陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フィリップ・K・ディック「お父さんのようなもの」その7.

2009-10-31 23:05:41 | 翻訳
その7.

「そこまでだ、チャールズ」父親もどきの声がした。力の強い手につかまれて、指先がしびれる。必死でふりほどこうとしているうちに銃が地面に落ちた。父親もどきはペレッティを突きとばす。ペレッティが吹っ飛んだので、熊手から自由になった虫は、巣穴に意気揚々と入っていった。

「お仕置きが必要だな、チャールズ」父親もどきは物憂げな声で言った。「おまえはどうしたんだ? かわいそうにお母さんは気が気じゃないらしい」

〈あれ〉はずっとそこにいたのだ。物陰に隠れて。闇に身を潜めて、ぼくたちを見てたんだ。冷静そのものの、感情のいっさいこもらない声、気分が悪くなるほどパパそっくりの声が、耳のすぐそばで聞こえる。情け容赦のない力で引きずられ、チャールズはガレージに連れて行かれた。〈あれ〉の冷たい息が顔にかかる。冷たくて変に甘い、腐った土の臭いだ。〈あれ〉の力はすさまじく、チャールズにはわずかな抵抗さえできない。

「暴れるんじゃない」静かな声だった。「ガレージに入れ。おまえのためなんだよ。おまえがどうしたらいいのか、オレにはよくわかってるんだ」

「あの子が見つかったの?」勝手口の扉が開いて、心配そうな母親の声がした。

「ああ、ここにいる」

「あの子に何をするつもりなの?」

「お仕置きをほんのちょっぴり、な」父親もどきはガレージの戸を押して開けた。「ガレージにいる」薄明かりのなかでかすかな笑みが、おかしさとは無縁の、まったく感情のこもらない笑みが〈あれ〉の唇の端にちらっと浮かんだ。「おまえはリビングに戻っていいぞ、ジューン。ここはオレに任せてくれ。こういうことは父親の仕事だ。おまえは罰なんぞ与えたくないんだろう?」

 勝手口の扉がいかにも気持を残しながら閉じられた。一緒にあたりが暗くなった。ペレッティが身をかがめ、BB銃をかまえようとした。とっさに父親もどきが立ち止まった。

「君たちはもう家に帰るんだな」かすれ声が響く。

 ペレッティはBB銃を握りしめたまま、ためらい、突ったっていた。

「帰れと言っただろう」父親もどきは重ねて言った。「そんなおもちゃは下に置いて、ここから出ていけ」片手でチャールズをつかまえたまま、ゆっくりとペレッティに近づいて、空いた方の手を伸ばす。「BB銃はこの街では禁止されてるんだぞ、坊主。おまえの親父はそれを知らないのか? 市の条例があるんだ。それをこっちに寄越した方が身のためだ、さもなきゃ……」

 ペレッティが〈あれ〉の眼に狙いを定めて撃った。

 父親もどきはうめき声をあげると、撃たれた方の目を手で押さえようとした。つぎの瞬間、突然ペレッティに襲いかかった。ペレッティは車寄せを逃げながら銃の撃鉄を起こそうとする。父親もどきがつかみかかった。力の強い指が、ペレッティの手から銃をもぎ取り、無言のまま家の壁に叩きつけた。

 チャールズは腕を振り払い、麻痺した頭のまま走り続けた。どこに隠れたらいい? 家と自分のあいだには〈あれ〉が立ちふさがっている。いや、もう、すぐそこにいるのだ。黒い影が闇の中、あたりを注意深くうかがいながら、脚を忍ばせて、なんとか彼を見つけようとしている。チャールズはあとずさりした。隠れるところさえあったら……。

 竹藪だ。

 すばやく竹藪の中に分け入った。年を経て節の太い竹が生い茂っている。しなった竹が元に戻って、ざわざわと音を立てながら彼を隠してくれた。父親もどきはポケットをまさぐっている。マッチに火をつけたので、あたりがぼうっと明るくなった。「チャールズ」声がした。「おまえがここにいるのはわかってるんだ。隠れても無駄だ。おまえは自分から事態を悪くしてるんだぞ」

 胸が早鐘を打つ。チャールズは竹の間で小さくなっていた。目の前にあるのはがらくたや腐ったもの。雑草、ゴミ、紙くず、空き箱、ボロきれ、板、空き缶、空き瓶。クモやトカゲが足元でうごめいている。竹が夜風にそよいだ。虫とゴミくず。

 そして別のものが。




(チャールズは何を見たのか。チャールズの運命いかに。そして父親もどきは。明日怒濤の最終回)



フィリップ・K・ディック「お父さんのようなもの」その6.

2009-10-30 22:33:21 | 翻訳
その6.


「ガレージの近くだ」ペレッティは痩せて小さな顔の黒人の少年に言った。三人は暗がりのなかにうずくまっている。「〈あれ〉がこいつのおやじをつかまえたのはガレージの中だった。だからそのあたりにいるんだ。ガレージの近くに」

「ガレージの中を?」ダニエルズは聞いた。

「まわりだ。中ならウォルトンがもう見て回ってる。外だ。このあたりのどこかだ」

 ガレージの横は小さな花壇になっていて、花が咲いていた。ガレージと家の勝手口のあいだには、うっそうと繁る竹やぶと、がらくたの山があった。月がのぼり、あたりは冷たい、ぼんやりとした光に照らされている。「すぐに見つけられなかったら」とダニエルズは言った。「ぼく、帰るよ。遅くまでいられないんだ」チャールズといくつもちがわない年格好である。おそらく九歳かそこらだろう。

「了解」ペレッティがうなずいた。「じゃ、捜そうぜ」

 三手に分かれ、それぞれ地面の上を注意深く捜し始めた。ダニエルズが信じられないほどの働きを見せた。やせた小さい体が、目にも留まらぬほどの速さで動き回る。花のあいだにもぐりこみ、石をひっくり返し、軒下をのぞきこみ、植え込みの枝をかきわけ、熟練した手つきで葉や茎を調べ、堆肥や草むらをかきまわしていく。一センチたりとも見落とすことなく。

 じきにペレッティは捜すのをやめた。「オレ、見張りしてやるよ。危ないだろ、あの父親もどきがこっちへ来でもしたら。邪魔するに決まってるからな」ペレッティはBB銃を構えて勝手口の階段に立ち、チャールズとボビー・ダニエルズが捜し続ける。チャールズの動きは鈍かった。疲れていたし、体が冷えてしまってうまく動かせない。ほんとに起きたことなんだろうか。パパもどきだとか、パパが、ほんもののパパがあんな目に遭わされただなんて。恐怖が押し寄せ、彼の体はせきたてられたように動き出した。もしママが同じ目に遭ったら。それから、ぼくが。ほかのみんなが。世界中の人が。

「あった!」ダニエルズが甲高い声で叫んだ。「みんなこっちに来て! 早く!」

 ペレッティは銃を構えたまま、あたりに気を配りながら近寄っていく。チャールズもそちらへ急ぎ、ダニエルズが立っているところを懐中電灯のちらちらする黄色い光で照らした。

 黒人の少年は、コンクリートのかたまりを持ち上げている。懐中電灯の光が、じめじめした腐食土に埋もれかけた金属のような体をとらえた。細い、継ぎ目のある体が、無数のねじまがった足で、狂ったように地面を掘っている。めっきをほどこされたアリのような、銅色の虫が、人目を避けて大慌てで隠れようとしている。二列に並んだ脚が土を削り、掻き取っていく。地面はどんどん深くなる。まがまがしい形をした尻尾を狂ったように振りながら、自分が掘ったばかりのトンネルに、なんとか潜り込もうとしていた。

 ペレッティはガレージに走り、熊手をひっつかんで戻ってきた。熊手を地面につきたてて、虫の尻尾を熊手で押さえつける。「早く! BB銃で撃つんだ!」

 ダニエルズが銃をひったくるとねらいを定めた。最初の一発が尻尾の先を粉々にした。虫は狂ったように身をよじり、体をのたうちまわらせている。尻尾は力なく垂れ下がり、脚も何本か折れたらしかった。三十センチもあろうかという巨大なムカデのようだ。なおも必死で穴に潜ろうとしている。

「もっと撃て!」ペレッティが命じた。

 ダニエルズがもたついている。虫はしゅるしゅると音を立てながら進んだ。頭が前後に激しく動く。身をくねらせて、自分を押さえつけている熊手にかみつこうとした。目とおぼしきいくつもある不気味な斑点が、憎悪の光を放つ。熊手への虚しい攻撃が続いた。それが突然、何の前触れもなく、激しく痙攣するように地面に体を打ちつけたので、三人はぎょっとして後ずさりした。

 チャールズの頭のなかでブーンと鳴る音がした。金属的でひどく耳障りな、うなるような音、針金が何億本もいちどきに震え、振動しているかのような。その音の衝撃で、彼の体はひどくぐらついた。金属が破裂する音が耳をつんざき、わけがわからなくなった。脚がよろめき、仰向けにひっくりかえった。ほかのふたりも同じ目に遭ったらしく、蒼白になって身をふるわせている。

「銃で殺せないんだったら」ペレッティがあえぎながら言った。「溺れさせよう。焼いてもいい。頭をピンで刺したらいいのか」虫をつぶそうとでもいうように、熊手を握る手に力を込める。

「ホルムアルデヒドなら、ひとびん持ってる」ダニエルズはつぶやいた。神経質そうにBB銃をいじりまわしている。「どうしたらいいの? うまく撃てないや……」

 チャールズが銃をひったくった。「ぼくが殺してやる」彼は中腰になると、片目をつぶってねらいを定め、引き金に手をかけた。虫がすごい勢いで暴れ回る。チャールズの耳にも衝撃波が押し寄せて、ガンガンとたたきつけるような音が耳の奥で暴れ回ったが、銃をしっかりと構えた。引き金にかけた指に力がこもる……。




(この項つづく)

フィリップ・K・ディック「お父さんのようなもの」その5.

2009-10-29 22:28:42 | 翻訳
その5.

 ふたりはアンダースン家の私道に入り、裏庭を突っ切って塀を乗り越えると、チャールズの家の裏庭に降り立ち、用心しながら身を低くした。物音一つしない。庭は静かだった。玄関のドアは閉まっている。

 リビングの窓からなかをのぞいてみた。ブラインドは下りていたが、細い隙間から黄色い光が漏れている。カウチに坐っているのはミセス・ウォルトンの方で、Tシャツをつくろっている。ふくよかな顔は曇り、悲しげな色を浮かべていた。物憂げに、心ここにあらずのていで手を動かしている。向かい側には、父親もどきがいた。チャールズの父親のものだったアームチェアにふかぶかと坐って靴を脱ぎ、夕刊を読んでいる。つけっぱなしのテレビが、部屋の隅でなにか言っていた。アームチェアの肘掛けのところに缶ビールが置いてある。父親もどきは、ほんものの父親そっくりに腰を下ろしていた。まったくたいしたものだった。

「おまえんちのおやじに見えるけどな」ペレッティがけげんな顔をした。「マジでオレをはめるつもりじゃないんだろうな」

 チャールズはペレッティをガレージまで連れて行くと、ゴミの樽を見せた。ペレッティは日に焼けた長い腕を伸ばして、かさかさにひからびた残骸を、気をつけながら引っぱりだした。残骸はずるずると広がって伸びていき、父親の輪郭のおおよそが現れてきた。ペレッティはその抜け殻を床に置いて、ちぎれた部分をしかるべき場所に戻していった。抜け殻には色がない。すきとおっているといってもいい。かすかに黄褐色を帯びた薄い紙のようだった。ひからびて、およそ命あるものからはほど遠い。

「たったこれだけ」チャールズは言った。涙があふれてくる。「パパはこれだけになっちゃった。あれが中味を盗ったんだ」

 ペレッティの顔は青ざめていた。身をふるわせながら、ゴミ樽のなかに抜け殻を戻した。「こりゃまったくどえらい話だ」ぼそりと言った。「おまえ、おやじとあれが一緒にいたのを見たって言っただろ?」

「話をしてた。そっくりだった。ぼくは家の中に走って逃げたんだ」チャールズは涙をぬぐいながらしゃくりあげた。もうどうにもがまんできなかった。「ぼくが中にいるあいだに、〈あれ〉がパパを食べたんだ。それから家に入ってきた。〈あれ〉はパパのふりをした。だけどわかったんだ。〈あれ〉がパパを殺して、パパの中味を食べやがった」

 しばらくペレッティは何も言おうとしなかった。「あのな」おもむろに口を開いた。「この手の話は前にも聞いたことがある。きつい仕事だ。おまえも頭を使わなくちゃなんないし、おまけにびびっちゃ話にならない。おまえ、怖がってやしないな?」

「うん」チャールズはなんとか返事をした。

「まずは〈あれ〉をどうやってやっつけるか、考えなきゃな」ペレッティはBB銃を鳴らした。「こいつで効果があるかどうかもわからない。おまえのおやじをふんづかまえるのは、おおごとだぜ。なにしろでかい体だからな」ペレッティは考えていた。「とにかくここを出よう。〈あれ〉が戻ってくるかもしれない。言うだろ? 犯人は現場に戻ってくる、とかなんとか」

 ふたりはガレージをあとにした。ペレッティは身をかがめて、また窓から中をのぞいた。ミセス・ウォルトンは立ちあがっていた。心配そうに何か言っている。くぐもった声だけがもれ聞こえた。父親もどきは新聞を放り投げた。言い合いが始まった。

「いいかげんにしろ!」父親もどきが怒鳴った。「そんなばかげたことをするんじゃない」

「なにか変よ」ミセス・ウォルトンはうめいた。「なんだか怖いことが起こってるような気がする。病院に電話して診てもらってもいいでしょう?」

「誰も呼ぶな。あいつは大丈夫だ。きっと通りかどこかで遊んでるだけだ」

「あの子がこんな遅くに外に出たことなんてないもの。反抗したりなんかしない子よ。なんだかすごく動揺してた……あなたを怖がってたわ。あの子は悪くない……」苦しそうにあえいだ。「あなた、どうかしたんじゃない? すごく変よ」リビングを出て、廊下から告げた。「わたし、近所の人に電話してみる」

 父親もどきは母親のうしろ姿をにらみつけていた。ところが母親が見えなくなったところで、おぞましいことが起きた。チャールズは息を呑んだ。ペレッティすらもうめき声をあげた。

「見て」チャールズはささやいた。「あれ……」

「やっべえ」ペレッティは黒い目を見開いた。

 ミセス・ウォルトンの姿が部屋から見えなくなったとたん、父親もどきは椅子にくずおれた。体がぐにゃぐにゃになったのだ。口はだらっと開いたまま、見開いた目は何も見ていない。頭は前につんのめり、ちょうど捨てられたぼろ人形のようだった。

 ペレッティは窓から離れた。「そういうことか」彼はささやいた。「全部わかったぞ」

「どういこと?」チャールズはたずねた。ショックのあまり、まだ頭がぼうっとしている。「誰かが電源を切ったみたいだけど」

「そういうことだ」ペレッティはこわばった顔で身を震わせながら、ゆっくりとうなずいた。「外から操られてるのさ」

 チャールズの全身が恐怖に飲みこまれそうになる。「つまり、よその星から来た何かが操ってるってこと?」

 ペレッティは吐き気をこらえるように頭を振った。「この家の外だよ! たぶん庭だ。おまえ、ものを捜すの得意か?」

「そんなに得意じゃない」チャールズはなんとか話に意識を集中させようとした。「だけど捜し物名人なら知ってる」何とかその名前を思い出そうとした。「ボビー・ダニエルズだ」

「あの黒人のガキか? ほんとに捜すのがうまいのか?」

「あの子が一番だ」

「わかった」ペレッティは言った。「そいつのところへ行こうぜ。外のどこかにいるやつを見つけなくちゃ。そいつが〈あれ〉を送り込んだんだ。で、ああやって動かして……」



(この項つづく)


フィリップ・K・ディック「お父さんのようなもの」その4.

2009-10-28 22:49:56 | 翻訳
その4.

チャールズは熊手を取って樽の中に突っこみ、その残骸を動かしてみた。かさかさになっている。熊手がふれると破れてちぎれてしまった。ヘビの抜け殻のように、薄っぺらでぼろぼろになり、ふれるとがさがさと鳴った。ぬけ殻。中味はもうないのだ。大切な部分が。残っているのはこれだけ、このぼろぼろの、破れた皮膚だけが、ゴミの樽の底に丸まって転がっていた。父親もどきがこれだけ残していった。残りはあれが食べてしまったのだ。中味を食らいつくして、父親の代わりに収まったのだ。

 物音がする。

 熊手を捨ててドアに急いだ。父親もどきがガレージに向かって通路をやってくるのだ。〈あれ〉が砂利を踏む靴音がする。一定しない足取りだ。「チャールズ!」〈あれ〉が怒鳴った。「そこにいるのか? 逃げるんじゃないぞ! 捕まえてやる!」

 家のドアから明るい光を背に、こちらを気遣う母親のふくよかな影が現れた。「テッド、あの子にひどいことをしないでね。何かあって、ちょっと神経質になってるのよ」

「ひどい目になんか遭わせるわけがないじゃないか」父親もどきはかすれた声で言った。立ち止まってマッチを擦る。「やつとちょっと話をするだけさ。もう少し行儀っていうものを知っとかなきゃな。あんなふうに食事の場から飛び出して、夜だってのに外に出たり、屋根から飛び降りたりするなんていうのは……」

 チャールズはガレージから抜け出した。マッチの炎が彼の動く影をとらえ、父親もどきがわめき声をあげながら突進してきた。

「こっちへ来い!」

 チャールズは走った。ここの地形なら、父親もどきなんかよりぼくの方が詳しい。確かにあれはパパの中味を食べちゃったんだから、相当詳しくはなっただろう。だけど、ぼくほどここに詳しい人なんていない。チャールズは塀まで走ると、それを乗り越え、アンダースン家の庭に飛び降り、洗濯ロープの下を駆け抜けて、庭の小道を家に沿って回りこみ、メイプル通りへ出た。

 聞き耳を立てながら、うずくまり、息を殺す。父親もどきは追いかけてはこなかった。引き返したのだ。そうでなければ、歩道を通ってこっちへやってくるかも。

 一度ぶるっと身を震わせて、深く息をした。じっとしてちゃいけない。じきに〈あれ〉に見つかるだろう。右と左を見渡して、あれがこっちを見ていないことを確かめてから、死にものぐるいで走った。




「なんか用か?」トニー・ペレッティが喧嘩腰で言った。トニーは十四歳だ。ペレッティ家のダイニング・ルームにあるオーク張りの食卓に着いていた。本や鉛筆が散乱し、ハムとピーナツバターのサンドイッチの半分と、コーラが脇にのけられている。「おまえは確かウォルトンとかいったな」

 トニー・ペレッティは放課後、ジョンスン電気店でストーブや冷蔵庫の荷ほどきのアルバイトをしている。体格が良く、無愛想な顔つき、髪は黒く、肌の色も浅黒い。歯だけが白かった。これまでに数回、チャールズはペレッティにぶん殴られたことがある。この界隈の子供はみんな、一度や二度は殴られていたのだった。

 チャールズは身をよじって頼んだ。「ねえ、ペレッティ、お願いがあるんだよ」

「だからなんなんだよ」ペレッティはいらだたしげに言った。「おまえ、殴られたいのか?」

 暗い顔でうつむき、手を固く握りしめたままもぐもぐと、チャールズはこれまでにあったことをかいつまんで話した。

 話が終わるとペレッティは低く口笛を吹いた。「嘘だろ」

「嘘じゃない」チャールズはあわてて首を振った。「見せてあげる。ぼくについてきてくれたらわかるよ」

 ペレッティはゆっくりと立ちあがった。「ああ、見せてみな。どんなもんか見てやろう」

 ペレッティが自分の部屋からBB銃をとってくると、ふたりは黙ったまま、チャールズの家へ向かって暗い通りを歩いた。ふたりともあまり口を開かなかった。ペレッティは気むずかしげな顔で、物思いにふけっている。チャールズは、依然、恐怖のあまりにぼうっとした状態が続いていた。頭のなかが真っ白だった。



(この項つづく)

フィリップ・K・ディック「お父さんのようなもの」その3.

2009-10-27 22:35:32 | 翻訳
その3.


チャールズはうずくまって耳をそばだてていた。

 父親もどきが階段をのぼって、だんだん近くにやってくる。「チャールズ!」腹立たしげな〈あれ〉の怒鳴り声が響いた。「そこにいるんだろう?」

 チャールズは答えなかった。音のしないように自分の部屋に戻ると、ドアを閉めた。胸がドキドキする。父親もどきが踊り場に着いた。じき、この部屋にもくるだろう。

 窓のところに走った。恐ろしさで体がこわばりそうだ。〈あれ〉はもう廊下まで来ていて、暗い中、ドアのノブを手探りしている。チャールズは窓をよじのぼって屋根に出た。ひゅっと息を呑みながら玄関わきの花壇に飛び降りる。体勢が崩れ、痛みにうめき声が漏れたが、急いで立ちあがった。宵闇のなか、黄色い布を張りつけたような窓から明かりが広がっている。チャールズはその外へ急いだ。

 ガレージが見えた。暗い空を背に、四角い建物が真っ黒く浮かび上がっている。ぜいぜいと息を切らしながら、ポケットを探って懐中電灯を取り出した。音のしないように用心しながらドアを開け、なかに入っていく。

 ガレージは空っぽだった。車は表に停めてある。左は父親がふだん使っている作業台になっていた。かなづちやノコギリが木の壁にかけてある。奥には芝刈り機や熊手、シャベル、鍬が置いてある。灯油の入ったドラム缶。いたるところにナンバープレートが釘で留めてあった。床は粗いコンクリートで、真ん中へんには大きな油のしみがあった。油で黒ずんだ雑草が、懐中電灯のちらちらする明かりのなかに見えた。

 ドアのすぐ内側に、ゴミを入れる大きな樽がある。上の方に見えるのは湿気た新聞紙や雑誌の束で、カビが生えてずぐずぐになっている。チャールズが取り出そうとすると、強烈な腐臭が立ち上った。クモがセメントの床に落ち、一目散に逃げ出そうとする。チャールズはそれを足で踏みつぶし、なおも探し続けた。

 樽の中に現れたものを見て、チャールズは悲鳴を上げた。思わず懐中電灯を取り落とし、ぱっと後ろに飛びのいた。ガレージが闇に包まれる。無理矢理自分に膝をつかせて、闇の中、永遠とも思える時間、うようよするクモと油まみれの草のあいだに手を突っこんで、懐中電灯を捜した。とうとう見つかった。やっとの思いでその光を樽の中に向け、雑誌の束を引っ張り上げて現れた底を照らした。

 父親もどきが樽の底にそれを押し込んでいた。枯れ葉や裂けた段ボール、かびた雑誌の切れ端やカーテンなどの屋根裏のがらくた、母親がそのうち燃してしまおうと入れておいたゴミの奥に。それはまだ父親の面影を残していた。チャールズの目に、父親とわかるほどの。彼はそれを見つけた――眼前に現れたものを見ていると、吐き気がこみあげてくる。チャールズは樽につかまって、眼を閉じた。もう一度、ちゃんと見ることができるようになるまでしばらくかかった。樽の底にあったのは、父親の、本物の父親の残骸だった。父親もどきには用がなくなった切れ端、いらなくなって捨てた残り滓。




(この項つづく)



フィリップ・K・ディック「お父さんのようなもの」その2.

2009-10-25 22:16:35 | 翻訳
その2.


「ビーフ・シチューよ」ジューンは言い訳するように言った。「テッド、あなたあそこで何をしてたの?」

 テッドは自分の席にどさっと腰をおろすと、ナプキンを広げた。「剪定ばさみの刃がカミソリみたいになるまで研いでいたんだ。油をさしては研いで。さわっちゃ駄目だぞ――手がすぱっと落ちてしまうから」

 彼は三十代になったばかりのハンサムな男だった。金髪はふさふさとし、たくましい腕と器用な手先を持ち、角張った顔の茶色い眼はきらきらと輝いている。「おお、こりゃうまそうなシチューだな。会社が忙しかったんだ――なにしろ金曜日だろう。山積みの仕事を五時までに片づけなきゃならなかったんだ。アル・マッキンレーときたら、もしみんなが昼休みの時間もうまく使えるようになったら、うちの部も20パーセント仕事を余計にできるだろう、なんてことを言うんだからな。交替で休憩を取って、いつも誰かが仕事場にいるようにすればいい、だとさ」それからチャールズを手招きした。「こっちにおいで、坐って食事にしよう」

 ミセス・ウォルトンはグリーンピースをよそった。「テッド」自分の席にゆっくりと腰をおろしながら、言った。「何か気になることがあるの?」

「おれが何か気にしてるかだって?」彼は目をぱちくりさせた。「ないさ。何も変わったことなんてない。いつもどおりだ。なんでそんなことを?」

 ジューン・ウォルトンは不安げな目を息子に走らせた。チャールズは身をこわばらせて椅子に腰掛けている。表情を失った顔は、チョークのように真っ白い。ピクリとも動かず、ナプキンにもミルクにも、手をふれた気配がなかった。張りつめた空気がぴりぴりしているのが、ジューンにも感じられた。チャールズは椅子を引いて、父親から身を離そうとしている。緊張した小さなかたまりのように体を固くし、できるだけ父親から遠ざかろうとしていた。唇が動いているが、何を言っているのかわからない。

「どうしたの」ジューンは身を寄せてチャールズに聞いた。

「ちがう方だよ」チャールズが声を出さず、息だけで言った。「ちがうやつが来た」

「どういうこと?」ジューン・ウォルトンは声に出して聞いた。「ちがう方ってどういうこと?」

 テッドがぎくりとした。奇妙な表情が顔をよぎって一瞬で消えた。だが、その瞬間、テッド・ウォルトンの顔からは、確かにふだんの親しみやすさが消えてしまっていた。何か得体の知れない、冷たく光る、ねじくれ、のたくるかたまり。どんよりとした目は、奥へ引っ込み、古ぼけた光が覆っていた。ふだんの表情、くたびれた中年男の顔は、跡形もなく消え失せていたのだ。

 つぎの瞬間、元に戻っていた――ほとんどは。テッドはにやりと笑うと、シチューとグリーンピースとコーンのクリーム煮をがつがつと食べ始めた。ひんぱんに笑い声を上げ、コーヒーをかき回し、ジョークを言いながら食べた。だが、何かがひどくおかしかった。

「ちがう方だよ」チャールズが血の気の失せた顔でつぶやいた。手が震え始めた。いきなり立ちあがったかと思うと、テーブルからあとずさった。「出ていけ」と叫んだ。「ここから出て行け!」

「おい」テッドは殺気だった声を出した。「いったいどうしたっていうんだ」息子の椅子を有無を言わさぬ調子で指さした。「坐ってご飯を食べるんだ。せっかくママが作ってくれた料理を無駄にするんじゃない」

 チャールズはきびすを返してキッチンから飛び出し、二階の自分の部屋へ上がっていった。ジューン・ウォルトンは息をあえがせながら、おろおろして身を震わせていた。「いったいどうして……」

 テッドは食べ続けている。むっつりとして、厳しく暗い目をしていた。「あいつめ」耳障りな声だった。「もうちょっとしつけが必要だな。ふたりきりでじっくり話し合わなくては」




(この項つづく)



フィリップ・K・ディック「お父さんのようなもの」

2009-10-24 23:01:22 | 翻訳
今日からフィリップ・K・ディックの短篇 The Father-Thing" の翻訳をやっていきます。
一週間ぐらいの予定です。
原文は

http://www.wowio.com/viewer/reader.asp?nBookId=64&rnd=637.8786799485713

で読むことができます。
今日はすごくちょっとだけです(笑)。

* * *

お父さんのようなもの

by フィリップ・K・ディック


その1.

「夕ご飯の支度ができたわよ。パパのところへ行って、手を洗ってきて、って伝えて」とミセス・ウォルトンは息子に頼んだ。「あなたもよ、坊や」そう言いながら、湯気の立つキャセロールを、きちんと整えられた食卓に運んだ。「パパはガレージにいるでしょ」

 チャールズはなかなか動こうとしない。わずか八歳にして、古代ユダヤ教の指導者、ラビ・ヒルレルすらも頭を悩ませそうな難問を抱えていたのである。「ぼく……」とためらいがちに口を開いた。

「どうかした?」ジューン・ウォルトンは息子の声にふだんとちがう響きを聞き取った。はっと身を起こしたせいで、豊かな胸が揺れる。「パパはガレージにいるんでしょ? 少し前、植木ばさみを研いでたから。アンダースンさんのところにでも行った? そんなわけないわよね、すぐに用意はできるって言っておいたんだから」

「パパはガレージにいる」チャールズが言った。「だけど――自分としゃべってる」

「ひとりごとなんて言ってるの?!」ミセス・ウォルトンは明るい色のビニールエプロンを外して、ドアのノブにかけた。「テッドがひとりごと? 変ね、あの人はそんなことをする人じゃないのに。とにかく行って、呼んできてちょうだい」熱いブラック・コーヒーを小さな青と白の陶器のカップに注ぎ、コーンのクリーム煮をお玉でよそった。「どうしたの? パパのところへ行ってきて」

「どっちに言えばいいのかわかんない」チャールズはどうしようもなくなって、うっかり口をすべらせた。「そっくりなんだもの」

鍋をつかんでいたジューン・ウォルトンの手がすべって、危うくコーンのクリーム煮をぶちまけそうになった。「坊やったら――」怒ろうとしたところにテッド・ウォルトンが大股でキッチンに入ってきた。鼻をくんくんいわせながら、両手をこすりあわせている。

「これはこれは」うれしそうな声を出した。「ラム・シチューだな」


(この項つづく)

腰痛防止椅子

2009-10-23 23:22:11 | weblog
わたしは腰痛持ちで、気をつけないとすぐ腰が痛くなってしまう。こんなことを書くと歳だと思われてしまいそうだが、十四歳ぐらいから、坐り続けていると、じきに腰が信号を発し始めるのだった。

だから一時間ほどしたら、立ちあがって腰をひねったり伸ばしたりする。そうやって腰にかかっている負担を一時的に取ってやり、何とか血行をよくしようと努める。そんなふうに気をつけていれば、一気に来ることはないのだが、忙しくなったり、集中してやらなければならない仕事を抱えることになったりすると、基本的に非活動的なほうで、坐りっぱなしが全然苦にならないたちだから、ついうっかり根を詰めて、終わったあとで「イタタタ……」ということになる。

そこで、引っ越しを機に椅子を買ったのである。腰痛防止椅子、と銘打ってあり、膝を載せる台が、シートの下あたりについている。体重を腰にばかりかけるのではなく、膝をつくことによって分散させようという意図の下に設計された椅子なのだろうが、何だかハイテクっぽい形が一番気に入ったのかもしれない。

ただ、その椅子に坐ってみると、じきに膝が痛くなる。膝をずらしてみたり、膝をつくのをやめてみたり、痛くなると無意識のうちに体が動いているようで、ふと気がつくと、ずいぶん変な格好をしていたりする。やはり、集中し始めると、つい時間を忘れてしまうのが、一番の問題点なのかもしれない。

昔、誰だったか、ある作家が、坐って(というのは畳にじかに坐って、ということだ)仕事をしていたのが、やがて椅子と机で仕事をするようになった。そうなると、自分の書いたものが「腰掛け仕事」になってしまって気に入らない、とあった。

椅子と机で「腰掛け仕事」なら、ずっと立ってタイプライターを打っていたヘミングウェイはいったいどうなるというのだろう。結局はどのように坐るか、ではなくて、あくまでも自分がやった仕事に対する「実感」なのだろう。

大枚はたいて買った「腰痛防止椅子」なのだが、以来、ひどく腰をいためることもなく、なんとかここまで来た。気がつけば両足の膝小僧に、タコができてしまっている。やはり一時間おきの休憩に優る物はない、ということか。だが、どうやったら一時間おきに休憩が取れるのか。タイマーでも無視しそうな気がするし、誰か一時間おきに電話でもかけてくれないものだろうか。頼んでおいて、電話口で思いっきり不機嫌な声を出す可能性が高いのだが、それにも負けず、電話をかけてくれる人、どこかにいませんか。



"what's new" アップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

サイト更新しました

2009-10-22 23:24:29 | weblog
先日ここで連載していたロアルド・ダールの「発端と悲劇的結末」、「幕開けと悲劇的結末 ――ある真実の物語」と改題してサイトにアップしました。

タイトルの「genesis」をどう訳そうか、かなり悩んだんですが、なんとなく戯曲っぽい短篇ということもあって、「幕開け」にしました。

あと、アロイスの人物像なんですが、ちょっと本を読んでみたら、税関の職員で、中流階級のようなんです。ですから、ブログ掲載時の言葉遣いを改めました。どうも通説の「飲んだくれ」というのも、本当ではなかったようですが。

サイトにアップするまでちょっと時間がかかっちゃったんですが。
またお時間のあるときにでも読んでみてください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

ということで、それじゃ、また。

問題はゲームじゃない

2009-10-19 22:39:44 | weblog
先日"what's new ver.14"で、ブタのゲームのことを書いた。
ちょっとそこだけ。
以前、こんな遊びをしたことがあります。
「ぶう、これは豚が一ぴきです。ぶうぶう、これは豚が二ひきです。ぶうぶうぶう、これは豚が三びきです。ぶうぶうぶうぶう、じゃ、これは豚は何びき?」
この答えはわかりますか? 三びきです。
では、「ぶうぶうぶうぶうぶうだと、豚は何ひき?」
文字に書くとわかりやすいかもしれませんね。答えは二ひき。

「ぶうぶう」は答えとは関係はありません。質問者が「何ぴき」とたずねれば、それは「一ぴき」、「何ひき」と聞けば、「二ひき」、「何びき」と聞くなら「三びき」と応える、そんなルールがあるのです。

これにはバリエーションがいくつもあって、わたしが知っているだけでも「ブタが何匹?」のほかにも「良いチューリップと悪いチューリップ」「メンソレータム」などがある。このゲームがあるのは日本ばかりではないらしく、バーバラ・ヴァインの『煙突掃除の少年』にハサミを渡すゲームが出てくる。

このヴァインのハサミを渡すゲームについては、以前、「鈴木晶のウェブサイト」でもふれられていたことがあって、わたしはずっと、それはちがうんじゃないか、と思っていたのだ。今日はその話。

該当のものは、2007年12月23日付けのエントリである。
直接リンクが貼れないので、その部分を引用させていただく。
 さて、この小説(※ヴァインの『煙突掃除の少年』)の中に出てきたゲームは「I Pass the Scissors」というゲームで、たぶん著者の考案したものではなく、実際にあるゲームであろう。ハサミを使う。数人が輪になってすわり、ハサミを次々に隣の人にわたす、というだけのゲームである。ハサミを受け取った人は、ハサミを開いて、あるいは閉じて、次の人に渡す。そのときに「私はハサミを開いて渡す(これを「クロス」と呼ぶ。ハサミを開くと、十字架の形になるからだ)」あるいは「閉じて渡す」と宣言する。問題は、その「開いて」と「閉じて」は、ハサミが開いているか閉じているかとは関係がないということだ。初心者はルールを知らないから、ハサミを開いて隣りに渡し、「私はハサミを開いて渡す」と宣言し、まわりから「まちがい!」と指摘されるのである。つまり、初心者は、何が「開いて」であり何が「閉じて」であるかについてのルールを発見しなければならないのである。
 ネタバレになるが、ハサミが開いているか閉じているかは重要ではなく、ハサミを渡すときに脚を開いているか閉じているかによるのだ。小説の最後のほうで、このルールをすぐに見抜いてしまう青年が出てくるが、それまでは、新たにこのゲームに加わった人は残らず、最後までルールがわからない。
 本来、ゲームというのは参加者全員がルールを知っていることを前提にしているのであるから、この「ハサミを渡す」というゲームは、本来のゲームではない。ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである。好意的にいえば、ルールを知らない者がいかにそのルールを発見できるかを見守る遊びである。
 だからこのゲームは、その場にいるほとんど全員がルールを知っていて、それよりも少数の人がルールを知らない場合にのみ、おこなわれる。全員がルールを知っていたら、意味がないし、反対に、ひとりだけルールを知っている場合は、ゲームができないわけではないが、そのルールを知っているひとりがみんなからの敵意の的になる。
 すでにおわかりのように、これはある小さな共同体が侵入者をからかい、屈辱感を与え、排除するためのゲームである。
Sho's Bar 2007/12/23)

このあとに、「メンソレータム」という遊びも「これとまったく同じ意図にもとづくゲームだった」とある。この意図というのは、「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである」ということを指しているのだろう。

おそらく鈴木さんはこのゲームをリアルタイムで、つまり、子供時代に遊びとしてなさったことはないのだろう。実際にやってみれば、こんな感想は出てこないのではないだろうか。

わたしがブタのゲームを知ったのは、中学生のときだった。確か教育実習生との交流会で、大学から来た実習生が教えてくれたのだ。そのときはブタだったのだが、のちに「良いチューリップ、悪いチューリップ」や「メンソレータム」も知った。それからのちに、わたしは塾で小学生や中学生を相手に、この遊びをやってみせたこともある。いずれのときも、最初こちらが何度かやってみせると、早めにわかった子がわからない子に対して「ぶうぶう、これはなんびき?」とヒントを出し始めるので、じきにいくつもの小グループができて、あっちこっちでぶうぶうとやかましくなる。つまり、これだけのことでも盛り上がるし、
「なあんだ、そういうことだったのか」
「え?わかんない。何で?」
「わかんない? じゃ、今度はわたしがやってみるね。ブタがいます、ぶうぶう……」
と、わかった子がわからない子に向かってやってみたくなる楽しい遊びなのだ。

いつでも単に「ルールを見つける遊び」だった。まちがっても「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうため」のような意地の悪い、さらには「小さな共同体が侵入者をからかい、屈辱感を与え、排除するためのゲーム」ではなかった。

規則性の発見というのは、パズルにもよくあるし、数学の問題にも出てくる。昔からわたしはそのたぐいのことが大好きで、得意な方でもあったので、よけいにそんな感想を持つのかもしれないのだけれど、それがどうして「屈辱感を与え」るとまで言われなければならないのか、よくわからないのだ。

鈴木さんはこのように書いておられる。
 つまり、どちらのゲームも、「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリックなのである。初心者は必死に規則を見つけ出そうとする。だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。ルールを知っている者は、ゲームの範囲に関して、初心者にまず誤解を与える。前者であればハサミ、後者であれば指でなぞるという行為が「ゲームの範囲」であると思い込ませる。だから、そのゲームの範囲の外に、本来のゲームの範囲があることを発見すれば、初心者の勝ちなのである。

確かにその通りだ。「ぶう」の数とブタの数のあいだに因果関係が成立していると思っている限り、決して「ぶうぶうぶうぶうが何びき?」という質問には答えられない。けれど、たいていの人は、何度か質問を聞いているうちに「何びき?」と聞かれるときと、「何ひき?」と聞かれるとき――親切な質問者なら「何ぴき?」と聞いてくれるかもしれない――があることに気がつくはずだ。ひょっとしたら、先に気がついた友だちが、隣でそっとヒントを耳打ちしてくれるかもしれない。

そうして、いったんこの「範囲の外の範囲」があると気がつくと、つぎの「良いチューリップ・悪いチューリップ」の「いい?」という確認や、メンソレータムで親指が立っているかいないか、など、わりと楽に気がつくことができるはずだ。ちょうど、ひと組のふたごの見分けがつくようになったら、ほかのふたごも比較的簡単に見分けられるように。

逆に、この遊びの一番おもしろいところは、答えがわかった瞬間に、自分が勝手に「ゲームの範囲」を決めていたことに気がつくところでもある。わからなければわからないほど、その人は自分の見方に縛られているともいえる。ああ、自分はいままでなんてかたくなな見方をしていたのだろう、と規則を見つけた瞬間に、はっと気がつくのだ。

先日、体調を崩して、頭が痛くて本も読めなかったので、『ザ・ホワイト・ハウス』のDVDを毎日見ていた。1999年のドラマだし、日本でも放映されたらしいから、いまどき『ザ・ホワイト・ハウス』でもないのだろうけれど、世間から遅れているわたしのところには、やっといまごろ届いた、と思ってください。ともかく、第一シーズンを見終えて、いったい誰が撃たれたのだろうと、いまドキドキしているところだ(笑)。

そのなかにこんなエピソードがあった。
大統領であるマーティン・シーンがこんなたとえ話をするのだ。

台風が来て、洪水が迫っている。ラジオで避難警報が流れた。だがある人は、ふだんから教会にも通い、お祈りも欠かしたことがない自分は、神がかならず守ってくれる、と避難しようとしない。つぎに近所の人が、一緒に避難しましょう、と誘ってくれた。だが、神が守ってくれると信じている人はそれも断った。さらに、災害パトロールがやってきて、避難を勧告した。それでもその人は断った。洪水に巻き込まれて天国に行ったその人は、神に「どうして自分を助けてくれなかったのか」と文句を言った。すると、神は「三度も助けを与えたのに、おまえこそどうしてその助けを拒んだのだ」と言った。

「助け」というのは、自分が期待しているかたちで与えられるとは限らない、というのがこの話のポイントなのだが、「自分が思っていること」を自分で決めてしまうことの問題点、と考えていくと、このゲームも同じものであるといえる。

ゲームが「共同体から侵入者を排除するため」のものだとすると、大統領のたとえ話に出てくる神様も、ずいぶん意地の悪い神様ということになってしまう。

ゲームが人を排除するのではない。「排除しよう」という意図がある人には、ゲームだって何だって、その道具になるということだけだ。

確かにわからない人は腹が立つかもしれない。自分一人、最後までわからなかった人がひどく怒っていたのを見たこともある。けれど、わからなかったのは、規則性を問う問題が解けなかったことと一緒。自分が自分の決めた「範囲」にとらわれていた、ということだ。