昨日と関係のあるようなないような話を続ける。
おそらく「モンスターなんとか」と呼ばれる人が、そこまで理不尽な行為に出ることができるのは、「自分が被害者だ」「自分に対して害をなす人間は、許してはおけない」「断固、正義が行使されるべきだ」という意識に凝り固まっているのだろう。
そうして、何よりも恐ろしいのは、そうした「モンスターなんとか」を排除しようと考えるとき、今度はわたしたち自身が同じ思考のわだちにはまってしまうことだ。
わたしたちの共同体に害をなす「モンスターなんとかを許してはならない」「正義が行使されるべきだ」として排除しようとするとき、わたしたち自身が今度は「モンスターなんとか」になってしまうのだ。
まるでフォークダンスをするように、わたしたちの立場というのは容易に入れ替わる。
それこそニーチェの『善悪の彼岸』ではないが、「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とな」ってしまうのである。ところがひとりの理不尽は目立っても、集団の理不尽は目立たない。たとえ同じことをやっていても、ひとりならば「モンスターなんとか」とレッテルを張っておしまいにできるが、集団でそれをやると、集団全員が「モンスター」なものだから、だれひとりそれに気がつかない、ということになる。ほんとうにわたしたちが恐れなければならないのは、ひとりの突拍子もないことをする「モンスターなんとか」ではなくて、「気がつけばあなたもわたしもモンスター」の状態の方だろう。
このことには、もうひとつの問題もあるように思える。
たとえばわたしたちが、あるグループのなかで、何らかの責任のある立場なら、そこに少々気にくわない人間がいたところで、その人間に対して過度に攻撃的に出るようなことはしないのではあるまいか。腹が立っても、自分の体面を考えたり、影響力を考えたり、あるいは自分の行動が影響を及ぼしうる範囲を考えたりすると、ある行動について自分も他人も納得させられる動機を前もって見つけられないような場合は、おそらくそういう行動をなるべく避けようとするに違いない。
もちろん社会的ステイタスを棒に振るようなふるまいをしてしまう人のことも連日報道されているので、いちがいには言えないが、そうした社会的ステイタスのプレッシャーに耐えかねて、逸脱してしまう人の起こす犯罪的な行為と、いわゆるその「モンスターなんとか」と呼ばれる人の行為は、質が異なるように思える。
社会的に孤立している人間は、ある行動について、誰かに説明する必要がない。そういう人間が、何らかの行動を取る前に、自分だけでも納得させられる動機を前もって見つけようとするとは考えにくい。まして、他人が説得できないから、こういうことをするのはやめようと考えるはずがない。
そう考えていくと、共同体による意識・無意識の紐帯が弱い人物の方が、「モンスター化」しやすい、ということになる。
もともと孤立している人間が、孤立しているがゆえに、他人と望ましい人間関係が築けない、と腹を立て、突拍子もないことをしでかすのが「モンスターなんとか」であるとしたら、その人物を排除することは、もともと排除されかけているのだから、ものすごく簡単だが、問題の解決にはまったくなっていかないだろう。排除すれば、つぎの端にいる人間が、なんらかのきっかけで別の「モンスターなんとか」になる可能性はきわめて高い。
おそらく「モンスターなんとか」を生みださない一番いい方法は、一緒にいて不愉快な人間を、「モンスター」と思わないことだ。そのようなレッテルを張ることによって、関係に決着を与えないことだ。変な言い方だが、日常的に、イヤな人間を、イヤだと思いながら、それでも自分が苦しくならない方法を探る。もちろん人に「あいつ、イヤなやつだろ? そう思うだろ?」と同意も求めず、なんとか最小限の接触に留めながら、かといって関係を切ってしまわない。そうして、たとえ何かが起きても、それほど極端なことでなければ、あるていどは「仕方がない」と割り切りながら、成り行きにまかせることだ。
わたしたちはどこかで「備えあれば憂いなし」的な発想をしてしまう。事故や不測の事態が起こると、すぐ「誰の責任だ?」と考えてしまうのだが、実際のところ、わたしたちはどこまで制御が可能なのだろう。たとえばいましきりに「地球温暖化」ということが言われているけれど、地球の温度を制御することがほんとうにできるのだろうか(たとえばスーパーのレジ袋をもらわないとか?)。おそらくわたしたちは未来に対する不安があって、それが「温暖化対策」という名の制御願望になっているのではないのだろうか。おっと、話が大きくなっちゃった。
相手にこうしてほしい、と期待することにしても、自分ではない他者の行動を、どこかで制御しようとしているからではないのか。突拍子もない行動を取る人間に、共同体の一員として責任ある行動を取ってほしいと期待して、そうしてくれないから、と言って、批判したり怒ったりするのは、やはりちがうような気がする。相手にそれを求めるつもりはないけれど。
こんなとき、わたしはいつもE.M.フォースターの言葉を思いだすのだけれど。
E.M.フォースターは、第二次世界大戦終結直後の1941年(※訂正:この部分、何か変なことを書いているような気はしていたのです。おそらく講演の日付がまちがっているのだろうと思っていたんですが、調べてみたら年代はあっていました。つまりわたしはこれは戦後まもなくの講演にちがいないと思いこんでいたんですが、フォースターはなんと戦争が始まって二年目に、すでに「戦後」の「再建」を考えていたんですね。注記2008-8-15)それも、この講演をおこなった。嫌いでもいいから、がまんする、がまんしながらそれでもつかず離れずの関係を維持していく。
フォースターが提唱してから半世紀以上が過ぎたけれど、わたしたちはまだこのことが上手にできるようにはなっていない、というか、フォースターに反して、徐々に不寛容になっているような気がする。
ということで、まず「モンスターなんとか」と呼ぶことを止めようと思うのである。
おそらく「モンスターなんとか」と呼ばれる人が、そこまで理不尽な行為に出ることができるのは、「自分が被害者だ」「自分に対して害をなす人間は、許してはおけない」「断固、正義が行使されるべきだ」という意識に凝り固まっているのだろう。
そうして、何よりも恐ろしいのは、そうした「モンスターなんとか」を排除しようと考えるとき、今度はわたしたち自身が同じ思考のわだちにはまってしまうことだ。
わたしたちの共同体に害をなす「モンスターなんとかを許してはならない」「正義が行使されるべきだ」として排除しようとするとき、わたしたち自身が今度は「モンスターなんとか」になってしまうのだ。
まるでフォークダンスをするように、わたしたちの立場というのは容易に入れ替わる。
それこそニーチェの『善悪の彼岸』ではないが、「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とな」ってしまうのである。ところがひとりの理不尽は目立っても、集団の理不尽は目立たない。たとえ同じことをやっていても、ひとりならば「モンスターなんとか」とレッテルを張っておしまいにできるが、集団でそれをやると、集団全員が「モンスター」なものだから、だれひとりそれに気がつかない、ということになる。ほんとうにわたしたちが恐れなければならないのは、ひとりの突拍子もないことをする「モンスターなんとか」ではなくて、「気がつけばあなたもわたしもモンスター」の状態の方だろう。
このことには、もうひとつの問題もあるように思える。
たとえばわたしたちが、あるグループのなかで、何らかの責任のある立場なら、そこに少々気にくわない人間がいたところで、その人間に対して過度に攻撃的に出るようなことはしないのではあるまいか。腹が立っても、自分の体面を考えたり、影響力を考えたり、あるいは自分の行動が影響を及ぼしうる範囲を考えたりすると、ある行動について自分も他人も納得させられる動機を前もって見つけられないような場合は、おそらくそういう行動をなるべく避けようとするに違いない。
もちろん社会的ステイタスを棒に振るようなふるまいをしてしまう人のことも連日報道されているので、いちがいには言えないが、そうした社会的ステイタスのプレッシャーに耐えかねて、逸脱してしまう人の起こす犯罪的な行為と、いわゆるその「モンスターなんとか」と呼ばれる人の行為は、質が異なるように思える。
社会的に孤立している人間は、ある行動について、誰かに説明する必要がない。そういう人間が、何らかの行動を取る前に、自分だけでも納得させられる動機を前もって見つけようとするとは考えにくい。まして、他人が説得できないから、こういうことをするのはやめようと考えるはずがない。
そう考えていくと、共同体による意識・無意識の紐帯が弱い人物の方が、「モンスター化」しやすい、ということになる。
もともと孤立している人間が、孤立しているがゆえに、他人と望ましい人間関係が築けない、と腹を立て、突拍子もないことをしでかすのが「モンスターなんとか」であるとしたら、その人物を排除することは、もともと排除されかけているのだから、ものすごく簡単だが、問題の解決にはまったくなっていかないだろう。排除すれば、つぎの端にいる人間が、なんらかのきっかけで別の「モンスターなんとか」になる可能性はきわめて高い。
おそらく「モンスターなんとか」を生みださない一番いい方法は、一緒にいて不愉快な人間を、「モンスター」と思わないことだ。そのようなレッテルを張ることによって、関係に決着を与えないことだ。変な言い方だが、日常的に、イヤな人間を、イヤだと思いながら、それでも自分が苦しくならない方法を探る。もちろん人に「あいつ、イヤなやつだろ? そう思うだろ?」と同意も求めず、なんとか最小限の接触に留めながら、かといって関係を切ってしまわない。そうして、たとえ何かが起きても、それほど極端なことでなければ、あるていどは「仕方がない」と割り切りながら、成り行きにまかせることだ。
わたしたちはどこかで「備えあれば憂いなし」的な発想をしてしまう。事故や不測の事態が起こると、すぐ「誰の責任だ?」と考えてしまうのだが、実際のところ、わたしたちはどこまで制御が可能なのだろう。たとえばいましきりに「地球温暖化」ということが言われているけれど、地球の温度を制御することがほんとうにできるのだろうか(たとえばスーパーのレジ袋をもらわないとか?)。おそらくわたしたちは未来に対する不安があって、それが「温暖化対策」という名の制御願望になっているのではないのだろうか。おっと、話が大きくなっちゃった。
相手にこうしてほしい、と期待することにしても、自分ではない他者の行動を、どこかで制御しようとしているからではないのか。突拍子もない行動を取る人間に、共同体の一員として責任ある行動を取ってほしいと期待して、そうしてくれないから、と言って、批判したり怒ったりするのは、やはりちがうような気がする。相手にそれを求めるつもりはないけれど。
こんなとき、わたしはいつもE.M.フォースターの言葉を思いだすのだけれど。
寛容という美徳は、まことに冴えません。たしかに、おもしろみはなく、愛とはちがって昔からマスコミには人気がありません。消極的な美徳なのです。要するに、どんな相手でもがまんする、何事にもがまん、という精神なのですから。寛容を讃える詩を書いた人は誰もいませんし、記念碑を建てた者もいません。ところが、これこそ戦後にもっとも必要な美徳なのです。これこそ、われわれの求めている健全な精神状態なのです。各種各様の民族を、階級を、企業を、一致して再建にあたらせることができる力は、これ以外にはありません。(E.M.フォースター「寛容の精神」『民主主義に万歳二唱』所収 小野寺健訳 みすず書房)
E.M.フォースターは、第二次世界大戦終結直後の1941年(※訂正:この部分、何か変なことを書いているような気はしていたのです。おそらく講演の日付がまちがっているのだろうと思っていたんですが、調べてみたら年代はあっていました。つまりわたしはこれは戦後まもなくの講演にちがいないと思いこんでいたんですが、フォースターはなんと戦争が始まって二年目に、すでに「戦後」の「再建」を考えていたんですね。注記2008-8-15)それも、この講演をおこなった。嫌いでもいいから、がまんする、がまんしながらそれでもつかず離れずの関係を維持していく。
フォースターが提唱してから半世紀以上が過ぎたけれど、わたしたちはまだこのことが上手にできるようにはなっていない、というか、フォースターに反して、徐々に不寛容になっているような気がする。
ということで、まず「モンスターなんとか」と呼ぶことを止めようと思うのである。