陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「静寂よ、叫べ」 byフレドリック・ブラウン 後編

2012-05-31 22:35:25 | 翻訳
(承前)


 私はあっけにとられて相手の顔を見た。だが、頭がおかしいようには見えない。はるか遠くから汽笛の音がかすかに聞こえてきた。私は口を開いた。
「言っている意味がよくわからないな」

「ベンチにすわってるあの男は」と駅員は言った。「ビル・マイヤーズっていうんです。やつは自分のかみさんを殺したんです。かみさんと使用人を」

 駅員の声はずいぶん大きくなっていた。私はいやな気持ちになった。汽車がもっと近くに来ていればいいのに。ここで何が起ころうとしているのかわからなかったが、汽車の中にいる方がましなことだけはわかっていた。目の隅で、背の高い、ごつい顔と大きな手の男のようすをうかがった。相も変わらず、線路の向こうにじっと目をやっている。いささかも表情を動かす気配がない。

 駅員が言った。「お客さん、ことの次第をお話しましょう。ぼくはね、この話をひとにするのが好きなんです。やつのかみさんはぼくのいとこでね。気だてのいい女でした。マンディ・エパートってのが、あのスカンクと一緒になる前の名前でね。やつはいとこに辛くあたったんだ。そりゃ、ひどかった。無力な女に男がどれほどひどい扱いをするものか、見当がつきますよね?

「愚かとしか言いようがないんですが、いとこがやつと結婚したのは、まだ17のときでした。そうしてこの春、二十四で死んだんです。やつの農場で、たいていの女が一生のあいだに働く分を超えるほど働いて。なのにやつはいとこを馬みたいに働かせて、奴隷みたいな扱いをしたんです。いとこは信仰があるせいで、離婚どころか別居さえできませんでした。それがどんなことだかわかってもらえるでしょう? お客さん」

 私は咳払いをしてはみたものの、何も言うべき言葉が見つからなかった。駅員はあいづちも感想も期待していないらしい。彼は先を続けた。

「となると、いったい誰がいとこを責められるもんでしょうかね、お客さん。まっとうで品のある、自分と年相応の若い男に思われて、自分も相手のことを大切に思うようになったとしても。ただ、思っただけなんです。たったそれだけなんだ。この首を賭けてもいい。なにしろぼくはいとこのことをよく知ってるんだから。もちろんふたりは話をしてたし、お互いをじっと見つめたりしてました。そりゃね、キスのひとつもしたことがないとは、断言できません。だけど、それがために殺されなけりゃならないような仲じゃなかったんです」

 何とも薄気味の悪い思いになってきた。早く汽車が来て、ここから私を救い出してくれればよいのに。しかも私は何かしら言わなければならないらしい。駅員はそれを待っている。私は口を開いた。

「仮にそんなことがあったとしても、復讐なんてことが許された時代は、はるか昔だよ」

「その通りです、お客さん」どうやら私は正鵠を射たらしい。「でもね、あそこにすわってるクソ野郎は何をしたか知ってます? やつは耳が聞こえなくなったんです」

「えっ?」

「耳が聞こえなくなったんですよ。町へ出て医者のところへ行って、このところずっと耳が痛かったんだが、もう何も聞こえなくなってしまった、と言ったんです。このまま聞こえなくなってしまうんだろうか、ってね。で、医者は薬をいくつか試してみましょうって渡したんですが、やつは診療所を出てからどこへ向かったかわかりますか?」

 推測などまっぴらごめんだった。

「保安官のところです」と駅員は言った。「保安官に、家内と使用人が行方不明になったことを報告したい、って言ったんです。なんとね。なかなか知恵がまわるじゃないですか。そう思いませんか? 宣誓して告訴状を出してもらい、もし二人が見つかったら訴えてやりたい、と言ったんです。ところが難儀なことに、保安官からの質問はどうやっても聞こえない、ときた。保安官はわめくのに疲れてしまって、筆談に切り替えました。たいしたもんだ。何が言いたいかわかりますよね?」

「よくわからないな」私は言った。「奥さんは家を出たんだろう?」

「やつが殺したんです。使用人の男もね。っていうか、そのときは殺しつつあったんだな、ふたりを。二週間かそこら、かかったはずです。発見されるまで一ヶ月かかった」

 駅員の顔がこわばり、怒りのあまり顔が黒ずんでいた。

「燻製室の中で」駅員は言葉を続けた。「コンクリート造りのできたばかりの燻製室で、まだ使われていませんでした。ドアの外側に、南京錠がかかっていました。ふたりの死体が発見されたあと、やつが言うには、一ヶ月ほど前、農場の見回りをしたんだそうです。そのときには南京錠はかかってなくて、ただフックにひっかけてあるだけで、掛けがねにもかかってなかったんだそうです。

「いいですか? やつは南京錠がなくなったり、持って行かれたりするといけないから、って、掛けがねをおろし、錠をかけてしまったんだ、と」

「それはひどい」と私は言った。「中にはふたりがいたんですね? ふたりは餓死した、と?」

「渇きの方が致命的なんだそうですよ、水も食料もないときにはね。実際、ふたりはどうにかして外に出ようとしたんです。男はコンクリートのかけらをぐらつかせて取り出して、それでドアを半分、削っていました。なにしろ厚いドアだったものでね。ふたりは叫んだでしょう。そりゃドアも叩いたことでしょう。お客さん、ドアのすぐ近くで生活していて、日に二十回もその前を行き来する男の耳が聞こえなかったとしたら、音っていうものは存在するんでしょうかね?」


 駅員はまた、おかしくもなさそうな含み笑いをした。「汽車はじき、来ますよ。汽笛が聞こえてたでしょう? 給水塔のところに停まります。ここまで十分もしたら来るでしょう」それから語調をまったく変えることなく声だけを張り上げて、駅員は言った。「かわいそうな死にようでしたよ。仮に、ふたりを殺すことに正当な理由があったとしても、あんなことができるのは、心底、邪悪なやつだけだ。そうじゃないですかね?」

 私は口を開いた。「だが、ほんとうにあいつは……」

「耳が聞こえないか、って? そうですよ、やつは何にも聞こえない。あいつがあの部屋のかんぬきのかかったドアの前に立って、中からドアを叩く音を、叫び声を、あの聞こえない耳で聞いているところが目に浮かぶじゃありませんか。

「ええ、もちろんやつは耳が聞こえなくなってるんです。だからこそ、こうやってぼくがやつにあらいざらいぶちまけることだってできる。仮にぼくが思い違いをしていたとしても、やつには聞こえやしませんからね。ところがやつには聞こえてるんですよ。ここへ来るのも、ぼくの話を聞くためなんだ」

 私は聞き返さずにはいられなかった。「どうして? なぜやつは――君の言うことが正しいのなら……」

「ぼくがやつに力を貸してやってるからですよ。やつがあの燻製室の天井からロープをつるしてぶらさがる決心がつくように、背中を押してやってるんです。やつにはまだそこまで覚悟はできてない。だから毎日町に来ては、プラットフォームのベンチに腰かけて、しばらく休んでるんです。だからぼくはやつに教えてやるんだ。おまえがどれほど邪悪な人殺しか、ってね」

 彼は線路に向かってぺっと唾を吐いた。それからふたたび話し始めた。「ほんとうのことを知っている者も、何人かいます。保安官じゃありません。保安官はぼくらの言うことなんざ、聞いてくれやしません。証拠が何もないじゃないか、って」

 背後で地面をこするような音がして、私は思わず振り返った。大きな手といかつい顔だちの男が、立ち上がろうとしているところだった。私たちの方に目をやろうとはしない。階段から目を離さなかった。

 駅員が言った。「やつはもうじき首をくくりますよ。すぐです。そうでもなきゃここへ来て、あんなふうにじっとすわるなんてことがありますか。お客さん、そうじゃありませんか?」

「ほんとうに」と私は言った。「耳が聞こえなかったら、話は別だがね」

「確かにそうです。ほんとうに聞こえない可能性もないことはありません。でもね、言ったでしょ。仮に木が倒れたとして、その近くにいたたったひとりの男の耳が聞こえなかったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。となると、その音はしたんでしょうか、それともしなかったんでしょうか。さて、と。ぼくは郵袋の支度をしておかなきゃ」

 私は振り向いて、駅から遠ざかってゆく背の高い男の姿を見つめた。重い足取りで、体同様に大きな肩を、心なしか丸めるようにしていた。

 一ブロック先の塔の時計が、八時の鐘を鳴らし始めた。

 背の高い男は手首を上げて、腕時計を見た。

 かすかな身震いが私の内側から起こった。確かに、偶然かもしれない。だが、冷たいおののきが私の背骨を走っていった。

 汽車が入ってきて、私は乗り込んだ。



The End



「静寂よ、叫べ」 フレドリック・ブラウン

2012-05-21 22:36:07 | 翻訳
アメリカのショート・ミステリをひとつ翻訳します。中学生の頃、すっごく好きな話で、どこかで原文が見つかればいいなあ、と思っていたら、見つかったので。
ごくごく短いものなので、二日で訳せたらいいなあ、なんて思ってます。





Cry Silence

(「静寂よ 叫べ」)



by Fredric Brown


 例の音にまつわる昔ながらのくだらない議論だった。聞く人もない森の中で木が倒れるときは、音もなく倒れるのだろうか。聞く耳のないところに音は存在するのだろうか。私は大学教授がこの議論をしていたのを耳にしたこともあれば、道路を掃除している男たちが話し合っているのを聞いたこともある。

 今回議論していたのは、小さな駅の駅員とつなぎの作業着姿の太った男だった。なまあたたかい夏のたそがれ時のことで、プラットフォームに面した裏手の窓が開いており、駅員はその窓枠に肘をのせ、くつろいでいる。太った男は建物の赤レンガにもたれていた。ふたりの間で議論は、ミツバチがブンブンいいながら円を描いて飛ぶような調子で、だらだらと続いている。

 私は三メートルほど離れた木のベンチにすわっていた。見知らぬ土地で、遅れている電車を待っている。もう一人、男がいた。同じベンチに私と並んで、窓に近い側に腰を下ろしていた。背の高い、がっしりした体つきの、いかつい顔の男で、大きくて毛むくじゃらの手をしている。都会風の身なりをした農夫に見えた。

 議論にも男にも、興味は湧かなかった。気にかかることはただひとつ、いまいましい電車がどれくらい遅れるのか、そのことだけだった。

 私は腕時計をはめていなかった。街で修理に出していたのである。私のすわっている場所からは、駅舎の中にある時計が見えなかった。隣の背の高い男は腕時計をしていたので、いま何時ですか、とたずねた。

 男は返事をしない。

 その場の情景がわかってもらえただろうか。私たちは四人。プラットフォームに出ているのが三人と、窓から身を乗り出している駅員である。議論は駅員と太った男の間で交わされている。ベンチには黙ったままの男とこの私。

 私はベンチから立ち上がり、開いたドアから建物の中をのぞいた。七時四十分。電車は十二分の遅れだ。私はため息をつくと、タバコに火を点けた。議論に鼻を突っこむとするか。いらぬおせっかいにはちがいないのだが、私はその答えを知っているし、彼らはそれを知らないのだから。

「差し出口をして申し訳ないが」と私は口を開いた。「あなたがたの意見が食い違っているのは、音の問題じゃないんだよ。議論してるのは意味論の問題なんだ」

 きっとどちらか一方が「意味論」とは何かと聞いてくるだろうと待ちかまえていたところ、駅員の言葉は予想外のものだった。彼はこう言ったのだ。

「そいつは言葉の学問のことでしょ? 確かに、ある面ではそういうことでしょうよ」

「全面的にそういうことだよ」と私は引かなかった。「『音』という言葉を辞書で引くと、二種類の意味が載っている。ひとつは『一定の範囲内における媒体、通常は空気などの振動』。もうひとつは『その振動によって生じた波動を聴覚器官が感じ取ったもの』ということだ。実際にその通りに書いてあるわけじゃないが、だいたいのところ、そういった意味なのさ。ってことは、最初の定義によれば、音は、つまり振動は、あたりにそれを聞く耳があろうがなかろうが存在する。だが、もうひとつの定義では、振動は、それを聞きとどける耳がないところでは『音』とはいえない、ということだ。つまり、おふたりさんはどちらも正しい。『音』という言葉に、どちらの意味を持たせるかってことなんだな」

 太った男が言った。「なるほど、もっともだな」そうして駅員を振り返った。「こいつは引き分けってことにしようや、ジョー。そろそろ家に帰らなきゃ。じゃあな」

 男はプラットフォームからおりて、駅の向こうへ歩いていった。

 私は駅員に聞いた。「電車のことで何か報告は届いてないか?」

「何も」駅員は答えた。それから窓にいっそう身を乗り出して右の方向を見やったので、わたしもそちらに目をやると、一ブロックほど先に、時計つきの塔が見えた。わたしはそれまで気がつかなかったのだ。「もうじき来ることになってます」

 駅員はにやりと私に笑いかけた。「音の専門家、ってとこですか?」

「うーん」と私は言った。「ちょっとちがうな。たまたま辞書で調べたことがあったんだ。それで、言葉の意味を知ったのさ」

「なるほどね。でもね、さっきの二番目の定義でいくと、音ってものはそれを聞く耳があってこそ、音なんですよね。で、木が森の中で倒れたときに、耳の聞こえない人間しかそこにいなかったとします。そのときは、音はあるって言えるんですかね?」

「ない、と言えるんじゃないかな」と私は言った。「音を主観的なものと考えるなら、存在しない」

 何の気なしに右を見ると、背の高い男が目に入った。先ほど時間を聞いても答えなかった男だ。彼は依然としてまっすぐ前を向いている。いくぶん声をひそめて、私は駅員に聞いてみた。「耳の不自由な人なのかい?」

「あの男ですか? ビル・マイヤーズのこと?」駅員は含み笑いをもらしたが、その笑い声にはどこかしら奇妙な響きがこもっていた。「お客さん、そいつが誰にもわからないんですよ。だからこそ、これからお客さんに聞こうと思ってたんだ。森の中で木が倒れます。男がそこにいるんだが、そいつの耳が聞こえるかどうか、誰にもわからない。となると、音は存在するのか?」

 彼はずいぶん大きな声でしゃべっていた。私はあっけにとられて駅員をまじまじと見た。頭が少しおかしいんだろうか。それとも議論にばかげた穴を見つけて、なんとか続けようとしているだけなのだろうか。

 私は言った。「もし誰も彼の耳が不自由かどうかわからないのなら、音があったかどうかもわからないわけだ」

 すると駅員はこう言った。「そりゃちがいます、お客さん。そいつはおそらく自分が音を聞いたかどうかはわかってるんです。たぶん、木の方だって、わかってるんじゃないかなあ。おまけにほかの人間にだってわかってるんだ」

「肝心なところがよくわからないんだが。君は何を明らかにしようとしているのかね?」

「人殺しですよ。お客さん、あんたいままで人殺しの隣にすわってたんだ」



(この項つづく)


履歴から何がわかる?

2012-05-16 23:51:55 | weblog
以前、図書館で借りた本がもう一度読み直したくなったのだが、タイトルがわからない。書庫からわざわざ出してもらったことだけは覚えていたので、書架で探しようがないことはわかっていたから、所蔵図書検索に思いつく限りのタイトルを入力してみたり、それとおぼしい出版社と分類番号で検索してみたり、と手を尽くしてはみたのだが、どうやってもわからない。

仕方がないので司書さんに貸し出し履歴を調べてもらおうと頼んでみた。すると「履歴はありません」という。返却が終わると、その貸し出し記録は抹消することになっているのだと。

やれやれ、である。個人情報はここでも十分に保護されているというわけだ。

その昔のディヴィッド・フィンチャーの「セヴン」という映画では、犯人割り出しの決め手になったのが図書館の貸し出し履歴だった。猟奇的な本や、確かニーチェや『わが闘争』などもリストにあったかと思うのだが、そんな本ばかり借りている人間のリストから、容疑者が絞り込まれていったのだ。映画の中で、司書は、こんな情報を外部に漏洩させてはならないのだが、と言いながら、こそこそとブラッド・ピットにリストを渡していたが、それを見ながら、わたしも気をつけよう、と思ったものだった(いったいどんな本を読んでいるのだ……)。それが、いまのように貸し出し履歴が残っていないとすると、ブラッド・ピットもモーガン・フリーマンもお手上げではないか。

ところで、貸し出し履歴から容疑者を割り出すことができる、という考え方の背景には、「その人が読んでいる本を見れば、その人がわかる」という思想があるのだろうが、ほんとうにそんなことが言えるのだろうか。

だが、こういう発想というのは、「残虐なゲームばかりやっていると、思いやりの感情がマヒする」といった、どこまで根拠があるのかおよそ判然としない物言いと、五十歩百歩ではないかという気がしてならない。

宮沢賢治が好きな人は、心が純粋な人なのか。
被害者が残虐な方法で殺されるサイコ・ミステリを好んで読む人は、サディスティックな傾向の人なのか。

おいおい、人間はそんな単純なものではないでしょう、と言いたくなってしまう。おそらく現実には図書館の貸し出し履歴から容疑者を割り出すことは不可能だろうし、履歴を眺めても「その人がどんな人なのか」は浮かび上がってこない。

ところが、である。
Amazonから定期的に「おすすめ商品」のメールが届くが、なんでここまでわたしの好みを正確に把握しているのだろう(笑)と驚くばかりなのである。Amazonを通じて買った本や、クリックして内容を確認した本の履歴を元に推薦される「おすすめ」の本は、見事なまでに、わたしのほしくなる本か、そうでなければすでに持っている本なのである。恐るべし、Amazon。Amazonはわたしの好みを知っている。ということは、わたしのことをどこまで知っているのだろう? やはり購入履歴は「危険な個人情報」なのだろうか。

おそらくAmazonは、購入履歴から「わたしがどんな人間なのか」を割り出しておすすめしてくれているわけではあるまい(当たり前だが)。膨大なデータをもとに、購買パターンを分類し、購入者をそのパターンに当てはめ、そのカテゴリに分類されている本を順次紹介していっているだけなのであろう。

単に「購買パターン」に過ぎないものが、「○×△▽さんにおすすめの本があります」とメールで来ると、何だか自分のことを見透かされたような気がするが、それは錯覚にすぎないのだ。

その昔、『赤毛のアン』の主人公アンを、「ほんっと、読んでたらムカムカするぐらいイヤな女でしょ」と言って、周囲の「アン好き」たちを唖然とさせていた子がいた。彼女に言わせれば、アンというのは、騒々しくて傍迷惑で軽薄で自画自賛ばかりの、腹が立ってしょうがない主人公だというのである。なるほど、そう言われてみれば、そういう見方もできるんだ、と思うとおもしろかったが、おもしろかったのは、そんなふうに読むその子のことだった。

実際、人は読みたいように本を読むのである。確かにその人の「読み方」は、その人のある種の傾向、というか、感じ方の癖のようなものは教えてくれる。だが、それを「その人」全般に敷衍できるほど、人間は単純にはできていない。


ひっそりと再開

2012-05-15 22:54:35 | weblog
図書館で『教科書に載った小説』という本を見た。

菊池寛の「形」や芥川龍之介の「雛」など、わたし自身、国語の授業で教わった短篇もあったし、永井龍男や広津和郎など、遠い昔に読んだ話もあった。中学を卒業してお寺に修行に行く男の子とお母さんが旅館に泊まって、最後の晩餐に「とんかつ」を食べる、という話が三浦哲朗の「とんかつ」だったというのは、この本で初めて知った。おそらく国語の問題文で一部を読んだのが印象に残っていたのだろう。

いずれも読みやすい短篇ばかりで、書架の前に立ったまま、およそ半時間ほどで一冊全部を読んでしまったのだが、あらためて教科書に載るぐらいの短篇というのはおもしろいものだと思った。それぞれがいずれも独自の小説世界を構成していて、戦場を駆け抜ける猩々緋の後ろ姿も、他人の革靴に足を入れたときの気持ち悪さも、暗い灯りの中で浮かび上がるお雛様も、目の前に立ち上ってくるようで、しかもそれがちょうど昔の友人に会ったときのように、読んだ当時の記憶と一緒に、なんともいえない懐かしい、その頃のにおいのようなものと一緒によみがえってくるのだった。

昔読んだ本を不意に読みたくなる、という経験は、おそらく誰にでもあることなのだろう。だからこそこんな本の需要があるのにちがいない。だが、教科書に載っていた本なら、まだ探しようもあるのだが、こんな感じの話だった、とか、こんな登場人物が出てくる話だとか、ひどい場合には記憶にあるのがエピソードの断片のときすらある。だが、そのエピソードの断片が、もう一度全体の中で読み返したくて、わたしたちは隔靴掻痒の思いをするのである。

だが、わたしたちが生きていく限り、記憶というのは積み重なっていくものであり、さまざまに混じり合うものだ。ある場所へ、当時はまだ知っているはずのない人物と一緒に行ったように記憶していたり、記憶の中ではふたつの出来事がひとつに混ざり合っていたり。わたしたちは無意識のうちに「記憶の捏造」というやつをやらかしてしまう。

本でも当然そういうことは起こるもので、「教えてgoo」などのサイトでも、このような「記憶の捏造」をときどき見かける。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1404248.html

> 南の島(多分タヒチ?)が舞台で、
> 絵を書く人(多分ゴーギャン?)をモデルにして
> 書かれた小説。
>
> 確か題名に「ばなな」が付いていたと思うのですが、
> 見つかりません。

おそらくこれはモームの『月と六ペンス』と『バナナフィッシュにうってつけの日』のふたつを合体させてしまっているし、

ttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/7346527.html

> 数十年前に大学受験で読んだサマセットモームの「サミングアップ」の中に、
> 朝起きてコーヒーを飲みながらクッキーをつまむ時間は至福の時という
> 部分を覚えていたのですが、どの部分に出ているのかお教え下さい。

というのは「そんな箇所はない」というのが答えだ(実はこのあと気になって、『サミング・アップ』を一通り読み返してみたので、断言できる)。この人の記憶の中で、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』と合体したのではないか……とは思うのだが、真相は不明である。

もちろんわたし自身もこうした忘却、タイトルの取り違え、内容の捏造はよくあることで、内容のでっち上げまでやってしまうこともある。はなはだしかったのは、須賀敦子の『トリエステの坂道』のなかの「セレネッラの咲くころ」というエッセイだった。

作者が石川淳の「紫苑物語」という短篇をイタリア語に翻訳していたときのこと。「紫苑」にあたる花をイタリアではなんと呼ぶか、探していたちょうどそのとき、当時、すでに亡くなっていた夫の実家の菜園に、その「紫苑」=セレネッラが植わっていた、という話なのだが、わたしの記憶の中では、姑が連れて行ってくれたのは、一面、紫苑が咲き乱れる平原のような場所だったのだ。石川淳の、不思議な、不気味だからこそ美しい世界と、見渡す限り一面の紫苑(というのを実際にわたしは見たことがないのだが)が一緒になって、美しい映像となってわたしの脳裏には刻まれていたのだが、あるとき本を読み直してみて驚いた。平原ではなく、ただの家庭菜園で、そんな感動的なものではなく、日常のひとこまなのである。記憶違いもはなはだしい、というか、自分の中にある感傷癖が、須賀さんの質実剛健(というのが適切な形容ではないことは百も承知で、にもかかわらずわたしは須賀さんの文章を読むと、この言葉が浮かんできてしまう)な文章の前では、ひどく安っぽいものに思えてしまった経験だった。

けれども、そんなふうに記憶が捏造されてしまうというのも、ひとつの作品が、小説から離れ、読み手の中に生き始めるからでもある。記憶にとどまり、時間の中で発酵しながら、独自の変化を遂げていく小説たち。

それはそれですてきな「創作」とは呼べないだろうか。

というわけで、そんな風に「また読んでみたい」と思えるような本のことを書いたり、短編小説の翻訳をしていったりしたいと思います。

ぼちぼちと再開していきますので、どうぞよろしく。

これまでにものぞきに来てくださって、どうもありがとう。
コメントしてくださった方も、ほんとにありがとうございました。