二葉亭四迷の話を書こうと思って、中村光夫の『二葉亭四迷伝』(講談社文芸文庫)を探していたのだが、どうやっても見つからない。見つからないが、書こうと決めていて、いまさらほかのネタも思いつかないので、あやふやな記憶のまま今日は書いてしまうのである。
以前、都築道夫がどこかで書いていたのだが、都築道夫が翻訳をやるようになったのは、戦争が終わって十年ほど経って、人々の生活が、少しずつ安定し始め、同時に多くの人ががむさぼるように本や雑誌を読んでいた頃らしい。都築道夫は英語などまったくできなかったのに、つぎの号に載せなければならないから、と、いきなりペーパーバックを渡され、辞書を引きながら英語を訳した、と、何かのあとがきで書いていたように思う。どこまで本当なのか、眉に唾をつけたくなるような話ではあるけれど、事実戦争中は敵国語というので、英語教育がほとんどされていなかったのだから、それはその通りなのかもしれない。相当昔の翻訳書、とくにミステリなどは、確かに原文と照らしてみると、大意要約ではないけれど、「おいおい」と言いたくなってしまうようなものがけっこうあったりする。
きちんと文法などを勉強したわけでもない、固有名詞を始めとして、辞書にはのっていないボキャブラリだってずいぶんあっただろうに、それでもバリバリ訳しているのだから、なんとなく昔の人はひょっとしたら外国語に対する順応性というか、可塑性というか、そういうものがいまのわたしたちよりよほどあったのかもしれない。
イギリスやドイツに留学した漱石や鴎外の語学能力が高かったのは当然ではあるけれど、原書を丸善から取り寄せて読みあさっていたのは漱石や鴎外に留まらない。芥川龍之介はおそらく日本でもっとも早い段階でアンブローズ・ビアスを読み、今昔物語を自分の作品の中に取り入れたように、ビアスの作品も『藪の中』などに結実させていった。
芥川ばかりではない。どうみてもそんなふうに「知的」には感じられない田山花袋だって、ドイツの劇作家であり小説家であるゲアハルト・ハウプトマンを原書で読んでいた。
何よりも、そういう土壌というのがあったのだろう。
いまのわたしたちは、英語の勉強というと、順を追って……という発想が抜きがたくあるのだが、そういう手順をかならず踏まなければならないものではないように思う。
二葉亭四迷は東京外国語学校でロシア語を学んだのだが、それがロシア人教師によるすべてロシア語の授業で、ロシア語ばかりではない、ロシアの中学で教えている数学や物理の教科書をそのまま使っていた。教科書といっても、教師の分一冊しかない。だから教師がそれを音読して、生徒たちはそれに耳を傾け、ノートを取って勉強していくのである。
二葉亭四迷、というか、当時は長谷川辰之助だったのだが、長谷川青年が教わったのは、ロシアの政治体制をきらってアメリカに亡命したニコラス・グレーという人物で、大変朗読がうまい人だったらしい。女性の会話では女性の声音を使って語る。そんな朗読でツルゲーネフやゴーゴリを聞いた。そういうところから、言葉というのはまず音である、ということを体得していったのだ。
確かに偶然、BSでロシアのニュースをやっているところに行きあったりして、響く音の多いロシア語を耳にした折りなどに、ただ、ニュースを読んでいても、少しこもっていく独特な音楽的な音は耳に心地よい。
それにしても、である。
聞いただけで意味を理解するというのが、いったいどれだけの語学力を要求するものなのだろうか、と考えてしまうのである。
当時の高等教育を受けることができる層が、どれだけ少数のエリートだったか、ということを差し引いても、いまの語学の勉強のやりかたというのは、とんでもなく効率が悪く、しかもその言葉を学ぶ歓びと切り離されているか、と思わざるをえないのである。
以前、都築道夫がどこかで書いていたのだが、都築道夫が翻訳をやるようになったのは、戦争が終わって十年ほど経って、人々の生活が、少しずつ安定し始め、同時に多くの人ががむさぼるように本や雑誌を読んでいた頃らしい。都築道夫は英語などまったくできなかったのに、つぎの号に載せなければならないから、と、いきなりペーパーバックを渡され、辞書を引きながら英語を訳した、と、何かのあとがきで書いていたように思う。どこまで本当なのか、眉に唾をつけたくなるような話ではあるけれど、事実戦争中は敵国語というので、英語教育がほとんどされていなかったのだから、それはその通りなのかもしれない。相当昔の翻訳書、とくにミステリなどは、確かに原文と照らしてみると、大意要約ではないけれど、「おいおい」と言いたくなってしまうようなものがけっこうあったりする。
きちんと文法などを勉強したわけでもない、固有名詞を始めとして、辞書にはのっていないボキャブラリだってずいぶんあっただろうに、それでもバリバリ訳しているのだから、なんとなく昔の人はひょっとしたら外国語に対する順応性というか、可塑性というか、そういうものがいまのわたしたちよりよほどあったのかもしれない。
イギリスやドイツに留学した漱石や鴎外の語学能力が高かったのは当然ではあるけれど、原書を丸善から取り寄せて読みあさっていたのは漱石や鴎外に留まらない。芥川龍之介はおそらく日本でもっとも早い段階でアンブローズ・ビアスを読み、今昔物語を自分の作品の中に取り入れたように、ビアスの作品も『藪の中』などに結実させていった。
芥川ばかりではない。どうみてもそんなふうに「知的」には感じられない田山花袋だって、ドイツの劇作家であり小説家であるゲアハルト・ハウプトマンを原書で読んでいた。
何よりも、そういう土壌というのがあったのだろう。
いまのわたしたちは、英語の勉強というと、順を追って……という発想が抜きがたくあるのだが、そういう手順をかならず踏まなければならないものではないように思う。
二葉亭四迷は東京外国語学校でロシア語を学んだのだが、それがロシア人教師によるすべてロシア語の授業で、ロシア語ばかりではない、ロシアの中学で教えている数学や物理の教科書をそのまま使っていた。教科書といっても、教師の分一冊しかない。だから教師がそれを音読して、生徒たちはそれに耳を傾け、ノートを取って勉強していくのである。
二葉亭四迷、というか、当時は長谷川辰之助だったのだが、長谷川青年が教わったのは、ロシアの政治体制をきらってアメリカに亡命したニコラス・グレーという人物で、大変朗読がうまい人だったらしい。女性の会話では女性の声音を使って語る。そんな朗読でツルゲーネフやゴーゴリを聞いた。そういうところから、言葉というのはまず音である、ということを体得していったのだ。
確かに偶然、BSでロシアのニュースをやっているところに行きあったりして、響く音の多いロシア語を耳にした折りなどに、ただ、ニュースを読んでいても、少しこもっていく独特な音楽的な音は耳に心地よい。
それにしても、である。
聞いただけで意味を理解するというのが、いったいどれだけの語学力を要求するものなのだろうか、と考えてしまうのである。
当時の高等教育を受けることができる層が、どれだけ少数のエリートだったか、ということを差し引いても、いまの語学の勉強のやりかたというのは、とんでもなく効率が悪く、しかもその言葉を学ぶ歓びと切り離されているか、と思わざるをえないのである。