陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

陰陽師的2009年占い

2008-12-31 23:26:40 | weblog
今年もやります。
「陰陽道に基づかない陰陽師的占い」の発表です。


陰陽師的2009年占い


【牡羊座】2009年のキーワード:「往生際」の達人を目指す

身の回りのささやかな物事の寿命を決めるのは、意外にむずかしいものです。噛んでいるガムはかなり前から味がなくなっているし、プリンタは赤いランプを点滅させてインクがなくなっていることを教えています。歯ブラシの先は明らかに反ってきたし、パソコンのマウスも、電池残量10%以下の表示が三日前から続いています。いつ諦めて、新しいものに切り替えるか。あなたの身の回りの物たちは、あなたの決断を待っています。
ものを大切にするあなたがそういうものをなかなか換えられないのは、「本当にそれでいいのか、まだ使えるのではないのか」という疑念がいつまでもあなたを苦しめるから。
まだ早いかな、と思いながら使っていると、あと半分、というところでプリンタが止まってしまったり、暗い部屋に帰ってきて、明かりをつけた瞬間に蛍光灯が切れたりする羽目になります。
そうなるまえに、さっさと引導を渡して新しいものに交換してしまいましょう。日常至るところにある「往生際」を見きわめて、ひとつずつ片づけていくたびに、あなたの「往生際」の達人度合いはあがっていくはず。

【牡牛座】2009年のキーワード:週に一度「心ゆくまで」を楽しむ

その昔、わたしの知人にひとつのティーバッグを三度に分けて使っていた人がいました。一度目、二度目のティーバッグがソーサーに載って保存してあるのを見るたびに、ひからびた三度目のティーバッグで入れた「紅茶」が、どれほど紅茶の味がするものか、いつも疑問に思っていたのですが、見方を変えればその人は「心ゆくまで」ひとつのティーバッグを味わっていた幸せな人ともいえます。
あわただしい日々を送るあなたは、朝は朝で「心ゆくまで」寝ていたい、夜になると「心ゆくまで」お風呂に浸かっていたい、ダイエットなど気にせず「心ゆくまで」ケーキを食べたい、翌日の仕事など気にせず「心ゆくまで」お酒を楽しみたい、と思っています。このように、あなたの「心ゆくまで」を妨げるのは、外的な制約です。だから「心ゆくまで」は外的な制約に対する反抗ともいえる。
ときに、あなたの好きなことを「心ゆくまで」やってみましょう。いや、まだまだ、「心ゆくまで」には至らない、と往生際悪く思い続けるのもまたよし。心ゆくまで往生際の悪さを楽しんでみましょう。

【双子座】2009年のキーワード:雨の日だって晴れ(ばれ)男(女)

その昔、マイクロバスに乗ってサファリパークを一周したことがあります。後ろになぜかおばちゃんのふたり連れがすわっていたのですが、
ライオンのエリアに来ると
「あー、ライオンがいるわ」
「ライオンねえ」
クマのエリアに来ると
「あー、クマがいるわ」
「クマねえ」
シマウマのエリアに来ると
「あー、シマウマがいるわ」
「シマウマねえ」(以下際限がないので略)
という会話を繰りかえしていました。前にすわっていたわたしは、ひそかにキリンのコーナーにワニがいたりしないかな、と期待していたのですが、当たり前のことを繰りかえして言われると、人というのはいらいらするものです。
雨が降っているときにうっとうしい気分になるのは、誰でも同じこと。
「雨が降ってるわ」
「あー、雨ねえ」
そんなうっとうしいときに、こんな会話を聞かされて、はり倒したい気持ちになっている人だっているかもしれません。
雨が降っていることをぶつぶつ言っても始まりません。雨が降っているときこそ晴ればれと。そんなあなたは、周りのみんなの「太陽」になれるはず。

【蟹座】2009年のキーワード:一度にふたつのことをしようとしない

忙しくなってくると、多重債務を負ったような気分になって、たったひとつのことしかしていないと損をしたような気分になってしまうものです。料理をしながら本を読み、プリントアウトし、i-Tuneで音楽をダウンロードしながらアイロンが温まるのを待っていると、実に多くの仕事をこなしているような気がするものですが、うっかりするとプリントアウトした紙を鍋で煮込みながら本を切り刻み、i-Podにアイロンをかけてしまうかもしれません。
咳が出るあいだは水を飲むのを待たなくてはならないし、じっと待たなければならないときに、こちらから迎えに行くようなことをすると、相手と会えなくなるかもしれません。
一度にふたつのことはできないのです。息を吸いながら吐いている人の姿が想像できないのと同じことです。

【獅子座】2009年のキーワード:聞いているより歌う方が楽しい

カラオケに行くと、歌というのは自分で歌うから楽しいのだということがよくわかります。おつきあいで手を叩いていたとしても、誰もが夢中になっているのは「自分がつぎに何を歌うか」ということ。何ごとも自分でやってみなくてはほんとうの楽しさはわかりません。
自分にはできない、と始める前から尻込みし、カラオケに誘われても決して行かない人は、自分をわきまえている慎み深い人ではなく、下手な自分が受け入れられないだけでしょう。
一生懸命やる、失敗しても、何度でもやってみる。
このことには思いもかけないもうひとつの余録があります。自分がやる側に回ってみると、周囲の人が一緒に楽しめる人か、あらさがしばかりしている人か、よくわかってくるのです。

【乙女座】2009年のキーワード:その場にふさわしい行動をする

おもしろくない人の話を聞いてしまったあなたは、おもしろくなさそうな顔をしてしまうかもしれません。自分ならもっとおもしろい話ができるのに。「いいこと」が言えるのに。
すると相手はがっかりしたり不愉快に思ったりして、おもしろくない話はいよいよおもしろくなくなってしまうのです。その結果、いいことなどひとつもない、ということになってしまいます。
聞かなければならない話なら、それがおもしろそうな態度を取ることです。興味を持てるところを探す。「要するに」と、要しているわけでもないのに何度繰りかえすか、正の字を書いて数えてもいいし、相手の口ひげが、鼻息でふるえる様を観察するのでもいい。
寝つけない夜に横になって眠いふりをしていれば、いつしか眠っているように、聞くべきときに聞く態度を取っていれば、きっと得るものはあるはず。それが四十三回の「要するに」であったとしても、そのあいだ不愉快でいたことを思えばずっとマシではありませんか。

【天秤座】2009年のキーワード:トラブルを受け入れる

パソコンを使うということは、いくつかのトラブルを抱えながら、それをなだめなだめ、もしくはヒヤヒヤしながら使い続けるということを意味するもののようです。わたしのいま使っているパソコンも、どういうわけか再起動したときでないと無線LANが使えなくなってしまいました。そこで昔のLANカードを差しこんで使っているのですが、これがいったいどういうトラブルなのか、わたしにはよくわからず、使えればまあいいか、という状態が続いています。知人のなかにはTVの画面が乱れるたびに叩いて直していましたが、どうして叩くと直るのか、説明できる人がいるでしょうか。
トラブル・シューターでもあるあなたは「根本的な解決」に心引かれますが、いつもそれが可能とは限りません。それが不可能なときは、とりあえずさまざまに試してみながら、次善の策、次々善の策を試してみることです。「旧型というだけですでにトラブル」などという、ある意味とんでもない電化製品であるパソコンを使いこなしているあなたは、トラブル・シューティングの達人の道を歩んでいるのかもしれません。

【蠍座】2009年のキーワード:役に立つことができる自分を喜ぶ

有能なあなたのところには、いろんな仕事の依頼が舞い込みます。ときにそれに対する報酬が、あんぱん半分だったり(実話)、木で鼻をくくったような「ありがとうございます」のひとことだったりすることもあるのだけれど、別の見方をすれば、あなたはすでに大きな報酬を得ているともいえます。自分に何かができた、人の役に立つことができた、という実感は、何にも代え難い喜びのはず。きっとあなたが求めているのは、やったことから得られる利益ではなく、評価なのでしょう。ただ、人は自分にないものを評価はできないもの。あなたの仕事の価値を誰もがわかってくれなくても、自分ができたという実感は、何にも優る喜びでしょう。


【射手座】2009年のキーワード:体を動かす楽しみを持つ

あれやこれや考え始めると、感情が頭のなかで渦巻いてしまうことがあります。一粒の種があっというまにジャングルになり、ターザンがぶらさがっているところまでいってしまいます。そこまでいくと自分の感情を自分でコントロールなんてできません。
頭の中が考えでいっぱいになってしまったら、バットの素振りでもレース編みでもピアノを弾くことでもいいから動く。日頃からそんなときの楽しみを持っているあなたはとてもステキです。それが草引きなら、ウチに招待したいほどです。


【山羊座】2009年のキーワード:自分に騙されない

騙して壺を売りつけようとする人は、「別に信じなくていいんですよ」と言うのだそうです。こんなインチキの壺に大枚をはたくほど、あなたが息子の引きこもりや娘の非行に心を痛めているということがわかってもらえれば、それでいい、と。そういう人は自分を騙せ、とそそのかしているのです。
騙される人の話を聞いたとき、わたしたちは不思議に思いますが、ほんとうは騙そうとする人に騙されているわけではなく、自分が自分を騙している。だからこそ、だれだって騙される可能性はあるのです。
不幸にして騙された人をバカにするようなことをしていると、つぎの被害者は、あなたかも。

【水瓶座】2009年のキーワード:不幸自慢は毒の味

あなたの周りにいろんな人が集まってくるのは、あなたといると楽しいから。
もちろんあなたにだって暗い話はありますが、いまのことであれ、過去のことであれ、そんな話を聞かせて周りの人をいやな気持ちにさせる必要はありません。
自分の不幸な記憶は自家中毒のようなもの。切り抜けたあとは忘れてしまえばよいのです。忘れようとして忘れられるものなら苦労はいらないのですが。

【魚座】2009年のキーワード:悪い運命などない

運命という言葉がありますが、たとえそんなものがあったとしても、誰もあらかじめ知ることができず、コントロールも手出しさえもできないのだとしたら、あろうがなかろうが関係ありません。だれでも振り返って、自分がやったことやらなかったことに運命のしるしを見いだそうとしますが、そんなものは星と星をつないで勝手に星座をでっちあげるようなもの。わたしたちは目の前のことを毎日やるだけです。悪い運命なんてない。一年に一度だけ無資格占い師となるわたしが断言してあげます。

* * *


H.G.ウェルズが「タイムマシン」という乗り物を発明して以来、わたしたちはどこかで「未来に行ける」ということを空想するようになりました。

けれども、起こっていない未来にどうやったら行けることができるのでしょう。
もし行けるような未来がどこかにあるとしたら、すべてはすでに起こってしまって、わたしたちがそこへいくのを待っている、ということになるではありませんか。

未来なんてどこにもない。

それでも、わたしがいま食べるのは、これから行動するためです。明日も生き続けられるように、食物を摂取し、新陳代謝を行う。たとえ心臓が鼓動を停めても、しばらくは爪も伸び、髪の毛も伸びるのだとか。つまり、身体はつねに未来を指向している。けれど、意識の側は知らないものを想定し得ない。だから身体としてある意識にとって、〈不安〉というのは、本来的なことなのかもしれません。

むしろ〈不安〉が当たり前のことなら、意識して希望を持とうではありませんか。
この「陰陽師的占い」の意図は、そこにあります。
ささやかな笑いと希望を感じていただければ、これほどうれしいことはありません。


2008年もブログ「陰陽師的日常」とghostbuster's book web.をご愛顧くださってどうもありがとうございました。
新年は一月二日までおやすみして、三日から始めます。
本年もどうぞよろしく。

サイト更新しました

2008-12-30 23:22:47 | weblog
サイト更新しました。

先日までここで連載していたサマセット・モームの短篇「幸せな男」と「日付のある歌詞カード ~サイモン&ガーファンクル“マイ・リトル・タウン”をアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

更新情報は半分くらい書いたんだけど、オチがつけられなくて明日にまわします。
またお暇なときに見に来てください。

mrcmsさん、コメントの返事、遅くなってごめんなさい。ブログアップ時とちょっとだけ(笑)変わってます。なんとか今年中、そちらもお返事します。

暮れの思い

2008-12-29 23:12:00 | weblog
わたしはどうも昔から、屋根にのぼって腰かけるという情景にヨワい。エルトン・ジョンの《ユア・ソング》のなかにも「屋根に腰かけて、苔を蹴っとばした」という箇所があって、あの歌が好きなのはひとえにその部分があるからなのだ。
映画の《セント・エルモス・ファイアー》にも、メア・ウィニンガムとロブ・ロウが屋根で話をするシーンがあって、ディヴィッド・フォスターの音楽とその場面だけ、いまでもはっきりと記憶にある。

わたし自身は屋根にのぼった経験というのがない。二階の自分の部屋の窓をあけると、屋根瓦にはすぐ手がとどいたが、傾斜がきつく、幅も狭く、あっという間に下まで滑り落ちそうで、猫ならぬ身のわたしとしては、ちょっとそこから出る気にはなれなかった。横に目をやると、隣の家とは軒を接するほどで、屋根づたいにどこまでも行けそうではあった。実際にわが家の猫たちはそうやって行き来していたのだが、夜寝るときは、そうやって部屋から抜け出す自分のことを空想したものだ。

井伏鱒二の『厄除け詩集』(講談社文芸文庫)のなかに、こんな詩がある。
   歳末閑居

ながい梯子を廂にかけ
拙者はのろのろと屋根にのぼる
冷たいが棟瓦にまたがると
こりゃ甚だ眺めがよい

ところで今日は暮の三十日
ままよ大胆いっぷくしていると
平野屋は霜どけの路を来て
今日も留守だねと帰って行く

拙者はのろのろと屋根から降り
梯子を部屋の窓にのせる
これぞシーソーみたいな設備かな
子供を相手に拙者シーソーをする

どこに行って来たと拙者は子供にきく
母ちゃんとそこを歩いて来たという
凍えるように寒かったかときけば
凍えるように寒かったという
(『厄除け詩集』)


昔は「掛け」で買って、支払いは盆と暮れに店の人が集金に回っていた。昭和四十年代でもまだこの風習は残っていたのではないか。わたしの家でも「掛けで買う」という言葉を両親が使っていたかすかな記憶がある。おそらくその相手は米屋や酒屋に限られていたのだろうが。

西鶴の『世間胸算用』にも、暮れにやってきた掛け取りを、切腹の真似をして追い返す、という話が出てくるが、大晦日までうまくやり過ごせば、除夜の鐘が鳴ってしまえばしめたもの、つぎの節句までは大丈夫、ということになるのである。

この詩の「拙者」も、掛け取りが集金に来ても、払う金がない。だから屋根に上って居留守を使うのである。屋根の上に上って見ていると、「平野屋」は「今日も留守だねと帰って行く」、居留守は今日もうまくいったらしい。

この「ままよ大胆いっぷくしていると」というのは、元ネタがあるらしい。
 このころ流行った軍歌の一つに「雪の進軍」というのがあります。その歌詞の一番は、次のようです。

 雪の進軍氷をふんで
 どれが河やら道さえ知れず
 馬は斃れる捨ててもおけず
 ここはいずくぞ皆敵の国
 ままよ大胆一服やれば
 頼みすくなや煙草が二本

〈歳末閑居〉の、

 ところで今日は暮の三十日
 ままよ大胆いっぷくしていると

は、軍歌「雪の進軍」からの流用ということになります。
(川崎洋『すてきな詩をどうぞ』ちくまライブラリー))

とあるのだが、軍歌というのは威勢がいいものだろうという漠然と想像していたわたしは、こんな威勢の良くない、しみったれた、というか、それでいてクスッと笑ってしまうような、ペーソスに満ちた軍歌があったということ、しかもそれが「流行った」ということに驚いてしまう。

ともかくこれを受けて、「拙者」は歳末の掛け取りという敵をやりすごそうと、えいままよ、と煙草に火をつける。

『厄除け詩集』が出されたのは昭和十二年。日中戦争が始まり、戦時色が日ごとに強まっていく時代である。

わたしたちは戦前というと、ひたすら暗い時代という印象を受ける。「治安維持法」や「国民総動員法」の下で、当時の人びとがどんなにつらい、苦しい境遇に置かれていたのだろう、と思うのだが、そういう時代でも、やはり年は暮れ、正月はやってくる。子供と遊び、子供の感じた寒さに思いを馳せていたのだ。

時代という。
わたしたちのものの見方や感じ方は、もちろん時代の影響を受けずにはおかない。けれど、「暗い時代」だったから、人びとがいちように暗かった、などということがあるのだろうか。

わたしたちはあとから、「良い時代だった」とか「悪い時代だった」とか言うけれど、それでも、たとえいまのわたしたちから見て「悪い時代」の人びとが「悪かった」とは思わないし、時代が良くなれば、それだけで誰もが良くなるわけでもないだろう。

どんな時代であれ、朝は来るし、新年はやってくる。
そんなふうに考えていくと、「時代」なんてものが明るかろうが、暗かろうが、そんなことはあまりたいしたことではないのではないか、と思うのだ。


サマセット・モーム「幸せな男」(下)

2008-12-28 23:35:57 | 翻訳
その3.

 それからずいぶんの歳月、少なくとも十五年が過ぎて、偶然セヴィリアに行く機会があったのだが、体調をいささか崩してしまったので、ホテルのポーターに、この街にイギリス人の医者はいないかね、と聞いてみた。ポーターは、おります、と言って、その住所を教えてくれた。タクシーを呼んで医者の家へ向かうと、小柄な太った男が出てきた。わたしに目を留め、何かとまどったような様子を見せた。

「わたしのところにいらしたんですね?」と彼は言った。「わたしがイギリス人の医者ですが」

 わたしが用件を話すと、医者は、入るように言った。その家はどこにでもあるようなスペインの家で、中庭があり、そこに続く診察室には、カルテや本、医療器具やがらくたなどが散乱していた。その光景は、潔癖性の患者ならぎょっとするようなものだろう。診察が終わって、わたしは診察料を聞いた。医者はかぶりをふって笑みを浮かべた。

「診察料は結構です」

「それはまたどうして?」

「わたしのことをお忘れですか? ほら、あなたがわたしにおっしゃってくださったから、わたしはここにいるんですよ。わたしの人生がすっかり変わったのも、あなたのおかげなんですから。わたしはスティーヴンズです」

 何を言っているのか少しもわからない。そこで彼はわたしに思い出させようと、わたしたちが何を話したかもういちど聞かせてくれたので、徐々に、闇の中から薄明が見えてくるように、あのときの出来事がよみがえってきたのだった。

「あなたにまたお目にかかることができるだろうかと思っていました」彼は言った。「あなたがおっしゃってくださったことのお礼を言う機会があったらいいと思ってたんです」

「ではうまくいってるんですね」

 わたしは彼をしげしげと見た。でっぷりと太ってはげ上がっていたが、眼はいきいきと輝き、肉付きのよい赤ら顔には、上機嫌この上ない表情が浮かんでいた。服はすりきれ、みすぼらしいもので、あきらかにスペインで仕立てられたもの。かぶっているのはスペイン人のかぶるつばびろのソンブレロである。ビンを見ただけで良いワインならわかる、といわんばかりの顔つきでこちらを見ていた。放埒な生活を送っているようだったが、同時に、思いやりにあふれた印象でもある。盲腸の切除を依頼するとなると考えものではあるが、ワインのグラスを共に重ねるには、これほど楽しい相手もいまいと思えた。

「たしか結婚していらっしゃいましたね」わたしは言った。

「ええ。ですが家内はスペインを嫌ってカンバーウェルへ戻りました。あっちの方が性に合うんでしょう」

「それは生憎でしたな」

 彼の黒い目に、どんちゃんさわぎをしているときのような笑みの色が浮かんだ。確かにどこか若き日のシレノス(※ギリシャ神話に出てくる妖精で、ディオニュソスに葡萄酒の製法を教えた)を思わせるところがあった。

「世のなか、いたるところに埋め合わせはあるものでしてね」彼はもごもごと言った。

 その言葉がみなまで終わらないうち、スペイン人の女、青春期の若さこそ、もはや失われてはいたが、大胆そうでなまめかしい美人だった。スペイン語で彼に話しかけているところは、どうみても彼女がこの家の女主人であることを示していた。

 わたしを見送りに、表のドアに立った彼は言った。
「前にお会いしたときに、あなたはここに来たら、食うだけがやっとしか稼げないかもしれないが、なかなか愉快な生活が送れるとおっしゃった。ほんとうにそのとおりでした、と言いたかったんです。これまでずっと貧乏だったし、おそらくこれからもそうでしょうが、楽しくやってます。いまの暮らしなら、世界中のどんな王様の暮らしとだって、換えようとは思いませんよ」


The End


(※近日中に手を入れてサイトにアップします)

サマセット・モーム「幸せな男」(中)

2008-12-27 23:10:32 | 翻訳
その2.

「あれはそれほどたいした本じゃありませんよ。申し訳ない話ですが」

「そうおっしゃいますが、スペインのことをよくご存じのことはまちがいありませんし、わたしはほかにそんな方を誰も知らないのです。ですから、ひょっとしたらいろんなことを教えていただけるのではないかと思ったんですよ」

「それはかまいませんが」

 客はしばらく黙ったままでいた。手を延ばして帽子を取ると、心ここにあらずの体で、もう一方の手で撫でさすっている。そうしていると心が落ち着くのかもしれなかった。

「見ず知らずの人間がこんな話をして、うさんくさく思われなければいいのですが」と言うと、申し訳なさそうに笑った。「いや、身の上話などするつもりはないのです」

 人がこんなことを言うときは、かならず身の上話をするものなのである。だが、そんなことはかまわなかった。わたしは身の上話がきらいではない、というか、好きな方なのだ。

「わたしはふたりの年寄りの伯母に育てられたんです。どこにも行ったことがない。これということをやったこともない。結婚は六年前にしました。子供はいません。カンバーウェル診療所で保健所長を務めています。だが、もうこれ以上辛抱できそうもない」

 彼の使った短い、痛烈な言葉には、何かしらはっとさせるようなものがあった。ひどく説得力をもって響いたのである。わたしはそれまで相手をざっと眺めただけだったのだが、あらためて好奇の目を向けた。ずんぐりした体つきの小柄な男、歳はおそらく三十かそこら、丸い赤ら顔には、小さな濃い色の目がきらきらと輝いている。黒い髪はてっぺんの尖った頭に張りつくように、短く刈り込んでいた。ひざが飛び出したズボンをはき、ポケットは不格好に膨れ、紺色の背広はくたびれてよれよれだ。

「診療所の所長の仕事がどんなものか、あなたもご存じでしょう。毎日毎日が判で付いたように同じ。これから先、一生これを続けていかなきゃならんのです。こんな人生、一体どれほどの価値があるもんなんでしょうか」

「そうは言っても糊口の資ですからな」とわたしは答えた。

「そりゃわたしもわかってます。実入りは確かに悪くはない」

「なら、どうしてわたしのところなぞにいらっしゃったのです」

「ええ、イギリス人の医者がスペインで見込みがあるか、お考えをうかがいたいと思いまして」

「なんでまたスペインなんです?」

「わかりません。なんとなく好きなんです」

「カルメンみたいにはいかないよ」

「でもあそこには太陽があるでしょう。それにうまいワインも、色彩は豊かだし、深呼吸したくなるような空気でしょう。実を言いますとね、たまたまセヴィリアにはイギリス人の医者がいないという話を聞いたんです。わたしがやっていけると思われますか。はっきりしないもののために、安定した仕事を棒に振るのは、狂気の沙汰でしょうか」

「で、君の奥さんの考えはどうなんだい?」

「家内もその気になってるんですよ」

「だが、危ない橋ではあるよ」

「わかってます。でも、やってみろ、と言ってくださったら、そうするつもりなんです。いまいる場所でがんばれ、とおっしゃれば、続けます」

 彼は例のよく光る目で、熱っぽくわたしを見つめており、彼が言っていることが嘘偽りないものであることがよくわかった。わたしはしばらく考えた。

「あなたの一生の問題だからね。こればかりは自分で決めなければ。だが、これだけは言えると思いますよ。金はいらない、どうにか生きていけるぐらい稼げれば十分だ、と思えるのなら、行ってみたらいい。おそらくなかなか愉快な生活が送れるはずです」

 彼はわたしのところをあとにした。一日か二日は彼のことを気にかけていたものの、やがて忘れてしまった。この一件も、やがてわたしの記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまったのだった。

(明日最終回)



サマセット・モーム「幸せな男」

2008-12-26 23:28:03 | 翻訳
三日ぐらいでサマセット・モームのごく短い短篇を訳していきます。
原文はhttp://www.miguelmllop.com/stories/stories/thehappyman.pdfで読むことができます。

* * *

The happy man(幸せな男)

W. Somerset Maugham


 他人の人生に何やかやと口出しすることは危険を伴うことのはずなのだが、政治家だの社会改革者だのといった連中が、同胞の礼儀作法や習慣、ものの見方に至るまで、何とか変えさせてやろうと虎視眈々、待ちかまえているのを目にするたびに、そうした彼らの自信のほどに、舌を巻く思いでいる。わたしときたら、他人に助言するたびに、おもはゆい心地をどうすることもできないでいる。というのも、自分のことと同じぐらい相手のことをよく知っているのでなければ、いったいどうして他人の行動に対して忠告などできようか。まちがいなく言えるのは、わたしは自分のことさえたいして知っているわけではない、ということだ。まして、他人の何を知っていよう。

わたしたちにできるのは、隣人の考えていることやその気持ちを、ただ憶測しているだけに過ぎない。だれもみな、塔の独房に閉じこめられた囚人で、いわゆる人類という名のほかの囚人と、その意味するところが自分と相手とのあいだでは、かならずしも一致しない、ありきたりの記号を使って、意思の疎通を図るしかないのである。おまけに人生というものは、悲しいかな、一度きりしか送ることはできないものである。失敗は多くの場合、取り返しがつかないものだし、そうなると、あなたはこう生きるべきだ、などと言うわたしは、いったい何様だというのだろう。生きていくことは、並大抵のことではないし、完璧で文句のつけようのないまでにことを成すのがどれだけむずかしいか、わたし自身よくわかっている。だからこそわたしは、隣人に向かって、彼の人生をどうすべきであるなどと講釈する誘惑にかられることもなかったのである。

だが、人生という旅のその第一歩目からまごまごしてしまい、これから先の見通しもたたないまま、危険一杯でいるような人びともいる。そんなときには、心ならずも進むべき方向を示さざるを得なかった。たまに、わたしはこれからどうしたらいいのでしょう、などと聞かれることもあったのだが、そんなときは自分が、運命の神の黒いマントに包まれたような気がしてくるのだった。

 だが、こんなわたしのアドヴァイスが、うまくいったこともある。

 わたしがまだ若かった頃、ロンドンのヴィクトリア駅にほど近い、ささやかなアパートメントに住んでいたことがある。ある日の午後も遅くなり、今日の仕事はもう十分だ、と思い始めたころに、呼び鈴の音が聞こえたのだった。ドアを開けると、見ず知らずの訪問者がそこにいる。彼はわたしの名を尋ねたので、わたしは答えた。すると、おじゃましてもよろしいでしょうか、と聞く。
「もちろんですよ」
 居間へ通してやり、腰かけるよううながした。客はいくぶん緊張している様子である。わたしがタバコを勧めると、帽子を持ったまま、苦労しながら火をつけようとしているので、帽子を椅子の上にのせておきましょうか、と聞いてみた。あわてて自分で置きに行き、今度は傘を落とした。

「こんなふうにおじゃましてもかまわなかったでしょうか」と彼は尋ねた。「わたしはスティーヴンスと申しまして、医者をやっております。あなたも医学者でいらっしゃいますよね?」

「ええ。ですが開業はしていないのです」

「それも存じ上げております。先頃、あなたがスペインのことを書かれていたのを拝見して、おうかがいしたいことができたのです」

(この項つづく)

えこひいきの話(かなり大幅に補筆)

2008-12-25 23:19:48 | weblog
先日、兄弟姉妹というのはなかなか大変なものだなあと思う話を聞いた。

わたしにその話を教えてくれたのは、ふたり姉妹の妹にあたる人だったのだが、その人のもうすぐ二歳になる娘に、彼女の実家からクリスマスプレゼントが届いたのだという。それが、彼女のお姉さんの子供ふたりに送ったものと「全然ちがう」のだそうだ。姉のところには、ふたりそれぞれに、いまはやりの、子供たちの喜びそうなものをみつくろってくれたのに、自分のところには、それより額もぐっと下回る、ついでに調達したとしか思えないようなものだったとか。

小学校の、それも高学年になる子供たちのおもちゃと、まだ一歳の子供のおもちゃでは、そもそも比較すること自体、無理があるような気がしたのだが、自分が小さな頃からいつもそうだった、姉ばかりかわいがられていた、と、これまでのあれやこれやを、いくぶん感情的になったその人が縷々訴えているのに耳を傾けるうち、子供を育てるというのは、自分自身がもう一度、子供時代を生き直すという側面があるのだなあ、と思ったのだった。

子供というのは「えこひいき」にことのほか敏感だ。母親がケーキを切り分けるときは、どれが一番大きいか、目を光らせる。たとえケーキがそれほど好きなわけではなくても、ケーキの大きさの差は、母親が子供たちをどのように見ているかの反映なのである。

学校だって同じこと。小学校時代から誰が「先生のお気に入り」かはたちまちみんなの知るところとなったし、「あの先生、えこひいきするよね」という言葉は、先生に向けられる最大の倫理的批判だった。中学時代、先生になりたい、という子に向かって、「A子は人の好き嫌いが激しいでしょ、先生に向かないと思う」と意見する子もいた。

だが、自分が公平さを求められる側にまわってみると、「公平」というのはそれほど単純なことではないことがわかる。ちょうどおでんを煮込むときのようなものだ。それぞれの具材によって、下ごしらえも、入れる順序も、煮込む時間もまるでちがう。「公平」を期してコンニャクと牛スジと大根とジャガイモと昆布とはんぺんを同じ状態で同じ時間煮込んでしまえば大変なことになるだろう。

さらに言えば、料理人であるわたしの問題もある。わたし自身にだって好みはあるし(わたしはおでんにニンジンを入れるのは好まない。はんぺんとちくわぶも嫌いだ)、不調なときだってある。しかも現実の人間は、おでんの具材と比較にならないほど複雑で、しかも一度きりではないのだ。全員に「公平」であろうとするのは、至難の業、というか、そもそも不可能なことなのである。

親や先生が「えこひいきをした」と憤る子供たちは、親や先生たちが自分たちと同じように、好きと嫌いがあり、好調と不調があり、うまくできることとできないことがあり、しょっちゅう間違え、失敗する人間であるということを知らない、というか、それに気がつくまいとする。そういうオトナは「公平で正しい行動」を取るべきで、それを逸脱することが許せない。不正を目の当たりにすれば、持てる限りの正義感を総動員して、批判の声を上げる。

だが、実際のところ「公平で正しい行動」というのはどこにあるのだろう。

もちろん、同じ情況に過去遭遇していて、以前の経験が適用できる場合はあるかもしれない。本やマニュアルによる知識や、自分が教えてもらったことで対応できる場合もあるだろう。だが、そんな情況は限られているし、いくら似ていたとしても、時間と相手がちがえば、情況はすでに同じではない。どんなときでも遭遇するのは「初めて」だし、初めてのことは誰だって手探りなのである。いろんなことはやりながらわかっていくしかないのだ。間違えるのはあたりまえだし、第一、間違うことが最悪のことでもない。

親に対する「恨みつらみ」が忘れられない人がいる。わたし自身がずっとそうだったから、その気持ちはすごくよくわかるし、そんなふうに思ったこともないような、安定した幼少期を過ごした人がうらやましい。

家を出てしばらくは(というか、家に縛り付けられていたのと、ほぼ同じくらいの年数のあいだは)ずっと、どうかすると親に対する批判が頭をもたげてきて、あのときはああいうことをすべきではなかった、とか、自分だったらそうはしない、自分はそんな大人にはならない、などと思っていたものだ。

だが、自分自身が失敗を繰りかえし、恥ずかしい思いをしたり、落ち込んだりしたあげく、この失敗が最後ではないのだ、これからだっていやになるほど失敗を繰りかえすのだ、という、情けない、脱力するしかないような事実を徐々に理解するにつれ、親に対する気持ちも少しずつ変わってきたような気がする。

もちろん過去のあれやこれやの記憶がよみがえってくることもある。だが、たとえ過去、そういうことがあったとしても、それをいま思い出して、改めて自分を傷つけ直しているのは、もはや親ではない。思い返している自分自身だ。そうなると、悪いのは一体誰なのだろう? いま、自分に痛みを与えているのは、自分自身ではないのか。

親であれ、先生であれ、どこかの「エライ人」であれ、誰かの行動を取り上げてそれを批判する、というのは、自分を子供の位置に置こうとすることなのかもしれない。自分は大切に扱われ、保護されるべき子供なのだ、と。自分の「取り分」が少ないことに腹を立て、不公平だと正義感に満ちあふれて告発している子供。

「えこひいき」という言葉を使うのは子供だけだが、「不公平」というと適用範囲は広くなる。さらに「不正」となると「社会的正義」の後ろ盾も加わってきそうだ。
だが、それを声高に叫ぶことの根っこにある感情は、結局は同じものであるように思う。


わたしに「クリスマスプレゼントの差別」の話をしてくれた人も、どこかで自分の怒りの理不尽さに気がついていて、それで余計に感情的になっているような気配もあった。すでにそこから出てきたはずの過去に、ふたたび足を取られたような気持ちだったのかもしれない。

坂口安吾は、太宰の訃報にふれて、「不良少年とキリスト」という一文を書いた。そのなかで、この言葉がのちに有名になる。
親がなくとも、子が育つ。ウソです。
 親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てゝ、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。

親なんて、そのぐらいのものだ。そのぐらいのものだからこそ、大昔から人間はいなくならずに続いてきた、とも言える。所詮、自分の親なのだ。そうして、そんな自分が親になるのだ。そのことを彼女も受け入れることができたら、もしかしたら見方も変わってくるのかもしれない、と思う。

けれど、安吾の文章でもっと大切なのは、それにつづく箇所だと思う。
 時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
 大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
 原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。

「限度」という発想がないから、子供は親が全能だと思い、だからこそ不公平が許せない。先生は教室で全能だから、「えこひいき」が許せない。
大人になる、というのは、この「限度の発見」なのかもしれない。
 私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。

こういうのを読むと、つくづくオトナってカッコイイ、と思う。
こんなオトナに、ワタシハナリタイ。



My Little Town

2008-12-24 23:19:18 | weblog
My Little Town


日付のある歌詞カード
 Simon & Garfunkel "My Little Town"

~ Anywhere But Here (ここではないどこかへ)~

いまでこそ大概のときニコニコしていて、いつも愛想がいい、と近所でも評判の(含嘘)わたしだが、中学から高校にかけては、毎日がいらだたしくてたまらず、不安と鬱屈のなかに閉じこめられていた。周りがバカに見えて、そんなに何も知らないのに、なんで平気でのうのうと生きていられるのだろうと腹を立てたかと思えば、つぎの瞬間には、逆に、自分ひとりが何も知らない、何もできないことに気がついて、自分は一生、このまま何もできなかったらどうしよう、と焦るばかり。どうにも未熟な自分を持て余す日々だった。

はっきりいってそんな時期にサイモン&ガーファンクルなどではないのである。クラスには「サイモン&ガーファンクルが好き」と言っている女の子もいたけれど、あんなものは所詮オンナコドモの聴くもの(わたしはそのオンナコドモだったのだが)、体の芯にダイレクトに響くベースラインと、空気を切り裂くギター・ソロのないような曲は、音楽ではないと思っていた。

その頃、学校の音楽の教科書には、ビートルズの《オブラディ・オブラダ》とサイモン&ガーファンクルの《サウンド・オブ・サイレンス》が載っていたような気がする。実際に授業でやったわけではないが、イタリア歌曲の譜面や、ブラームスの交響曲の鑑賞のページのあいだにある、ハイフンでつないだ英単語が音符ごとについている、メロディラインだけのアホらしくなるほど単純な譜面は、実際にその曲の持っていた魅力を、ほんの少しも伝えなかった。教科書にビートルズを載せるなんて、もしかするとそれはビートルズやS&Gを聴かせまいとする陰謀ではあるまいか、と思ったものだ。

気がつけばそこにあったような音楽、たまに「ああ、いいな」と思うことがなくはなかったが、自分からもっと聴いてみようというほどではない。だからサイモン&ガーファンクルも、知っている曲はたくさんあったが、これはもしかしてすごくない? と初めて思ったのは、映画《あのころペニー・レインと》のなかで《アメリカ》を聴いたときが初めてだった。聴きやすい、一見単純なメロディラインなのだが、ところどころで予想をくつがえす意外なコード進行に気がついたのは、最初に耳にしてから20年近くが過ぎていた。

* * *


My Little Town(ぼくのちっぽけな町)

In my little town
I grew up believing
God keeps his eye on us all
And he used to lean upon me
As I pledged allegiance to the wall
Lord I recall
My little town

 ちっぽけな町で
 ぼくはこう信じて大きくなった
 神様はいつだってみんなのことを何もかも見ているんだと
 だからぼくはよく のしかかられているみたいに感じたものだった
 壁に向かって忠誠を誓うたびにね
 やれやれ いまだに浮かんでくるよ
 あのちっぽけな町のことが

Coming home after school
Flying my bike past the gates
Of the factories
My mom doing the laundry
Hanging our shirts
In the dirty breeze

 学校が退けて帰ってきたら
 自転車に飛び乗って
 続いていく工場の門の群れを走り抜けていく
 母さんは洗濯をしていて
 ぼくたちのシャツを干していた
 薄汚れた風のなかで

And after it rains
There's a rainbow
And all of the colors are black
It's not that the colors aren't there
It's just imagination they lack
Everything's the same
Back in my little town

 雨があがったら
 虹が出る
 だけど色は全部黒だった
 色がなかったってわけじゃない
 なかったのはたぶん想像力の方だ
 何もかもが同じだったから
 あのちっぽけな町では

Nothing but the dead and dying
Back in my little town
Nothing but the dead and dying
Back in my little town

 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 あのちっぽけな町では
 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 ぼくのちっぽけな町には

In my little town
I never meant nothin'
I was just my fathers son
Saving my money
Dreaming of glory
Twitching like a finger
On the trigger of a gun

 あのちっぽけな町だと
 ぼくは何者でもなかった
 ただオヤジの息子ってだけ
 小遣いを貯めて
 栄光を夢見て
 銃の弾き金かけた指みたいに
 がたがたふるえていた

Leaving nothing but the dead and dying
Back in my little town

 死んだやつと死にそうなやつを残して出ていくんだ
 ぼくのちっぽけな町を

Nothing but the dead and dying
Back in my little town
Nothing but the dead and dying
Back in my little town

 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 あのちっぽけな町では
 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 ぼくのちっぽけな町には


* * *

たとえ工場が煙突を連ねるような町に育たなくても、この歌にはだれもが自分の一時期を多少とも見る思いをしないではいられないようなところがある。

虹が真っ黒、というのは、ゾッとするようなイメージだが、自分のあの時期を振り返っても、何か目にするものすべてがモノトーンだったような、自分がひどくくすんだ、薄暗い、殺伐とした世界のなかにいたような気がして、「なにもかもが同じだったから」虹も同じ色に見えたという歌詞はよくわかる。

だがこの歌は、単に暗かったり殺伐としているだけではない。死のイメージに貫かれている。虹の黒は、工場町のすすけた空気を指すだけではなくて、町には「死んだやつと死にそうなやつしかいな」いのだ。いらだち、ここにはもういられない、なんとかここを出なければ、と焦るティーンエイジャーにとって、自分の目に映る人びとは、「死んだやつと死にそうなやつ」。そうして何者でもない、「オヤジの息子ってだけ」の自分も、「死にそうなやつ」のひとりなのである。

「銃の弾き金かけた指」の「銃」はどこに向かっていたのだろう? おそらくそれは自分だ。だから引き金にかけた指は、がたがたふるえていたのだ。実際にそれを試みたかどうかはともかくとして、この歌の主人公はそんな気分でいた。

* * *

イントロは、ピアノが左右のユニゾンで入ってくる。
ピアノの左手というのは、言ってみればベースラインみたいなものなのだが、両手でそれを強調することで、ずっと力強く、オクターヴの響きをもって耳に飛び込んでくる。
そこからふたりのユニゾンで歌が始まる。

軽く、上からふわっと降りてくるみたいな声がガーファンクルのもの。知的な、ちょっと憂鬱そうな声がサイモン。ユニゾンになってもこのふたりの声は溶けあってひとつになるのではなく、別々に聞こえてくる。転調したり元に戻ったり、例によって複雑なコード進行と変拍子なのだが、コーラスになるとハーモニーの美しさに耳を奪われて、そんなものはどうでもよくなってしまうのだ。

途中からコンガのリズムが加わり、リズムが強調される。そこに、暗い、いらだちに満ちた歌詞を、重力を感じさせない声で歌うガーファンクルと、淡々と、少し憂鬱そうだけれど、やはり軽く歌うサイモンの声がかぶせられる。

それを聴いていると、歌詞で歌われている主人公は、おとなになった、ということがわかるのだ。いらだちながら、突き詰めて、未来にすがるように、ものごとを考えたり感じたりするのが十代の頃だとしたら、それを土台に、歳を取ることもできる。その頃の経験をありありと感じながらも、同時にそう感じていた自分を外から眺めることもできるようになる。そのとき、ひとは少し、自由になるのだ。自由になれるのは、故郷を出たからではなく、故郷を出ることで、故郷にいた頃の自分を外から眺められるから。そうして、いまの自分も、未来の位置に自分を置いて、そこから振り返って眺めてみることができるようになる。かつてはそのなかに閉じこめられているだけだった「いま」も、外から眺めることで、その輪郭がおぼろげに見えてくる。

もしかすると、その「いま」は、《American Tune》のような世界なのかもしれないのだけれど。

Simon & Garfunkel - American Tune

森鴎外と森林太郎

2008-12-22 23:37:25 | weblog
ここで森林太郎と脚気問題について、板倉聖宣『模倣の時代(上・下)』(仮説社)に依拠しながら詳しくふれたのは、一般に言われるように脚気問題に関して鴎外を批判することは、果たして正当なことなのだろうか、という疑問があったからである。

鴎外の時代、人びとは単に脚気の治療法を知らなかっただけではない。ビタミンという種類の栄養素が人間に必要だったことも知らなければ、統計学的な処理もまだ確立されていなかった。

さらに考慮に入れておかなければならないのは、日本人にとって「米」というのは、「主食」という言葉にもあきらかなように、麦やマメなどのほかの穀物とは異なる地位を占めていることである。

昔にくらべれば、食料の種類もはるかに豊富になり、海外からも多くの食物が輸入される現代であっても、1993年の不作の年にあきらかなように、わたしたちはいまだに米に関しては、「日本で収穫されたもの」に対して特別な思いを抱いている。

明治時代であれば、米に対する気持ちは、いまよりもさらに強いものであったことは想像にかたくない。しかも鴎外はドイツで栄養学の勉強をしている。必須アミノ酸をすべて満たしている米が、麦などにくらべてはるかに栄養の面で「優れている」という意識があったとしても不思議はない。

たとえ原因がわからなかったとしても、麦飯を食べさせると脚気が減ったんだから、麦飯に切り替えるべきだという主張は、確かに筋が通っている。

だがこれはたとえばドクダミやゲンノショウコなどの植物の花や根のどんな成分がどうやって効くかわからなくても、実際に効果があるからドクダミを煎じて飲む、というのと同じ理屈ではないのか。いまでこそ、わたしたちはこのような有効性をも認めているが、西洋医学が入ってきた当時、まさに西洋医学の礎を日本に築こうとしていた人びとにとってはこのような民間療法を決して認めることができなかった、というのもまた理解できるのだ。重篤な病気であればあるほど、そうだったにちがいない。

鴎外の「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果(Post hoc ergo propter hoc)〉の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」という主張もまちがっていない。当時の統計がどこまで麦飯と脚気の減少の相関関係ではなく因果関係を明らかにしているのか、本を読むかぎりでわたしにはよくわからなかったのだけれど、脚気病原菌説に固執して、日露戦争時に麦を送ることを拒んだとされる鴎外や青山胤通が、当時意図的に観察可能な事実を無視して、党派的な利害に基づく行動を取ってきたとは言えないように思う。

現在進行形である事態のただなかにある人にとって、「正しい方法」というものがどこかにあるわけではない。「正しい方法」というのは一切が完結して、歴史的な評価ができるようになってはじめて明らかになるものだろう。

いまの時点から見て、「間違った」認識を持った人が、「間違った」見方に固執して、「正しい」認識を持った人びとを弾圧し、排斥した、と批判するのは、あまり意味のあることではないようにわたしには思える。自然科学の「発見」、医学の「発見」、そうしたものが累々たる失敗と間違いの上に築かれるものであることを考えると、たとえそうであったとしても「あのときこうしていれば脚気患者の多くを救えたのに」という論法で批判することはできないのではないか。

さらに、米糠の効果があきらかになっていった段階で、森林太郎が公式に自分の非を認めなかった、と批判する人もいる。だが、晩年の彼が脚気問題をどのようにとらえていたかはわからない。

この話を始めるときに、鴎外は『舞姫』の主人公に、たとえば漱石の『坊ちゃん』とは似ても似つかない人物を選んだことを書いた。太田豊太郎は、自分の意志や良心を曲げ、母親や友人、日本にいる自分を送り出してくれた人びとなど周囲の期待に沿うことを選ぶが、むしろそれは積極的に自分で選択したというよりも、むしろ避けがたくそちらに追いやられていったとも言える。同時に彼はそうした自分を決して許さない。自分のあえて言うなら「卑怯さ」を、誰よりもよく自覚している人物なのである。そうした主人公を作家生活の非常に早い段階で造型していった鴎外を、わたしはどうしても軍医森林太郎と重ね合わせて見てしまう。

人がある行動を取るとする。だが、その好意はどこまでその人の意思と言えるのだろう。わたしたちが「自分の意志」と考える、そのどこまでが、わたしたち自身の意思なのだろう。だが、いったんなされた行動には、かならず責任がついてまわる。わたしたちは自分が自由な意思決定で選択した〈かのように〉その責任を引き受けるのである。たとえその行動の結果が、自分の当初意図したものとかけ離れたものになったとしても。

失敗したの責任の取り方は、おそらく謝罪することばかりではないように思う。

作家としての鴎外は、やがて小説を否定して、史伝を書くようになる。
 そのなかで彼がもっとも力を注いだのは「抽斎」「蘭軒」「霞亭」など徳川時代の考証学者の伝記で、これらの学者は、後世を大きく益するような功績を学問上に立てたわけではなく、花花しい文明を残したのでもなく、もし鴎外が偶然の機会から発掘しなかったら、現在ではまったく埋没してしまったはずの人々です。
 しかし鴎外はかえって彼等の平凡な外見と単調な生活のなかに、激しい学問への情熱と、功利をはなれて天分に安んずる真に人間の名にふさわしい高貴な生き方をみとめて、その再現に心血を注ぎました。
(中村光夫『日本の近代小説』(岩波新書))

『渋江抽斎』のなかにこんな一節がある。
抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。ただその相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
 抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比ではなかった。迥(はるか)にわたくしに優った済勝の具を有していた。

問題は、彼がやったことが現代の知識や道徳や常識に照らし合わせてどうかということではないだろう。鴎外がいったいどのような生き方を理想としていたか。そういうことを考えると、たとえば文人としての鴎外は立派だったが、軍医としての森林太郎は恥ずべき人物であった、などというようなことは言えないように思うのだ。

軍医森林太郎と脚気の話7.

2008-12-21 22:14:05 | weblog
7.陸軍軍医総監として

板倉聖宣『模倣の時代(下)』には1943年に発表された山田弘倫の『軍医森鴎外』からのこんな一節を引いている。陸軍軍医総監、医務局長に就任した森林太郎のところへ、衛生課長大西亀次郎がやってきて、陸軍の兵食を麦と米の混食との規定を設けてほしい、と訴える。それに対して林太郎はこんなことを言った、というのである。
「ハア、君も麦飯迷信者の一人か。これは学問上同意ができかねる。僕が医務局に入ったとき、〈君が忌む局長になったからといって、脚気予防に麦飯が必要だ、などという俗論にマサカ、化せられはしまいね〉と、青山君までがそう云ったよ。僕もまだそこまで俗化してはいないよ」

この「青山君」というのは、東京帝大医科大学長の青山胤通のことである。当時、すでに反麦飯派は圧倒的に少数になっていたが、青山胤通や森林太郎は、米に比べてあきらかに栄養価の劣る麦飯が、なぜ効くか、理論的裏付けがないために、決して認められなかったのである。

医務局長森林太郎は、厳しい批判のなかで陸軍臨時脚気病調査会を発足させることになる。会長としての林太郎の最初の仕事は、来日していた細菌学の生みの親でもあるロベルト・コッホに脚気研究に対する意見を聞くことだった。そうしてコッホは「脚気病については、わずかな経験しかもっていない」と断ってから、脚気死亡者の病体解剖を二、三実行したが、そのなかにいつも連続球菌を見た、おそらくそれが脚気病菌で伝染病だと確信している」という待望の返答をもらったのだった。

第二回の調査会で、オランダ領インドのバタビアに研究者を派遣することに決定した。オランダ人軍医による〈脚気菌の発見〉や、エイクマンのニワトリの脚気の発見と、日本以外での脚気研究の成果を学ぶためには、オランダ領インドにおける研究がもっとも進んでいたからである。

当初派遣された三人の委員たちは、森林太郎の影響を強く受けていた。だが、そのうちのひとり、軍医の都築甚之助だけは、視察以前の研究方針を改めて、動物実験を行って、脚気の部分的栄養障害説を提唱するようになる。そうして日本で最初に米糠エキスによる脚気治療を行うようになる。そのためだったのだろうか、都築は調査会の委員を免職になり、軍医も追われるのである。以降、彼は民間医として研究を続けることになる。

ほかに脚気の研究としてめざましい成果をあげたひとりに、志賀潔がいる。彼は北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所の技師だった。東大の医科大学を卒業するとすぐに伝染病研究所に入り、まもなく赤痢菌の発見した志賀は、脚気研究に乗り出して、「脚気は伝染病ではない」と断言し、日本で初めて「脚気は一種の〈部分的栄養障害〉であることを明らかにした。

さらに民間医の立場から脚気の研究を始め、〈部分的栄養障害説〉と統計的な研究を結びつけて全面的に展開した遠山椿吉(しゅんきち)、東京帝大でも農科大学の教授で、農芸化学の方面からビタミンBを発見した鈴木梅太郎、脚気研究はこの四人に代表される人びとによって、新しい時代が切り開かれていくことになる。

この新しい脚気研究の流れに対して、強力な反対者としてあったのが、青山胤通や森林太郎だったのだ。

結局森林太郎は、脚気問題に関しては、一切の成果をあげることなく大正五年陸軍省医務局長を引退することになる。医務局長を辞めたあとも臨時脚気病調査会には臨時委員として残っていたが、大正十一年、六十一歳でその生涯を終える。そうしてこの調査会も、脚気のビタミンB欠乏症説を最後まで認めることなく、大正十三年に解散したのである。

(明日はおまけ)