陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

直感は信じない

2013-04-30 23:33:46 | weblog
以前、骨董品やコレクションを鑑定をする番組で、鑑定をする人が、借金のカタや「ピンと来た」と言って買ったものはたいていニセモノ、と言っていて、なんだかとてもおかしかったので、いまでもよく覚えている。

こんな場面が目に浮かぶ。夜、知り合いがやってきて、いまちょっと手元不如意で、とか、資金繰りが苦しくて、などと言いながら掛け軸や絵や茶器を出してくる。その代わりといっては何だが、これを預かっておいてもらえないか、と。先祖代々伝わるもので、良い物なんだが……ともったいをつけながら、近いうち、かならず返すから、と言いながら、用立ててもらったお金を懐に。ところがその「近いうち」は一向に来るようすもなく、その「カタ」は行き場を失って押し入れに眠ったまま。果たしてほんとうに値打ちのあるものなのだろうか、貸してやったお金に引き合うほどのものだろうか。そうだ、TVで鑑定してもらおう……。

考えてみればそんなものが二束三文というのもあたりまえの話で、もしほんとうに良い物なら、預けっぱなしになるはずもなく、そもそもほんとうに借金のカタにできるぐらいの価値のあるものなら、骨董屋だの古物商だので現金に代わっている。相手も、二束三文だろうと半ば思いながら、そんなものを持ってきて、借金を頼むほどせっぱ詰まっているのなら、と用立ててやるのだろう。

もうひとつの「ピンと来た」がニセモノ、というのも、なんとなくわかるような気がする。
自分のことをふりかえっても、衝動買いばかりではない。これまでの経験で、失敗したときというのは、ほぼまちがいなく拙速な判断の結果だ。

二者択一を迫られ、ああでもない、こうでもない、と慎重に考え、さまざまな情報を集め、周囲の状況を観察した結果の判断なら、実際のところ、どちらを選んでも、その結果がさほど困ったことにはならないのだ。あとになって苦い思いをするのは決まって、うかつに決めてしまったときである。

もちろん「ピンと来た」ことがうまくいったこともあるだろう。けれどもその「直感」というのは実際のところ、その時のちょっとした気分とか、感情にほかならない。そうしてわたしたちの判断の根っこにあるのは、その「直感」である。

けれども、そこからわたしたちは理由を考え、理由が依拠する理論を考えて、その判断を整ったものにしていく。客観的な情報を集め、それによって判断に加わった自分のバイアスや思い込みや、こうあってほしいという願望を取り除いていく。

司馬遼太郎の『城塞』だったと思うが、徳川家康の特異な点は、自分を突き放して見ることができることだった、とあったように思う。「自分を突き放す」というのは、結局のところ、自分の判断をゆがめてしまう自分の思い込みや願望をどれだけ抑えることができるか、ということだろう。自分の癖を知り、自分を取り巻く人間関係から一定の距離を取り、ものごとを俯瞰的に眺めるということを日常的におこなう。言葉にすれば簡単だけれど、「特異」という言葉は、実際にそれをすることがどれほどむずかしいか示している。

昔は、どちらかを選ぶことが怖かった。どちらを選んだら良いかあれこれ迷って、ああでもない、こうでもない、とずいぶん考えたものだ。けれどもそうした経験をいくつかくり返し、いまではしっかり考えた結果なら、どちらを選んだとしても、「あのときああしたら良かった」と後悔することはない、と思うようになった。

後悔するのは、「ピンと来た」り、衝動に負けたり、こうあってほしい、という願望を「客観的な見方」と取り違えてしまっていたり、単純に知識が欠けていることを知らなかったりするような場合だ。問題なのは、そのときにはそんなことに気がつきもしないことなのだが……。

少なくとも「直感」は信用しない。ピンと来ても、それはきっと気のせいだ。そう思っている限り、骨董のニセモノをつかまされる恐れはないはずだ。まあ、幸か不幸か、骨董を買う予定は当分ありそうにないのだが。



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2 コメント

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唐突ですが (pinoko)
2016-11-15 10:12:51
直観を信じないという決断も、
結局は直観から発して行きついた、
選択だと思います。
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全く同感 (青い鳥)
2018-02-28 23:56:50
「いまではしっかり考えた結果なら、どちらを選んだとしても、「あのときああしたら良かった」と後悔することはない、と思うようになった。」と言うところは全く同感です。
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