陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

陰陽師的2007年占い

2006-12-31 22:34:23 | weblog
生まれた日の星回りがいったいその人にどのような影響を及ぼすのか、わたしには理解しがたいことがらである。わたしが産院で生まれたときはちょっとしたお産ラッシュで、同時に7人ぐらいの赤ちゃんが生まれたそうである。これでいくと、わたしと同じ運勢の人が、少なくともこの世には七人いるらしい。

わたしはあらゆる占いなどというものを信用していない。
それでも「占い」の効用というのは、ある程度、認めるのである。
かくて昨年「占い」なるものをでっちあげたところ、大変評判が良かったのである。それに気をよくして、今年もやってしまうのである。

一応12星座を規準にしてはいるが、まったく占星術には基づいていない。
「陰陽師的占い」と称しているが、陰陽道にも基づいていない。たんにわたしのHNが「陰陽師」というだけなのである。

それでもこのキーワードがあなたの2007年になんらかの役に立つかもしれない可能性はまったく否定しがたいわけではないかもしれないのである。何らかの参考にしていただければ大変に喜ばしいことなのである。


【牡羊座】2007年のキーワード:何についても自分の意見を持っていいというわけではない

小学校で「自分の意見を持ちましょう」と教わって以来、あなたまじめにそうしてきました。明日の天気にしても、晩ご飯のおかずにしても、芸能人Aと芸能人Bの離婚の原因にしても、イラク情勢の見通しについても、あなたにはそれぞれに意見があります。
ところが実はその教えは重大な欠陥があったのです。それには前提条件があったのです。意見を持つためにはそのことに関する知識と情報が不可欠です。それを欠いたところでの意見など、無責任なうわさ話の域を出ません。
そう考えていけば、意見を作っていくことは簡単ではないし、かならずしも何もかもに意見を持っている必要もないのです。そうしたなかで作り上げたあなたの意見は、おそらく何らかの意味を持っていくはずです。
となりのネコのミィちゃんが生んだ子猫の父親が誰かなど、あなたの意見を必要とはしていません。ミィちゃんさえ気にかけてはいないのですから。

【牡牛座】2007年のキーワード:空気を読んでいればいい、というものではない

もの柔らかな雰囲気のあなたがいると座はなごみ、集まりには欠かせない人という評判です。あなたには空気を察知する能力があり、相手が自分に何を求めているか、なんとなくわかるのです。それでも期待がわかれば、ついそれに応えてしまい、応えてしまえばそのことの評価がほしくなってしまいます。いつのまにか、それが目的になってしまうのです。そんなことをしていると、あなたがほんとうは何がしたかったのか、いつのまにかわからなくなってしまいます。
コミュニケーションは共同作業ですから、そこで「空気を読む」ことは必要です。それでも、あえて相手とちがうふうにふるまって、空気を乱すことがあなた自身のために必要な場合もあるでしょう。たまにそれで苦労を引き受けることになったとしても、コミュニケーションは一度かぎりのものではありません。たとえそれっきり終わりになったとしても、そういう人とはそれだけの関係しか作れなかったのだ、とあきらめることも必要です。
わたしは熱烈なタイガースファン(穏やかなタイガースファンのあなたのことではありません)と相対するたびに、向こうが空気を読まないのだから、なんでこちらが読む必要があろう、と思うことにしています。

【双子座】2007年のキーワード:かわいそうだからといって、その生き物や人に全員同情できるわけではない

とても優しいあなたは、傷ついた動物の話や不幸な子供の話を聞くと、涙を流さずにはおれません。ガゼルの親子に焦点を当てたドキュメンタリーなら、ライオンの狩りがうまくいかなければいい、と祈るし、逆にライオンの子供に焦点を当てたドキュメンタリーなら、狩りがうまくいって、ガゼルの肉にありつけたことに胸をなでおろします。
戦争報道にしても、動物のニュースでも、かならずそれはどちらかの立場に立った報道であり、見方です。わたしたちは同情に値する人や生き物みんなに同情することはできません。誰か、あるいはなにものかを「かわいそう」と思ったときは、そのことを思い出してください。

【蟹座】2007年のキーワード:早起きと「得」のあいだには何の因果関係もない

ことわざに「早起きは三文の得」というものがありますが、これがもし本当ならば、いまごろわたしは億万長者、は無理でも、相当な小金持ちになっているはずですが、実際はそんなことは全然ありません。
このように、わたしたちはふたつのできごとをつなげて因果関係の文脈に置きますが、風が吹いても桶屋が儲かることはありませんし(もしそうなら、いまごろショッピング・モールの約半分は桶屋が占めていることでしょう)、ネコが天気予報をやっているわけでも、ナマズが地震予知をやっているわけでもありません。わたしたちが「こうなったからこうなる」と思っていることの多くは、本来ならなんの関係もないふたつの出来事であるということを知りましょう。

【獅子座】2007年のキーワード:大切なことは無料ではない

儲け話はわたしたちの心をくすぐりますし、ただで何かがもらえるとなると、行列にも並ぼうか、という気持ちにもなります。ところがよく考えてください。そうまでして手に入れた無料のものを、あなたは本当に大切にしていますか? どうせタダだったのだから、とどこかで思っているはずです。
実は「お金を払う」ということを通して、わたしたちはその「もの」に、一種の投資をしているのです。だから、お金を払ったものは、その額に応じて、自分にとっての「大切なもの」となっていくのです。
タダで手に入るものは、けっしてあなたにとって大切なものにはなりません。
かといって、わたしがこのブログやサイトの有料化をもくろんでいる、というわけでは全然ないのですが、投資をするつもりで、あなたの時間を少し使って書き込みをしてください。そうすればこのサイトやブログがあなたにとってもっと有意義なものになるはずです、と思います、というか、そうなったらいいなあ、なんていうことをちょっと思ったりしているわけです。

【乙女座】2007年のキーワード:「幸福な出来事」があるわけではない

たいていの運勢には大吉とか幸運の星座などという文言がのっていますが、それは大きく誤っています。この陰陽師的占いではそんないい加減なことは決して書きません。
個々の出来事に幸・不幸があるわけではないのです。200ポンド手に入った、と喜んでいたらそれが息子が死んだことの補償金だったり(『猿の手』)、サッカーくじに当たったから好きな女性を監禁してしまったり(『コレクター』)、出来事のひとつひとつは「幸福」でも「不幸」でもないのです。
問題はその出来事を通して、あなたが何を感じるかであり、そこからどうしていくか、です。そうして、それが幸福か、不幸か、その最終的な判断ができるのは、あなたの人生が終わってからでしょう。要はさまざまな出来事をどれだけ感じることができるかであり、そうしてより多くを感じることができる人は結局、より幸福であるといえるのでしょう。
何に比較して「より幸福」と言っているかはあまりつっこまないように。いい加減なことを書くまいとすると、苦労も多いのです。

【天秤座】2007年のキーワード:「不幸な出来事」があるわけではない

あなたには「かわいそうなわたしの物語」はひとつもありませんか? もしないとしたら、あなたは大変賢い人です。自分に起こったことを、「不幸」と感じることなく来ることができるような知性をわたしも備えていたいと思います。
たいていの人は、たいがいひとつやふたつ、そういうものを持っています。なかには、なんで自分はこんなに不幸な星の下に生まれついたのだろう、と思っている人もいるかもしれません。
もちろん人は同じ条件の下に生まれるわけでもないし、それぞれの資質は異なっている。それでも、「幸福な出来事」があるわけではないように、「不幸な出来事」があるわけでもありません。自分がある出来事を不幸と感じるだけです。そうして、「かわいそうなわたしの物語」の困ったところは、その物語が「自己憐憫」を連れてくることなのです。少量の自己憐憫は、甘い蜜のようなもので、わたしたちの人生を生きやすいものにしてくれますが、多すぎる自己憐憫は、人をそこにからめとります。
「なんて自分はかわいそうなんだ」と涙を流すのは、一度だけです。二度繰りかえすと、そこから出られなくなってしまいます。そういうとき、「不幸な出来事」があるわけではないのだと思い出してください。

【蠍座】2007年のキーワード:自分がいつも正しいわけではない

あなたは、そんなことわかってるさ、と思っているでしょう。思っていますね。わたしにはわかるのです(自分がいつも正しいわけではない)。
にもかかわらず、わたしたちはそれを忘れてしまうときがあります。
それは、不正を目にしたときです。
電車の座席で靴のまま飛び跳ねている幼児を目にしたとき。
道一杯にひろがって、大声でくっちゃべりながら歩いているおばさんに前方をふさがれたとき。
公職にありながら、その職を利用して私腹を肥やしている官吏の報道を読んだとき。
わたしたちの正義感は刺激され、こんなことは許せない! という気持ちが全身を満たします。けれどもそういうときにこそ、このキーワードを思い出してください。わたしたちは、すべてを知っているわけではないのです。むしろ、わたしたちが知っているのは氷山の一角にも満たない、ものごとの断片でしかない。批判がしたくなったら、その前に、情報を集めること。そうなるに至った背景を知ること。十分に知って、自分の立場を離れて、それからでも批判は遅くありません。
ただ、自転車で二、三人轢いてやろうか、と思っていた道一杯にひろがったおばちゃんたちは、そのころにはいなくなってしまっているでしょうが。

【射手座】2007年のキーワード:たいていのことには「正解」などない

ことが終わって、ああすればよかった、こうすればよかった、と思うのはだれでも経験することですが、そうしなかったからこそ、そういうことが言えるのです。何かをする前は、自分が何をしようとしているのかさえ、はっきりとわかっているわけではありません。まして、それがどのような結果になるか、そんなことはだれにもわからないのです。
日々生きていく、ということは、問いさえはっきりしない問題をつきつけられて答えを出していくようなものです。問いさえはっきりしていないのですから、どこかに正解があるわけではない、ましてだれかが正解を知っているわけがないのです。
いかにも知っているかのように断言する太ったおばさんやおじさんが、知りもしないあなたのことをなんと言おうが気にすることはありません。もちろん、わたしが言うことも、気にする必要がないことにかけては一緒なのですが。

【山羊座】2007年のキーワード:違和感というものはいつまでも続くものではない

自分の名前を一度も不満に思わなかった人が果たしているのでしょうか。ちゃんと読んでもらえなかったり、平凡すぎたり、古くさかったり、逆に奇妙だったり、DQN臭かったり、たいていの人は自分の名前を一度や二度はおもしろくなく思ったことがあるはずです。ちょっと知恵のついた中学生は、親に反抗するときに「生んでくれと頼んだ覚えはない」と毒づきますが、「こんな名前をつけてくれと頼んだ覚えはない」と毒づかないのは不思議なことです。
自分の人生に一生影響を与え続けるのに、自分の意見が反映されない「命名」ということほど理不尽なものはないのかもしれません。それでもその名前で呼ばれ、その名前と馴染んでいくうちに、「名前」はあなたの抜きがたい要素になっていきます。
同じようにニックネームもあなたの意志とは無関係に与えられます。こんなニックネームなんて……と思ったとしても、多くの場合、命名者は親愛の情をこめて命名していることに変わりはありません。どうか大切にしてください。最初は違和感を覚えたとしても、大丈夫。そのうち慣れます。名前があなたの一部となるように、ニックネームはあなたのささやかな一部となっていくことでしょう。
それが不満なら、こころゆくまでカッコいいハンドルネーム/ペンネームを自分でつけてください。

【水瓶座】2007年のキーワード:いい人悪い人があらかじめいるわけではない

あなたは周りから「いい人」と評判です。
それでも「 * * さんっていい人だね」と言われて気をよくして、「どういうところが?」と聞いてみたら「高菜の漬け物をくれたから」と言われて、ガックリとしたことはありませんか?
「いい人/悪い人」の評価も、しょせんはその人にとって都合がいい人かどうかで、根拠というのも、自分に好意を示してくれるかどうかが規準になっているだけのことも少なくありません。蜘蛛からしてみれば、自分を踏みつぶさないでくれた大泥棒は命の恩人だし、絵師の家族にしてみれば、火事のときも自分たちを助けてくれるどころか、スケッチに余念のないお父さんは、極悪非道のクソ親爺です。
わたしたちは自分の立場からしか見ることができませんし、その意味で、自分の利害を離れて見ることもできないのです。なんていやなやつなんだろう、と思ったとき、そのことを思い出してください。いやなやつ、は、いまのあなたにとって、都合の悪い人であるにすぎません。そうしてその関係はいつでも変えることができるのです。

【魚座】2007年のキーワード:誰のアドバイスでも受ければよいというものではない

教えたがり、アドバイスしたがりの人はたくさんいますが、だれのアドバイスを聞いてもいいわけではありません。人は、自分がたまたまうまくいったそのやり方が、唯一のやり方と思ってしまいがちだし、アドバイスしたがる人が、かならずしも自分と相手のちがいをわきまえて言っているとも限りません。
不安なとき、迷っているとき、藁をもすがる気持ちでアドバイスを求めたくなるのも理解できますが、自分がすがろうとしているのが藁なのか、救命ロープなのか、ちゃんと見極めておくことが必要です。その人から、自分が学べるのか。そう思うことができる人のアドバイスならば全力で聞くべきだろうし、そう思えない相手なら、話半分に聞いておけばよいのかもしれません。
わたしの占いが当たれば、占い師になっているでしょうし、ここでこんなことを書いていることもないでしょう。


* * *

この一年、ブログ「陰陽師的日常」ならびに「ghostbuster's book web」をご愛顧くださいまして、ほんとうにありがとうございました。

いまどういうわけかホームページのサーバーの調子が不安定な感じなんですが、f59全体が不安定みたいです。見にくいかもしれませんが、時間を置いて試してみてください。

年明けは一月三日から再開いたします。
またよろしくお願いいたします。

みなさまにとって2007年がすばらしい年でありますよう。
こころから、だれか、あるいはなにものかに祈ります。

サイト更新しました

2006-12-30 23:01:39 | weblog
昨日までここに連載していた「殺し屋」、サイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

ふう、今日中になんとかアップすることができてやれやれです。
今日は忙しかったので、ちょっと後半、やっつけ仕事になっちゃいました。
そのうちちょっとずつ手を入れようと思っています。

「スーツを着た殺し屋」がお好きな方に。

今日、書こうと思ったことがあったんだけど、もう頭の中がぐだぐだです。
もうダメです。
明日、恒例(?)をアップしますので、お楽しみに。
あー、アイスクリームを食べよう。

目の話

2006-12-29 22:45:48 | weblog
今日、駅で若い女性とすれちがった。
その瞬間、この人を知っている、と思ったのだが、だれだったか思い出せない。
耳の内に声が聞こえてくる。呼気の混じる、少しくぐもった声。この声はだれだろう、だれだろう、と考えて、しばらくしてから気がついた。
歯科衛生士さんだ!
それにしても、これまで顔を合わせたときはいつも、顔がすっぽり隠れるマスクをつけていたのだから、実際よくわかったものだ。
あたりまえだけれど、いつものピンクの白衣(論理矛盾のような気がするが)ではなく、うしろでバレッタでまとめていた髪も肩に垂らし、ダウンジャケットにピンヒールのブーツで歩いていたのだった。

人の顔、というのを、わたしたちはいったいどんなふうに認識しているのだろう。

和辻哲郎は『面とペルソナ』という文章のなかで、こんなふうに書いている。
我々は顔を知らずに他の人とつき合うことが出来る。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をしてくれる。しかしその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語の表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきりと感じさせるほどの力強いものである。いわんや顔を知り合っている相手の場合には、顔なしにその人を思い浮かべることは決してできるものではない。絵をながめながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識に上る場合にも、その名とともに顔が出てくる。
(和辻哲郎「顔とペルソナ」『和辻哲郎随筆集』所収 岩波文庫)

『シラノ・ド・ベルジュラック』がおそらく元祖なのだろうけれど、映画などでもたまに容姿端麗ならざる主人公が自分の代役に、容姿端麗な友人を代役に立て……という話がある。昔からそういうのを見るたびに、それでだまされる人間がほんとうにいるのだろうか、ずいぶんご都合主義の展開だなあ、と思っていた。

『シラノ…』では、ロクサーヌはクリスチャンにすでに恋をしていて、いわゆる「恋は盲目」状態なのかもしれないのだけれど(ところでこの「恋は盲目」というクリシェ、これはほんとうなのだろうか。あばたもえくぼ、というのはわかる、というか、相手が好きだったら、そのあばたが愛おしいという心情は実によくわかるのだけれど、それはあばたが見えないという状態とは根本的にちがうような気がする)、ラブレターを読めば、文面から受けとる書き手の印象は、どう考えてもクリスチャンのそれとは一致しないように思う。ましてロクサーヌはシラノの従姉妹なのである。誰が書いたかわかりそうなものだ。

「言語の表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている」と和辻も言うように、読むということは、文章の向こうに人を思い浮かべることでもあるのだ。逆に、わたしたちが読んでもどうもピンとこない文章というのは、書き手の姿がうまく像を結ばない、ということでもあるように思う。

そうして、その漠然としたイメージが、実際に会ってみればぴたりと焦点を結ぶ。そういうことなのだと思う。そこにちがう人が現れても、焦点の結びようがないのだ。
そうしていったん焦点を結んだ相手の〈顔〉は、自分の内側にはっきりとした像として刻まれる。
たとえ会った回数は少なくても相手の(顔)は自分の内に刻み込まれ、思い起こすときも、胸の内で話しかけるときも、その(顔)が相手だ。
〈顔〉というのは、そのくらい大きいものなのだ。

そうしておそらくほとんどその人のことを知らなくても、たとえ顔の一部であっても何度も顔を合わせている人なら、部分から全体を補ってイメージを作り上げているのだろう。

このとき、その一部がどこでもいいわけではない。たとえば仮に、ほかがすっぽり隠れていて、口元から下だけが出るようなマスクをしている人がいたとしたら、おそらくそのマスクを取ってもわからない。

なぜ「目」なのだろう。
肖像画でもなんでも、わたしたちがまず見るのは目だろうし、描くときにも目は特別に意識される。慣れないうちは、どうしても目を大きく描いてしまうし、「画竜点睛を欠く」という言葉もある。
どうやら「目」というのは特別なものらしい。

微妙な表情が現れる器官。
笑いをかみ殺すことはできても、笑っている目はわかってしまう。
たとえ涙をこらえようとしても、流れる前で留まっていても、目はうるんでいる。
そのことを、わたしたちは経験から知っているからなのだろうか。

それともやはり、わたしたちがその器官を使って見ているからなのだろうか。
自分では見ることができない器官。
それはわたしの目。

(明日には「殺し屋」アップできると思います。お楽しみに)

カタログの話

2006-12-28 22:58:30 | weblog
いわゆる「活字中毒」と呼ばれるのが字さえ書いてあれば何でもいい、というタイプの人を指すなら、わたしはそれには当たらない。

これまでの人生で二度、手元に読むものが何もない、という悪夢のような経験を味わったことがあるが、それ以外にはいかなるときも読むものを準備し、本の残りを見て、途中で読み終えてしまったときのために予備まで準備する、「備えあれば憂いなし」を実践しているわたしであるから、「字なら何でもいい」という状態に陥ることがまずない、というだけなのかもしれないが。

ちなみに「備えあれば憂いなし」というのは、わたしのミドルネームというわけでは全然なく、どういうわけかほかのこと、にたとえば現金とか、米の残量とかにおいてはちっともこういうふうに頭が回らないのだ。しょっちゅうサイフの中に持ち合わせがない、という羽目に陥ってしまうのだ。もっともこれは単に貧乏なだけ、ともいえるのかもしれないが。

ともかく、たいていのとき、というか、ほとんどつねに「読むもの」がかならず手近にあるわたしなのだが、というか、豊富にあるにもかかわらず図書館にも通って、読みたい本、読むべき本は山のようにあるわたしなのだが、それとは別に、送られてくるカタログは目を通す。

なかでもL.L.Beanのカタログが好きで送ってくれるのだ。
カタログの写真というのは、実におもしろくて、見ていて飽きない。
まず、写真家の名前が記載されてはいないのだけれど、何度か見ていれば、なんとなくちがいがわかってくる。よくしたもので、好きな写真家、というのが出てくるのだ。

それからモデルにも好みが出てくる。こういう通販のカタログのモデルというのは、あまりモデルらしくない、というか、気合いが入った顔をしていない。撮っている場所も、ごく日常的な、自然を背景にしていても、「そこらへんの公園」といった感じなのだ。おそらく入念にそういう場所が選ばれ、演出されたさりげなさにはちがいないのだろうが、それをアメリカ人がモデルで、アメリカらしい背景を見ていると、なんとなく「こういった雰囲気」がこの国では「よし」とされているのだろうな、という感じも伝わってくる。

いつも不思議なのは、男のモデルは必ずポケットに手をつっこんでいることだ。
子供の頃、寒いときなどにちょっとでもポケットに手をいれようものなら、すぐ、転ぶと顔を打つ、とかなんとかと怒られたものだったので、どうもポケットに手を入れている人が気になってしょうがないせいかもしれないが、ともかく、ほんとうにびっくりするぐらい、男性モデルはポケットに手をつっこんでいる(お持ちの方は確かめてみてください。ほかのカタログではどうなんだろう)。ちなみに女性はつっこんでいない。
これはどういう意味があるんだろう。昔から気になっているのだが、未だにぴったりくる説明を思いつかない。アメリカでポケットに手なんかつっこんでたら、「李下に冠を正さず」なんてことを言われたりしないんだろうか。

ともかく、わたしはこのカタログをおくられてくるたびにすみずみまで丁寧に「眺めて」いるのだが、一番最近買ったのは、たぶん三年ぐらい前だったはずだ。そのときシャツを買って以来、買っていないはずなのだが、それでも毎月送ってくれるのはありがたいものだ、と思う。ただ、ここまですみずみまで見ていれば、送ってくれる側も送り甲斐がある、と思ってはくれないだろうか。

ヘミングウェイ 『殺し屋』 その4.

2006-12-27 22:46:07 | 翻訳
ふたりの男はドアから出ていった。ジョージはふたりがアーク灯の下を通って、通りをわたるのを、窓から見ていた。窮屈そうなオーバーに山高帽という格好のふたりは、寄席芸人のコンビにしか見えない。ジョージはスウィングドアを押して厨房に入り、ニックとコックのいましめを解いてやった。

「こんなことはもうこりごりですよ」コックのサムが言った。「二度とごめんです」

ニックは立ち上がった。口にタオルを噛まされたことなど生まれて初めてだった。

「まったく」ニックが言った。「冗談じゃねえや」せいいっぱいなんでもないふうを装った。

「やつら、オール・アンダースンを始末しにきたんだ」ジョージが言った。「オールが飯を食いに入ってきたら、ずどんと一発ぶっ放すつもりだったんだ」

「オール・アンダースン?」

「そうだ」

コックは両手の親指で口の両端を押さえていた。

「やつらはいっちまったんですね?」

「ああ」ジョージは答えた。「もう影も形もないさ」

「こういうのはたまんないですよ」コックが言った。「まったくご免被りますよ」

「あのな」ジョージはニックに言った。「オール・アンダースンとこへ行っちゃくれまいか」

「わかった」

「こんなこたあ放っておいたほうがいいんじゃないですかね」コックのサムが言った。「かかずらわらないほうが、よかありませんか」

「やめたきゃやめりゃいいさ」ジョージが言った。

「こんなことに巻きこまれたらどうにもならんですよ」コックは言った。「関わり合いにならんのに越したことはありません」

「オールのところへ行ってくるよ」ニックはジョージに言った。「どこにすんでるの?」

コックは顔をそむけた。
「若いもんは自分が何がやりたいか全部わかっとるつもりだからな」

「ハーシュんとこの下宿屋だ」ジョージがニックに言った。

「ひとっ走りいってくるよ」

戸外では、アーク灯がすっかり葉を落とした枝のあいだから明るい灯を投げかけていた。ニックは市電の線路沿いの通りを行き、つぎのアーク灯のところで路地に入った。三軒目がハーシュの下宿屋だった。ニックは階段を二段あがって呼び鈴を押す。女が戸口に現れた。

「オール・アンダースンさんはいますか」

「あの人に用でもあるの?」

「ええ、おいででしたら」

ニックは女のあとについて階段をあがり、廊下のはずれまで行った。
女がドアをノックした。

「だれだ」

「アンダースンさんに会いたいってお客さんがお見えですよ」女が言った・

「ニック・アダムズです」

「入ってくれ」

ニックはドアを開けてなかに入った。オール・アンダースンは服を着たままでベッドに寝転がっていた。昔はヘヴィー級のプロボクサーで、ベッドに体が収まりきらない。ふたつ重ねた枕のうえに頭をのせていた。ニックの方には目も向けない。
「何のようだ」彼は聞いた。

「ぼくはヘンリーの店にいました」ニックは言った。「ふたりの男が入ってきて、ぼくとコックを縛りあげて、あなたを殺すつもりだって言ってました」

口にしてみるとひどくばかげて聞こえる。オール・アンダースンは何も言わなかった。

「やつら、ぼくたちを厨房に押しこめたんです」ニックは続けた。「あなたが晩ご飯を食べに来たら撃つつもりだったんです」

オール・アンダースンは壁に眼を向けたまま無言だった。

「ジョージがぼくに知らせに行ったほうがいい、って」

「おれにはどうもできねえんだがな」オール・アンダースンは言った。

「どんなやつらだったかっていうとね」

「聞きたかねえな」オール・アンダースンは言った。壁をにらんだままだった。「教えてくれてありがとよ」

「お礼なんていいんです」
ニックはベッドに寝転んでいる大男を見ていた。

「ぼく、警察に行きましょうか」

「いや」アンダースンは言った。「そんなことをしても何にもならん」

「ぼくにできること、何かありませんか」

「何も。できることなんて何もないんだ」

「もしかしたら、こけおどしかもしれませんよ」

「こけおどしなんかじゃない」

オール・アンダースンは寝返りをうって壁に向かった。

「ひとつだけ確かなのは」壁に向かって話した。「おれが外に出ていく腹が決まらないってことなんだ。一日中こうしてる」

「町を出ることはできないんですか」

「ああ」オール・アンダースンは言った。「おれはもう逃げ回るのにうんざりしちまったんだ」
彼は壁を見つめていた。
「もう打つ手はなくなっちまった」

「なんとかやりなおすことはできないんですか」

「ダメだ。ヘマをやっちまったんでね」同じ平板な調子で続けた。「どうしようもない。腹が決まったら、出ていくことにしよう」

「ジョージのところに戻ったほうがよさそうだ」ニックは言った。

「じゃ、な」オール・アンダースンは言った。ニックの方に目をやることもなかった。「わざわざ足を運ばさせてすまなかったな」

ニックはそこから出た。ドアをしめようとして、オール・アンダースンが服を着たまま横になり、壁を見つめているのが見えた。

「一日じゅう部屋にこもってるんですよ」下宿屋のおかみさんが階段を下りたところで言った。「具合が悪いんじゃないかしら。わたし、言ったのよ。アンダースンさん、こんなに気持ちのいい秋の日なんだから、外に出て散歩でもなさいな、って。だけどそんな気にはなれないご様子だったの」

「あの人は外に行きたくないんです」

「気分が悪いなんてお気の毒」女主人が言った。「とってもいい方なんですよ。もうせんにはリングにあがってらしたんですってね」

「そうらしいですね」

「顔を見ただけじゃそんなことはわからないわよね」女主人は言った。ふたりはドアの内側で立ち話をしていた。「たいそう優しい人なんですよ」

「じゃ、おやすみなさい、ミセス・ハーシュ」ニックは言った。

「わたしはハーシュじゃないの」女が言った。「ハーシュさんはここの家主。わたしはここの面倒をみてるだけ。わたしはミセス・ベルよ」

「じゃ、おやすみなさい、ミセス・ベル」ニックは言った。

「おやすみなさい」女が答えた。

ニックは暗い路地を抜けてアーク灯が照らす角までもどり、そこから線路沿いに「ヘンリーの店」に戻っていった。ジョージは店の、カウンターの向こうにいた。

「オールには会えたかい」

「うん」ニックは言った。「部屋にいて、出ていくつもりはないんだってさ」

ニックの声を聞きつけたコックが厨房の戸を開けた。

「そんな話は聞くのもごめんですぜ」そういうと、ドアを閉めた。

「あのことは話したのか」ジョージが聞いた。

「もちろん。だけどなにもかもわかってるんだってさ」

「どうするつもりなんだろう」

「どうもしないんだよ」

「殺されちまうぞ」

「そうだろうね」

「たぶんシカゴで面倒なことになったんだな」

「そうだろうね」

「えらいことだな」

「ほんとにそうだね」

ふたりはしばらく黙っていた。ジョージがタオルに手を伸ばして、カウンターをふいた。

「オールはなにをしたんだろう」ニックが言った。

「だれかを裏切ったんだ。そんなことをしたら、殺されちまうからな」

「この町を出ていこうかな」ニックが言った。

「それもいいな」ジョージが言った。「そうしたらいい」

「ぼく、耐えられそうにないや。やられるとわかってて、ああやって部屋でじっと待ってる、って思うと。ぞっとするよ」

「まあ」ジョージが言った。「そんなことは考えないこった」


The End


※後日手を入れてサイトにアップします。


近況:母は順調に回復していて、昨日からリハビリが始まったようです。気にかけてくださった方、どうもありがとうございました。

ヘミングウェイ 『殺し屋』 その3.

2006-12-26 22:55:36 | 翻訳
「よぉ、利口な兄さん」鏡から目を離さないままマックスが言った。「何か言ったらどうだ」

「これはいったいどういうことなんです」

「おい、アル」マックスが呼んだ。「利口な兄いが、これはどういうことかだってさ」

「教えてやれよ」アルの声が厨房から答えた。

「おまえはどういうことだと思う?」

「そんなことわかりません」

「おまえの意見を聞いてるんだ」

マックスはずっと鏡のなかをじっとのぞきこんだまま話を続ける。

「あまり言いたくないな」

「おい、アル、この兄いは自分が思ってることは言いたくないんだそうだ」

「大丈夫、聞こえてるさ」アルが厨房から答えた。厨房に皿を引く小窓が下りてしまわないように、ケチャップの瓶をつっかい棒のかわりにした。「あのな、利口な兄さんよ」ジョージに向かって厨房から声をかけた。「カウンター沿いにもうちょっと向こうに行ってくれ。マックス、おまえは左に少し寄るんだ」団体写真を撮る写真屋が位置を決めるように指図した。

「教えてくれよ、利口な兄さん」マックスが言った。「これから何が起こると思う?」

ジョージは何も答えない。

「教えてやろうか」マックスが言った。「おれたちはこれからスウェーデン人をやるんだよ。オール・アンダースンっていうでかいスウェーデン人を知ってるか」

「知ってます」

「やつはここに毎晩、飯を食いに来るよな」

「ときどきいらっしゃいますが」

「いつも六時に来るんだよな」

「おみえになるときは」

「おれたちはみんな知ってるんだぜ、利口な兄さん」マックスが言った。「ちがう話をしようか。映画なんかに行くことはあるのか」

「たまに」

「もっと行った方がいいな。おまえみたいな頭がいい兄さんには映画はためになる」

「どうしてオール・アンダースンを殺すんです? あんたがたにいったい何をしたっていうんです?」

「何にもしちゃいねえさ。おれたちに会ったことさえない」

「これからおれたちがお目にかかるのが最初で最後ってことさ」アルが厨房から続けた。

「ならどうしてそんな相手を殺すんです」ジョージが尋ねた。

「友だちのためさ。友だちに頼まれたことをやる、ってだけよ、利口な兄さん」

「いいかげんにしとけ」アルが厨房から言った。「べらべらしゃべりすぎるぞ」

「ま、この兄いにもちょっとばかりお楽しみをやろうかと考えただけさ。な、そうだろ、兄貴」

「それが過ぎるって言ってんだ」アルが言った。「黒んぼと利口な坊やは自分たちだけでごきげんさ。修道院のガールフレンド同士みたいに、仲良く縛ってやったからな」

「おめえは修道院にいたらしいな」

「どうだかな」

「おまえはユダヤ人の修道院にいたんだろうさ。そこがお似合いだ」

ジョージが時計を見上げた。

「だれか客が来たら、コックが出てる、って言うんだ。それでもしつこく言うやつがいたら、そいつには厨房で自分が料理します、って言え。わかったな、賢いお兄いさんよ」

「わかりました」ジョージが言った。「それからどうなるんです」

「そいつは成り行きしだいだな」マックスが答えた。「そのときになってみなきゃわからねえ、ってたぐいの話だな」

ジョージは時計を見上げた。六時十五分になっていた。通りに面したドアが開いた。入ってきたのは市電の運転手だった。

「こんばんは、ジョージ」運転手は言った。「晩めしを頼むよ」

「サムが出てるんですよ」ジョージが答えた。「三十分かそこらで戻ると思うんですが」

「よそへいったほうがよさそうだな」運転手は言った。ジョージは時計を見上げた。六時二十分。

「うまいぞ、兄貴」マックスが言った。「あんた、なかなかどうしてひとかどの旦那衆だな」

「おれが頭を吹っ飛ばすかも、ってわかってたのさ」アルが厨房から言った。

「いいや」マックスが答える。「そりゃちがうな。この利口な兄いはいいやつだぜ。いい男なんだ。こんなやつが好きなんだ」

六時五十五分になってジョージが言った。「今日は来ませんよ」

そのときまでに食堂には客がもうふたり来ていた。一度はジョージが厨房へ行って、「持ち帰り」を注文した客のためにハムエッグサンドを作ってやった。厨房ではアルに顔を合わせたが、山高帽をあみだにかぶって、銃身を切り詰めたショットガンの銃口のほうを棚にのせて、小窓の横のスツールに腰をおろしていた。ニックとコックは部屋の隅で背中合わせにされて、ふたりともタオルで猿ぐつわをかまされていた。サンドイッチをこしらえたジョージは、油紙に包んで袋に入れて、それを手に店に戻ると、客は勘定をすませて出ていった。

「利口な兄貴はなんだってできるんだな」マックスが言った。「なんでも料理できるんだな。兄貴なら、どっかの女の子をいいかみさんにしこめるさ」

「そんなもんですか」ジョージが言った。「お友だちのオール・アンダースンは来そうにもないですね」

「もう十分待ってみるさ」マックスが言った。

マックスは鏡と時計をかわるがわる見ていた。時計の針が七時を指し、やがて七時五分を指した。

「来いよ、アル」マックスが言った。「もう行こう。やつは来ない」

「もう五分待とう」アルが厨房から言った。

その五分のあいだに客がひとり入ってきて、ジョージはコックが病気だと告げた。

「ほかのコックを雇ったらどうだ」客が言った。「食堂をやってるんだろう?」客は帰っていく。

「アル、出て来いよ」

「ふたりのお利口さんと黒んぼはどうする」

「大丈夫さ、放っておいても」

「そう思うか」

「ああ、ここはこれでしまいにしようや」

「気にくわないな」アルのほうが言った。「ぬかりがあるような気がする。おまえ、しゃべりすぎたぞ」

「おいおいなんてことを言うんだ」マックスが言った。「おもしろかったじゃねえか」

「それにしてもしゃべりすぎだ」アルが言った。厨房から姿を現す。切り詰めたショットガンの銃身が、きついコートの腰のあたりをでっぱらせている。手袋をはめたままの手で、オーバーを引っぱった。

「じゃあな、お利口な兄貴」ジョージに言った。「運がいいやつだ」

「そのとおりだ」マックスが言った。「競馬でもやるんだな、お兄いさんよ」

(明日最終回)

ヘミングウェイ 『殺し屋』 その2.

2006-12-25 22:30:04 | 翻訳
ジョージが二種類の皿、ハムエッグがのったものとベーコンエッグがのったものをカウンターに置いた。付け合わせのフライドポテトの小皿も横に置いて、調理場に通じる小窓を閉めた。

「どちらがおたくのでしたっけ」とアルに尋ねた。

「忘れちまったのか」

「ハムエッグでしたよね」

「ほらきた、天才」マックスは言い、身を乗り出して、ハムエッグの皿を取った。ふたりの男は手袋をはめたまま食べている。ジョージはそれをじっと見ていた。

「何を見てるんだ」マックスがジョージを見返した。

「何も見てませんよ」

「何言ってやがる。おれをじろじろ見てただろうが」

「このお兄いさんは冗談でそう言ったのさ、マックス」アルが言った。

ジョージが笑う。

おまえは笑わなくていい」マックスがジョージに言った。「おまえが笑うようなことじゃないんだ、いいな?」

「わかりました」ジョージが答えた。

「わかりました、だとさ」マックスはアルの方を向いた。「お兄いさんはおわかりになったんだそうだ。ずいぶんご大層な物言いだな」

「そりゃ兄いは学者さんだもんな」アルが言った。ふたりは食事を続ける。

「カウンターのはじっこのお利口な坊ちゃんはどうしてるかな」アルがマックスに聞いた。

「おい、お利口な坊ちゃん」マックスがニックに言った。「あっちを回ってカウンターの向こうのお友だちのところへ行きな」

「なんで?」ニックが尋ねた。

「なんでもへったくれもねえんだよ」

「あっちへ行きゃいいんだよ、お利口さん」アルが言った。ニックはカウンターの内側へ回った。

「どういうことなんです」ジョージが聞いた。

「おまえの知ったことじゃない」アルが言った。「調理場には誰がいる?」

「黒人でさ」

「黒人たあどういうことだ」

「コックの黒人です」

「こっちに来るように言え」

「なんでまた」

「来るように言えばいいんだ」

「ここをどこだと思ってるんですか」

「ここがどこか、なんてことは百も承知だ」マックスと呼ばれている方が答えた。「それとも俺たちが阿呆に見えるか」

「おまえは阿呆な口を利いてる」アルがマックスに言った。「こんなガキと言い合って何になるってんだ。おい」ジョージに向かって続けた。「黒んぼにこっちに出てくるように言うんだ」

「やつをどうしようっていうんです」

「どうもしないさ。頭を使えよ、利口な兄さんよ。おれたちが黒人なんかに何をするっていうんだ」

ジョージは奧の調理場に続く仕切りの小窓を開けた。「サム」と声をかける。「ちょっとこっちに来てくれ」

調理場のドアが開いて、黒人が入ってきた。「どうかしたんですか」

カウンターのふたりの男はそれを見ていた。

「さて、黒んぼ。おまえはそこに立ってるんだ」アルが言った。

黒人のサムは、エプロン姿のままそこに立ち、カウンターに腰かけているふたりの男を見ていた。「わかりました。旦那」アルはスツールから降りた。

「おれはこれから黒人と利口な坊やをつれて調理場へ行く」アルが言った。「調理場へ戻れよ。坊や、おまえはやつと一緒に行くんだ」ニックとサムを押し立てて、小柄な男は調理場へ入っていった。ドアが背後で閉まる。マックスの方はカウンターを挟んで、ジョージの反対側にすわっていた。ジョージを見るかわりに、カウンターの向こうにはまっている鏡のなかに目をやっていた。「ヘンリーの店」は酒場を改装して、軽食堂になったのだった。


(この項つづく:たぶん明日には終わらない。四回で終了を目指します。
 ※原文の nigger に対応する日本語に差別語を当てています)

ヘミングウェイ 『殺し屋』 その1.

2006-12-24 22:50:02 | 翻訳
今日からヘミングウェイの短編『殺し屋』を訳していきます。
ヘミングウェイの短編のなかでも、もっとも有名なもののひとつでしょう。
たぶん三回ぐらいで終わると思います。短いので、まとめて読みたいという方は、サイトにアップしてからどうかお読みください。
原文はhttp://home.uchicago.edu/~a789/KILL.htmlで読むことができます。
* * *
『殺し屋』

by アーネスト・ヘミングウェイ


ヘンリー食堂のドアが開いて、男がふたり入ってきた。カウンターの席にすわる。

「なんになさいます」ジョージがたずねた。

「わからないな」ひとりの男が言った。「アル、お前は何にする」

「さてね」アルが答えた。「何にしたらいいか、見当もつかないな」

外は暗くなりかけていた。窓の外では街灯の灯が入った。カウンターのふたりの男はメニューに目を落としている。カウンターの反対側の端にいたニック・アダムズはそれを見ていた。ニックがジョージと話していたところに、男たちが入ってきたのだった。

「ローストポークテンダーロインのアップルソースがけ、マッシュ・ポテト添え、ってやつにしよう」最初の男が言った。

「それはまだできないんです」

「じゃなんだってそんなものをメニューにのっけとくんだ」

「ディナーの料理なんです」ジョージは説明した。「六時になったらお出しできるんですが」
ジョージはカウンターのうしろの壁の時計を見やった。
「まだ五時ですんで」

「あの時計じゃ五時二十分になってるがな」もうひとりの男が言った。

「あれは二十分進んでるんですよ」

「はっ、なんて時計だよ」最初の男が言った。「じゃ、食い物は何ができるんだ」

「サンドイッチならなんでも」ジョージは答えた。「ハム・エッグやベーコンエッグ、レバーとベーコン、あとステーキなんかもできますよ」

「チキン・クロケットとグリーンピースのクリームソース、マッシュ・ポテト添えっていうのをくれ」

「ですからそれもディナーのメニューで」

「食いたくなるのは全部ディナーってわけか、ええ? そいつがおまえんとこの商売のやりかたなんだな」

「ハムエッグならできるんですよ、ベーコンエッグも、レバー……」

「じゃ、おれはハムエッグをもらおう」アルと呼ばれた男が言った。山高帽をかぶって、黒いオーバーは胸まできちんとボタンをかけている。こぶりの顔は日焼けのあとがなく、口元は固く結ばれていた。シルクのマフラーを巻き、手袋をはめている。

「おれはベーコンエッグだ」もうひとりの男が言った。アルとほぼ同じくらいの体つきをしている。顔立ちこそちがっても、双子のようにそっくり同じ格好だった。ふたりが着ているオーバーは、ともに窮屈なようだった。前かがみに腰かけ、両肘をカウンターにのせていた。

「飲み物はあるか」アルが聞いた。

「シルヴァー・ビール、ビーヴォ(※ノン・アルコールの麦芽飲料)、ジンジャー・エールならありますが」ジョージが答えた。

「おれが聞いてるのは、ほんものの飲み物だよ」

「いま言ったとおりなんですがね」

「結構な町だな」もうひとりが言った。「町の名前はなんていう?」

「サミットですよ」

「そんな場所、聞いたことがあるか」連れに聞く。

「いいや」相棒が答える。

「ここじゃ夜には何をするんだ」アルが聞いた。

「ディナーを召し上がるのさ」連れが答えた。「町中みんなここへ来て、ごちそうをかっくらうのさ」

「そういうことです」ジョージが言った。

「そういうこと、って、ほんとにそうなのか?」アルはジョージに聞いた。

「そうです」

「おっさん、あんた、まったく頭がいいな」

「ええ、そうですよ」ジョージが答えた。

「んなわきゃねえだろ」もうひとりの小柄な方が言った。「アル、そうだよな」

「こいつは間抜けさ」アルが答える。ニックのほうに顔を向けた。「おまえはなんていうんだ」

「アダムズ」

「かしこいガキがもうひとり、ってわけか」アルは言った。「こいつもかしこい坊やなんだよな、マックス」

「町はかしこい坊やでいっぱいさ」とマックスは答えた。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-12-23 22:23:00 | weblog
昨日までここに連載していた「日付のある歌詞カード ~"Losing It" 」、サイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

自分以外の人に、いったいどれほどの意味があるのだろうと思うのですが、それでも気持ちの一部に負荷がかかったみたいに、どうしても、何をしていても、考えがどうしてもひとつことにばかり向かってしまうような時期に、自分自身を立て直すために書いたものでもあったんです。わたしにとっては、大きな意味があったのだと思います。

さて、ラッシュ、といっても、ご存じない方のほうが多いかと思います。
Youtubeで検索すると、ここでとりあげた"Losing It" は見つからないのですが(CDに合わせてドラムを叩くお兄ちゃんの映像はヒットします(笑))、ライブ映像はいろいろ見つかります。ただ時間によってはブチブチ切れてしまう。
とりあえず音だけですがここで"2112" をフルコーラス、聴くことができます。
http://hometown.aol.com/xplorer037/rush.html
どんな音なんだろう、と思われた方は、ぜひアクセスしてみてください。

そのうちまたヘミングウェイも何か訳してみるつもりです。
お楽しみに!

またお暇なときにでも、サイト、のぞいてみてくださいね。

よいクリスマスの週末をお過ごしください。
それじゃ、また。


Rush "Losing it" その3.

2006-12-22 22:47:24 | 翻訳
ギター・ソロでもピアノ・ソロでもいいのだけれど、プレイヤーは自分の圧倒的な技量を見せるために、速弾きというのをやってみせることがある。ただ、これは見かけが派手なわりには、そこまでたいしたものではない、とわたしは言い切ってしまいたい。

わたしはピアノの経験しかないのだけれど、どれだけ複雑な指使いを要求するものでも、パッセージごとに区切って、最初はゆっくりから練習を始めていくものなのだ。このとき気をつけるのは、音の粒をそろえること。指使いが安定し、音の長さ強さを正確に揃えて弾くことができるようになったら(このときだれかに聞いてもらったほうがいい)、そのパッセージをつなげていく。そうしてそこから速度を少しずつあげていく。最初はゆっくり。だんだん速く。もっと速く。可能な限り、速さを上げていく。
旋律がどれだけ複雑になったとしても、基本は同じことなのだ。
もちろん、これは簡単なことではない。肉体的な問題もあるだろう。それでも練習を積んでいけば、つまり生活管理と訓練という献身の度合いに応じて、だれでもある程度は可能な領域なのである。

だれにでもたどりつけるわけではないのは、速弾きを含むさまざまな練習のなかで、自分の〈音〉を作り上げていくことだ。

ピアノにしてもドラムにしても、叩いて音を出す打楽器は、ひとつの音だけとりあげれば、だれでも同じ音が出せるはずだ。犬だって、猫だって、鍵盤を叩けば音が出せる。
ところが実際には、人によって音というのはまるでちがう。
たとえばセロニアス・モンクとチック・コリアとビル・エバンスとゴンサロ・ルバルカバのピアノの音がまるっきりちがうことは、おそらくそれほどジャズを聴いたことがない人でもわかるだろうし、キース・ムーンとビル・ブラッフォードとジョン・ボーナムとマイク・ポートノイのドラムも、ロックを聴いたことがない人でも、音がちがうのがわかるだろうと思う。それくらいちがう。ものすごくちがう。

どれだけ速く弾いても、どんなに小さい音を出しても、どんな場面でも、否応なく出しているその人だけの〈音〉。そうしてそれは譜面にも書いてないし、だれかの音を聴いて出せるようになるものでもない。たったひとりで、自分の日々のなかから、自分の成熟の度合いに応じて独自に作りだしていかなければならない〈音〉なのだ。そうして首尾良く自分の〈音〉を見つけたとしても、それは音楽を続けていくかぎり、作りつづけていかなくてはならない。

アイン・ランドの『水源』という小説のなかに、若い彫刻家が出てくる。この彫刻家は大変な「才能」を持っている人物なのだけれど、あまりにその「才能」が突出しているために、大衆には理解されず、腐った彫刻家は飲んだくれている。ところが「天才」建築家である主人公がその彫刻家の才能を認めて仕事を依頼するや、突如としてその彫刻家は大傑作を作り上げる、という場面があった。
主人公の「天才」建築家がいきなり「才能」を発揮するのは、それはストーリーの展開上、仕方がないことなのかもしれないけれど、その「天才」を取り巻く「準天才グループ」もそうであるのを見たとき、この作家は「才能」というものを、このようにとらえているのだろうな、と思ったのだった。

少なくとも、わたしは「才能」というものを、そんなふうな、一種の実体的なものであるようなとらえかたはしない。「才能がある人」と「才能がない人」のあいだに線を引いて、あらかじめ線のこちら側にいる「才能がある人」はどうやっていても「才能」を発揮できる、というふうには思わない。たとえひとつの仕事で「才能」を発揮したとしても、その人がつぎの蓄積をやめた時点で、即座に枯渇を始めてしまう。そんな例ならいくらでも転がっているではないか。ヘミングウェイを含めて。

ニール・パートが愛読したのはアイン・ランドの何なのかは知らないけれど、それはそれで理解できるような気がする。自分がどこかに行き着けると信じて、たったひとり成熟を待ちながら訓練に訓練を重ねている十代の男の子が、自分を「線のこちら側」に生まれついた人間と信じて、アイン・ランドの作品を心の支えにしたとしても、まったく不思議はない。手近にニーチェがあれば、きっと十代のニール・パートは、ニーチェを愛読しただろう。おそらくそういうものだったろうと思うのだ。

けれども自分の〈音〉を見つけ、それを作り上げていく段階で、ヘミングウェイの抑制された言語の純粋さに響き合うものを感じたのだろう。
「世界を駆けめぐるよう生まれついた人がいる、夢の世界を生きるために」とヘミングウェイにあこがれ、そうして、後期の作品のなかに「それ」が失われていくのを見、「それが命を失っていくのを見ることは悲しい、知らないままでいたのより」と書いたのだろう。

《2112》から《Signals》そうして《Grace Under the Pressure》(このアルバム名は雑誌「ニュー・ヨーカー」でのインタヴューに答えたヘミングウェイの"Courage is grace under pressure.(勇気とは、たとえプレッシャーを受けても気品をもって振る舞うことである)"から来ているのだろう)と三枚のアルバムを聴いて、少しずつ変わっていく、それでもあくまでもニール・パートの〈音〉を知っていった。
抑制された夾雑物のない音は、その〈音〉を出す人の手触りを、やはり伝えることはない。けれども、おそらくその〈音〉は、同時にニール・パートという人を作り続けていく音なのだろうと思う。

ゲディ・リーの歌うニール・パートの歌からは、ニール・パートの言葉が聞こえる。
ともすれば言葉は情緒に流れてしまう。歌も、音楽もそうだ。
けれどもそれを抑制したものは、伝わるものは少ないかもしれない。聞く側は、耳を澄まし、時間をかけ、そうして自分の中で育てていかなければならないのかもしれない。
それでも、切り詰めた言葉や音は、時間をかければ、わたしのなかに根を下ろし、なにかの像を描くはずだ。
わたしはその像が見たい。
ひとつひとつの音と言葉が結ぶ像。



(この項おわり)