陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

二葉亭四迷あれこれ その1.

2007-07-31 23:05:26 | weblog
二葉亭四迷の話を書こうと思って、中村光夫の『二葉亭四迷伝』(講談社文芸文庫)を探していたのだが、どうやっても見つからない。見つからないが、書こうと決めていて、いまさらほかのネタも思いつかないので、あやふやな記憶のまま今日は書いてしまうのである。

以前、都築道夫がどこかで書いていたのだが、都築道夫が翻訳をやるようになったのは、戦争が終わって十年ほど経って、人々の生活が、少しずつ安定し始め、同時に多くの人ががむさぼるように本や雑誌を読んでいた頃らしい。都築道夫は英語などまったくできなかったのに、つぎの号に載せなければならないから、と、いきなりペーパーバックを渡され、辞書を引きながら英語を訳した、と、何かのあとがきで書いていたように思う。どこまで本当なのか、眉に唾をつけたくなるような話ではあるけれど、事実戦争中は敵国語というので、英語教育がほとんどされていなかったのだから、それはその通りなのかもしれない。相当昔の翻訳書、とくにミステリなどは、確かに原文と照らしてみると、大意要約ではないけれど、「おいおい」と言いたくなってしまうようなものがけっこうあったりする。

きちんと文法などを勉強したわけでもない、固有名詞を始めとして、辞書にはのっていないボキャブラリだってずいぶんあっただろうに、それでもバリバリ訳しているのだから、なんとなく昔の人はひょっとしたら外国語に対する順応性というか、可塑性というか、そういうものがいまのわたしたちよりよほどあったのかもしれない。

イギリスやドイツに留学した漱石や鴎外の語学能力が高かったのは当然ではあるけれど、原書を丸善から取り寄せて読みあさっていたのは漱石や鴎外に留まらない。芥川龍之介はおそらく日本でもっとも早い段階でアンブローズ・ビアスを読み、今昔物語を自分の作品の中に取り入れたように、ビアスの作品も『藪の中』などに結実させていった。
芥川ばかりではない。どうみてもそんなふうに「知的」には感じられない田山花袋だって、ドイツの劇作家であり小説家であるゲアハルト・ハウプトマンを原書で読んでいた。

何よりも、そういう土壌というのがあったのだろう。
いまのわたしたちは、英語の勉強というと、順を追って……という発想が抜きがたくあるのだが、そういう手順をかならず踏まなければならないものではないように思う。

二葉亭四迷は東京外国語学校でロシア語を学んだのだが、それがロシア人教師によるすべてロシア語の授業で、ロシア語ばかりではない、ロシアの中学で教えている数学や物理の教科書をそのまま使っていた。教科書といっても、教師の分一冊しかない。だから教師がそれを音読して、生徒たちはそれに耳を傾け、ノートを取って勉強していくのである。
二葉亭四迷、というか、当時は長谷川辰之助だったのだが、長谷川青年が教わったのは、ロシアの政治体制をきらってアメリカに亡命したニコラス・グレーという人物で、大変朗読がうまい人だったらしい。女性の会話では女性の声音を使って語る。そんな朗読でツルゲーネフやゴーゴリを聞いた。そういうところから、言葉というのはまず音である、ということを体得していったのだ。

確かに偶然、BSでロシアのニュースをやっているところに行きあったりして、響く音の多いロシア語を耳にした折りなどに、ただ、ニュースを読んでいても、少しこもっていく独特な音楽的な音は耳に心地よい。

それにしても、である。
聞いただけで意味を理解するというのが、いったいどれだけの語学力を要求するものなのだろうか、と考えてしまうのである。
当時の高等教育を受けることができる層が、どれだけ少数のエリートだったか、ということを差し引いても、いまの語学の勉強のやりかたというのは、とんでもなく効率が悪く、しかもその言葉を学ぶ歓びと切り離されているか、と思わざるをえないのである。

《羊たちの沈黙》と「欲望の三角形」

2007-07-30 22:37:17 | weblog
さて、昨日は《パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド》のなかに「欲望の三角形」が見て取れること、そうして、その「欲望の三角形」は、《パイレーツ・オブ・カリビアン》本来が持つはずの、「英雄の冒険物語」という安定した(もしくは脳天気な)世界観をぶちこわしている、ということを書きたかったのだけれど、そこは書き損ねた(いや、朝になって読み返したら、そう書いたら良かったんだ、と気がついたのだ)。

一緒に「欲望の三角形」の典型的な映画を思いだしたので、今日はその話をするのである。
ちょっと古い映画なのだが、《羊たちの沈黙》である。
これのどこが「欲望の三角形」? と思うかもしれないが、主体が対象に向かうのは恋愛感情ばかりではないのだ。

まず、これの主体は当然クラリス・スターリング、彼女が求めるのは、連続殺人犯のバッファロー・ビル、そうして、媒介者がハンニバル・レクターである。

FBI訓練生であるクラリスが、特殊施設に収監されているレクターに会いに行ったのは、上官からの命令を受けたからである。バッファロー・ビルと名乗る犯人が女性を殺害して皮を剥ぐという犯罪を重ねている。その犯人のプロファイリングをするために、同じく異常犯罪者であり、なおかつ精神科医でもあるレクターに協力を依頼しに行ったのである。

ところがレクターはこの犯人を最初から知っている。自分の元患者なのである。それを隠し、クラリスを相手に取引を始める。一方でレクターは自分の自由を確保しようとFBIを相手に駆け引きをするが、それだけではない。「犯罪者の心理を知る」というFBIの行動科学課流のプロファイリングではなく、遺留品を捜し、そこから手がかりを得るという、犯罪捜査のいわば王道を、教えていく。

この映画の大きな軸は、クラリスの成長ということにある。学生であるクラリス、田舎出の、良いハンドバッグは持っているがさえない靴を履いた、自分の無力さが悲しい結果を引き起こしたという過去を持つ女の子が、教育され、一流の捜査官となり、過去を克服するのである。そうして、その彼女を導いていくのが、犯罪者であるレクターなのである。

つまり、主体は媒介者に導かれて対象に到達する。
ここで、媒介者は、主体にとってはまったく謎の対象を、最初から知っている。知っているが教えない。主体に自力で見つけさせようとする。

そのプロセスのなかで、クラリスが遭遇する困難のほとんどは、異常者ではないまっとうなはずの人間の欲望であり、駆け引きである。そのなかで駆け引きの材料にされず(あるいはされてもしたたかに生き延び)、思惑にだまされず、嘘の中から真実を見分けていく嗅覚を養っていく。そこでは異常か異常でないかは重要ではないのだ。

原作者のトマス・ハリスは、元々は新聞記者、FBI行動科学課の主任ロバート・K・レスラーに入念な取材をして前作『レッド・ドラゴン』を書いた。この作品でもFBIの捜査官が、犯人の人物像を掴むために、レクターに協力を依頼する。
ところがこちらの作品では、途中から犯人であるフランシス・ダラハイドの人物像が深くなりすぎて、非常に不幸な生い立ちをした犯人、独特な詩情を持っている彼に感情移入することはできるが、そのためにミステリとしてはひどくバランスを欠くものとなっている。

それをおそらく踏まえて、この『羊たちの沈黙』では、犯人にはほとんど踏みこんでいないし、映画はいっそうその傾向が強い。そのために、「主体が対象を得る」というメイン・ストーリーよりも、「主体が媒体者に教育される」というサブ・ストーリーの方がはるかに印象的なものになっている。

ともかく、紆余曲折を経たのち、クラリスはバッファロー・ビルの逮捕を独力でやってのける。同時に、媒介者ハンニバル・レクターも自由の身となり、自分の世界に戻っていく。
つまり、この映画でも、媒介者と主体は一時接近することはあっても、本質的には異なる世界の住人(捜査官と犯罪者)であって、その距離は離れている外的媒介者なのである。
そのために、主体は媒介者を「従順な敬意」を抱くことはあっても、「恨み」は抱かなくてすむのである。

さて、この「欲望の三角形」をきれいに作品化した『羊たちの沈黙』は、非常によくまとまったおもしろい映画に仕上がった。
ところがこの役割を変えていくとどうなるか。

つぎの『ハンニバル』では、主体はレクターへと移り、対象はクラリス・スターリング、媒介者(これは主体を助けるのではなく、主体をつけねらうことによって、結果的に主体と対象を結びつけるという役割を果たす)は、かつてのレクターの被害者、復讐の鬼と化しレクターをつけねらうメイスン・ヴァージャーとなった。

ところが、動きまわるレクターは、逆に彼の老いが強調されて、もはや魅力はなく、求められる側に回ったクラリスにも魅力はない。『羊たちの沈黙』に較べて、なんともふぬけた映画になってしまったのである。

《パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド》を見たよ

2007-07-29 22:46:04 | weblog
見る、見るといって、なかなか時間がなかった《パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド》を先日ついに見た。

このシリーズの一作目《パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち》はきわめて古典的な話の構造を持っていた。その古典的な構造、というのはこうだ。

ジョン・キャンベルは『千の顔をもつ英雄』で、神話の本質を「英雄の冒険物語」であるとした。神話における英雄は、

1.日常の世界から出発し
 ↓
2.危険をおかして超自然的な世界におもむき
 ↓
3.旅の目的を知り
 ↓
4.超人的な力に遭遇して決定的な勝利をおさめ
 ↓
5.特別な力を獲得して帰還する

という道筋をたどる。
ジョージ・ルーカスは、このキャンベルの指摘をもとに《スター・ウォーズ》を制作したのだが、《パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち》もきれいにこの筋道を踏襲していた。

基本的な物語はこうだ。
孤児であるウィル・ターナーが成長したところで、偶然から旅立つ。その旅の途中で協力者ジャック・スパロウと出会い、自分が海賊の子供であることを知る。そうして敵、キャプテン・バルバロッサを倒し、エリザベスを獲得して帰還する。
これが「英雄物語」とぴたりと重なっていくことはあきらかだろう。

ただし、《呪われた海賊たち》は、《スターウォーズ》にはない、不安定になりかねない要素はあった。主人公ウィル・ターナーとエリザベス、ジャック・スパロウは三角関係となっていくのである。それも単に主体を邪魔するライヴァルではない。ウィル・ターナーは、ジャック・スパロウのなかに海賊としての手本を見ている。つまりルネ・ジラールいうところの「欲望の三角形」なのである。

「欲望の三角形」というのは、こういうことだ。
ジラールはドン・キホーテの物語をこのように読み解く。
ドン・キホーテ(主体)はさまざまなものを求める。対象は変わっていくけれど、ドン・キホーテが求める対象を選ぶのではない。ドン・キホーテは自分の欲望を、自分が手本とする伝説の騎士、アマディースの模倣をしているのだ。
このように、主体は《自分がそうなりたいと心に決めた人物》の模倣をする。こういう手本をジラールは「欲望の媒体(あるいは単に媒体)」と呼ぶのである。

一般的に「三角関係」と呼ばれる場合は、もっと単純だ。
主人公がいて、主人公が求める対象がいる。それを邪魔するのがライヴァルだ。ここで主人公のすべきことは、ライヴァルと戦い、ライヴァルを排除することでしかない。
ところがこの「欲望の三角形」はもっと複雑なのだ。
主人公が対象を求めるのは、それは媒体が対象を求めているからなのである。
こうして欲望する主体は手本(モデル)にたいして、最も従順な敬意と最も強烈な恨みという二つの相反するものの結合によって作りだされた胸をひきさくばかりの悲痛な感情を抱くのである。われわれが憎悪と呼ぶのはまさにこの感情である。
(ルネ・ジラール『欲望の現象学』 古田幸男訳 叢書ウニベルシタス)

もちろん、従来のヒーローものでも、こういうパターンはあった。
たとえばボブ(主体)とメアリー(対象)は恋人同士。そこへ災厄が起こって、メアリー危機に瀕する。ボブはメアリーを助け出そうとするのだが、失敗する。そこへ遠くから超人的なヒーロー(媒介者)が現れる。ボブはヒーローの手を借りて(実質的にはほとんどヒーローひとりが)メアリーを救出する。この救出劇のあとに、敵本体を倒さなければならない。このプロセスの中でメアリーはヒーローに恋心を抱く(ここでボブとメアリーは仲違いし、この仲違いが主体を危機に陥れる)。だが、敵をやっつける作戦行動のなかで、メアリーはボブを見直し、やはり自分が本当に愛していたのはボブであることに気がつき、敵を倒すと同時にふたりは結ばれる。媒介者はそれを見届け(あるいは見届けないまでも確認して)去っていく。

いや、実例が思いつかなかったんだけど、こういうのならいくらでもありそうでしょ。
現に《呪われた海賊たち》はこのパターンを踏襲していた。

ただし、ここでの媒介者は、本質的に、ジラールいうところの「外的媒介者」、つまり、主体とは住む世界がちがっている。一時的に、主体・対象の世界と媒介者の世界がシンクロしたために、対象も錯覚して恋心を抱くが、やがてそれを知って、対象は主体を選ぶ。そこで三角関係も、英雄物語のなかのひとつのエピソードとして組み込まれていく。

ところが《パイレーツ・オブ・カリビアン》は続編ができてしまった。
主体ウィル・ターナーも対象エリザベスも、みんな媒介者ジャック・スパロウと同じ海賊の世界の住人になってしまうのである。これでは主体と媒介者の距離が短くなりすぎ、「欲望の三角形」のドラマになってしまって、「英雄物語」になれないではないか。

というわけで、いったいどうなっていくのだろう、とわたしはものすごく期待していたんです。
絶対に、物語として破綻なくまとまるはずがない(きっぱり)。
まとまらないものをどう強引にまとめるのか。その力業を楽しみにしていたのだ。

結論的に、破綻しまくりの話を、強引に『さまよえるオランダ人』伝説と『オデュッセイア』に結びつけていたのだった……。

なによりも話がはっきりしなくなってしまうのが、死んだ人間が簡単に生き返ってしまうので、「死ぬ」=「その人物が姿を消す」ということが成立しなくなってしまっていたこと。これがそこまで話を錯綜させていくものとはわたしも知らなかった(まあ普通は生き返らないのだが)。

さらに困ってしまったのは、対象が独自の意志をもって動きまわっていたこと。対象というのは求められる存在なので、自分から動いてもらっては困る。それがフェミニズム的視点なのか何なのか知らないけれど、このエリザベス、動く動く。おまけにその動く目的がいまひとつよくわからない。話がとめどなく拡散してしまった印象のひとつはそこにあるだろう。

さらに、一作目にくらべて、二、三作目で、ジャック・スパロウの超人ぶりもずいぶん影が薄い。主体のモデルというより、むしろトリック・スター的な側面が増えていた。

加えて、これはジョニー・デップ独自の解釈なのかもしれないが、ジャック・スパロウはウィル・ターナーの方を愛しているのかもしれない、と微妙にほのめかしている。とくに、ウィル・ターナーが殺されるシーンで、ジャック・スパロウの浮かべる表情は、なんらかの感情があることをうかがわせるのである。おかげで、いよいよこの三角関係はわけのわからないものになってしまった。

だから、最後でウィル・ターナーとエリザベスが結ばれることになるが、なぜエリザベスがジャック・スパロウではなくウィル・ターナーを選んだのか、いったいどこのポイントでその決意がなされたかがわからないために、唐突な印象を受けるのである。

そういう重大な欠点があるにもかかわらず、この映画はそれなりに楽しめる。
おそらくこの作品の最大のおもしろさは戦闘シーンの描写である。

伊藤整は『小説の方法』(岩波文庫)のなかで「戦争物語は、人間を集団として、人間相互のあらゆる関係を描くのにもっとも適した構造を元来持っているものであって、劇や近代小説における人間群描写の原型をなしていると言ってよい。たとえば日本でも「平家物語」や「日本外史」においては、大きな集団としての人間の描写の立派な典型を見ることができる」で言っているのだが、この映画でも、多くの登場人物たちが、それぞれのキャラクターに応じて、それぞれに活躍し、さらに同時並行的にさまざまな局面が動いていく映画は、小説で読むのとはちがう、独特の臨場感とスピード感があって、この場面はとてもおもしろかった。特に一作目では敵役だったキャプテン・バルボッサ、実質的には船長で、この場面をさらっていたのだった。

最後になによりも楽しみにしていたのがキース・リチャーズ。
ジャック・スパロウの父親、といっても、ストーリーにはほとんどからまなかったのだが、手すさびにギターを鳴らす場面は、思わず「おおっ」と声をあげたくなってしまった。ほんの三つか四つ、音を鳴らすだけなのに、強く深い、胸にズシッとくる音で、この音を聴いただけでわたしはもう映画を見た価値があった、と思ったのだった。
いや、ほんと、手慰みで鳴らすだけで、まぎれもなくキース・リチャーズの音がするのだ。プロってすごい、としみじみ思った一瞬だった。


(※「健忘症連盟」更新しました。更新情報も書きました。またお暇なときにでものぞきにきてみてください)

サイト、半分、更新しました

2007-07-28 22:37:09 | weblog
先日までここで連載していたロバート・バーの「健忘症連盟」、サイトにアップしました。更新情報を書いていないので、つぎの"Latest Issue" のところか、翻訳のところから入ってください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

更新情報はまだ書いてません。明日の朝くらいに、そちらもアップしたいと思いますので、またそのくらいにのぞいてみてください。

何か急に暑くなっちゃいました。
暑いとなんだかそれだけで疲れちゃいますよね。
どうかみなさま、お元気でいらっしゃいますよう。
それじゃまた。

嫌うこと、嫌われること

2007-07-26 22:51:50 | weblog
昨日グレアム・グリーンの『復讐』について書いたのは、このまえ、中島義道の『人を〈嫌う〉ということ』(角川書店)という本を読んで、それにまつわることをいろいろ考えていたら、不意にそういう本もあったなあ、と思いだしたからなのだ。

昨日は書いている途中で眠くなって、うまくオチまで持っていけなかったから、今日、そのつづきを書くことにする。

『人を〈嫌う〉ということ』という本は、おおざっぱにまとめてしまうと、〈嫌い〉という感情は、人を〈好き〉になることと同様、きわめて当たり前の感情である、そうして、人を嫌うということは、同時に自分が嫌われる、ということでもある。この〈嫌い〉―〈嫌われる〉という感情を見極め、それをうまくコントロールし、人生を豊かにする素材として活用しよう、ということが書いてある。中島さんの本の中では、一般向け、というか、ずいぶんとっつきやすい本。

〈嫌い〉の原因を八つに分類していたり、自己嫌悪の洞察があったりもするのだが、やはりこの本でのポイントは、嫌う、ということが好きと同じくらい自然な感情である、と指摘した点にあると思う。

確かに「好き」も「嫌い」も、自分のまわりにいる人に向ける強い感情という意味では同じものであって、そのある種の現れ方をするものを「好き」と呼び、また別の現れ方をするものを「嫌い」と呼んでいるだけのような気がする。
好きであれ、嫌いであれ、ごくまれに、「気がつけばその人のことを考えている」というような人が出てくる。そういう人は、やはり、その人にとって特別な意味を持つのだろう。

そうして、嫌いな人間がいるということは、自分を嫌っている人間もいるということだ。それを受け入れつつ、自分を嫌っている人間と、「うまく」ではなく、それなりにつきあっていく、というのは、かなりの精神力を必要とするのだろうと思う。

中学時代、まさに典型的な「いじめっ子」タイプの女の子(A子)がいて、B子といつも一緒にいたのだけれど、B子に対してきつく当たるというか、奴隷として使うというか、片時も傍から放さず、ことあるごとにいじめていたのだった。わたしとしては、奴隷状態のB子がなぜそのA子から離れずにいるか、ずっと不思議だった。たまたま彼女とわたしは小学校が同じで、小学校時代から彼女が同じことをしていた、つまり、もっと強い子の顔色をうかがう「パシリ」だったことを知っていたために、わたしには理解しがたいことではあっても、そういう状態が彼女にとって居心地が良いのだろう、とは思っていたのだ。

一方、その「いじめっ子」であるA子の方なのだが、わたしはてっきり彼女の側も、自分がその女の子に対して、どんな態度で接しているか、十分にわきまえているとばかり思っていた。ほんとうに、そのいじめぶりというのは、そのくらいあからさまだったのだから。それで、あるときわたしがA子のことを、「いじめっ子タイプ」と呼んだら、それがA子の耳に入って、「なんてひどいことを言うの」と、泣くわわめくわ、で大騒ぎになって、うかつなことを言ってしまった自分をひどく後悔したのだった。

わたしが「いじめっ子タイプ」だなんてひどい、と言うのである。それからA子ではなく、B子の方のわたしに対するいやがらせが始まったのだが、それを表面、気にしていない、という態度を取るには相当なエネルギーが必要だった。「嫌われている」という状態が、どれだけ気持ちを消耗させるものか、わたしはこのとき思い知らされたのだ。
一方で、なんてバカバカしい、くだらないことなんだという、わたしの右上30cmあたりから見ているもうひとりのわたしがいなかったら、この状態はもっとこたえたにちがいない。

この状態は、いささか派手に揉めるような事態になったあと、長期休みが入ったこともあって、何となくうやむやになったのだが、双方ともずっと避けていたように思う。

グレアム・グリーンの『復讐』を読んだのは、それからだいぶあとだったが、これを読んで自分の経験を結びつけることはなかった。結びついたのは、中島さんの本を読んでからだ。自分がA子というより、B子の方に腹をたてていたか、それで初めて気がついたし、当時はA子の顔色をうかがって、わたしに対して嫌がらせを続けているのだろうと思っていたB子の側も、わたしのことを嫌っていた(小学校のころからずっと)ということに思い当たったのである。

わたしの場合、グリーンの短篇に出てくる主人公のように、復讐を考えるまでいかなかったのは、事態をバカバカしいと思うもうひとりのわたしの存在だったのだろう。もっと気にかかることはたくさんあったし、当時のわたしにとって、もっと関心を引くことはいくらでもあったのだろう。

このグリーンの短篇があざやかなのは、自分が憎んでいた相手は、ほかならぬ自分が作りだした像に過ぎなかった、と再会したときに気がつく点にあるように思う。
嫌っているうちに、あまりに相手の像が過大になってしまい、相手の実物大の姿を見ることができなかった。実物大の姿は、復讐などには当たらない、さらっと嫌えばいいだけの相手だったのだ。

人が嫌いになると、その気持ちはどうしても膨れあがっていく。気がつけば、自分が嫌いな理由を探している。そうして、わたしのほかの時間までも、その嫌いな人間が浸食し、わたしの生活が損なわれていく。
そうならないように、「うまく嫌う」というテクニックを身につけていくことが必要なのだろう。
それは自分が嫌われる側になっても同じことだ。

グレアム・グリーンの『復讐』

2007-07-25 23:18:37 | weblog
グレアム・グリーンのごくごく短い短編に『復讐』(『イギリス短篇24』所収)というものがある。

主人公が十三歳から十四歳にかけて、クラスメートのカーターという少年から「心に苦痛を負わせる巧みな拷問」を受ける。主人公は「父がぼくの学校の校長であり、兄がぼくの家を牛耳っている」(おそらく兄はその学校の花形だったのだろう)、というふたつのことをタネに、ふたりを軽蔑的なあだ名で呼んだり、さまざまな嫌がらせを受けた。
それでも、このふたりのあいだには、ともに相手を尊敬する気持ちがあった。
主人公は相手の残酷さを尊敬していたし、相手は主人公の父と兄を、悪く言いながらも尊敬していたのだ。

ところがウォトソンは、最初は主人公の数少ない友人だった。ところがカーターの側へ行ってしまう。カーターの真似をする。それも実にへたくそなやりかたで。
何よりも、ウォトソンのせいで、主人公は完全に孤立してしまうことになったのだ。

主人公はウォトソンに復讐することを心に誓いながら、その日々を生き延びる。
やがて大人になってひょっこりそのウォトソンと再会するのである。
ところがウォトソンは懐かしげに声をかけてくる。

「思い出さないかい? 学校で一緒だったんだぜ。カーターって奴と、しょっちゅう遊んだじゃないか。ぼくたち三人で。ほら、君はいつも、ぼくやカーターを手伝ってくれたっけ――ラテン語の下調べのとき」

そのとき一緒に、主人公はカーターが戦死してしまって、この世の人ではないことも知る。

主人公は振り返る。自分のあの復讐の思いはなんだったのだろう、と。それでも、自分がいまここにいるのは、「自分が何かで優れていることをたとえどんなに長い間の努力が必要であろうと立証したいという激しい欲望」を起こさせてくれた彼らのおかげではあるまいか。

ウォトソンに電話をする、と言ったまま、主人公はすっかりそのことを忘れてしまう。「そんなにあっさり忘れてしまったことが、ぼくの彼に対する復讐なのであろう」。

これでこの短い短篇は終わるのだが、実際、わたしたちの身の回りでも、「藪の中」状態、あるできごとを共通で体験しながら、それぞれがまるっきりちがうふうに見ていることを、何かの拍子で知って驚く、ということはめずらしくない。

ただ、ここで気になるのは、若くして死んだカーターが、当時のことをどう考えていたか、ということだ。

カーターはそのころから自分の悪意をはっきりと意識していたのではないか。カーターは主人公を嫌い、主人公も嫌われていることが意識されて、そのために相手が嫌いになる。それぞれに一個の人間として、「嫌い合う」という点で対等の関係を築いていたのではないか、と思うのだ。

それにくらべて、ウォトソンの場合、果たして当時、ほんとうに「仲良くしていた」という意識だったのだろうか。カーターのまねをしたことにしても、自分の意志でそうした、というより、深く考えないままに大勢に順応したのだろうし、主人公が小説家として名をなしたと聞いた時点で、「ぼくはやつと友だちだったんだ」という記憶が捏造されたのではないか、という気が、わたしにはする。

カーターと主人公が対等な立場で嫌い合っていたのに対し、ウォトソンは単に真似をしていたにすぎない。
主人公はウォトソンが友だちだったのに裏切った、ウォトソンのやり口が拙劣だった、という理由で、そもそもの原因を作ったカーターにではなくウォトソンの方に復讐を考えるのだが、おそらくここで意識されなかったのは、主人公がウォトソンを、カーターに較べて下に見ているということだ。自分が軽蔑している相手から嫌がらせを受けることで、よけいに主人公の自尊心は傷ついた。だからこそ復讐まで考えたのだろう。

大人になって再会して、果たして主人公は「見る人によって見方も変わってくるのだなあ」と納得して、ウォトソンのことを忘れたのだろうか。
そうではないと思うのだ。おそらく、復讐を考えていた頃は、必要以上の大きさで見積もっていた相手の実際のサイズがはっきりと見えた。そのことで、自分の軽蔑に気がついたのだ。

憎んでいる相手は、その相手の不幸を願う。だが、軽蔑している相手は、相手が不幸であろうが幸福であろうが、たいして気にならない。軽蔑している相手はどうだっていいものだ。だから忘れることができるのだ。

そのときには自分の気持ちさえなかなかわからない。これはこういうことだったのか、という発見は、いつも、あのとき自分はこういうふうに考えていたのか、という発見の表裏であるように思える。

「健忘症連盟」を日本で最初に読んだ人

2007-07-24 22:53:37 | weblog
さて、昨日までロバート・バーの短編「健忘症連盟」を訳してきたのだが、いかがでした?

原作が所収された短編集の発表年は1906年。シャーロック・ホームズの活躍が1987年から1914年ということだから、ほぼ同時期ということになる。
エルキュール・ポワロ以前にも、「モナミ」と呼びかける、こんなフランス人の探偵がいたんだな、とびっくりする。というか、アガサ・クリスティのポワロの原型が、このウージェーヌ・ヴァルモンでもあるのだろう(ただしポワロはベルギー人だが)。もちろんこのウージェーヌ・ヴァルモンのさらに原型は、作中冒頭にも出てくるエドガー・アラン・ポーのオーギュスト・デュパンである。

さて、わたしがこれを訳してみようと思ったのは、このあいだ山田風太郎のエッセイ集『風眼抄』(中公文庫)を読んでいたら、「漱石と『放心家組合』」という章に出くわしたからだ。
 江戸川乱歩が選んだ古今の推理短編小説ベストテンの中に、ロバート・バーの「放心家組合」(あるいは「健忘症連盟」)という作品がある。…略…

 さて、ところで私は、この「放心家組合」を読んだとき、そのアイデアそのものにはそれほど感心しなかった。なぜかというと、このアイデアは漱石の「猫」に出てくるからである。
「……この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の幅や、名人の道具類を並べておく。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇(ものずき)な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」
「そう云うときまってるかい」と主人は相変らず芝居気のない事を云う。迷亭君はぬからぬ顔で、
「まあさ、小説だよ。云うとしておくんだ。そこで僕がなに代は構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと云う。客はそうも行かないからと躊躇する。それじゃ月賦でいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓になるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。何なら月に五円でも構いませんと僕が極きさくに云うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼元信の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す」

「タイムスの百科全書見たようですね」
「タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる不慥(ふたしか)だよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済(かいさい)になると思う、寒月君」
「無論五年でしょう」
「無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
「一念万年、万年一念。短かくもあり、短かくもなしだ」
「何だそりゃ道歌か、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると云う大弱点がある。その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ」

 という一節を記憶していたからである。
 しかし、私の読んだ順はさておき、おそらく事実は逆だ。――果然この中の「この間ある雑誌を読んだら、こういう詐欺師の小説があった」というのはこの「放心家組合」に相違ない。

『吾輩は猫である』の最終章十一にこれは出てくる。
山田風太郎によると、『猫』のこの回が書かれたのは明治39年、ロバート・バーの"The Triumph of Eugene Valmont"(『ウージェーヌ・ヴァルモンの勝利』)が出版されたのも、同じく1906年なのだが、おそらくはその前の「雑誌」に初出の段階で漱石は読んでいたのだろうと思われる。

若干、書き足しておくと、通常アンソロジーなどに収められている「健忘症連盟」"The Absent-minded Coterie" というのは、全体のうちの十三章から十七章の五章分を指すことが多いのだが、「健忘症連盟」というのは、十七章の章のタイトルであって、明確に区分された「短編」という体裁をとっているわけではない。

山田風太郎が冒頭、「江戸川乱歩が選んだ」とある『世界短編傑作集1 江戸川乱歩編』(草原推理文庫)を見ると、十三章は訳していなくて、この短編集では十四章から「放心家組合」と訳されている。日本ではこの十四章からのバージョンが一般的なのかもしれない。

ついでにタイトルにふれておくと、原題が"The Absent-minded Coterie"、"absent-minded" というと、ぼんやりした、とか、うっかりした、とか、心ここにあらずの、といった意味の形容詞ではある。あるいは、「健忘症」というと、それに該当する病名としては"amnesia" という単語があるのだけれど、「物忘れがひどい」ぐらいの意味で、「わたしは健忘症かも…」みたいに言いたいときは "I have a poor memory." ぐらいで、"amnesia" みたいな強烈な言葉は使わない。日本語の「健忘症」という言葉がカヴァーする範囲は、英語より少し広いような気がする(「不眠症」にしてもそうだ)。
作中、インチキドクターが「療法」を紹介する、というパンフレットも出てくるので、療法などということがどうやっても出てきそうもない「放心」より、「健忘症」を選んでみました。だいたい「放心家」という日本語はないような気がする。
言いますか? 「わたし、放心家で、ときどきぼーっとしちゃうんです」
(※エラリー・クイーンの編によるアンソロジー "Golden Dozen" にもこの作品は収められているのだが、そちらのタイトルも『健忘症連盟』になっている。)

それにしても漱石の要約の巧みなことよ。これだけの長さの作品が、この要約を読むだけで足りてしまう。
もっともこの作品の不思議な持ち味は、漱石の取りだした作品のアイデアというよりも、主人公がいつのまにか主人公の座からすべり落ち、最初、犯人と目された人物でもない、ほんの使いっ走りのような人物が、後半の三分の一ぐらいから主役になってしまう、なによりもその地滑りしていくような感覚にあるのではないか、とわたしは思っているのだが。

それにしても、月々払っているから、といって、人間、惰性でそんなにいつまでも払い続けるもんなんでしょうか。わたしも相当ぼんやりした人間(というか、ある面に関してはどうしようもなく抜けている)なのだが、そういうことは忘れないような気がするのだが。上流階級というのは、そこらへん、鷹揚なものなのだろうか。というか、そういう時代だったのかもしれない。

1980年代、ディック・ロクティの『眠れる犬』というミステリがあったのだが、これに出てくる犯罪というのは、銀行口座に長年残ったままになっている半端な少額(数ドル何セント)を、持ち主が忘れているかどうか確かめて、それからかきあつめて「塵も積もれば」状態にして、ごっそりいただく、という詐欺だった。これも遠い先祖をたどっていくと、この「健忘症連盟」に当たるのではないか、と思うのだけれど、リアリティといえばはるかにこちらのほうがあるように思う。わたしも百円単位で残っている口座がふたつあるし(忘れてはいないが、わざわざそのために通帳を持っていって解約するというのも面倒なのだ)。それでも、数百円で巨万の富を得ようと思えば、いったい何人に通知を出さなければいけないのだろう。

「健忘症連盟」にしても「眠れる犬」にしても、どうも犯罪というのは割に合わないような気がする。コストパフォーマンスが悪すぎませんか。

さて、最後はまた山田風太郎から引くことにしよう。
 ただし右の事実が偶然の一致なら――私は偶然の一致とは思わないが――漱石は留学中夫人に送った手紙の一節を持ち出して苦笑するかも知れない。
「只今本を読んで居ると、切角(せっかく)自分の考えた事がみんな書いてあった。忌々しい」

またそのうち、もう少し手を入れてサイトにアップしますから、そのときはまたよろしく。

ロバート・バー 「健忘症連盟」最終回

2007-07-23 22:04:52 | 翻訳
 さて、話も底をつき、私は飲み物の用意をしたり、葉巻やタバコの箱を出したりした。ヘイルは自分が飲みたいものを混ぜ合わせていたが、マクファーソンのほうは自分の国のワインをいやがり、グラス一杯のミネラル・ウォーターだけにしておいて、タバコに火をつけた。つぎの言葉には私も感心せざるをえなかったが、愛想良くこう言ってのけたのだ。
「ムッシュー・ヴァルモン、お待ちのあいだに、私が用立てておりますうちの5シリング、いただけますか」

 私は声をあげて笑うと、ポケットから硬貨を取りだし払った。マクファーソンは礼を言った。

「ムッシュー・ヴァルモンはスコットランド・ヤードに関係がおありなんですか」マクファーソンは、いかにも無為の間を持たせようとするような調子で聞いてきた。だが、私が口を開く前に、ヘイルがうっかり口を滑らせてしまった。「とんでもない」

「ではあなたは警官として公式な地位におありじゃないんですね、ムッシュー・ヴァルモン」

「そういうことだ」私はヘイルがお節介を焼く前にさっさと答えた。

「それは我が国にとって損失ですねえ」このあっぱれな青年は、心からそう思っているようすだ。

こんな頭の切れる人間が私の下で修行を積んだら、相当なものになるだろうと思い始めていた。

「我が国の警察の失態ときたら、論外ですからね。もし連中が、たとえばフランスから戦術を学びさえすれば、あの不愉快な仕事ぶりもずいぶん許容できるものになっていくでしょうに。被害者にもっと不快感を与えないようなやり方を取るとかしてね」

「フランスか」ヘイルは鼻で嗤う。「はっ、やつらは無罪と証明されるまで罪人扱いするんだぞ」

「そうですよね、ヘイルさん、まるでここ、インペリアル・フラットと同じですよね。あなた方はミスター・サマトリーズが有罪だと決めてしまっておいでだ。あの人の無実が証明されるまで、納得なさるおつもりはないんでしょう。あらかじめ言わせていただきますが、もうすぐあの方から驚くような話をお聞きになるはずですよ」

 ヘイルは不機嫌そうにうなると、腕時計を見た。時間は遅々として進まず、私たちは座ったままタバコを吹かし、しまいには私までがイライラしだした。マクファーソンは私たちの落ち着かない様子を見ながら、ぼくは霧のなかをやって来たんですが、先週もこのぐらい深かったですね、とか、きっと馬車をつかまえるのも大変でしょうね、などとしゃべっていた。ちょうどその彼が話しているときに、ドアの鍵が外から開いて、ポジャーズが入ってきた。手に分厚い本を持っている。ポジャーズはそれを上司に渡したが、ヘイルはページをめくって驚くと、背表紙を確かめて大声を出した。

「『スポーツ大百科 1893年』じゃないか! こりゃいったいどういう冗談なんだ、ミスター・マクファーソン」

 マクファーソンの顔には気の毒そうな表情が浮かび、近づいて本を手に取った。ため息混じりに言った。「ぼくに電話をかけさせてくださったらなあ。ヘイルさん、ぼくならサマトリーズに必要なのは何か、はっきり伝えることができたんですよ。こんな誤解が起こるんじゃないかと思ってたんだ。このごろ、ちょっと前のスポーツ関連の本が人気が出てきてるんです、だからミスター・サマトリーズもぼくが言っているのはこのことだと思ったにちがいない。ほかに方法がないから、あなたの部下をもう一度パークレーンにやって、必要なのは鍵がかかった1893年の帳簿だ、とミスター・サマトリーズに伝えてもらいましょう。どうかぼくにそのことを一筆書かせてください。あ、もちろん書いたら持っていく前にお見せしますよ」マクファーソンは、ヘイルが肩越しにのぞきこもうと立ち上がったので、そう言った。

 私のノートの紙に、自分が言ったことを走り書きすると、ヘイルに渡し、ヘイルは目を走らせてからポジャーズに渡した。

「それをサマトリーズに渡して、できるだけ急いで戻ってくるんだ。馬車は外に待たせているな?」

「はい」

「外の霧はまだ深いか」

「一時間ほど前にくらべると、そうでもありません。通行に支障があるほどではなくなっています」

「結構。できるだけ早く帰ってくるんだ」

 ポジャーズは敬礼すると、本を小脇に抱えて部屋を出ていった。ふたたびドアに鍵がかかり、私たちはまた座りこむと黙ったままタバコを吸った。そこへ電話の音が沈黙を破った。ヘイルが受話器を耳に当てた。

「そうだ、インペリアル・フラットだ。その通り。ヴァルモン宅だ。ああ、マクファーソンはここにいる。え? 何だって? 何がない? よく聞こえないな。絶版でもうない、百科事典は絶版で、もうないんだな? ところで君は誰だ。ドクター・ウィロウビィ? ああ、ありがとう」

 マクファーソンは電話のところへ行くような素振りで立ち上がると、その代わりに(あまりにひかえめにふるまったので、彼が何をやっているのか、実際にことがなされてしまうまで、私も気がつかなかった)、一枚の紙切れ、彼が訪問リストと呼んでいた紙をつまみあげて、いささかも急ぐことなく歩いていくと、暖炉のなかで石炭が燃え上がっているそこへかざしたので、紙は瞬く間に炎に包まれて煙となり煙突へ吸いこまれてしまった。怒りにかられて飛び上がったものの、いまさらリストを取りもどそうとしたところで手遅れである。マクファーソンはこれまでにも何度か浮かんだことのある、自己嫌悪にかられたような笑みを浮かべて私たちを見た。

「どうしてリストを燃やすようなことをしたんだ」私は言い寄った。

「ムッシュー・ヴァルモン、それはね、あれはあなたのものじゃなかったからですよ。それに、あなたはスコットランド・ヤードとは何の関係もない。あなたはあのリストを盗んだ。あなたはあの紙に対して何の権利も有してない。あなたはこの国で公職にあるわけでもない。もしそれがミスター・ヘイルのものだったら、ぼくもそんなことはしなかったでしょう。だがあの紙切れは、何の権限もないあなたが、ぼくの雇い主の家から盗み出したものだ。もちろんあなたは、家宅侵入を見つかり、それに抵抗したとして、雇い主から射殺されたってしかたがなかった。だから失礼ながら、そんな紙は灰にさせてもらいました。ぼくはいつもこうした書類は保存しておくべきではないと思っていたんです。ウージェーヌ・ヴァルモンのように頭のいい人間が精密に調べでもしたら、見当違いの解釈をそこから引き出しかねない。ところがミスター・サマトリーズはがんこで、どうしても取っておくといって聞かない。だからこういうところで手を打ったんです。もしぼくが電報や電話で“百科事典”と伝えたら、すぐにその記録を燃やしてしまう、とね。そうして彼の方も、電報や電話で“百科事典は絶版だ”と知らせる。そこでぼくにもうまく片がついたことがわかるわけです。

「さて、みなさん、ドアを開けてください。ぼくが力ずくで開けなくてもいいように。ぼくを正式に逮捕するか、自由を制限するのをやめるかしてください。電話を受けてくださったミスター・ヘイルには、大変感謝していますし、ドアに鍵をかけたからといって、ムッシュー・ヴァルモンの高潔さを問題にするつもりもありません。でも、喜劇はおしまいです。ぼくをここに引き留めたやり口は、まったく非合法的なものだったし、ミスター・ヘイルには失礼かもしれませんが、このやりかたはちょっとフランス的過ぎて、古いイギリスにはそぐわない。それに新聞で報道されでもしたら、あなたの上官だってあまりお気に召さなかったと思いますよ。ぼくは正式な逮捕か、ドアを開けるかのいずれかを要求します」

 私は無言でボタンを押し、召使いがドアをサッと開けた。マクファーソンは歩いていき、敷居のところで立ち止まり、振り返ってスペンサー・ヘイルを見た。ヘイルはスフィンクスのように座ったままだった。

「おやすみなさい、ミスター・ヘイル」

 返事がなかったが、わたしの方へも同じ愛想のいい笑みを向けた。

「おやすみなさい、ムッシュー・ウージェーヌ・ヴァルモン。来週水曜日の六時にまた5シリングいただきに参ります」

The End

ロバート・バー 「健忘症連盟」その12.

2007-07-22 22:47:36 | 翻訳
「たとえばセンタム卿の場合だ。君たちは50ポンドのテーブルを分割払いで売った。卿は毎週1ポンドずつ支払うことになっていたから、一年もしないうちに完済した。だが卿の記憶ははなはだたよりにならぬものだ、君たちの顧客がみんなそうであるようにね。だからこそ、君も私のところへ来たのだね。私がウィロウビィの怪しげな広告に返事を出したからだ。そうやって君たちは集金に集金を重ねて、もはや三年以上だ、さて、これで嫌疑についてはわかっただろう」

 ミスター・マクファーソンは小首を傾げて私の告発を聞いていた。最初は、これまでと同じく、いかにも気遣わしげに一心に耳を傾けている風をたくみに装い、表情も曇らせていたのだが、徐々に話が呑み込めてくるにつけ、表情も晴れていく。私が話し終わるころには、愛想笑いが口元に浮かんでいた。

「それは確かに見事な策略ですね。健忘症連盟、とでも呼んだ方が良さそうだ。これまでに聞いたこともないような話です。サマトリーズにもしユーモアのセンスがあったら、実際には薬にするほどもないんですけどね、善良なクリスチャン・サイエンス熱が、いつのまにか詐欺で人様のお金に手を着けたという容疑に結びついたと知ったら、たぶんおもしろがるんじゃないかな。残念ながらこの件には虚飾などどこにもないんです。私の知る限りでは、ただ自分の顧客名簿に載っている方々を訪ねて、お支払いいただいているだけなんですが、あなたは私とサマトリーズの両方を捕まえたいらしい。あなたのその大胆不敵な仮説によれば、共同謀議によって起訴ということになるのでしょう。ところがどうしてそんな誤解が起こったのか、私にはよくわかるのです。

「あなたは私どもがセンタム卿に曲がり脚のテーブルを一年前にお買い求めいただいて以来、何の取引もない、というふうに、一足飛びに結論づけてしまわれた。幸いなことに、卿は私どもの大変良いお客様で、折りにつけ、さまざまなものを買って頂いております。卿が私どもに借りがある状態のこともあれば、一時的に卿の側の過払いの状態のこともございます。一種の継続契約のもとで、週に一ポンドお支払いいただいているのです。ほかにも同様の方法でお取引きさせていただいているお客様もいらっしゃいますが、おかげさまで私どもはその収益を当てこむことができますし、その見返り、といいますか、お客様の方ではそれぞれ興味をお持ちの方面の品々を、他のお客様に先駆けて購入することができます。先ほども申し上げましたとおり、私どもは事務所にあるこうした顧客名簿を“訪問リスト”と呼んでおりますが、この訪問リストは、私どもの用語で“百科事典”と呼ばれるものとつきあわせなければ、十分なものとはなりません。それを“百科事典”と呼ぶのは、非常に冊数が多いからなのです。一年に一冊ですが、さかのぼっても一体いつから始まっているのか見当もつきません。訪問リストの金額の上に、ところどころ小さな数字があるのに気がついておいでだと思います。この数字は百科事典の該当ページです。そのページには新しくお買いあげいただいた商品とその金額が記入してございます、言ってみれば元帳ですな」

「それは大変おもしろい説明だな、ミスター・マクファーソン。君のいう“百科事典”とやらはトッテナムコート通りの店にあるのかね」

「いいえ、そうではありません。百科事典は一冊ずつ、鍵がかかるようになっております。こちらの帳簿のほうに私どもの商いの公表されない部分が記してあり、パークレーンのミスター・サマトリーズの屋敷の金庫に保管されています。ためしにこのセンタム卿の取引を見てみましょう。ある日付の下に、薄く102と書いてあったとする。そこで、その年の百科事典の102ページを見てみると、センタム卿にご購入いただいた品物の一覧と、それぞれの値段が書いてあります。単純なことです。もしちょっとだけでも電話をお借りできましたら、ミスター・サマトリーズにお願いしてみますよ、まだ夕食の時間ではないから。1893年の分を持ってきてください、と。15分もしないうちに、あらゆることが完全に法律の範囲内でなされていることが納得していただけると思っています」

 正直言って、この男の自然な物腰と自信は私をたじろがせるものだった。ヘイルの唇に、そんな話は一言も信じないぞ、という皮肉な笑みが浮かんでいるのを見ると、ますます不安が高まった。テーブルの上の電話を、マクファーソンは説明を終えると、手を伸ばし、自分の方へ引き寄せた。そこへスペンサー・ヘイルが割って入った。

「すまないが電話は私がかけるよ。ミスター・サマトリーズの番号は何番だね」

「ハイド・パーク140です」

 ヘイルはすぐに交換を呼び出し、パークレーンの屋敷につながった。ヘイルがしゃべるのが聞こえた。「ミスター・サマトリーズのお宅ですか。ああ、君か、ポジャーズ。ミスター・サマトリーズは在宅かね。結構。ヘイルだがね。いまヴァルモンさんのアパートにいる。そう、インペリアル・フラットだよ、知ってるだろう。そうそう、このあいだ、君が私と一緒に行ったところだよ。よろしい、それで、ミスター・サマトリーズのところへ行って、ミスター・マクファーソンが1893年の百科事典が必要だと言っている、と伝えてくれ。わかったかね? そう、百科事典だ。それが何の事典だとかいうことはわからなくていい。ミスター・マクファーソンだ。いや、私の名前など、絶対に出してはだめだ。ただ、ミスター・マクファーソンが1893年の百科事典が必要だと言っている、と伝えればいいんだ。そうして君がこっちへ持ってくるんだ。そう、ミスター・マクファーソンはインペリアル・フラットにいる、と言っていい。だが、私の名前は出すんじゃないぞ。そういうことだ。やつが本を出したら、君は馬車を使って、できるだけ早くそれをもってこい。もしサマトリーズが出すのをいやがりでもしたら、その時は君と一緒に来るように言うんだぞ。もし来ないとでも言ったなら、逮捕して、それからほんと一緒につれてこい。よし。とにかく急げるだけ急ぐんだ。待ってるぞ」

 マクファーソンはヘイルが電話をかけるのに、何の反対もしなかった。ただ椅子の背に身を預けて座り、諦めきった表情を浮かべている。もしその姿をカンヴァスに描くとしたら、そのタイトルは「冤罪」となりそうだ。ヘイルが電話を切ると、マクファーソンは言った。

「もちろんあなたの職務についてはあなたが一番ご存じなんでしょうが、あなたの部下がサマトリーズを逮捕しようものなら、ロンドン中でいい物笑いの種になりますよ。金銭詐取という犯罪があるのなら、不当逮捕だって犯罪だ、ミスター・サマトリーズはそんな侮辱に黙って引き下がるような人ではありませんからね。それから、言わせてもらえば、あなたがたのおっしゃる健忘症理論というのも、考えれば考えるほど、まったくぶざまな説のように思えてきますよ。もしこの件が新聞にでも嗅ぎつけられたら、ヘイルさん、まちがいなくあなたはスコットランド・ヤード長官を前に、三十分かそこらは具合の悪い思いをしなくちゃならないでしょうね」

「そのくらいのことは覚悟の上さ。ご忠告ありがとう」ヘイルは頑なに言い張った。

「私は逮捕されてるんですか」若い男は尋ねた。

「いや」

「なら失礼して私は退出いたしますよ。ミスター・サマトリーズなら帳簿のなかであなたがたが知りたいことを全部お見せするでしょうし、私などよりずっと合点のいく説明をしてくれるでしょう。何しろ私などよりはるかによく知っているのですから。ともかくみなさん、これで失礼させていただきます」

「だめだ、とにかくもう少しここにいてくれ」ヘイルは若い男が立つのにつられて立ち上がってわめいた。

「ということは、逮捕されているのかな」

「とにかくポジャーズが本を持ってくるまで、ここを出ちゃいかん」

「さようですか」そう言うとマクファーソンはふたたび腰をおろした。

(明日いよいよ最終回)

ロバート・バー 「健忘症連盟」その11.

2007-07-21 22:55:28 | 翻訳
 そう言って深々とお辞儀をして見せると、ヘイルの顔には、私がからかっているのかどうなのか決めかねているような、怪訝な表情が浮かんだが、すぐに、彼がつねづねいうところの「警官の威信」とやらのいくばくかは、いますぐこの場で一部始終を知りたい、という願いの前に崩れ落ちたのである。つまり、私は我が友ヘイル君の好奇心をうまくかきたてたというわけだ。彼は眉根を寄せて話に聞き入っていたが、たまりかねて「そんなことが!」と叫んだ。

「この若い男が水曜日の午後六時に私のところへ二度目に五シリングを取りに来るのです。だからあなたをこうやって話を持ちかけているんです。あなたが制服姿ですわって待ちかまえているところに彼がやってくる、私が知りたくてたまらないのは、いきなり警官の前にでてしまった、となったときのミスター・マクファーソンの顔です。差し支えなければそのあとに、私に少し尋問させていただきたいのです。スコットランド・ヤード流の、自分を有罪であると思わせないようなやり方ではなく、私たちがパリで採用しているような、自由で気楽なスタイルでやりたいんです。それからこの事件をあなたがたの方へお渡ししますから、あとはお好きなように始末をつけてください」

「よくもまああとからあとからたいしたい言葉が出てくるもんだ、ムッシュー・ヴァルモン」これがこの警官の賛辞の言葉なのである。「かならず水曜日の六時十五分前にうかがいます」

「それまでどうかこの話はだれにもおっしゃらないでください。ぬかりなく取りはからって、マクファーソンを驚かせるんです。それが肝心ですから。水曜の夜までは、この件にくれぐれも手をお出しにならないよう、お願いしますよ」

 スペンサー・ヘイルは感服して、黙ったままうなづくばかりだった。私は丁寧に別れを告げた。


 健忘症連盟


 私の部屋のようなところでは、照明は由々しい問題なのだが、この点電灯というのは、なかなか使い勝手のいいものだった。私はこの電灯の利点を十分に活用することにした。照明を操作して、ある一箇所のみに光が注ぐようにして、それ以外の場所は薄暗くなるようにしたのである。水曜日の夜になると、電灯を調節してドアに向かって最大光量が注ぐようにし、私はテーブルの端の薄暗いところに座った。ヘイルはその反対側、降り注ぐ光を浴びて、一種特別な、彫刻のような面もちは、厳格で誇り高い正義の彫像を思わせた。部屋に脚を踏み入れたらだれでも、照りつける光に目をくらまされ、それから法に則った制服姿のヘイルの巨大な姿が目に入るはずである。

 アンガス・マクファーソンは部屋に入ってくると、不意をつかれたのがはっきりと見て取れ、敷居のところで棒立ちになると、巨大な警官を凝然と見つめたままになった。最初、きびすを返して逃げ出そうとしたようだが、彼の後ろでドアが閉じると、おそらく彼にも聞こえたように――私たちみんながその音を聞いた――かけがねがかちりと落ちたのである。彼は閉じこめられたのだ。

「あ、えーと……」彼は言葉につまったらしい。「ウェブスター様にお目にかかりたいのですが」

 そう言うのを聞いて、わたしはテーブルの下のボタンに手を伸ばした。その瞬間、私の姿が光に光の中に浮かび出る。私を見て、マクファーソンの表情に陰気な笑みが広がっていき、もっともらしいことを言って、知らん顔でその場をやり過ごそうとした。

「おや、そこにおいででしたか、ウェブスター様。最初は気がつきませんでした」

 緊迫した瞬間だった。私はゆっくりと、強い印象を与えようと口を開いた。

「あなたもおそらくはウージェーヌ・ヴァルモンという名前をご存じないわけではありますまい」

 彼はふてぶてしくこう応えた。「お言葉ですが、そのような方のお名前は、ついぞうかがったことはございません」

 これ以上はないというほどのひどいタイミングで「あははは……」と脳足りんのスペンサー・ヘイルの高笑いが湧き起こり、私が考えに考えて演出したドラマティックな場面を、ぶちこわした。イギリスにろくな戯曲がないのも驚くにあたらない。連中と来たら人生の感動的な場面を愛でる気持ちなど、薬にするほども持ち合わせていないのだ。彼らにはおよそ人生の明暗に際し、生き生きと反応することがない。

「ははは……」ロバがいななくような声をあげて、なおもヘイルは笑い、緊張感に充ちた空気は、一気にありきたりのものに変質してしまった。だが、人間、何をなすべきか。かくなるうえは神の与えたもうた道具を使いこなすよりほかない。私はヘイルのところをわきまえない馬鹿笑いを無視することにした。

「おかけなさい」マクファーソンはわたしの言葉に従った。

「今週、君はセンタム卿のお宅を訪問したね」私は厳しい調子を保った。

「さようでございます」

「そうしてセンタム卿から1ポンド集金した」

「はい」

「1893年の10月、君はセンタム卿にアンティークの飾り脚テーブルを50ポンドで売ったね」

「その通りです」

「先週、君はここに来たとき、ラルフ・サマトリーズの名前を出し、彼はパークレーンに屋敷を構える紳士だと言った。そのとき、君はそれが君の雇い主だとは知らなかったのかね」

 マクファーソンは私から眼を離さなかったが、このときは返事をしなかった。私は冷静に言葉を続けた。「君はパークレーンのサマトリーズとトッテナムコート通りのシンプソンは同一人物であることも知っているね」

「はて」マクファーソンは言った。「何をおっしゃっておられるのか見当がつきかねますが、本名以外で商いをやっていくというのは、それほどめずらしいことではございません。別に法律に違反するようなことではないと存じますが」

「もうすぐその法律違反は問題になりますよ、ミスター・マクファーソン。あなたとロジャース、ティレル、それからあとの三人は、このシンプソンという男の共犯だ」

「確かに私たちはおっしゃるとおりあの方に雇われております。共犯とおっしゃられても、通常の事務員と何ら変わるものではございません」

「ミスター・マクファーソン、あなたがたがもくろんだ策略については、私はもう十分にあきらかにしたと思いますよ。いまあなたはスコットランド・ヤードのミスター・スペンサー・ヘイルの立ち会いの下にいます。あなたの自白を聞こうと待っていらっしゃるんですよ」

 ここでヘイルの馬鹿が割りこんできた。「だから覚えておくように。君が言うことはすべて……」

「失礼、ミスター・ヘイル」私は急いで遮った。「すぐにこの件はあなたにお渡ししますから、あの約束を思いだして、いまのところはすべて私に任せてください。さて、ミスター・マクファーソン、自白してはいかがです? いますぐに」

「自白ですって? 共犯者ともおっしゃいましたよね?」マクファーソンは見事なほどたくみに驚きを装った。「あなたはずいぶんおかしな言葉をお使いですね、ミスター……、ミスター……どなたでしたっけ。あなたのお名前は何とおっしゃいましたか?」

「ハッハッハッ」ヘイルはまた馬鹿笑いをした。「この方はムッシュー・ヴァルモンとおっしゃるのだ」

「ミスター・ヘイル、お願いします、もう少しでいいんです、この男を私にまかせてください。さて、マクファーソン、何か申し開きはあるかね」

「何の罪も犯していないのに、申し開きの必要があるわけがないじゃないですか。あなたが私どもの商いについて、細かいことをいろいろご存じだとおっしゃりたいんでしたら、それは喜んで認めますし、あまりの的中ぶりに感心したと申し上げましょう。どういう点がご不満なのか、もっとわかるように説明してくだされば、できるかぎりの説明はいたします。誤解があるのはまちがいないのですが、どうにも、もう少し説明していただかなくては、ここに参ります途中と同じ、濃い霧のなかにいるようなものでございますから」

 マクファーソンは確かに分別のあるふるまいをしており、意識してやっていたわけではなかろうが、その外交手腕にかけては、私の向かいに体を固くして座っている我が友スペンサー・ヘイルよりも、よほどうわてだった。マクファーソンの声音は穏やかに諭そうとするもので、誤解もまもなく溶けるだろうという意識に怒りも和らげられているようだった。外から見ると、彼の言動は完璧に無実のようで、抵抗しすぎるでもなく、しすぎないわけでもない。だが、私には彼を、もうひとつ驚かすものを用意していた。トランプの切り札とでもいうべきもので、私はそれをテーブルの上に拡げて見せたのである。

「さて」私は大きな声を出した。「この紙は見たことがありますね」

 彼はちらりと目を遣っただけで、手に取ろうともしなかった。

「ええ、あります。それは私どものファイルから抜き出されたものですね。私どもはそれを訪問リストと読んでおりますが」

「さあ、マクファーソン」私は厳しい声を出した。「君は自白を拒んでいるが、我々はすべてをつかんでいる。ドクター・ウィロウビィのことも聞いたことはないんだろうな」

「いえ、知ってます。クリスチャン・サイエンスについての馬鹿げたパンフレットを書いている人です」

「その通りだ、マクファーソン。クリスチャン・サイエンスと健忘症についてだ」

「そんなところですね。もう長いこと読んでませんから」

「この教養豊かな博士と会ったことはあるかね、マクファーソン君」

「ええ、ありますよ。ドクター・ウィロウビィはミスター・サマトリーズのペン・ネームですから。あの方は、クリスチャン・サイエンスのような類のことを信じていらっしゃるので、それについて書いていらっしゃるのです」

「ああ、そういうことか。君はそうやって少しずつ自白するつもりなんだな、マクファーソン君。我々には率直に話した方がいい」

「私もちょうど同じことを申し上げようと思っていたんです、ムッシュー・ヴァルモン。ミスター・サマトリーズ、もしくはわたし自身にどんな嫌疑がかかっているのか、もっと簡単に言ってくだされば、私にも何がおっしゃりたいのかよくわかるのですが」

「君の容疑は金銭詐取だ。その罪で著名な資本家もひとかたならず刑務所送りになっている」

 スペンサー・ヘイルは太い人差し指を私の前で振り、「チョッ、チョッ、ヴァルモンさん、脅迫は駄目です。脅迫は駄目なんですよ」と言ったが、私は気にも留めず続けた。

(この項つづく)