プリンタのインクというのは、どうしてあんなに早くなくなるのだろう。あんまりあっけなくなってしまうので、ちょっと印刷を控えでもしたなら、こんどはインクが目詰まりを起こして、ヘッドクリーニングが必要になってしまう。ところがこのクリーニングがまた、えらくインクを食うというシロモノなのだ。
おまけにこのプリンタのインクが高い。しょっちゅうなくなる黒などは、一瞬、カートリッジのなかに墨汁を入れてみたい誘惑にかられるのだが、いまのところ理性の働きによって(ほんまか)なんとか入れずにすませている。
わたしが父親から強奪していまも使っているパーカーの万年筆、これはカートリッジではなくコンバータタイプのもので、ビンから注入するとき不器用なわたしはいつも手をインクだらけにしてしまうのだけれど、この手間を考えても、カートリッジのスペアインクに較べれば、ビン入りのインクはずいぶんお買い得のように思える。プリンタのカートリッジもこんなふうにインクを注入できたら、いちいち買いに行かずにすむし(インク・カートリッジはそこらへんのスーパーやドラッグストアやコンビニにあるわけではなく、夜中に四十枚の原稿を印刷しようとして、祈るような気持ちで点滅するプリンタを見つめていると、三十八枚目の途中で赤いボタンに切り替わり、紙が半分だけはいったところで立ち往生、なんていうのは、悲惨以外のなにものでもない)、ほんとうにどんなにいいだろう。
プリンタのインク・カートリッジが高いのは、プリンタ本体の価格を下げるためのやむを得ない措置なのだ、という話を聞いたとき、なんだかなぁ、と思った。これではまるで無限に続くローンを気がつかないうちに組まされたようなものではないか。いくらプリンタがあっても、インクがなければタダの箱なのだ。小学生ふうに言うならば、「卑怯!」というところである。
それにしても、どうしてプリントアウトしなければならないのだろう。
原稿にしても、送信すればよいものがほとんどだし、かならずしもプリントアウトが必要なものはそれほど多くはないのだ。にもかかわらず、文章の推敲をするときも、事務連絡ではない、ちゃんと読みたいメールでも、あるいはWeb上の文章でも、どうもわたしはプリントアウトせずにはおれないようなのだ。ブラウザ上で十分なはずなのに。どうもそれでは落ち着かないし、どこか不安だ。
これで思い出すのが、ウチの母親だ。わたしが実家にいるころだから、もうずいぶん前の話なのだけれど、あるとき、このファックスは壊れている、という。じゃ、わたしがやってみるよ、と送信してみると、つつがなく送れる。大丈夫だよ。壊れてないよ。
「だって、わたしが書いた紙がこっちに残っているじゃない」
わたしは頭を抱えた。この人は、この紙が電話機の中を通って、さらに電線の中を通って、相手の家に届くと思っているのだろうか……。
確かに「郵便の早いの」と思っていたら、紙が相手の下に行かないというのは、不安なことなのかもしれない。
それを思うと、つい、なんでもかんでもプリントアウトし、それをファイルに納めて安心しているわたしは、母親のことを笑えない、というか、この母にしてこの娘あり、ということなのだろうか。
けれども、メールにしても、実際にどんなふうに届いているのか、わかるわけではない。pdf.の添付ファイルなら届くわたしのメーラーに、一太郎の添付ファイルが来たとき、メーラーは「危険な添付ファイルが来たぞ」とばかり、勝手に弾いてしまったことがある。
そういうときの弾かれたファイルは、いったいどこに行ってしまうのだろう。「電子の海の藻屑と消えてしまった」と言ってしまうのだけれど、ほんとうにそんなものがあるわけではない。日高敏隆の言葉を借りれば「イリュージョン」、目には見えないけれど、概念によって構築される世界なのだ。そうしてすぐ目詰まりを起こすプリンタのノズルが、イリュージョンの世界を目に見えるものに変換する、一種の魔法の装置なのだろう。
ところで最近の音楽配信システムというのを、わたしはまだ利用したことがない。何か、CDという実体がないものを購入する、というのが、どうも不安なのだ。ハードディスクはある日突然、おぞましい音を立ててクラッシュする(※「電脳的非日常」参照)。そうなると、一切のデータは消失する。電子の海の藻屑と消えてしまうのだ。
やはり大切なものは「モノ」として、手元に置いておきたい。その手触りを確かめてみたいのだ。
これは、わたしだけの感覚ではないだろう、と思う。だから、インク・カートリッジがどんなにクソ高くても、売れるのだ。
おまけにこのプリンタのインクが高い。しょっちゅうなくなる黒などは、一瞬、カートリッジのなかに墨汁を入れてみたい誘惑にかられるのだが、いまのところ理性の働きによって(ほんまか)なんとか入れずにすませている。
わたしが父親から強奪していまも使っているパーカーの万年筆、これはカートリッジではなくコンバータタイプのもので、ビンから注入するとき不器用なわたしはいつも手をインクだらけにしてしまうのだけれど、この手間を考えても、カートリッジのスペアインクに較べれば、ビン入りのインクはずいぶんお買い得のように思える。プリンタのカートリッジもこんなふうにインクを注入できたら、いちいち買いに行かずにすむし(インク・カートリッジはそこらへんのスーパーやドラッグストアやコンビニにあるわけではなく、夜中に四十枚の原稿を印刷しようとして、祈るような気持ちで点滅するプリンタを見つめていると、三十八枚目の途中で赤いボタンに切り替わり、紙が半分だけはいったところで立ち往生、なんていうのは、悲惨以外のなにものでもない)、ほんとうにどんなにいいだろう。
プリンタのインク・カートリッジが高いのは、プリンタ本体の価格を下げるためのやむを得ない措置なのだ、という話を聞いたとき、なんだかなぁ、と思った。これではまるで無限に続くローンを気がつかないうちに組まされたようなものではないか。いくらプリンタがあっても、インクがなければタダの箱なのだ。小学生ふうに言うならば、「卑怯!」というところである。
それにしても、どうしてプリントアウトしなければならないのだろう。
原稿にしても、送信すればよいものがほとんどだし、かならずしもプリントアウトが必要なものはそれほど多くはないのだ。にもかかわらず、文章の推敲をするときも、事務連絡ではない、ちゃんと読みたいメールでも、あるいはWeb上の文章でも、どうもわたしはプリントアウトせずにはおれないようなのだ。ブラウザ上で十分なはずなのに。どうもそれでは落ち着かないし、どこか不安だ。
これで思い出すのが、ウチの母親だ。わたしが実家にいるころだから、もうずいぶん前の話なのだけれど、あるとき、このファックスは壊れている、という。じゃ、わたしがやってみるよ、と送信してみると、つつがなく送れる。大丈夫だよ。壊れてないよ。
「だって、わたしが書いた紙がこっちに残っているじゃない」
わたしは頭を抱えた。この人は、この紙が電話機の中を通って、さらに電線の中を通って、相手の家に届くと思っているのだろうか……。
確かに「郵便の早いの」と思っていたら、紙が相手の下に行かないというのは、不安なことなのかもしれない。
それを思うと、つい、なんでもかんでもプリントアウトし、それをファイルに納めて安心しているわたしは、母親のことを笑えない、というか、この母にしてこの娘あり、ということなのだろうか。
けれども、メールにしても、実際にどんなふうに届いているのか、わかるわけではない。pdf.の添付ファイルなら届くわたしのメーラーに、一太郎の添付ファイルが来たとき、メーラーは「危険な添付ファイルが来たぞ」とばかり、勝手に弾いてしまったことがある。
そういうときの弾かれたファイルは、いったいどこに行ってしまうのだろう。「電子の海の藻屑と消えてしまった」と言ってしまうのだけれど、ほんとうにそんなものがあるわけではない。日高敏隆の言葉を借りれば「イリュージョン」、目には見えないけれど、概念によって構築される世界なのだ。そうしてすぐ目詰まりを起こすプリンタのノズルが、イリュージョンの世界を目に見えるものに変換する、一種の魔法の装置なのだろう。
ところで最近の音楽配信システムというのを、わたしはまだ利用したことがない。何か、CDという実体がないものを購入する、というのが、どうも不安なのだ。ハードディスクはある日突然、おぞましい音を立ててクラッシュする(※「電脳的非日常」参照)。そうなると、一切のデータは消失する。電子の海の藻屑と消えてしまうのだ。
やはり大切なものは「モノ」として、手元に置いておきたい。その手触りを確かめてみたいのだ。
これは、わたしだけの感覚ではないだろう、と思う。だから、インク・カートリッジがどんなにクソ高くても、売れるのだ。
重要なのは、その時々に必ずなんらかの認識があったということである。その認識はその後改められ、変化しているから、人びとが信じていたのはひとつのイリュージョンにすぎなかったということになろう。けれど、それなしに、その人びとの世界は構築され得なかったのである。日高敏隆『動物と人間の世界認識』筑摩書房