陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アーネスト・ヘミングウェイ 「キリマンジャロの雪」その2.

2010-08-31 23:19:26 | 翻訳
その2.


 彼は横になってしばらくのあいだ口をつぐみ、かげろうがゆらめく平原の彼方のブッシュを見やった。黄色い大地を背景に、数頭の羊が白い点を描いている。そのはるか向こう、ブッシュの緑を背に浮かび上がる白い色は、シマウマの一群だ。ここは快適な野営地だった。丘を背にして、木は高く生い茂り、水にも恵まれている。すぐそばには涸れた泉の跡もあり、朝になると砂鶏も飛んできた。

「ねえ、何か読んでほしくない?」彼女は尋ねた。男が横になっている寝台の脇に、キャンバス・チェアを置き、そこに腰を下ろしている。「いい風が吹いてきたわ」

「いや、大丈夫だ」

「トラックがそろそろ来るんじゃない?」

「トラックなんて知ったことか」

「大事なことでしょ」

「君の大事なことってのは、えらくたくさんあるらしいな」

「大切なことは、ほんの少ししかない、ハリー」

「一杯やるってのはどうだ?」

「お酒は良くないと思う。ブラックの本にもアルコールは一切避けるように、って書いてあったから」

「モーロ!」彼は怒鳴った。

「はい、ブワナ(旦那様)」

「ウィスキー・ソーダを持ってきてくれ」

「かしこまりました、ブワナ」

「そんなことしないで」彼女は言った。「そんなもの飲むなんて、あきらめたことと一緒じゃない。ケガした体に悪いって書いてあるんだから。毒なんだから」

「とんでもない」彼は言った。「薬さ、おれにとっちゃ」

 こういうふうに何もかもが終わっていくわけか、と彼は思った。やりとげるチャンスは永遠に来ないってことだ。こんなふうに終わるのか。飲むだの飲まないだのでやりあいながら。

右脚が壊疽を起こし始めると同時に、痛みはなくなり、痛みが消えると同時に怖れもどこかへ行ってしまい、いま感じているのはひどい疲労と、こんなことで終わってしまうことに対する激しい怒りだけだ。ここまで来てしまうと、近づきつつある死に対しても、好奇心すらわいてこない。もう何年もおれに取り憑いて離れなかったのに。結局、死そのものというのは、何の意味もないんだな。疲れたというだけで、これほどあっさりとどうでもよくなってしまうとは、おかしなものだ。

 うまく書けるようになるまで大切に取っておいたさまざまなことを、おれはもう、決して書くことはないのだ、と考えた。まあ、何とか書こうとして失敗することもなくなったわけだが。きっとおれには無理だったんだろう。だからこそ、書き始めるのをずるずる先送りし、延ばしに延ばしてきたんじゃなかったか。なんにせよ、もういまとなってはわかりようがないことだが。

「こんなとこ、来なきゃよかった」女が言った。グラスをにぎりしめ、唇を噛んだまま、彼にじっと目を注いでいる。「パリにいたら、こんなことにはならなかったのに。あなた、パリが好きだっていつも言ってたじゃない。あのままパリにいたってよかったし、どこかよそへ行ったってよかった。あなたが行きたいところなら、どこへだってわたしはついていったのに。狩猟がしたいのなら、ハンガリーだってできるんだし、そこでなら快適に過ごせたのに」

「君の金でな」彼は言った。

「そんな言い方するなんてひどい」彼女は言った。「わたしのものはいつだってあなたのものだったじゃない。何もかも捨てて、あなたの行くところならどこだってついて行ったし、あなたが望むことを何でもやってきた。だけど、ここだけは来なかったらよかった」

「ここが気に入ったって言ってたじゃないか」

「あなたが元気なときはそうだったの。でも、いまは大っきらい。なんであなたの脚がそんなふうにならなきゃいけなかったの? わたしたち、こんな目に遭わなきゃならないような何をしたって言うの?」

「最初にかすり傷ができたときにヨードチンキを塗るのを忘れたってだけさ。感染症に罹ったことなんてなかったから、気にもとめなかった。そのあと悪くなってから、薄い石炭酸溶液を使ったんだ。ほかの消毒薬がなかったからね。そのあげく、毛細血管が麻痺して、壊疽を起こした」彼は相手を見つめた。「それだけのことだ」

「わたしが言ってるのはそんなことじゃない」

「じゃ、もしおれたちが半人前のキクユ族の運転手なんか雇わずに、立派な修理工を雇ってさえいたら、オイルの点検もおさおさ怠らず、トラックのベアリングを焼き付かせるようなヘマもしなかった、とでも?」

「そんなことじゃないんだったら」

「ってことは、もし君が君のお仲間、オールド・ウェストベリだのサラトガだの、パーム・ビーチだのの連中を捨てて、おれに乗り換えたりしなけりゃ」

「だってあなたを愛してたから。そんなこと言うのは卑怯よ。こんなに愛してるのに。これからもずっと愛してる。あなたはそうじゃないの?」

「いや」男は言った。「たぶん愛してはいないな。これまでだって」

「ハリー、なんてこと言うの? 頭がどうかしちゃったんじゃない?」

「ちがうね。どうにかなるような頭すら持っちゃいない」

「そんなもの飲まないで」彼女は言った。「ねえ、お願い。お酒なんてやめて。力を合わせて、できるだけのことをしましょうよ」

「君がやればいい」彼は言った。「おれはもう疲れた」

* * *
 いま彼の脳裡には、トルコのカラガッチ駅があった。彼は荷物を持って立っており、闇を引き裂いてシンプロン・オリエント急行がやってくる。彼はいま、ギリシャ軍が撤退したあとのトラキアを発とうとしているのだ。これも、そのうち書こうと大切に暖めてきた題材のひとつだった。それと、その朝の食事の席で、窓の外、ブルガリアの山々が雪をかぶっているのが見えたことも。

ナンセンの秘書がナンセン老人に、あれは雪でしょうか、と尋ねたところ、老人はそちらに目をやり、いや、あれは雪ではない、と答えた。雪にはまだ早すぎる、と。そこで秘書はほかの女の子たちに、いいえ、あれは雪じゃないんですって、と繰りかえした。雪じゃないのね、とみなが口々に言い、わたしたち見間違えたんだわ、と言い合った。だが、雪以外の何ものでもなく、ナンセンが開始した住民交換計画は、雪の中へ人びとを送り込むことになった。その冬、歩き続けた人びとを死に追いやったのは、その雪だった。(※訳注:ギリシャ-トルコ戦争で休戦時に締結されたローザンヌ条約によって、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定し、約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住することになったことを指している。ナンセンはこの移動に尽力した。ヘミングウェイ自身も希土戦争に特派記者として従軍している)

 あれもまた雪だった。同じ年のクリスマスの週、オーストリアのガウエルタールは雪が毎日降り続いたのだ。みんなで生活した木こり小屋には、大きくて四角い陶器のストーヴが部屋の半分を占領していて、みんなブナの葉をつめたマットレスで眠った。そのとき、血だらけの足の脱走兵が雪の中をやってきた。警察がすぐそこまで来ている、と言うものだから、みんなはウールの靴下を履かせてやり、彼の足跡が雪ですっかり覆われてしまうまで、みんなで憲兵に話かけて引き留めたのだった。





(この項つづく)



アーネスト・ヘミングウェイ 「キリマンジャロの雪」その1.

2010-08-30 23:25:17 | 翻訳
今日からアーネスト・ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」の翻訳をやっていきます。まとめて読みたい方は一週間後くらいにまた来てみてください。

原文はhttp://members.multimania.co.uk/shortstories/hemingwaysnows.htmlで読むことができます。


* * *

The Snows of Kilimanjaro(キリマンジャロの雪)

by Ernest Hemingway




キリマンジャロは標高6007メートルの雪におおわれた山で、アフリカの最高峰である。西側の山頂はマサイ語で「ヌガイェ ヌガイ」、神の家と呼ばれている。その「神の家」近くに、一頭の干からびた豹のしかばねが凍りついている。豹がこんな高地に何を求めてやってきたのか、理由は誰にもわからない。


「不思議なのは、ちっとも痛くないってことなんだ」彼は言った。「そこで、ああ、いよいよおいでなすったか、ってこっちにもわかるわけさ」

「痛くないってほんと?」

「ああ、全然痛まない。まあひどい臭いは勘弁してくれ。君もうんざりだろうが」

「そんなわけがないでしょう」

「見ろよ」彼は言った。「あんなふうに集まってるのは、こっちを見つけたからか、それとも臭いを嗅ぎつけたからなのか、どっちだろうな」

 男が横になっている簡易寝台は、ミモザが作るふところの広い木陰に置いてあった。陰の外、太陽がぎらぎらと照りつける平原に目をやると、三羽の大きな鳥が猥褻ともいえるような格好でうずくまっているのが見える。空にはさらに十数羽が飛び交い、地面にはその動きに合わせて、黒い影が踊っていた。

「やつら、トラックが故障した日からずっと、あそこを飛んでたんだ」と彼は言った。「地上に降りてきたのは今日が初めてだかね。初めは、いつか小説に使うかもしれないと思って、やつらがどんなふうに飛ぶのか、じっくりと観察していたんだ。こうなっちゃ、笑い話にしかならないが」

「そんな話、聞きたくない」

「ただしゃべってるだけじゃないか。口を動かしてる方が楽なんだ。でも、君がいやならもう黙る」

「わたしがいやなわけないでしょう」と彼女は言った。「わたしにできることが何もないから、ちょっとイライラしてるだけ。でもわたしたち、気楽に構えてなきゃね。飛行機が来るまでは」

「さもなきゃ、未来永劫、飛行機なんて来ないことがわかるまでは」

「ねえ、何かわたしにしてほしいことはない? できることがあるはずよ」

「じゃ、この脚を切り落としてくれよ、そしたらこいつも治まるにちがいない。いや、そんなにうまい具合にはいかないか。それよりひと思いにおれを撃ってくれ。いまじゃ君の腕もたいしたもんだ。なにしろ、このおれが教えてやったんだから」

「そんなふうに言うのはもうやめて。何か読んであげましょうか」

「読むって何を?」

「カバンの中のまだ読んでないものなら何でも」

「じっと聞いていられそうにない」彼は言った。「話してるのが一番楽なんだ。ケンカしてれば時間も過ぎるってもんだ」

「わたし、ケンカなんてしたくない。ケンカはいや。ねえ、もうケンカなんて、ほんとにやめましょうよ、どれだけイライラしてても。だって、今日にもあの人たち、別のトラックで戻ってくるかもしれないし。それとも飛行機が来るか」

「もう動くのはごめんだよ」男は言った。「どこかに移ったって同じことだ。ま、君の気分が晴れるぐらいだな」

「意気地なし」

「人が死ぬってときに、悪態のひとつもつかないで、穏やかに逝かせてやれないものかねえ。おれにガタガタ言って何になるって言うんだ」

「あなた死んだりしないわよ」

「バカなことを言うな。こうやって死んでいくんだ。あいつらに聞いて見ろよ」彼が見上げた先には、巨大で汚らしい鳥が、禿上がった頭を丸めた背中の真ん中に埋めてたたずんでいた。そこに四羽目が舞い降りて、素早く脚を動かしたかと思うと、ほかの三羽に近づいたところで歩調を緩め、身を寄せる。

「あんな鳥なら、どこのキャンプのまわりにだって集まってる。あなたが気がつかなかっただけ。あきらめさえしなかったら、死ぬなんてこと、絶対にない」

「そんな言葉はどこで覚えたんだ。底抜けの阿呆だな」

「じゃ、誰かほかの人のことを考えてなさい」

「おいおい、いいかげんにしてくれよ」彼は言った。「それこそ、おれがこれまでずっとやってきた仕事じゃないか」



(つづく)

感想文の問題(※一部補筆)

2010-08-28 23:27:28 | weblog
夏休みの宿題というと、自由研究と並んで、読書感想文が生徒を悩ませる。自由研究にせよ、感想文にせよ、研究のやり方、まとめ方、書き方も教えないでそんな宿題を出すのだから、考えてみればひどい話である。

わたしもこのふたつには悩まされた。自由研究ならまだいい。とりあえず何か調べて、観察するか実験するかして、まとめればどうにかなるのだから。問題は感想文だった。感想といったところで、ああ思った、こう思ったなどとつらつら書くのはどう考えてもバカっぽい。第一、そんなことでは原稿用紙の四分の一も埋まらないではないか。

仕方がないから文庫本や全集の巻末にある解説を写した。丸写しするわけにもいかないから、ちょっと表現を変えたり、ふたつみっつの文章をあちこちつなげたりしながら、苦労しながらマス目を埋めた。

そんなに苦労して提出したのに、返ってきた講評にはいつも「自分の言葉で書きましょう」と書いてあったのである。わたしはいつもおもしろくなかった。確かにわたしはいろんな本からぱくりはしたが、「感動した」「自分だったらああした、こうした」が自分の言葉なのだろうか。誰でも思いつくような言葉がどうして「自分の言葉」で、自分が「これがいい」と選んだ言葉が「自分の言葉」ではないのだろう。そもそも「自分の言葉」なるものがどこかにあるのだろうか。

だが、当時のわたしはまるでわかっていなかったのだが、「自分の言葉」というのは、そういう意味ではないのだ。「自分のものになっていない言葉」という意味だったのだ。

解説や評論を読んで、自分が理解したことを書く代わりに、自分を介在させずに、そのまま切り張りしただけの文章は、決して自分のものではない。それだけのことだった。だが、それだけのことがわかるようになるまで、わたしはずいぶん本を読んだり、文章を書いたりしなければならなかったのだが。

書かれている文章を、一字一句まで丹念に読み、自分が理解しようとしている文章には一体何が書かれているかを考え、その考えたことを書く。つぎの章を読み、自分が読みとったと思っていた箇所と、矛盾するところが出てくれば、それを改めて、書き直していく。

そういう作業を続けているときの自分が書いた文章には、「自分」が現れている。そこに現れた言葉が「自分の言葉」なのである。というのも、小説でも評論でも、深く理解しようと思えば、その本に書かれている文言だけではなく、自分が生きている現実を、自分はどのように理解しているかを通して読まざるを得ないからだ。


そのように、自分の理解を通して考え、少しずつ理解しながら書いていく言葉は、解説にも評論にも出てくる、辞書にも載っている、出来合いの言葉である。けれど、自分の感想文全体の中で、ほかの部分としっかりと結びついている。借りてきた文章には、決してそんな芸当はできない。そこだけが浮き上がっている。それは、別の人の考えであって、自分とはなんの関係もないものだからだ。

もちろん、感想文にせよ、小論文にせよ、書き方というものはある。学校は、そうした宿題を出す以上は、基本的な書き方や構成、読み方の手順ぐらいは教えるべきだとは思う。

けれども、それ以上に問題なのは、現行の感想文なり作文なりの課題が、生徒に考えないまま、とりあえずマス目を埋めるようなことをやらせてしまうことだ。それはとりもなおさず、言葉を粗末にすることに通じる。言葉を粗末にするということは、自分が生きている現実の理解を粗末にすることに通じる。それは結局、ひどく貧相な世界を生きることに行き着いてしまうのではあるまいか。



わかることとわかったつもりのこと

2010-08-27 23:05:51 | weblog
小学生時代の夏というと、毎日塾の夏期講習に通っていた記憶しかない。実際は、塾に行き始めたのが小学校五年生だったのだから、それ以前に、塾に行っていない小学生の夏休みを四度経験しているはずなのだが、臨海学校へ行ったことや、飼育当番で鶏小屋の掃除に行ったことなど、学校関連の記憶はあっても、長い長い夏休み、いったい何をしていたものやら、まったく記憶がないのだ。どうせ、寝っ転がって本ばかり読んでいたのだろうが。

五年生になって行き始めた塾は、進学塾として名の通ったところで、もっと低学年のころから通っている子がほとんどだった。五年生で来るなんて遅すぎる、受験には出遅れた……などとあまりありがたくない話を耳にしながら通い出したのだが、最初のうちは、これまでやってきたこととあまりにちがうことばかりで、とまどうばかりだった。

ところが先生の教え方がたいそううまいのである。教わる通り、なるほど、こうしたらいいのか、とまねていくと、どんどん問題が解けるのである。時計の長針と短針が重なる時間の求め方とか、長い列車が鉄橋を渡りきるまでの時間とか、教えられる通りに式を立て、数字を当てはめていくと、おもしろいように答えが導き出されるのだった。できれば楽しくなる。楽しくなれば、より複雑な問題に挑戦してみたくなる。いまでいうと、ゲームのステージクリアに近い感覚である。一時間はそんなことをしているうちに、あっという間に過ぎるのだった。

わたしと同じ時期にそこに入った男の子がいた。そこでは試験によってクラスだけでなく、席順まで決まっていく。入ったばかりのわたしたちは、当然一番後ろで並んで授業を受けていた。小太りの彼は、口で息をする習慣があったようで、授業中もはあはあという息遣いがずっと聞こえていた。

わたしの方はテキストを広げて、こんな問題、見たことない……と青ざめていたころである。隣の彼に、「どう、わかる?」と聞いてみた。ところがその子は自信たっぷりに二重顎を引いてうなずいてみせ、落ち着き払って「簡単だよ、全部、わかる」と言ったのだった。「すごいね、できるんだね」とびっくりしたわたしがそう言うと、「まあ、ぼくはできる方だから」と言ったのだった。

ところがしばらくすると、どうもその彼がちっともできていないらしいことに気がついた。プリントに書き込んでいる答えが、わたしとはちがうので、最初のうちは自分がまちがっているのにちがいない、と焦ったものだった。だが、どう考えてもまちがっているのは、わたしではない。不思議な気持ちで答案を出して、返ってきたところで自分のマルを確かめて、横目でちらりと彼の答案を見れば、案の定、ひどい点数である。じき、わたしの席はだんだん前の方になっていき、その子とは離れてしまった。それから先、その子がどうなったか、まったく記憶にない。途中でやめてしまったのかもしれない。けれども、そのときの、「簡単だよ、全部、わかる」と、一語一語区切るようにゆっくりと発音された言葉は、しばらく忘れることがなかった。

というのも、何であの子はそんなことを言ったのだろう、と、何度も考えたからだ。嘘をついたのだろうか。それとも、見栄を張って見せた? どれもちがうような気がした。その子はほんとうにそう思ってそう言ったにちがいないような気がした。

それから年を重ねるうちに、自分の「わかる」ことと、他人の「わかる」ことが決して同じではないことに気がつくようになった。わたしたちは、自分の感じ方をもとに、類推し、敷衍することによってしか、他人の心を想像できない。自分はこんな状態の時に「わかる」という。だからきっと相手も同じ状態なのだろう、というふうに。
「簡単だよ、全部、わかる」と言った相手の状態を、その言葉によって「わかったつもり」になっていたのだ。

いや、自分の「わかり方」だってそうかもしれない。わたしは当時、ややこしい文章題を解けるようになっていたが、当時、一体何が「わかって」いたのだろう。ただ設問が解けるというだけのことを「わかったような」気になっていたのではなかったか。当時のわたしは「問題が解ける」というだけのことを敷衍して「わかった」と思っていたのである。

そうなると、わかることとわかったような気になることの差を、わたしたちは果たしてわかることができるのだろうか。

ことによったら、そのときにはわからないのかもしれない。けれども、時間がたつにつれ、ちょっとした「ずれ」や「違和感」や「不協和音」として感じられてくるのではないか。「わかる」というのは、簡単に「わかった」と言えるようなものではなく、「わかったつもり」を少しずつ修正することによってしか、たどりつけないことなのかもしれない。

あの男の子がどうして「簡単だよ、全部、わかる」と言ったのか、いま本人に聞いてみたら、果たしてわかるだろうか。




「猫の話」の話

2010-08-26 22:24:38 | weblog
梅崎春生の作品の中に『輪唱』という不思議な小説集がある。ごく短い作品ばかり三つ集めたもので、『輪唱』というからには、相互に何らかの関連があるような気もする。どうやら二番目の「猫の話」にでてくるカロは、最初の「いなびかり」のおじいさんとおばあさんの家でクジラ肉を盗み食いする「やせたぶち猫」のように思えるし、そうなると「午砲」にでてくる背の高い叔父さんは、運送屋の二階に下宿していた青年のその後の姿なのだろうか、などということをとりとめなく考えてしまうが、ここではその二番目にでてくる「猫の話」の話。

主人公は若い男で、大通りに面した運送屋の二階で、猫と一緒に暮らしている。その猫はもともと野良猫で、主人公は、飼うつもりもないまま、食堂から持って帰った残り物の魚の骨などを与えるうちに、猫の方が居着いてしまった。そこで彼は猫にカロという名前をつけてやる。

ところがある日、主人公が窓から外を見下ろしていたちょうどそのとき、カロが車に轢かれてしまうのである。その晩、主人公はカロを思って泣き明かす。

翌朝、窓から外を見ると、カロの死体がそのまま道にある。夜の内に車に何度も轢かれたせいで、その遺体は「猫の身体のかたちのまま、面積は生きているときの五倍にもひろがって」いたのである。

そのひらたく広がってしまったカロの上を車は何台も通り過ぎる。さらに翌日になると、今度は縁のめくれたところから、車のタイヤが「かすめとって」いくようになった。カロの遺体はだんだん小さくなっていく。つぎの日になると、もはや猫の形も失ってしまっている。だが、ずっと見張っている主人公には、カロのどの部分かがわかった。
 黄昏のいろが立ちこめてきた頃、カロはすでに手帳ほどの大きさになっていた。それは最後までのこったカロの顔の部分であった。彼は異様な緊張を持続しながら、黄昏れかかった通りを見張っていた。

 通りのかなたから自動車の影をみとめるたびに、彼は身体をかたくした。そしてその車輪がカロにふれないように、必死に祈願した。
(「猫の話」『輪唱』『梅崎春生全集3』沖積舎)
 

とうとうその最後の切れ端さえも、タクシーがさらっていった。
 彼は窓からはなれ、部屋のまんなかにくずれるように座りこんだ。そうして両掌を顔にあて、しずかな声で泣いた。カロがすっかり行ってしまったことが、ふかい実感として彼におちたのであった。カロの死骸が、いまや数百片に分割され、タイヤにそれぞれ付着して、東京中をかけめぐっていると考えたとき、彼はさらに声をたかめて泣いた。
 
これを最初に読んだのは十代も初めの頃だったが、ぺったんこになった猫の死骸が、車に少しずつ削り取られていくという描写が強烈で、実際にネコやハトの礫死体を目にするたびに、この話を思い出したものだった。ただ実際に目にした礫死体は、ひからびる前の、つまりまだかなり生々しい状態で車に削り取られ、当時といまとではタイヤのグリップ力みたいなものがちがうのか、その跡は梅崎の小説よりもはるかに無惨としかいいようのないものだった。「猫の身体のかたちのまま、面積は生きているときの五倍にもひろがって」という描写から浮かんでくる、グロテスクだけれどどこかおかしい姿などでは、まったくなかったのである。

そんな礫死体を見たことのなかったわたしは、ほんとうにカロはそんな姿になったのだろうか、と、よく考えたものだった。

対象とのあいだに少し空気がはさまっているような描写は、梅崎の小説を読むたびに感じられるものだ。それはときにありふれた光景を異様なものにも見せるし、無惨なもの、悲惨なものを、どことなく滑稽味を含んだものに見せることもある。いずれにしろ、梅崎春生を読むたびに、こんなふうに、ものごとというのは距離を置いて、間に空気をはさんで見ることもできるのだ、と思った。そうして、わたしが目の当たりにしているものを、わたしは「現実ありのまま」と思っているけれど、それは「わたしの目にそう見えている」だけに過ぎないのだ、ということを、この人の小説を通じて知っていったような気がする。

ところで、この「猫の話」を思い出すのは、動物の礫死体を目のあたりにしたときばかりではないのだ。

散骨の話を聞くと、どういうわけかわたしはこの話を思い出してしまう。遺骨を海に撒いたり、飛行機で空を飛びながら空中に撒いたりするという話を聞くたびに、ああ、カロと同じ目に遭っているのだなあと思うのである。

確かにカロは別に、自分の亡骸が東京中をかけめぐることを希望したわけではなかったろうから、散骨を希望して、遺族にそうしてもらっている人とはちがう。だから、「同じ目」というのは、正確ではないのだが。

散骨を希望するというのは、つまりは自分が生きているあいだは否応なく押し込められている身体や名前や社会的身分から、死後脱出したいという、ある種ロマンティックな心もちのように思える。こんな「自分」など脱ぎ捨ててしまいたい、もっと自由になりたい、という気分なら十分に理解できるものだし、生きているあいだ無理であれば、死んでからはそうしたい、という希望も、まったく理解できないというわけではない。

だが、自分の死後、果たしてその「自由さ」を感じることができるものなのだろうか。わたしにはわからないし、わからないことをあまり言いたくない。

ただ考えるのは、遺族はまちがいなく何かを感じるだろうし、それはどのような思いなのだろう、ということだ。

お墓を作る。そこに埋葬するということは、そこにその人がいる、と感じることでもある。自分にはもう手の届かないところではあっても、「そこにその人がいる」と信じることができる。それは生きている人にとっての慰めではないのだろうか。

それに対して、カロの最後の一片が失われたとき、主人公はほんとうにカロが自分から失われたことを理解した。カロは「すっかり行ってしまった」のである。カロはどこに行ったのか。東京中を駆け回っている。そう思ったとき「彼はさらに声をたかめて泣いた。」
この悲しみは、「そこにいる」と信じることすらも奪われた人の悲しみであるように思われるのだ。

散骨した人にとって、故人の骨の粉が世界中を漂っていることは、救いになるのだろうか。それとも、「すっかり行ってしまった」ことになるのだろうか。わたしはどうしても考えてしまうのだ。

何かを見るたびに、何かを思い出す、ということがある。逆に言えば、思い出というのは、思い出す「よすが」を必要とするのかも知れない。その「よすが」もなくなれば、わたしたちは思い出すこともなくなってしまう。そのとき、人はほんとうに「行ってしまう」のだろう。

カロがいなくなったあと、主人公の部屋には、コオロギが出没し始める。生前のカロはコオロギを捕るのが好きだったのだ。捕り手がいなくなって、コオロギは鳴き始める。その声は、主人公にカロを思い出させるよすがとなるのだろう。

そんなふうに、散骨しようがどうしようが、故人とつながりのある人は、何らかのよすがで思い出すにちがいないだろうが。



※帰ってきてからちょっと忙しくて、更新できませんでした。
また今日から続けていきますので、よろしくお願いします。



サイト更新しました

2010-08-20 23:26:46 | weblog
「鶏的思考的日常vol.33」「what's new」「翻訳作品と著者紹介」を更新しました。

コメントをくださった方、どうもありがとうございます。
なかなかお返事ができずにいますが、なるべく早く書きますので(できれば明日の朝には)、お許しくださいね。←やっと書くことができました。

土曜日から月曜日まで出かけます。それに伴って、コメント欄は一時的に事前承認制を取らせていただきますので、ご理解ください。
スパム投稿ってほんと、不愉快だから。

火曜日に再開しますのでよろしくお願いします。


http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

良い、悪いではなく

2010-08-19 23:01:48 | weblog
もうずいぶん前になるけれど、一度入院しているときに、まだ若い、二十代に入って間もない女性と同室になった。彼女はよく夜中にナースセンターに行って、看護師さんに自分の身の上話をしていたのだが、なにぶんナースセンターが近かったので、聞くつもりなどなくても、夜の静かな病室にいると、話の中身が全部聞こえてきたのだった。

あっちへ飛びこっちへ飛ぶ散漫な話をまとめると、十代の終わりに、子供ができて結婚したこと、夫が自分勝手で暴力までふるうので、幼い子供ふたりを連れて離婚したこと、いまは両親と一緒に生活していて、入院中の子供たちの面倒は両親が見てくれているが、そのうち自分と子供たちで生活したいこと、ゆくゆくは自活したいが、手に職があるわけではないので、さしあたって生活保護を受けることを考えている、といったことらしかった。

これから先のことを考えると、聞いているだけでため息の出そうな話である。彼女は別れた夫がどんなひどい人間だったか、看護師さんに縷々訴えるのに余念がないようすだったが、そんなことより、あんたこれからどうするつもりなの……と、人の話を漏れ聞いているだけなのだが、思わず言いたくなってしまったのだった。

ところが初めての入院で、心細かったこともあったのだろうか、昼間の彼女はまるで別人なのだった。病室に友だちがひっきりなしに遊びに来る。彼女の両親も毎日何度となく顔を見せる。その見舞客らと楽しげにわらいさざめき、そんな話の端々から、彼女がその病院と同じ町内でまれ育ったことがわかった。地元で生まれ育ち、幼い時からの仲間と未だに親しく行き来しているらしく、仲間たちも、外側は知っていても内側は知らない病院を興味津々、といった格好でのぞきに来ているらしかった。

あるとき、携帯吸入器の使い方を教えてあげたら、友だちからの差し入れのおすそわけ、と言って、鯛焼きをくれた。その鯛焼きを並んで坐って食べながら、喘息とのつきあい方について、いろいろ教えてあげた。発症から間がない彼女は、入院してもタバコが止められないという。タバコなんか吸ってたら、子供をふたり残して死ぬよ、と脅した。それでもおじさんの入院患者に混じって、喫煙コーナーでタバコをふかしている彼女の姿を何度か見かけたが。

わたしの方が先に退院することになって、そのとき、相手から住所交換しよう、と持ちかけられた。病気のことで、またいろいろ教えて、という。こんなふうに人なつこい子なのだな、と思って、住所を教えた。まだメールもないころで、住所を教えても、こんな子が手紙を書くこともないだろうと思ったのをよく覚えている。

ところがその彼女から、退院してから手紙が来た。正確に言うと、雑誌の綴じ込みか何かについている絵はがきだったのだが、生まれてからまだあまり字をたくさん書いてきていないのではあるまいかと思えるほどの拙い、子供らしい大きな字で、宛名のわたしの名前を間違えたらしく、一箇所ボールペンでぐるぐると塗りつぶしたあとがあった。

一体何ごとか、と思ったところ、自分も退院したことが書いてあった。看護婦さんにはネコを捨てるように言われたけれど、そんなことはかわいそうでできない、といったことが書いてある。身近からアレルギーの原因になるものは、できるだけ排除した方がいい、ネコの毛がアレルゲンだったら、ネコは飼っちゃいけないから、友だちにあげたらいい、それならかわいそうじゃないでしょ、といった返事を書いたように思う。もちろん大変ではあるのだろうが、彼女のお父さんお母さんもまだ若いし、友だちも大勢いる。そんな中で生活するのだから、たとえ子供がふたりいても、大丈夫だろうと思ったものだった。

* * *

大阪で起こった二児遺棄事件を見て思うのは、友だちや、頼れる両親が身近にいさえすれば、そんなことはならなかっただろう、ということだ。あれから、彼女の行動に対する非難も見たし、擁護する文章も読んだ。だが、いずれにせよ、起こった事件に対して、その行為の善悪を問うことは、あまり意味がない。

善悪を問うことと、どうしたら解決できるかを考えることは、レベルがまったく異なる話だ。悪いことをしようとしている人が、それが悪いことだ、とわかったら、それを止めるかというと、実際にはそんなことはあり得ない。悪いことをしようとしてしまう人は、どこかの時点でそうしないですむような状況を創り出してくれる人がいなかったから、そうする以外になかったのだ。

いじめる側といじめられる側のどちらが悪いか、という質問をたまに見かけるが、これなどこのふたつが混同されているケースの典型だろう。いじめ問題に関しては、一も二もなくいじめる側が悪い。だが、それを解消しようとすると、いじめる側だけの問題ではなくなってくる。とりわけ、消極的なかたちで多くの子が関与していて、しかも自分が虐められている子を助ければ、たちまち自分が標的になってしまう、だからいじめに荷担している、といった状況では、「どちらが悪いか」と「どうやって解決するか」はまったくちがう話になってくる。

身近なところで誰かと争ったようなとき、自分に非がないとわかっていて、それでも事態を収拾しなければならないとき、自分の側が折れたりゆずったり、解決策のために尽力したりした経験はないだろうか。

実際、問題が起こったときに収拾するのは、問題を起こす側ではなく、何も問題のない側なのだ。というのも、問題を起こす側は、能力やさまざまな条件に欠けているから問題を起こすのだから、収拾などできようはずがない。良い、悪いで言ってしまえば、悪くない側が頭を使ったり、頭を下げたりすることになるのだ。

事件が起こったとき、わたしたちはつい、誰が悪いのか、と考える。犯人が捕らえられたあとも、なおも犯人にそんなことをさせたのは、誰が悪かったかと考える。

けれども、誰が悪いかを考えても、ほとんど意味はないのだ。事態を収拾できるのは、悪くない側しかないのだから。

誰が悪い、と言っている人は、自分がなんの関係もないから、自分は何も悪くないから、平気で誰が悪い、と言うことができる。けれど、自分が悪くないのなら、悪くない自分に何ができるかを考えなければならないことを忘れてはいけない。




貧しても鈍しない

2010-08-18 07:55:44 | weblog
楽しみに見ていた『ゲゲゲの女房』だが、貧乏な時期が終わって、おもしろくないわけではないのだが、一山越えて、なだらかな道をてくてく歩いているような感じだ。

そういえば、幸田文も、何かのエッセイで、貧乏な時期を抜けて、最近では精神が弛緩している、といったことを書いていた。貧乏はもうふるふる嫌だが、あの気持ちがしゃきっとした感じをなくしてはいけない、という主旨の話だったように思う(例によって曖昧な記憶による不正確な記述であるが「ふるふる嫌」という言葉があったことだけははっきり覚えている)。

『ゲゲゲ…』よりほかにも、映画やテレビで昭和三十年代を舞台にしたものは、よく、あのころは貧乏だったけれど、いい時代だった、というコピーがついている。だが、そうした「回顧」というフィルターをかけない貧乏、現在進行形の貧乏(こういうときには「貧困」という書き方がしてあるが)は、新聞・ニュースでは、対処が必要な問題であり、解決策を出せない首相・官僚は無能である……と毎日報道している。貧乏というのは、そのさなかにいるときは「ふるふる嫌」でも、通り過ぎてしまうとノスタルジーに浸れるものなら、何とかいまを乗り越えれば、「そんな時代もあったねといつか話せる日が来るわ…だから今日はくよくよしないで、今日の風に 吹かれましょう」(by 中島みゆき)と言っていればいいような気がするのだが、こんなに「貧困の撲滅」が声高に書かれてあるのは、いったいどうしたことなのだろう、とちょっと変な気がしてしまう。

「貧すれば鈍す」という言葉がある。貧乏すると、頭が鈍くなる、生活の苦しさで頭が一杯になって、ものごとを考えられなくなってしまう、といったところだろうか。

わたしも学生時代、ひどい貧乏だった時期は、バイトへ行くのにバス代もなくて、5㎞ほどの道のりを歩いていったこともあるし、バイトに行って、昼休憩になってもお昼を食べる金もなく、隅で本を読んでいたら、お姉さんのような年上のバイトの人からお弁当に持ってきたゆで卵を分けてもらったこともある。

どうしようもなくなって、百円玉でも落ちていないかと下を見ながら歩いているとき、不意に「貧すれば鈍す」という言葉を思い出し、ああ、あれはこういうことだったか、と思いあたった。確かにいまのわたしは目先のお金のことしか考えていない。これはえらく鈍してるぞ、と思うと、なんだかおかしくなってきて、笑えてきた。笑いながら、同時にもっとそれ以外のことも考えなきゃ、ちょっとやばいぞ、と思ったものだ。

「貧すれば鈍」しがちなのが人間の常であるのに、水木しげるもその妻も、幸田文も、あるいは昭和三十年代を舞台にした映画の登場人物たちも、「貧すれば鈍」しなかったから、偉かった、ということなのだろうか。

だが、「貧すれば鈍する」とは逆に、貧乏の時は頭を使わなければ、日々を生きることもむずかしい。その頭の使い方は必死であるからこそ、幸田文が言う、緊張感の中に生きている、ということになるのだろう。
電気も止められて、ロウソクの灯りの中で、ふたり肩寄せ合ってマンガを描いている水木夫妻は、「未来」を思い描きながら、「いま」を精一杯生きていた。そんな生き方が見ている人の感動を呼ばないはずはない。

問題は「貧すれば鈍」して、結局「いま」の状態に頭が占領されてしまい、思考不能になってしまうことだろう。貧困はいけない、貧困をどうにかしろ、と連呼している人の姿こそ、何より「貧すれば鈍」してはいないか。

だが、未来を思い描こうと思っても、人が思い描く未来には、何らかの「モデル」が必要である。『ゲゲゲ…』や昭和三十年代の映画を観る人は、当時の人たちが、貧困の中にあって、いったい何を夢見ていたか、「貧しても鈍」しないで、何に希望を託して、今日を生き抜いたか、それが知りたいからにちがいない。そうして当時の、いまのわたしたちが「忘れていた生活の豊かさ」を思い出したいからにちがいない。

だとしたら、かつては貧乏なのが当たり前だった、ということも一緒に思い出したらどうか。貧乏を怖れずに、それを当然として受けとめたらどうだろう。

もちろん、映画やドラマは当時を美化している、という見方は当然ある。日本がくぐり抜けたあんなものではない貧困というのは、たとえば『日本残酷物語』を読んだだけでもはっきり知ることができる。

それでも、人は生き抜いてきた。いまの状況を少しでもどうにかしようと「貧しても鈍」しないで考えてきたからだ。だからいまのわたしたちがここにいる。

忘れてはならないのは、時間がかかるということだ。
振り返る過去の出来事は、一瞬に思えるけれど、未来のことは当然ながら、行き先も、いつまでそれが続くかもわからない。暗闇で手探りする日々は続く。
けれども『ゲゲゲの女房』はそれがいつか終わることを教えてくれる。そうして、その手探りの時期は、もう一度繰りかえすのは「ふるふる嫌」であっても、決して悪い時期ではないのだ、ということも。


サイト更新しました

2010-08-16 22:34:00 | weblog
先日ブログで続けていた、シャーリー・ジャクスンの「夏の人びと」を手を入れてサイトにアップしました。

あと、翻訳のページをリニューアルしました。
いや、もうね、ほんと、時間がかかりました。まるで模型か何かを作るみたいに、ポチポチタグを打っていったんです(笑)。
でも、前にくらべてきっと見やすくなったと思います。
またお時間のあるときに、遊びに来てくださいね。

ということで、それじゃ、また。


http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

クレームは役に立つか

2010-08-13 21:01:55 | weblog
大阪で起きた二幼児遺棄事件で、こども相談センターに批判の電話がひきもきらさずかかっているというニュースを読んだ。どうやら電話の通報を受けて、現場を訪問した職員が、応答がなかったために、強制的に踏み込むことをせず、引き上げたことが問題になっているらしかった。

その時点で子供たちを発見していれば、救えたかもしれない、という思いが、多くの人に電話をかけさせたのだろう。

確かに、虐待など起こってほしくない、中に誰もいてほしくない、という無意識の願望が、呼び鈴に応えない→誰もいない、という推論を短絡させてしまったとしたら、判断ミスと言えるのかもしれない。けれども、そうした判断ミスがあったのかどうかは、わたしたちにはよくわからないし、お役所仕事、という言い方もあるけれど、現実問題として中に踏み込むかどうかの判断というのは、先例のないところではむずかしいようにも思う。

あとで批判されるのもものともせず、敢然とドアを開け、放置されたふたりの子供を救い出す……という、スーパーヒーローのような職員しかその職は務まらないのだとしたら、その職業に就ける人はおそろしく限られてしまう。

忘れてはならないのは、“その時点では何が起こっているか、誰にもわからなかった”ということである。いまのわたしたちが、予見できたはずなのではないか、と思うのは、後知恵でしかないだろう。

この事件は確かに衝撃的だった。このニュースを聞いた人は誰もみな、同じように憤りを感じたにちがいない。ただ、思うのは、その憤りがもしかして「スケープゴート」を求めているのではないか、ということだ。そうして、スケープゴートとして、その部署が選ばれたのではないか。

わたしはこんなことを思い出すのだ。
スーパーで買い物をしたあと、袋に買った物をつめていたときのこと。
目の前のパネルに、客からの投書が数枚掲示されていた。そのひとつひとつに店側が答えている。

“どこのコーナーの配列は目的の商品を見つけにくい”、とか“この間まであったナントカという商品がなくなってしまった、それを買いに来ていたのに残念だ”、とかといったもののなかに混ざって、ふたつの投書が目に留まった。

“ナントカという添加物は体に悪いのに、どうしてそれが添加されている商品を数多く店頭に並べているのか”

“おまけつきお菓子はおまけで子供を釣ろうとするもので、子供は集めるのに夢中になって、子供にとっては高額なお菓子をいくつも購入しようとしたり、ひどい場合は万引きに走る場合もある。そうした商品を店頭に並べることは考え直してもらいたい”

奇妙な気がしたのは、どちらも店の側に責任がないとまではいかないが、いずれも商品に対する批判だったことだ。商品を批判するなら、まずはそんなものを企画し、製品化した製造元に対して意見を述べるのが筋なのではないのか。

事実、店側の回答は、「ご意見ありがとうございます。それを元に検討させていただきます」という決まり文句はあったものの、こちらに言われても、それはお門違いだ、消費者の要望があるから店頭に並べているのだ、といった意味のことが、ずいぶん穏やかな調子ではあったけれど書いてあった。

それを見ながら、店側は確かに「そんなことはウチに言われても…」と困ってしまうだろうなあ、と思ったのである。
苦情を言っている人は、店というのはお客様の言うことは、何でも聞くべきだと考えているのだろうか。いまさらお客様は神様だから、と信じている人なんているのかなあ、もしそうでないのだとしたら、わざわざそんなことを店に投書する、ほかのどんな理由があるかなあ、と考えてしまったのだった。

そのほかにも、こんなことがあった。
図書館の貸し出しカウンターで、駐輪場の自転車がはみ出していて、通行の邪魔になる、と怒っている人がいた。職員は、自転車整理の人がいつも整理しているし、所定の場所ではないところに駐輪しようとする人には、注意もしている、張り紙をして呼びかけてもいる、それでもいまは夏休みで、自転車で子供が大勢来るせいで、収容しきれない自転車がどうしてもはみ出してしまう、あまりひどいことにならないよう気をつけているので、八月中は辛抱してもらえまいか、と頭を下げていた。そのときも、図書館に言ってもなあ、と思ったものだ。

もしかしたら、わたしはたいして関係のないものを、ずらずら並べているだけなのかもしれない。
それでもやはり思うのだ。
なんというか、これはどれも、苦情を言いやすい人を選び出し、その人に責任を全部負わせて、何とかせよ、と言っている、という点で共通しているのではないか。

有害と思われる食品添加物入りの食品があふれかえっているのは、スーパーの責任ではない。
自転車が歩道にはみ出しているのは、図書館の責任ではない。
けれども、そういうところに苦情が寄せられる。それは責任の文脈とは無関係に、憤りのぶつけ先として、言いやすいところが選ばれているだけなのではないか。

同じように、行政が立ち入ったところで、幼児虐待はなくならない。立ち入りの目的は、あくまでもそこの家の情報を得ることだ。そうして、そこにあるのは常に個別のケースなのだ。

わたしたちは、事象の中にあるものの一部をとらえて、「有害食品」と呼んだり、「放置自転車」と呼んだり、「幼児虐待」と呼んだり「ネグレクト」と呼んだりしているけれど、その一断片をとりあげ、それに何らかのかたちで関わった人に責任をかぶせて、「有害食品」の問題や「幼児虐待」の問題が解消すると考えているとしたら、大きなまちがいだ。どれだけ「幼児虐待」に当たるケースを摘発したところで、「幼児虐待」そのものは決して解消しない。

今回の事件は、被害に遭った子供たちはほんとうにかわいそうだけれど、重大な先例となっていくはずだ。わたしたちが考えるべきことは、ある特定の人(専門家)がどうにかできるという考え方を棄て、自分が迂遠なかたちであっても加害者のひとりなのではないか、と自分自身を振り返ること、そうして、自分にできることをやっていく、ということではないのだろうか。