陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その23.

2010-06-26 23:21:12 | 翻訳

九月十四日

 四ヶ月が過ぎた。たった四ヶ月しか経っていないのか。何年も過ぎたように思えるのに。ふたりの結婚のことを日記に書いてから、十七週間しかたっていないなどということがあるのだろうか。あのころとくらべると、いまのわたしは老婆である。

 決して忘れることのできないあの日、わたしたちは待ちに待っていた。ところがシャルルさんは戻っていらっしゃらない。六時になって、かわいそうなキャロラインは、言葉にできないほどの不安な気持ちを抱えたまま、自分の部屋へ戻っていたが、湿地牧野で働いている男が家に来て、父に会わせてくれ、と言った。父は書斎で男と面談した。じき、呼び鈴を鳴らしてわたしを呼んだ。そこで下りていくと、おそろしい知らせを聞かされたのである。

シャルルさんはもはやこの世の人ではなかった。その給水係りが牧草地の堰の水門を閉じようとしたところ、帽子がひとつ、足下の水の縁にぐるぐると渦巻きながら浮かんでいる。水底をのぞきこんでみると、何か妙なものが見えた。その正体をすぐに察し、水流が治まるようにハッチを開いて水位を下げると、はっきりと人の体がわかった。詳細は書く必要もないだろう。当時、そのことは新聞にも載ったのだ。シャルルさんは家へ運ばれたが、もはや息はなかった。

 わたしたちはみな、キャロラインのことを心配した。ひどい苦しみようだったから。だが、妙な言い方だけれど、あの子の苦しみは、泣くだけ泣いてしまえば浄化されるような性質のものだったのだ。

検屍審問であきらかになったのは、シャルルさんは以前からときどき、向こうの丘に住む老人の家に、牧草地を越えて訪ねていき、半クラウンを与えていたらしい。その老人は、かつては無名の風景画家だったのだが、失明してしまったのだ。どうやら当日もそこへ行って、別れを言おうとしたものと推測された。検屍の陪審員たちはこの情報をもとに、過失による死亡と判定した。そうして誰もが今に至るまで、あの方は老人を助けるために堰を渡ったときに溺れたのだと信じている。たったひとりを除いて――。その人物は、事故などではないと考えている。

知らせを聞いてすぐ、息も止まるかと思われた衝撃が去ると、わたしはその話が奇妙なものに思えてきた。なぜあの方は、いよいよ出立するという間際になって、みずから、そんな時間のないときに、わざわざ出かけたのだろう。どんな贈り物であっても、ほかの者に届けさせれば簡単に片づく話ではないか。考えれば考えるほど、ひとつの考えがわたしに取り憑いて離れなくなる。自分の生涯を終わらせることも、その日、近くの教会で挙げた結婚式と同様、計画の一部だったのではないだろうか。大運河ではっきりおっしゃった言葉、「なるほど、結構です。愛ではなく、信義を賭けた約束ということですね。妹さんの正直な気持ちを聞いてみることにします。もし結婚したい、とおっしゃるなら、式を挙げましょう」という言葉をわたしはいまでも忘れることができないのだが、結婚式と生涯にピリオドを打つことのふたつは、あの方の意思を完遂するために不可分のことだったのだ。

 どうしてわたしはこんなことを、いまになって書くことになったのか、自分でもわからない。ただ、わたしのとりとめのない書きつけの中で、妹とシャルルさんの恋物語に関連する箇所だけでも、結末を記しておきたいと考えたのだ。あの子は悲嘆の日々を送っているが、おそらく乗り越えていけるだろう。だが、わたしは――いや、わたしのことはどうでもいい。


第十章 その後のこと


五年後

 この古い日記が急にでてきて、興味深く読み返してしまった。この頃はまだ人生が、わたしの目にも、もっと明るく暖かく輝いていた。ひとつのことを付け加えて、この過去の記録にけりをつけよう。一年ほど前、妹のキャロラインは、以前から熱心に結婚を申し込んできていたテオフィルス・ハイアム師に嫁いで行った。あの赤い頬をした若い説教師は、かつてわたしの計画したかりそめの結婚式を手助けしてくれた人でもあるが、いまでは隣の教区で副牧師として正式に任命された。自分の務めた役割を後悔しておられたが、結局は恋に落ちたのだ。これでわたしたち全員が、妹に対する罪を償った。どうかあの子がもう欺かれることのありませんように。




The End




(※手を入れて後日サイトにアップします。お楽しみに)




トマス・ハーディ「アリシアの日記」その23.

2010-06-25 22:19:35 | 翻訳


四月二十五日

 わたしたちは家に到着し、シャルルさんも一緒にいらっしゃった。さまざまな出来事がいまや静かだがおそろしいスピードで推移していく。実際、その流れに乗っていくことが、こんなはずがない、と思うほどに簡単なことに、ときにとまどってしまうほどだ。

シャルルさんは近くの町に泊まっておられる。結婚の許可証が出るのを待っているるだけだ。許可が出たらこちらへいらっしゃって、内々で式を挙げ、妹を連れて帰国されることになるだろう。お顔には、もうずっと、満足ではなく、諦観の表情が浮かんだままだ。だが、あの懸案事項に関しては、あれ以上ひと言もおっしゃらないし、こうすると決めたことからは髪の毛一筋も変更しようとはなさらない。時期が来れば、ふたりは幸せになるだろう。そうあってほしいものだ。それでも、わたしは気持ちがふさぐのを、どうすることもできない。


五月六日

 結婚式前夜。キャロラインははしゃぎまわっているわけではないが、ほんとうに幸せそうだ。けれども、あの子に関するかぎりは、なにひとつ心配するようなことはない。あの方もそうだ、と言えたら、どれほど良かったか。シャルルさんはまるで幽霊のように歩き回っておられるだけだ。なのに、だれもあの方のものごしがおかしいことに気がつかないらしい。わたしは式のためにここにいなければならない。わたしがいなければ、あの方もこれほど落ち着かない気持ちになることはなかっただろうに。とはいえ、原因をあれこれとつつきまわすのは、良いことではあるまい。父ときたら単純に、シャルルさんとあの子なら、世間の人のような幸せなカップルになれるだろう、と行っている。ともかく、明日になればすべておさまるのだ。


五月七日

 ふたりは結婚した。いましがた、わたしたちは教会から戻ってきた。今朝方、シャルルさんの顔があまりに青ざめているので、父が、体の具合でも悪いのかね、と尋ねたところ、「いいえ、少し頭が痛いだけです」とおっしゃった。だからわたしたちは教会へ行ったのだ。いささかの差し障りもなく、式は終わった。

午後四時

 ふたりはもう新婚旅行に出発しなければならない時間だ。なのに、なぜか遅れている。シャルルさんは三十分ほど前にお出かけになったのだが、まだ戻っていらっしゃらないのだ。キャロラインは玄関ホールでずっと待っている。汽車に乗り遅れるのではないかと、わたしは心配でたまらない。何かあったとしても、きっとたいしたことではないのだろう。なのに、悪い予感がしてたまらないのだ……。



(※次回、衝撃の?最終回)



トマス・ハーディ「アリシアの日記」その23.

2010-06-23 23:22:33 | 翻訳


 まもなくふたりがやってきた。右手の角を舟が曲がったところであの子の日傘の色が目に入ったので、それと知れた。ふたりは仕方なしに並んで坐ってはいたものの、一言も口をきいてない。わたしの目には、妹がほほを染めているのに対し、シャルルさんは青ざめていらっしゃるように映った。

舟が階段の下に漕ぎ寄せられ、シャルルさんは妹に手を貸した。あの子はその手を拒むかもしれない、とわたしは思ったのだが、あの子はその手につかまった。まもなくわたしの部屋の前を通り過ぎていく妹の足音がした。どんな話をしたのか気になり、ゴンドラがシャルルさんを乗せて漕ぎ出そうとするようすもないので、わたしは階下に降りてみることにした。シャルルさんはちょうどドアを出ようとするところだったが、水路の方ではなく、三月二十二日通りに出る路地を抜けて、歩いて帰るおつもりらしかった。

「あの子、あなたを許しましたでしょう?」

「わたしは何も頼んでいません」

「だけど、そうなさらなくては」

シャルルさんはしばらく黙っておられたが、やがて口を開いた。「アリシア、ぼくたち、互いに確認しておこうじゃありませんか。あなたがおっしゃっておられるのは、はっきり言ってしまえば、もし妹さんがぼくの妻になるおつもりでしたら、あなたは妹さんのためにすっぱり身を引いて、ぼくが提案したことはもはや考えてはくださらないということですか?」

「おっしゃるとおりです」わたしはそっけなく答えた。「だってあなたはもう妹のものなんですもの――そのほかにわたしに何ができまして?」

「そうですか。そうかもしれませんね。純粋に信義の問題なのかもしれない」とおっしゃった。「なるほど、結構です。愛ではなく、信義を賭けた約束ということですね。妹さんの正直な気持ちを聞いてみることにします。もし結婚したい、とおっしゃるなら、式を挙げましょう。ただ、ここではない。イギリスのあなたがたのお屋敷で挙げることにしましょう」

「いつですの」

「そちらに妹さんと一緒に参ります。それから一週間以内には。先送りしても、何にもならないのだから。それでも、その結果どうなったとしても、責任はぼくにはとれません」

「どういう意味ですの」とわたしはたずねたが、あの方は返事はしてくださらないまま、行っておしまいになった。だからわたしも部屋に帰ってきたのだった。

第六章 最後を見届ける

四月二十日 ミラノにて。

午後十時三十分 帰国途上のわたしたちも、ここまでやってきた。わたしはあきらかにデ・トロ(邪魔者)、ほかの人とはできるだけ離れて旅を続けている。ここのホテルでの夕食が終わると、ひとりで出かけることにした。たしなみなどということは考えず、ただ部屋にいられなかったのだ。アレッサンドロ・マンツォーニ通りをぶらぶらあるいていると、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリアが目に飛び込んできた。高いガラスのアーケードをくぐり、中央の八角堂まで行き、そこにある椅子のひとつに腰を下ろした。そぞろあるきの人びとに目が慣れてくると、やがて、向こう側の椅子にキャロラインとシャルルさんが坐っているのが見えた。わたしがあの方とお話ししてからというもの、あのふたりが差し向かいでいるのを見るのは、初めてだ。キャロラインはすぐ、こちらに気がついたが、さっと目をそむけてしまった。だが、衝動に身を任せたように、勢いよく立ちあがると、わたしの方にやってきた。ヴェニスで会ってから、話をしていなかったのだ。

「アリシア」妹はわたしの隣りに腰を下ろした。「シャルルさんが、お姉さんを許してあげなさい、って。だから、許すことにするわ」

 わたしはあの子の手を押さえた。涙が目からあふれそうだった。「そうして、あの方のことも許してあげたのね?」

「ええ……」恥ずかしそうにそう答えた。

「それで、どうなった?」

「わたしたち、結婚するの。家に帰ったらすぐに」

 これがわたしたちの話したほとんど全部だ。あの子はわたしと一緒にホテルへ戻り、シャルルさんはわたしたちの少し後ろからついてきていらっしゃった。キャロラインは後ろを振り返ってばかりいた。わたしたちに追いついてこないのをやきもきするかのように。「愛ではなく信義を賭ける」という言葉が、耳の中でこだまする。とはいえ、事は決した。キャロラインはまた幸せになれたのだ。


(この項つづく)




トマス・ハーディ「アリシアの日記」その22.

2010-06-22 22:49:35 | 翻訳

 ゴンドラの船頭たちがどこへ向かって漕いでいるのか、わたしはそれまで気がついていなかった。おそらくわたしが聞いていないところで、シャルルさんが行く先をおっしゃったのにちがいあるまい。もう何がどうなってもわたしは知らない、という気分でゴンドラの動きに身を任せていたのだが、ふと気がつくと舟は大運河をさかのぼっており、グリマーニ宮殿に近づいたところで横に折れ、大きな教会のはずれの石段に止まった。

「ここはどこなんですか」とわたしはたずねた。

「フラーリ教会です。ここで結婚したっていいんだけど。ともかく中に入って落ち着いて、これからどうするか決めましょう」

 教会の中に入っていくと、そこで結婚式を挙げているのかどうなのかは知らないのだけれど、ひどく陰鬱なところだった。ヴェニスのいたるところから聞こえてくる「崩壊」という言葉が、ある意味、ここではさらに深刻化しているようだった。

地盤がゆるいために、建物全体の重さをささえきれずに、ずぶずぶと沈んでいきつつあるように思えるのだ。壁にはひび割れが蜘蛛の巣のようにジグザグと走り、同じ亀裂が曇った窓ガラスにも走っている。通路は甘ったるいすえた臭いがした。シャルルさんのあとを歩いたが、ときおり歴史的遺物などのあれこれを手短かに説明してくださるほかは、気まずい沈黙が落ち、わたしは結婚許可証が取り出されたらどうしよう、と気が気ではなかった。やがて聖具室へ至る南側の袖廊のドアの前にやってきた。

 ドアの窓を通して向こうの端にある小さな祭壇にちらりと目をやった。そこはがらんとしていて、ただひとつ、ぽつんと人影があるだけだった。女がひとり、ベリーニの美しい祭壇画の前に跪いている。美しい絵も目に入らぬかのようにこうべを垂れていた。胸も張り裂けんばかりに、むせび泣きながら、祈りを捧げている。それはわたしの妹、キャロラインの姿だった。わたしはシャルルさんを手招きし、自分のすぐそばまで呼び寄せると、一緒にドアの向こうの姿を見た。

「あの子と話をしてやってください」とわたしは言った。「きっと許してくれるはずですわ」

 あの方をドアの方へそっと押しやると、わたしは袖廊へ戻り、教会堂を抜けると、西のドアをまっすぐ進んでいった。そこに父がいたので、わたしは声をかけた。未だ厳しい口調ではあったが、父はこんなことを教えてくれた。まず、大運河沿いにある居心地の良さそうな宿を借りてから、スキアヴォーニ河岸のホテルに引き返してわたしを探したがいなかった、と。いまはキャロラインを待っているところで、あの子が戻ってきたら、一緒にその宿に帰るつもりだ、とのことだった。あの子は落ち着きを取りもどすまで、ひとりにしてほしい、と言ったらしかった。

 わたしは父に、過ぎたことをあれこれ言ってもせんのない話だし、わたしが間違っていたこともよくわかった、これから先、ふたりを結婚させることで償いたい、と話した。このことに関しては、父も心から賛成してくれて、わたしがムッシュー・ド・ラ・フェストがいま、キャロラインと一緒に聖具室にいることを伝えたところ、このままふたりだけにしておこう、わたしたちは宿に戻ろう、そこにはおまえのために取った部屋もあるから、と言った。父の言う通りにして、父がわたしに用意してくれた、運河に臨む部屋へ上がって、窓にもたれ、シャルルさんと妹を乗せて戻ってくるゴンドラを待った。



(この項つづく)



トマス・ハーディ「アリシアの日記」その21.

2010-06-20 23:09:49 | 翻訳


「シャルルさん、ごぞんじでいらしたの?」とわたしは聞いた。

「いましがた、聞きましたから」

「ああ、そうでしたか」わたしは言葉を続けた。「あの子との正式な結婚をいつまでもお引き延ばしだったから……。わたしたちの立場もずいぶん苦しいものになりましてよ。どうしてお返事をくださらなかったの?」

「直接お話したかったんです。妹さんにどんなふうに言えばいいのか――あなたに何と言ったらいいのか、ぼくにはわからなかった。妹さんはどうなさったんですか」

「あの子は父と一緒に出ていきました。あなたには腹を立て、わたしを軽蔑して」

シャルルさんは黙ったままだ。そこでわたしは、ふたりのあとを追いかけましょう、と、ふたりのゴンドラが向かったと思われる方角を指さして言った。わたしたちが乗ったのは、漕ぎ手が二人のゴンドラだったので、じき、前方に人影がふたつ、見えてきた。わたしたちのゴンドラは「フェルツェ」(※ゴンドラにある屋根付きの客室)のあるものだったが、妹たちの舟は覆いがないものだったのだ。

ふたりは王宮庭園の先の狭い水路を進んでいき、わたしたちがじめじめした壁のあいだを行くころには、三月二十二日通りの奥まったところに出る石段のところで、ゴンドラからおりる姿が見えた。わたしたちも同じ場所に着くと、妹たちは何ごとか相談しながら、通りを行きつ戻りつしている。舟を下りたシャルルさんは、石段の下でふたりを見つめていた。その姿をわたしはじっと見つめていた。シャルルさんは何かしら夢の中にいるように見えた。

「あの子にお話してくださいませんか」たまりかねてわたしは声をかけた。

 シャルルさんはうなずくと、そちらへ向かった。それでも少しも歩を早めるわけではなく、張り出し窓をのぞきこんで、夢中になって話をしているふたりをじっと見ている。やっとのことでこちらを振り向いた。わたしは前方を指さすと、わたしの言うとおり、歩いていって、ふたりと向きあった。キャロラインは真っ赤になって、傲然と会釈すると、くるりと背を向けて、父が何かを判断する暇を与えず、乱暴に引っ張りながら行ってしまった。ふたりは大運河沿いの建物の裏手へと通じる細い通りへ消えてしまった。

 ムッシュー・ド・ラ・フェストは重い足取りでこちらにいらっしゃった。わたしのすぐ隣で足を止めると、自分の置かれた立場がはっきりとしてきたことを感じて、胸がドキドキいう音が聞こえてくるほどだった。第三の条件が現実のものとなろうとしていた――ふたりにとって、ほとんど予想もしなかった可能性が。妹はシャルルさんを拒否したのだ。シャルルさんにはわたしを求める自由がある。

 わたしたちは一緒に舟で戻った。あの方は物思いにふけっておられるご様子だったが、角を曲がって大運河に入ったところで、沈黙を破った。「妹さんはあなたにサラマンジェ(※フランス語で「食堂」)でひどいことをお言いでしたね。あなたに向かってそんな口を利けるような権利はないのに。あんなに必死になって看病してもらったというのに」

「まあ……、でも、あの子からしてみれば無理もないことですわ。何があったかわたしが話したのも、あそこが初めてだったんです。あの子はそれまで何も知らなかったのですから」

「妹さんは、凛としていらっしゃいました――それにはぼくも感動した」あの方はつぶやくように言った。「それ以上に、あなたに」

「でも、どうしてわたしたちの間に何があったか、ご存じなんですの」

すると、ぼくは一切合切を見ていたのです、とおっしゃった。ダイニングルームは衝立でで仕切られていたのだが、わたしたちが入り口から入ってきたとき、あの方は衝立の向こう側に坐っていらっしゃったのだ。だからわたしたちの話は、すっかり聞こえていたというわけだ。

「でもね、アリシアさん」あの方は話を続けられた。「ぼくが何より心を打たれたのは、あなたの妹さんに寄せる愛情です。率直に妹さんに謝罪された。ところであなたは気がついておられましたか。いまはもう、あなたをぼくの婚約者と考えていい情況になったんです」

この言葉は予期はしていたものの、未だ答えは用意できていなかった。口ごもりながら、いまはまだその話はよしましょう、と言うのがやっとだった。

「どうしてだめなんです。いま、ここで結婚したっていいんだ。妹さんは、ぼくもあなたも棄てたんだから」

「そんなわけありません」わたしの声はきつい調子になってしまった。「あの子は正式にはあなたからの結婚の申し込みを受けていないのですから。法的な結婚式をもう一度やってほしい、という。もし、そうしないであなたの申し込みをお受けするなんで、許し難い罪と言えるでしょう」



(この項つづく)





トマス・ハーディ「アリシアの日記」その20.

2010-06-18 23:01:41 | 翻訳

(四月十八日のつづき)

「ほんとうの結婚ではないってどういうこと?」あの子はぽかんとした顔でそう聞いた。

「正式なものではなかったの。じきにあなたにもわたしの言うとおりだってことがわかるわ」

 そこまで言ってもあの子はまだわたしの言うことを信じかねているようすだった。「あの人の妻じゃないってこと?」悲鳴のような声が上がった。「そんなこと、ありえないわ。じゃ、わたしは何なの?」

 わたしは詳しい事情を打ち明けて、なぜわたしがそういう方法を取ったか、その理由もかんでふくめるように、繰りかえし説明した。あの子も納得できなかっただろうが、それ以上に、説明するわたし自身が、自分の取った行為を正当化することに、どれほどの困難を感じていたか。

 何もかもがすっかりわかった瞬間、あの子の表情は一変し、苦痛に満ちた顔になった。ややあって、嘆きがいくぶんか和らぐと、今度はシャルルさんとわたしを責めはじめた。

「どうしてわたしがこんなふうにだまされなくちゃならなかったの?」居丈高になって詰問するあの子の口調は、日ごろの扱いやすいあの子からは、想像もつかないほど鋭いものだった。「そんなぺてんが通用するとでも思ってるの? よくもわたしを罠にかけてくれたわね!」

 わたしは小さな声でつぶやくしかなかった。「あなたの命を助けたかっただけ、それだけなの」だが、あの子の耳にははいらなかった。

 あの子は椅子にぐったりと沈みこみ、顔を覆った。そこへ父が入ってきたのだ。

「ここにいたのか! おまえがいないので探したよ……キャロラインじゃないか!」

「で、お父さん、あなたもこのわけのわからない、おためごかしをやらかした一味ってわけなんですか?」

「何の一味だって?」

 つぎの瞬間、何もかもが白日の下にさらされることになった。父は、以前わたしが打診した、病気の妹をなぐさめるための計画が、ほんとうに実行に移されたことを、そのとき初めて知ったのである。話を聞くやいなや、父はキャロラインの側についた。あの子のことが心配だったからこそ、そんなことをやったのだ、とわたしがどれほど繰りかえし言おうと、何にもならない。そのうち、キャロラインは立ちあがると、むっつりした顔で部屋を出ていき、父もあとを追った。非難の言葉と一緒に、わたしひとりが残された。

 いますぐにもシャルルさんを探さなければ、という思いで頭がいっぱいだったわたしは、妹と父がどこに行ったかまで、気が回らなかった。ポーターたちが「ムッシュー・ド・ラ・フェストさんはついいましがた、外で煙草を吸っておいででした」と教えてくれて、そのうちのひとりが呼びに行ってくれ、わたしもそのあとに続いた。だが、何歩もいかないうちに、あの方が、わたしのあとからホテルを出てくるのが見えたのだ。さぞかし驚かれることだろうと思っていたが、わたしを見ても、さほど驚いたふうもない。だが、その顔にはわたしが当惑するほど強い、別の種類の感情が表れていた。わたしもそれとそっくりの表情を浮かべていたのかもしれない。それでもあらゆる感情と闘って、ものが言えるようになるとすぐに、妹がここに来ていることを話した。シャルルさんはひとこと、「知っています」と低い声でおっしゃった。


(この項つづく)



トマス・ハーディ「アリシアの日記」その19.

2010-06-17 23:31:38 | 翻訳


四月十八日

 ヴェニスにて。
午前中の初めて遭遇するような数々の出来事や、感情を激しく揺さぶられたせいで、体調が優れず、疲れ切ってしまった。そのせいで、自分の部屋に戻って一時間ばかりソファに横になって、なんとか休もうとしたのだが、眠ることもできない。だから、とりいそぎ、この間の記録を書き記しておくことにする。そうでもしなければ、頭の中にずっと居座っている高ぶった思いを取り除くこともできそうにない。

 わたしたちはこの地に、今朝、明け初めた日があたりを照らす頃に到着した。街に近づくにつれて、海に囲まれた建物が朝日を浴びて輝いているのが見えた。街は、いかだのように、穏やかな青い海原に浮かんでいる、だが、その美しい光景も、汽車の窓から一瞬見えただけで、すぐに川を渡って駅に入っていった。駅の表階段へ出ると、黒いゴンドラが舳先を並べ、船頭がかまびすしく呼び声を挙げている。父はとまどったのか、漕ぎ手がふたりいるゴンドラを一艘頼んだのに、二艘のゴンドラを頼んだとまちがえられてしまい、わたしと父は別々の舟に乗せられたのだった。あれこれあったのち、やっとのことで正してもらい、急いでスキアヴォーニ河岸のホテルへ向かった。そこは最後の手紙でムッシュー・ド・ラ・フェストが宿泊されていたホテルなのだ。大運河を少し進んだところでリアルト橋をくぐって、そこから小さな水路をいくつか経由して、嘆きの橋に出た。わたしたちの気分そのままではないか! そこからまた海に出た。あたりの景色は色鮮やかで、初めてここへ来たのがこんないきさつだなんて、むごい話だ。

 ホテルにはいるとすぐ――このあたりのホテルはどれもそうなのだけれど、わたしたちが泊まるところも旧式のホテルで、ふつうのホテルと賄い付きの下宿を兼ねたものである――わたしはロビーの台の上にある宿泊客名簿のところに走っていった。シャルルさんの名前があることはすぐにわかった。けれどもわたしたちが何よりも考えなければならないのはあの子のことだ。わたしはホールにいるポーターに、きっと「マダム・ド・ラ・フェスト」という名前で旅行しているだろうと思ったので、そういう名前の女性はいないか、父の耳に入らないように尋ねてみた(気の毒な父は、入り口の外で「イギリス人女性」を見かけなかったかと、まごまごと聞いて回っている。まるで界隈にイギリス人女性などひとりもいないかのように)。

「たったいま、お見えになりました」とポーターは言った。「奥様は今朝ほど、大変早い汽車でお着きになりました。まだ旦那様の方がお休みでいらっしゃいましたので、起こすには及ばない、とおっしゃって、いまはご自身のお部屋でお休みになっておられます」

 窓からわたしたちの姿を見たのか、それともわたしの声が聞こえたのか、わたしにはわからないのだけれど、ともかくその瞬間、むきだしの大理石の階段を踏む音がして、キャロラインその人が下りてきたのである。

「キャロライン!」わたしは叫んだ。「どうしてこんなことをしたの?」あの子の下へ駆けよった。

 ところが答えようとしない。表情を隠すかのようにうつむいていたのだが、ややあって気持ちを抑えたのか、どうみても嘘だとわかるような、気持ちの籠もらない声を出した。

「夫のところへ来たんです。まだ会っていないのですけれど。来たばかりだから」

あの子は自分の取った行動の理由など、これ以上説明するつもりはない、とばかり、とりつく島もないような顔で、向こうへ行きたそうなそぶりを見せた。わたしは、ふたりきりで話ができるようなところへ行きましょう、と頼んでみたが、あの子の顔はにべもない。それでも、すぐそばのダイニングルームがその時間、誰もいなかったので、わたしは妹を中へ押しやって、扉を閉めた。どう話を切りだしたのか、どう話をまとめたのか、何一つ覚えていないのだけれど、わたしはなんとか手短に、ぎこちなく、あの結婚はほんとうの結婚ではなかったことを説明したのだった。


(この項つづく)



トマス・ハーディ「アリシアの日記」その18.

2010-06-16 22:57:47 | 翻訳

午後八時(四月十五日のつづき)

 そう、わたしの思った通りだった。あの子はシャルルさんと一緒になろうとして、ここを出たのだ。明け方にバドマウス・リージスで投函されたあの子の手紙が、午後になって届いた――運良く召使いのひとりが、今日、町へ出たついでに、手紙がきていないかどうか確かめてくれたおかげだ。そうでなければ、届くのは明日になっていただろう。

あの子は、シャルルさんのもとへ行く、という決意と、誰にも告げずに出てきたのは止められたくなかったからだ、ということが述べてあるだけで、どのルートで行くかということは、ひとことも触れられていない。あんなに穏やかな子が、平然と大胆不敵なことをするなんて、まったく驚くほかはない。ああ、シャルルさんはもうヴェニスにはいらっしゃらないのかもしれないのに。あの子が何週間探したって、見つけることはできないかもしれない。それどころか永遠に。

 父は、手紙を読むと、わたしにいますぐ準備にかかり、九時に出立できるように、と言いつけた。夜間蒸気船に連絡している汽車に乗れるよう、馬車で出かけるのだ。したくはできた。だが、まだ一時間ほど余裕がある。出発を待つ、宙づりにされた気持ちをまぎらわせるために、ペンを取ることにした。父は、かならずあの子をつかまえなくては、と言っていて、シャルルさんに対してひどく立腹しているようだ。もちろんあの子のことも、恋人に会うために向こう見ずなことをする、はしたない娘だという。この情けないわたしが、いったいどうして父に言うことができるだろう。あの子はそんな子じゃありません、ずっとすばらしい子なんです――ただ、シャルルさんの下へ愛するあまりに飛んでいったのは、恋をしている者の衝動的な行為にしてはあまりに危険だ、そんなことをしてしまったのは、いささか考えが足りなかった……などと。

わたしたちはパリ経由で行く予定だ。おそらくそこで妹に追いつけるだろう。父がいらだたしげに玄関ホールを行ったり来たりしている足音が聞こえる。もう行かなくては。


第八章 追跡行

四月十六日

 夜、パリの__ホテルにて。
ここであの子に追いつくことはできなかった。だが、ここに泊まっていたはずだ。パリのほかのホテルなど、あの子は知らないのだから。明朝、ここを出発する。


(この項つづく)




トマス・ハーディ「アリシアの日記」その17.

2010-06-15 23:10:01 | 翻訳

四月二日

 妹はほとんど全快したといってもいいほどだ。頬もほんのりと薄紅色に戻ってきたが、まだ元通りとは言えないのだけれど。ただ、「愛しい旦那様」の機嫌を損なうようなことをやってしまったのではないかと気にかけているので、わたしも真相のごく一部を打ち明けるべきだと考えた。全体から見れば、些末な部分なのだけれど。とりあえず、シャルルさんは、あなたの具合がよくなかったから、大慌てでことを運んだのだけれど、あとになって、そのことを気に病んでおられたのよ、でも、家の準備ができたら、すぐに戻っていらっしゃるにちがいないわ、と。

そのあいだに、わたしはあの方に、有無を言わせぬ調子で、早く戻ってきて、苦しい板挟みの情況からわたしを解放してください、と手紙を書いたのだ。この文面ではわたしの愛情は、どれだけ探そうと思っても、見つかりっこない。

四月十日

 驚いたことに、先日わたしがヴェニスにいるあの方に宛てて書いた手紙にも、妹が書いた手紙にも、返事が来ない。妹は、具合がお悪いのではないかしら、と心配している。わたしにはどう考えてもそうは思えない。ご返事くらいくださってもよいのに。もしかしたらわたしの横柄な言いぐさが、ご機嫌を損じたのかもしれない。その可能性を考えると、何だか悲しくなってしまう。わたしがあの方の怒りにふれただなんて。でも、もういいのだ。わたしは妹にほんとうのことを打ち明けよう。さもないと、何も知らないまま、何かぶちこわしにするような、評判を落とすようなことをしかねない。あの子は自分が起きている間中、どれほどシャルルさんを、シャルルさんだけを思っているか、わかってくだされば、厚かましくも妻になってしまったことも大目に見てくださるだろう、と寂しそうに言う。かわいい子、胸が痛むほどだ。わたしは涙をこらえることができなかった。


四月十五日

 家の中は上や下への大騒ぎだ。父は怒りながらもすっかり気を落とし、わたしは悲嘆に暮れている。キャロラインがいなくなった――そっと家を抜け出してしまったのだ。あの子がどこへ行ったか、考えないではいられない。わたしはどれだけひどいことをしたのか。あの子には何一つ罪はないのだ。もっと早く話しておけば良かった……。

(午後一時)

 まだあの子の足取りはつかめない。家で使っていた年若い小間使いも、キャロラインと一緒にいなくなったことがわかった。キャロラインがひとりで行くのが心細くて、小間使いを誘いだしたのにちがいない。あの子は矢も楯もたまらず、シャルルさんを捜しに行ったにちがいない。おそらくヴェニスに行こうとしているのだ。夫の下へ向かう以外に、あの子がいったいどこへ行くというのか。

いまとなっては、ここ数日、あの子のそぶりにそんな気配があったことを思い出す。まるで旅立とうとしている渡り鳥が、そんな気配をただよわせているように。それでもあの子がこんな大胆なことを、誰の助けもなく、わたしにも相談せずにすることができるなんて。いまのわたしにできるのは、単に起こったことを、書きとめておくだけだ。振り返る時間などないのだ。だが、夢見心地のキャロラインが、ほんの小娘を連れてヨーロッパ大陸へ渡って行くとは。どのならずものにとっても、いいカモであるにちがいない。



(この項つづく)



おかえりなさい、はやぶさ

2010-06-14 23:23:08 | weblog
ここで以前にも紹介したけれど「こんなこともあろうかと!」
みなさんは「流れ星」になった「はやぶさ」の映像はごらんになりましたか。


わたしが前のログを書いたころは、「はやぶさ」と言っても、知らない人の方が多かったのだが、昨日は朝刊の一面トップにはなるし、Webニュースでも上位に来るし、ライブ映像もあるし、で、「はやぶさ」の話題は、ワールドカップをすっかり押しのけていた。

それにしても、「はやぶさ」の話はどうして人の心を揺さぶるのだろう。どうして宇宙の話を聞くと、胸が熱くなるんだろう。

アメリカドラマの『ザ・ホワイトハウス』の中にも、宇宙開発のトピックは何度か出てくるが、なかでもシーズン2の「ガリレオ」は、メイン・ストーリーが火星探査船「ガリレオ5号」の話題だった。

大統領のスピーチライターであるロブ・ロウは、こんな質問を受ける。世界には飢えた人、貧困に苦しむ人が大勢いるのに、どうして月へ行かなければならないの?
ロブ・ロウは答える。別にぼくたちが月へ行ったから、彼らが飢えたわけではない、月へ行ったことが原因で、貧困に追いやられた人がいるわけではない。
すると、相手は重ねて聞く。月へは行ったわ。だからもうそれでいいじゃない? どうして火星へ行かなきゃならないの?
それに対してロブ・ロウはこう答える。

'Cause it's next. 'Cause we came out of the cave, and we looked over the hill and we saw fire; and we crossed the ocean and we pioneered the west, and we took to the sky. The history of man is hung on a timeline of exploration and this is what's next.
(だってつぎがあるから。だから、ぼくたちは洞穴から出たのだし、丘の上に立ってあたりを見回し、火を見つけた。それから海を渡って、西を目指して開拓を続けた。それから空を手に入れた。人類の歴史は、探索の歴史だし、それが「つぎはそれだ」っていうことなんだ。

確かに、月へ行ったから貧困にあえぐ人びとが生まれたわけではなくても、先端技術は兵器に転用され、実際に人を殺傷してきた。そうやって原子爆弾を開発し、自然環境を破壊し、多くの生物を絶滅に追い込んだことを考えると、「つぎがある」ということがほんとうにすばらしいことなのか、よくわからなくなってくる。

「最先端」をめぐる競争の裏には虚栄心だってあるだろうし、何かに利用してやろうという山っ気だってあるだろう、未知の世界に乗り出そうとする勇気だけなら、海賊の方がはるかに上だったかもしれない。

けれども、「つぎ」にはそれだけではない、「何か」が含まれている。
いまはまだ知らないことを知りたい、という願い。
ほんとうのことを知りたい、真実を知りたい、という願い。
「何のため」ではなく、ただ知りたいから知りたい、という願い。

真実がわたしたちと無関係であれば、わたたちは人類の月面着陸にも、はやぶさの帰還にも、胸を熱くしたりはしないはずだ。おそらく、「真実の探求」ということが、わたしたちを揺さぶるのだ。

宇宙の果てはどうなっているのか。
宇宙には何があるのか。

「何のため」を含まない、ただ知りたい、という願いは、おそらくわたしたちの気持ちを浄化する。日常の、嘘や虚栄心や傲慢さや利己心などのあらゆる感情のごった煮から、小さくてきゃしゃな探査機のような真実への愛が飛び立つのだ。

「つぎがある」ということは、つぎを知れば、わたしたちはもっと真実に近づけるからだ。洞穴から外に出れば、もっと広い世界を見ることができるから。高い丘に登れば、もっと広い世界を見ることができるから。海を渡れば、もっと広い世界を見ることができるから。大気圏の外へ出れば、もっと広い世界を見ることができるから。

こんなふうに考えていくと、「真実」というのは、どこかにあるものではないことがわかってくる。洞穴の外にも、丘の向こうにも、海の向こうにも、宇宙にもあるわけではないのだ。

おそらくそれは、わたしたちが広い世界に目を向けているときに、奇跡のように産み出すことができる、かたちをもたない芸術品のようなものなのだろう。「はやぶさ」のニュースは、わたしたちに見えないそれが「そこにある」と教えてくれたのだ。

それは、そこにある。
だから、つぎを目指せ、と。

おかえりなさい、はやぶさ。
そこにあることを教えてくれて、どうもありがとう。