけるや、運転手は振り向きもせずにエンジンをかけたのだった。彼女が手をかけたとき、時計が七時を打った。タクシーは幹線道路の方に向いていた。家に戻ろうと思えば、車の向きを変えてもらわなければならない――後部シートに乗り込むと、タクシーは何も言わないうちから方向転換した。その動きに気がついて、ぎょっとした。わたしはまだ「どこへ行って」とも言っていないのに。身を乗り出して、運転席と彼女がいる場所を隔てているガラス戸を叩いた。

 運転手はブレーキをかけて急停止した。くるりと振り返り、背後のガラス戸を横に開いた――不意の衝撃に、ミセス・ドローヴァーは前につんのめり、危うくガラス戸にぶつかりそうになった。運転手と客は15センチほどの距離をはさんで、永遠にも思えるほど目と目を見つめ合わせた。ミセス・ドローヴァーの力を失って開いた口から、最初の悲鳴がほとばしるまで、何秒かかかった。それから悲鳴はあとからあとから続き、手袋をはめた両手で、容赦なく加速していくタクシーの窓という窓を叩いた。タクシーは彼女を乗せて、ひっそりした通りを、奥へ、奥へと走っていった。


The End


(※手を入れて近日中にサイトにアップします)

おまけ:昨夜、一応最後まで訳したんですが、ちっとも怖くなかったんで、一晩寝かせました。続けて読むと、ちょっとは涼しくなりましたか?
だけど、これタクシー怪談の元祖ですね。
あっ、最初に「舞台は第一次世界大戦中」と書いたんですが、訂正です。第一次世界大戦から第二次世界大戦にまたがった物語、作品の舞台は、第二次世界大戦中のロンドン空襲のあとでした。でも、こうやってみると、ヨーロッパ人のなかで、第一次世界大戦と第二次世界大戦は、ひとつづきのものと感じられているのがよくわかります。

月曜、ちょっと出かけなきゃならないので、更新は休みます。それまでにサイトに全文掲載したいと思います。今夜は元気があれば(笑)更新します。

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その4

2008-07-24 23:06:01 | 翻訳
その4.

このような事情で、手紙の差出人が生きているにせよいないにせよ、この手紙がもたらしたのは恐怖以外の何ものでもなかった。やがて、これ以上、ひざまづいた姿勢のままで、背中を空っぽの部屋にさらしたくないような気がして、ミセス・ドローヴァーは収納箱のある場所を離れ、まっすぐな背もたれが壁にぴったりくっついている椅子に腰かけた。使う人もないこの部屋、かつては自分の寝室だったこの部屋も、ロンドンでの結婚生活のいっさいが、ひび割れたカップのように、心を支えてくれる記憶も、蒸発してしまったか、こぼれだしてしまったかで、危機感をかもしだすばかりだった――その危機感を、手紙の主は十分見越した上でしかけてきたのだ。夕刻の空虚な家のなかには、何年も聞こえていた声も、日常の繰りかえしも、足音も、跡形もなくかき消されてしまっている。閉ざされた窓の向こうから聞こえてくるのは、屋根を打つ雨音だけだった。気を取り直そうとして、わたし、いらいらしてるのよ、と言ってみた。それから二、三秒後ほど目を閉じて、手紙なんて、あんなものありはしなかったんだわ、と自分に言い聞かせてみた。だが、目を開けると、ベッドの上にそれはあった。

 その手紙が玄関にあった、摩訶不思議な理由に関しては、絶対に考えまいとしていた。ロンドンにいる誰が、今日、自分がこの家に来ることを知っているだろうか? にもかかわらず、あきらかに知っているものがいた。管理人なら――休暇から戻ってきたら、の話だが――彼女が来ると考えるはずがない。手紙を受け取っても、そのうち折を見て転送するためにポケットへしまっておくはずだ。だがほかに管理人がやってきたことを示す兆候はなかった――もし管理人でないとしたら? 無人の家の玄関に放り込まれた手紙が、飛んだり歩いたりして玄関ホールのテーブルに載ったとでもいうのか。手紙というものは、かならず見つけてくれると信じて、ほこりまみれのからっぽのテーブルの上に鎮座するようなことはしない。かならず人の手を経ているはずなのだ――だが管理人以外に鍵を持っている者はいない。この状況で、この家は鍵がなくても入ることができる、と考えたくはなかった。もしかしたら誰かがわたしを待ちかまえているのかもしれない……一階で。待っているのかも。でも、いつまで? そう、「約束の時間」までだ。だが、それは少なくとも六時ではなかった。六時の鐘はすでに鳴っていた。

 椅子から立ち上がってドアのところへ行き、鍵をかけた。

 問題はここから出ることだ。いったいどこへ逃げたらいいのだろう。いや、そんなことはできない。予定通り、汽車に乗らなくては。家庭生活のいちばん大切な役割を担う、信頼に足る女として、彼女は夫や小さな息子たちや姉の待つ田舎の家へ、取りに来た物も持たずに戻っていくなどということは、したくはなかった。ふたたび収納箱に戻って、手探りしながら、てきぱきと、思い切りの良い手つきでいくつも包みを作っていった。それだけではなく、買い物包みもいくつもあるし、とてもではないけれど持って帰れそうにない――となると、タクシーだ。タクシーのことを思いついたとたんに、彼女の気持ちは明るくなって、呼吸も平静なものに戻った。電話をかけてタクシーを呼ぼう。早く来すぎるなんてことはないのだから。タクシーのエンジンが近づいてきたら、落ち着いて玄関から出ていけばいいのだから。電話をかけよう。いや、だめだ。電話は止めている……。間違ってくくりつけてしまった結び目を、彼女はぐっと引っ張った。

 逃げだそうと思ったのは……あの人はわたしに対して優しくしてくれたことは、ただの一度もなかったからだ。優しかったことなど、なにひとつ思い出せないのだ。お母さんは言ってたっけ。あの男はおまえのことを考えてやしないよ、と。あの男はおまえを狙ってるだけ、それだけさ――愛してなんかいやしない。愛じゃない、相手を幸せにしようとするようなものじゃないんだ。あの人は何をするつもりだったんだろう、わたしにあんな約束させておいて。思い出せないわ。だが、自分が思い出せるにちがいないと思っていた。

(次回最終回 ミセス・ドローヴァーの運命やいかに)

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その3

2008-07-23 23:17:55 | 翻訳
その3.

 若い娘は庭で兵士と話はしたが、相手の顔をこれまで一度もしっかりと見てはいなかった。闇のなか、ふたりは木の下で別れのことばを交わしていた。この重大なときに相手の顔がはっきり見えないせいで、まるでその顔を見たことがないような気さえする。彼がそこにいることを少しでも長く確かめたくて、何度となく手を伸ばしたが、そのたびに彼の方は、思いやりがこもったとは言いがたい手つきで相手の手を取って、軍服の胸ボタンに強く押しつけた。てのひらに残ったボタンの跡がほとんど唯一の、彼女がこの先も胸に抱いていくことになるものだった。フランスからの賜暇はもう終わりかけていて、もういっそ戻ってしまってくれたらいいのに、と彼女は思っていた。1916年の8月のことだった。キスされることもなく、遠ざけられてまじまじと眺められると、キャサリンは肩身が狭くなり、ふと、彼の目のなかに化け物じみた光がきらめいたような気がした。振りかえって芝生の向こうに目をやると、木々の枝の向こうに応接間の明かりが見えた。一瞬、息をのんだ。あそこに走って戻り、安全な母や姉の腕のなかに飛び込んで、こんなふうに言うことができるなら。「どうしたらいいの? わたし、どうしたらいいの? 彼は行っちゃったのよ」

 彼女の息を飲んだ音に耳を留めて、フィアンセが、気持ちのこもらない声でたずねた。「寒いの?」
「あなたはもうすぐ遠くへ行ってしまうのね」
「君が考えてるほど遠くじゃないさ」
「わたしはわかってない、ってこと?」
「別にわからなくたってかまわないさ。そのうちわかるんだ。ぼくら話し合っただろう」
「だけどそれは……もしあなたが……もし……」
「ぼくは戻ってくる。遅かれ早かれ。そのことを忘れちゃいけない。ただ待っててくれるだけでいいんだ」

 それから一分もちないうち、自由の身になった彼女は、静かな芝生を走り抜けていた。窓越しに母と姉をのぞきこんでも、ふたりともなかなか気がついてくれない。すでにわたしはほかの人間からは隔てられてしまったのだわ、あの異常な約束をしてしまったせいで。これほどまでに自分自身が誰からも遠く隔てられ、取り残され、偽りの約束をした、という気持ちになることはないだろう。これほどまでに不吉な婚約を自分がしたなどとは。

 数ヶ月後、フィアンセが行方不明、おそらく戦死したと思われる、という知らせを受けたキャサリンは、立派にふるまった。家族は慰めてくれただけでなく、気丈な彼女に対して、賞賛の言葉を惜しまなかった。家族にとっては、彼女の夫となる人物という以上に彼のことをほとんど知らなかったので、悲しみようがなかったのである。一年か二年もすれば、あの子の悲しみも和らぐだろう、と家族は思っていた。事実、悲しみだけが問題なのであれば、ものごとはずっと簡単に進んだだろう。だが、ささやかな悲しみの背後にあったやっかいなことのために、あらゆるものごとがおかしくなってしまったのだった。彼女はほかの恋人たちを退けたわけではない。ただ、そんな相手は現れなかったのだ。何年間も、誰からも愛されることなく、三十代に近づくにつれて、彼女も家族同様、この点に関して不安を覚えるようになっていた。苦労をするようになり、迷ったあげく、三十二歳のときにウィリアム・ドローヴァーから求婚されたときは、心の底からほっとした。彼と結婚し、ふたりはケンジントンの静かで緑豊かな一画に落ち着いたのである。この家で歳月を重ね、子供たちが生まれ、そうしているうちに、つぎの戦争が始まって爆撃に追い立てられることになったのだった。ミセス・ドローヴァーとしての彼女の毎日は、ごく限られたもので、誰かに監視されているなどという考えなど、頭をよぎることもなかったのだった。

(この項つづく)

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その2

2008-07-22 22:18:29 | 翻訳
その2.

 最初に思ったのは、管理人さんがもう戻ってきたんだわ、ということだった。だが家が閉め切ったままなのに、いったい誰が手紙を郵便受けのなかに入れておくというのだろう? チラシや請求書の類ではないのだ。郵便局ではポストに投函された郵便物はすべて、田舎の方へ転送してくれることになっていた。管理人は(たとえ戻ってきていたとしても)今日自分がロンドンに来ていることは知らないはずだし――いきなり戻ってくることにしたのだ――この手紙を埃まみれのなかに放り出したままにしている管理人のおざなりなやりかたに不快感を覚えた。おもしろくない気持ちでその手紙を手に取ると、切手が貼ってない。だがそんなことはたいしたことではないのだろう、そうでなければ何かわかっているのだろう……。手紙を持って急いで二階へ上がり、明かりをつけるまでそれを開いて読もうとはしなかった。その部屋に入ると、庭もよく見下ろすことができた。木々も草ぼうぼうになってしまった芝生も、薄暮につつまれて煙を通して見ているようだ。気が進まないままもういちど手紙に目をやったが、何かしら詮索されているような、しかもそれをしているのは、彼女のいまの生活をさげすんでいる者のような気がした。だが、にわか雨がまた降りだしそうな気配が強まるなかで、手紙を読んでみた。ほんの数行で終わっていた。
 親愛なるキャサリン
  君は今日がぼくたちにとっての記念日、ぼくたちが言い交わした日であることを、忘れてはいないだろうね。歳月が過ぎていくのはゆっくりでもあり、また速くもある。何も変わっていないという事実からかんがみて、君は約束を守ってくれているものと信じているよ。君がロンドンを離れたのは残念だったが、約束に間に合うよう戻ってきてくれて良かった。だからきっと君は約束の時間にぼくを待っていてくれるね。では、そのときまで……
K 
 ミセス・ドローヴァーは日付を確かめてみた。今日だ。剥き出しのベッドに落とした手紙を、また拾い上げてもういちど眺めた――剥げかけた口紅の下のくちびるが、血の気を失っていく。自分の顔がひどく変わってしまっているのを感じて、鏡の方へ歩いていくと、一部をぬぐって、せき立てられるような、そのくせ盗み見るような思いで鏡のなかをのぞき込んだ。正面に四十四歳の女がいる。無造作に目深にかぶった帽子のつばの下から食い入るようなまなざしがこちらを見ている。ひとりきりで店で食事をすませて店をあとにしてから、お白粉をはたくことさえしていない。結婚したとき夫がくれた真珠のネックレスが、V字にカットされたピンクのウールの薄い胸元に、ゆるくかかっているだけだった。このピンクのセーターは、去年の秋、暖炉をみんなで囲んでいるとき、妹が編んでくれたものだ。ミセス・ドローヴァーがいつも浮かべているのは、心配事を抱えてはいても、抑制し、なおかつそれに逆らおうとしない、といった表情である。三番目の男の子を生んだあとで、重い病にかかり、以来、ときおり左の口角のあたりがけいれんすることがあったが、そういう障りがあるにせよ、彼女の物腰にはいつも、活動的でありながら、同時に穏やかな雰囲気があった。

 自分の顔に見入ったときと同様、そそくさとそれから目を背けると、さまざまな物が詰まっている収納箱のところへ行った。鍵を開けてふたを取り払い、ひざまづいてなかをさぐった。だが、たたきつけるような雨音がし始めると、肩越しに、手紙を置いたままの剥き出しのベッドを振り返って見ずにはいられなかった。滝のようにふりしきる雨の向こうに、いまだ破壊されずに建っている教会の時計が、六時を打つ――そのゆっくりとした鐘の音をひとつずつ数えていると、急に不安が高まってきた。

「約束の時間だなんて……ああ、どうしたらいいんだろう」口に出して言った。「何時だったかしら? どうしたらいいんだろう……? あれから二十五年も経ったというのに」

(この項つづく)

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その1

2008-07-21 23:26:20 | 翻訳
今日から5日くらいをめどに、エリザベス・ボウエンの怪談「悪魔の恋人」を訳していきます。もう暑いのであまり面倒なことは考えたくない。ありきたりの怪談です(笑)。
まとめて読みたい人はそのくらいに来てみてください。
舞台は第二次世界大戦中のイギリスです。

原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/bowendemon.htmlで読むことができます。


The Demon Lover
(悪魔の恋人)

by エリザベス・ボウエン


 ロンドンでの一日も暮れ方になって、ミセス・ドローヴァーは閉めておいた家へ立ち寄って、必要なものをいくつか取ってこようとした。自分のものもあれば、家族のものもある。家族はいまでは田舎での生活にすっかり慣れていた。八月も終わりが近い。にわか雨の降ったりやんだりする、むしむしとした一日だった。

折りしも、舗道に沿った並木は、雲間からのぞく潤んだような黄色い夕陽にきらきらと輝いている。すでにうずたかく積み上がった墨で染めたような雲を背に、崩れかけた煙突や欄干が浮かび上がっていた。歩き慣れたはずの通りだったが、まるで誰も通ったことのない道にいるようで、なんだかおかしな気配に充ち満ちているような気がする。一ぴきの猫が柵を出たり入ったりしていたが、戻ってきたミセス・ドローヴァーを見ている人の目はなかった。小脇に抱えたいくつかの包みを持ち替えて、固い掛けがねに鍵を押し込んでそろそろと回し、ゆがんだ扉を膝で押して開けた。足を踏み入れると、よどんだ空気が鼻を突く。

 階段の踊り場の窓には板を打ち付けておいたので、光の入らない玄関は暗かった。だが、ドアがひとつ開いているのが見えたので、いそいでその部屋に入り、大きな窓の鎧戸を開けた。もはやロマンティックな気分も枯れ果てた彼女だったが、自分の周りを見回しているうちに、これまでなじんできたものひとつひとつが、以前の長い生活習慣の痕跡となって、思いがけないほど心を乱すのだった。黄色い煙が白い大理石の暖炉を染めていたし、書き物机の上には、丸い花瓶の跡が残っていた。壁紙の傷は、勢いよくドアをあけるたびに、陶器製のドアノブがぶつかるからだった。ピアノは、いまは別のところで保管しているのだが、床の寄せ木細工には爪痕のような傷が残っている。埃はそれほど積もってはいなかったが、埃とはちがう、何か覆いのようなものがあらゆるものをすっぽりと包み込んでいた。唯一の換気は煙突を通じるしかないために、客間全体が冷えた灰のようなにおいがした。ミセス・ドローヴァーは包みを書き物机の上に置き、部屋を出て階段を上っていった。必要なものは寝室のタンスのなかにある。

 家がどうなっているか、ずっと気になっていた。近所の人たちと共同で依頼したパートタイムの管理人は、今週は休暇で出かけてしまって、まだ戻ってこないことはわかっていた。どんなによく見積もったところで、管理人がそんなにしょっちゅう見回りに来てくれるはずもない。だから彼女もそれほど管理人をあてにしていたわけではなかった。内側には亀裂がいくつも走っているが、これはこの前の空爆の名残だ。彼女は気遣わしげな目でそれを眺めた。何もできはしないことはわかっていたが。

 玄関に屈折した日の光が差し込んでいる。玄関のテーブルに目を留めた彼女は、ぎょっとして立ちすくんだ――そこに彼女あての手紙が載っていた。

(この項つづく)

何を言っているんだか…

2008-07-20 22:35:15 | weblog
たまに何を言っているかさっぱりわからない人がいる。
「あれ、見たでしょ、あなた、あれで許せる?」などといきなり問いつめられて、へ? と思っていると、あれは頭に来た、これはひどい……とひとしきり続くのだが、相手が腹を立てていることはわかるが、それ以外には、いったい何が起こったのか、いったい何の話をしているのか、いつまでたってもわからないような話をしてしまう人だ。

5W1Hなどという言葉もあるが、ほんとうはそんなことを意識に留めておく必要などない。相手に伝えようとする出来事を、最初から起こった順に話していくと、必然的にそういうものは情報として相手に与えられるのだ。

ところが何を言っているかわからない人の話というのは、実際に起こったことと、人の話が同一レベルで語られ、そのあいだに霜降り状に「悲しかった」だの「それはひどい」だのという自分の感想が差し挟まれるのである。
そうなると、こんな話を聞かされる羽目になる。

「あれ、見たでしょ、あの表、あなた、あれで許せる? わたしAさんと相談したんだけどあれだけは許せないってことになったのよ、あなたもわたしたちと同じ意見? Bさんってひどいわよね」
この時点で表こそもらっていたものの、わたしは何が問題なのかわからない。Bさんがひどいひどいと繰りかえし言っているので、てっきりBさんがその表を作ったのだろうと思っていたら、表を作ったのは別の人で、Bさんがどこかの時点で関与しているのだろうが、何らかの理由で彼女はBさんの方に腹を立てているのだ。

以前はそういうときに、「その表のどこが問題なの?」と、相手に聞いていた。すると、多くの場合、相手はそういうときに「あなた、これでいいと思ってるのね」と話はちがう方に行ってしまう。だからわたしはもうしばらくは辛抱して、言いたいだけ相手に言わせることにした。五分かかろうが、十分かかろうが、こちらから下手に交通整理をしようとするのではなく、言いたいことを言わせる。そうすればそのうち、「何が問題か」はおぼろげに見えてくる。そういう話し方をする人には聞いたってムダなのだ。

こういう話し方をする人は、ものすごく疲れるし、できれば相手をしたくないのだが、それでもつきあわなければならないときはある。わたしは何度か失敗を繰りかえし、「そのあいだは辛抱する」のが最良の方法であることを学んだのだった。言いたいことを全部言った相手はとりあえず落ち着く。整理はそこからすればいい。

考えてみれば、わたしもずいぶん人間が練れたものだ。昔は「何言ってるの? もう全然わかんない。ちょっと整理して言ってよ」「すいません。何をおっしゃってるのか、わかりかねますが」などと言って、よく相手を怒らせたものだった。相手を怒らせてもいいことはひとつもない。たったそれだけのことを学ぶのに二十年くらいかかった(笑)。

何を言っているかわからない人の話がわからないのは、情報の伝達に主眼点があるのではなく、自分の感情を伝えることに主眼点があるからだ。

だが、自分の感情を伝えて、その結果、自分はどうしたいのか、考えていない人が多いような気がするのだ。
わたしは腹を立てている、そんな不公平/不正は許せない、そこで頭は止まってしまって、それをそのまま他人にぶつけるから、話はちっともわからない。もしかしたら自分が怒っていること、つまりは、自分が不当な扱いをされた被害者であることさえ相手に訴えることができれば、それで気が済むのかもしれない。

だが、訴えられた側は、問題の解決に動かなければならなくなる。私的なことであれば、「あらあら、かわいそうねえ」と慰めてあげればすむのかもしれないが、作業の分担や当番の割り当てなどであれば、そういう不満を抱えている人がいるなら、それは解決しなければ全体に差し障ることになる。

不平や不満を我慢すべきだ、ということを言いたいのではない。問題提起がなければ、問題の解決もできないのだし、最初の問題提起というのは個人の不利益からであるのは当然だ。それでも、その提起はあくまで問題の解決に向けたものだと思うのだ。自分がどう思った、自分がどう感じた、あの人はひどい……そういう発言は解決には結びついていかない。

つくづく思うのは、自分の感情を人に伝えるのはむずかしいということだ。
相手は自分ではない。自分と同じように相手も感じてくれるかどうかわからない。そもそも、相手に自分の感情をわかってもらうことに、どれだけ意味があるのかどうなのかもわからない。

それでも、この気持ちを理解してほしい。
そうしてくれなければ、この先、あなたと関係を築いていくのがむずかしくなってしまうかもしれない。

そんなときには、できるだけ感情的にならないように伝えたい、と思う。
感情を伝えるときに、感情的にならない、というのは、これほどの逆説はないようにも思うのだけれど、でもそれはわたしが失敗を通じて学んできたことでもある。

伝えなくてはならない感情は、時間をおいて、いったん蒸留して、フィルターにかけて、並べ直して、そこからそっと差し出して、そのぐらいでいいのではないか、と思うのだ。

たいていのことはそれまでにどうでもよくなってしまうのだけれど、そのくらいのことなら、そもそも伝える必要はなかったということだ。

(※更新情報書きました。本文も昨日からちょっと書き直しました)
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

サイト更新しました

2008-07-19 22:25:15 | weblog
なんと一年近く前にブログで書いたことをもとに、映画について書いてみました。
書き方がよくわからなくて、ものすごく苦労した割には他愛のないもののような気がしていますが、興味がある方はのぞいてみてください。

《パイレーツ・オブ・カリビアン》《羊たちの沈黙》《ガタカ》を取り上げています。明日あたりにまた書き直すような気もしていますが(笑)、とりあえずアップしてみました。

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