陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新のお知らせと遊びにきてくださった方々へのお願い

2005-05-29 21:13:41 | weblog
ここで連載していたサキの短編集、翻訳に手を入れ、サイトのほうにアップしました。
手を入れるのにえらく時間がかかってしまいましたが、ここに掲載していたころよりは、少しでも読みやすく、誤訳も減り、原文の雰囲気を損ねていないものになっているのではないか、と思うのですが、どうでしょう?

これを期に、サキに少しでも興味を持って頂ければ、これほどうれしいことはありません。
サキは、現在、新潮文庫、岩波文庫、ハルキ文庫より短編集が出ているようですが、ちょっと新潮は誤訳が多すぎるような印象を受けます(わたしが大きなことは言えないのだけれど)。脱落している部分、あきらかにおかしい部分、中村能三氏は古い、立派な翻訳家の方であるとは思いますが、この短編集に関して言うならば、相当に問題があるような気がしてなりません。

さて、明日から新しい作品の翻訳を始めます。

それと一緒にばくぜんと考えているのですが、ここに遊びにいらしてくださる方々の、本にまつわる記憶、あの本を読んでいたときに、雨が降っていたな、とか、あの本を読んでいたら、急におなかが空いてきたんだ、とか、あの本を読んでいて、こんなことが起こった、とか、なんでもいいんですが、本の記憶ではなく、本にまつわる記憶がありましたら、教えていただけませんか?
ぜひぜひ、いろんな「あなたと本の物語」を教えていただけるよう、お願いします。

短編小説とはなんだろうか その4.

2005-05-25 22:37:45 | 
4.短編小説は物語

チェホフはあるとき若い作家たちに語ったという。

ある点に関して、君たちは僕に感謝しなければならない。短編作家の道を切り開いたのはこの僕なのです。以前は、原稿を携えて編集部へ行っても、読んでさえくれぬことがありました。ただ侮蔑的に見て、「なんですって? こんなのが――作品と呼べますか? 雀の鼻より短いじゃありませんか。いや、こんな《小っちゃい代物》は用がない。」しかし、ほら、僕はやっと努力して道を開き、他の人たちにも示してあげました。(クプーリン『チェホフの思い出』)

このようにして、チェホフによって道をつけられた短編小説の方法を、マンスフィールドを初め、多くの作家がたどっていった。今日の、大衆的とされる短編小説が、モーパッサンの系列を引く、はっきりとした筋と結末を持っているのに対し、文学的とされる短編小説の多くは、大なり小なりチェホフの影響を受けたものとなっている。

読者の側も、短編というのは、「何が書いてあるか」をたどるのにも骨の折れる、精妙で微妙な形式、と思うようになってしまった。

けれども、20世紀半ば、39年の短い生涯のうち、彼女以外書きようがない、独特の小説世界を築き上げたフラナリー・オコナーは、短編小説に対して、このように語っている。

 短編小説は文学の形式の中でもっともむずかしいものの中に入る、と言われるのを聞くことがある。私には、人間の表現手段のうちもっとも自然で根本的に思われるこの形式が、どうしてそんな受け取り方をされるのかいつもわからないでいる。つまり、物語を聞き語りだすのは、誰も子ども時分なのであって、あれには何もさほど複雑な問題はなさそうである。思うに大部分の人は、これまでの一生、物語を語りつづけてきたのではなかろうか。……
 物語とは、完結した劇的行為である。優れた物語の中では、その行為をとおして人物が示され、行為は人物によって統制されるのだが、そこから結果として出てくるのは、提示された経験全体から発する意味である。私なら物語の定義として次のように言ってみたい。物語とは、ある人が人間であり、同時に個としての人間であるがゆえに、すなわち一般的な人間的状況を共有し、さらに特定の個人の条件も兼ねて所有するがゆえに、そのある人間を巻き込む劇的出来事である、と。物語は、つねに劇的な方法で人格の神秘に関わるものなのだ。……
 短編小説を短く終わらせないのは意味である。物語の主題についてなんかより、私は物語の意味について語りたい。人びとが主題について話すのを聞いていると、主題とはまるで鶏の飼料袋の口を閉じる糸のようだ。袋の閉じ糸を引っ張る要領で主題を拾い出せば、物語は裂けて口を開け、鶏は餌にありつけるわけである。しかし小説の中での意味の働き方は、そんなものではない。
 ある物語についてその主題を論じられる場合、すなわち物語の本体から主題を引き離せるとき、その作品はたいしたものではないと思っていい。意味は、作品の中で体を与えられていなければならない。具体的な形にされていなければならない。物語は、他の方法では言えない何かを言う方法なのだ。作品の意味が何であるかを言おうとしたら、その物語の中の言葉がすべて必要である。……それは何についての物語か、とたずねる人がいたら、正当な答えはただ一つ、その物語を読めと言ってやるしかない。(フラナリー・オコナー「物語の意味」『秘儀と習俗』所収 春秋社)

短編小説とは、なによりも、物語なのである。
さらに時代がくだったアメリカの短編作家、ジョン・チーヴァーも、このように言っている。

ぼくに言わせれば、短編、つまり短い話は人生で重要な役割を果たしているんだ。それは、ある意味で、苦痛を癒してくれるんだよ――たとえば、スキーのリフトが止まってしまったとき、船が沈んでいくとき、あるいは、歯医者とか医者の診察室にいるとき――つまり、死ぬかもしれないなあというとき、だれが長い話をする? そのとき必要なのは短編、短い話だ。自信をもって言うけど、いよいよ死ぬぞっていうとき、人間はじぶんにむかって短い話をするものさ――長編はお呼びでないの。(青山南『アメリカ短編小説興亡史』)

あるいは、1982年チーヴァーが亡くなったあとも、今日に至るまで多くの短編を発表し続けているジョン・アップダイクはこう語っている。

わたしにとって短編小説は、長い間わたしの生計をたてるためのたいせつな一部だった。しかし、それを書くのは、単に仕事以上に審美的なチャレンジでもあったし、また歓びでもあった。長編小説と詩のいわば中間に位置しながら、かつその両方の楽しみをわたしたちに与えてくれることができるのが、短編小説の魅力である。その上、短編小説には、エッセイの持つ奇妙な親近感がある。そこには、非常に微妙でかつ重要な秘め事をわたしたちの耳に語りかけてくれる声がある。(『アップダイク自選短編集』前書き、日本の読者に)

短編小説とは、芸術作品であるよりもなによりも、物語なのだ。

最後に、毎年編まれる、その年にアメリカの雑誌に発表されたすべての短編小説のなかからベストのものを選び出すアンソロジー、『アメリカ短編小説傑作選』の2000年版から、編者ギャリソン・キロワーの文章を引く。

 人は物語が現実的であってほしいと思う。ソローが言ったように、リアリティこそわれわれが切望するものなのである。もし人に物語を聞かせて、相手がそれを気に入れば、彼らは物語のスタイルに世辞など言わず、「それ本当?」と言う。それが作家にとって、あなたは真実を書いていますよという最高の賛辞である。単に感情を表現するためだけに物語を利用しても、人は気に入ってくれない。……
 教訓を小脇にかかえた物語はたちまち信頼を失う。従って、膨大な証拠があるにもかかわらず、ホロコーストは作り話だと信じる人々もいる。なぜならそれは教訓的な寓話として語られているからだ。対照的に、アンネ・フランクの物語は、その美しいまでの常態から、真実がありありと伝わってくる。それをわれわれは確信をもって信じているが、その理由は、アンネがまばゆいばかりに聡明な考え方――「いろいろな事があっても、やっぱり人は心の底では本当に善良なのだと、わたしは信じています」――をするからではなく、物語をことこまかに書き綴っているからである。部屋に座り、映画スターや王室のことを思い、気短で自己を憐れむばかりのミセス・ファン=ダーンに嫌悪を抱き、ペーターと屋根裏に行っておしゃべりをしてキスをすることのスリルを夢見る。命がけの状況にある人々の普通の暮らしを、われわれはどんどん読み進めていく。一九四二年の十月の夜、アムステルダムに潜伏しているユダヤ人たちが、「九百九十九の〈えっちら〉と一つの〈おっちら〉とはなんのことでしょう。それは、足が一本曲がったムカデ」という冗談を言って楽しんだことを知り、われわれは大きな事実に気づくことになる――十四歳のアンネ・フランクは、この日記を憎悪や邪悪に対する証言として書いたのではなく、これは単なる物書きのノートなのだ――と。少女は小説家になることを望んでいるのである。……
 アンネ・フランクを受難者、そして象徴にしたのはナチスだった。彼女自身は風刺家であったほうがずっとよかっただろう。収容所生活を生き延びてさえいれば、一九五五年には一篇の小説を携えて姿を現していたかもしれない。その小説には、月の光あふれる屋根裏部屋での、少女と少年の情熱的なラブシーンが描かれている。二人の唇が重なり、少女の手は少年のウエストに触れ、少年の手は少女のスカートの下にもぐりこみ、下の部屋では大人たちが警察が来ないかとドアのところで耳をそばだてるが、聞こえるのは階上の恋人たちのため息だけ。アンネは聖人になろうとは思いもしなかった。彼女は、現実の人々がポットローストとゆでたじゃがいもを食べ。子供時代、恋人、子供、孤独、老年期について話をしたという、そんな物語をかきたかったのである。
(『アメリカ短編小説傑作選 2000年』DHC)


(この項終わり)

短編小説とはなんだろうか その3.

2005-05-23 22:39:53 | 
その3.モーパッサンとチェホフ

短編小説のなかには、巧妙な筋立てと、あっとおどろく結末を持っているものがある。すべてが最後の一瞬に向かって準備されているような作品である。わたしたちはその結末に心地よいショックを受け、おもしろいストーリーに満足し、作者にうまく驚かされたことを楽しむ。けれどもそんな物語の多くは、もう読み返すことはない。

そうではなくて、どんな話とも説明のしにくい、話したところで意味のない、ときにはその意味さえも十分に把握できない、そのくせ、ある場面の印象が脳裏に焼きついて離れない、そんな短編もある。わたしたちは、そんな短編とともに生きていく。読み直すこともあれば、読み直さないこともある。それでも汽車のなかで震えながら去っていくアンナ・セルゲーエヴナの姿(チェホフ『犬を連れた奥さん』)や、夏の夕暮れの日差しのなか、中庭の階段にすわってもの思いにふけるオリガ(同『かわいい女』)、あるいは、義足を盗まれて埃っぽい日差しのなか、途方に暮れて藁のにすわっているハルガの姿(フラナリー・オコナー『善良な田舎者』)の姿を忘れることはできない。どうかした瞬間、思いがけないときに、ふっと心をよぎる。

前者の作品群の代表のような作家が、フランスのモーパッサンである。
モーパッサンは三十歳から四十歳までの十年間に三百六十編あまりの短編を残した。

ただただ勲章をつけたい、という願いしかなかったサクルマン氏が、ついに勲章を手に入れたわけ(『勲章』)、やりくり上手で、ただ、イミテーションの宝石が好き、という悪癖をひとつだけ持つ妻が、肺炎で亡くなってみると、実はその宝石は全部本物だった、いったい彼女はどうしてそんなものを手に入れたのか(『宝石』)、あるいはまた、大臣官邸に招かれた小役人の妻が、金持ちの友だちに首飾りを借りて出席する、ところがうっかりその首飾りを紛失し、後半生はその首飾りを買い戻す借金に追われる、ところがその首飾りは……(『首飾り』)、こうした有名な短編のどれもが、くっきりした起承転結と、印象的なクライマックスを持つものである。

こうしたモーパッサンの作品は、多くの作家に影響を与えた。
なかでも、その最大の作家がサマセット・モームだろう。モーパッサンの強い影響を受けたモームは、後者の代表のような作家であり、以降の短編小説に決定的な影響を与えずにはいなかったチェホフのことを、このように批判する。

引用は筒井康隆『短編小説講義』(岩波新書)からの孫引き。原文の典拠は不明。

 自分が短編を書き出したころは、英米の作家たちはまるでチェホフ一辺倒であり、何ぴとにもあれ芸術的資質があって短編小説を書こうとするものは、絶対にチェホフ流に書かねばならぬとされていた。なるほどチェホフの短編は立派なものである。が、彼には彼の限度があり、彼チェホフは賢明にも自身のその限度を彼の芸術の基盤とした。たとえばモーパッサンの『首飾り』のように、食卓で語っても人をひきつけるような、ああいう引きしまった劇的な「話」を考え出す才能は彼にはなかった。人間としては彼は快活で実際的な人柄だったらしいが、作家としてはふさぎ屋の憂鬱質で、そのために人間のはげしい行動とか多彩さとかいう面には背を向けた。彼の見る人生は単色の人生であった。……ところで私にはチェホフ流の短編は、書こうと思っても書けたかどうかわからない。私にはその気はなかった。私は、幕あきから結末まで、きっしりと引きしまって、とぎれのない一線をなして進行する、そういったストーリーが書きたかった。私は短編小説というものを、物質的なものにもせよ精神的なものにもせよ、ただひとつの出来事を語るもの、その出来事をはっきり説明するのに絶対必要でないものは、一切排除することによって劇的統一を与え得るもの、と理解した。いわゆる「ねらい」というか「おち」というか、そういうものを持つことを私はおそれなかった。「おち」がいかんというのは、それが論理的でないばあいだけなので、それが単に効果だけをねらって正当の理由もなくとってつけられた例が多すぎたために、「おち」が不信を買ったのだ、と私は考えた。一言でいえば私は自分の短編のおわりを、「……」で終わらせるよりははっきりとフル・ストップで結ぶほうをこのんだのである。


そうしてモームは『雨』や『赤毛』という、くっきりしたストーリーと意外な結末を持つ、それでいて、芸術性を失わない作品のいくつかを残した。

では、モームがここまで反発した、そして、反発せざるをえなかったチェホフの短編小説とは、どのようなものだったのだろうか。

医学生でもあった若いころのチェホフは、生計を稼ぎ出すために、六百以上のコント(短編小説よりさらに短い、軽妙な一種の落とし話)を書き飛ばした。そうしてわずか十年ほどの間に、『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』に代表される戯曲と、以降、どんな短編作家も、決して意識することなしには一行も書けないような数多くの短編小説を遺す。

もちろんチェホフもモーパッサンを意識していた。

モーパッサンがみずから技法にたいして高い要求をしめしたあとでは、仕事をするのはむずかしいのですが、しかし、仕事をしなければなりません。とくに、われわれ、ロシヤ人は、仕事をしているときは大胆である必要があります。大きな犬もいますが、小さな犬もいます。小さな犬は大きな犬がいたってとまどうべきではありません――すべての犬は吠えるべきです――それも神さまがあたえてくれた声で吼えるべきです。(イ・ブーニン『チェーホフ』:引用は佐藤清郎訳・編『チェーホフの言葉』弥生書房)

けれどもその「小さな犬」の声は、モーパッサンの声とはひどくちがったものだった。

仕事をしなければなりません……手をやすめずに……一生……。ぼくの考えでは、小説を書き終わったなら、発端と結末を削ったらいい。ぼくたち、小説家は発端と結末のところでいちばん嘘をつくものだ……みじかく、できるだけ簡潔に語る必要がある。(引用同)


見たり、感じたりしたことを、正確に、芸術的に書かねばなりません。あの作品、この作品で、あなたは何が言いたかったのですか、とよくきかれます。こういう質問にはぼくは答えません。ぼくの仕事は書くことです。そして、ぼくはどんなことについても書くことができますよ。このびんについて書けっていわれれば、「びん」という題で短編をつくりますよ。生きた形象が思想を生み、思想が形象を生むのではないのです。(エリ・ア・アヴィーロワに語ったことばから。引用は前掲書)

そこには「筋」もなく、メッセージもなく、あるのは「生きた形象(イメージ)」。
こうしたチェホフの短編は、ひとつの小説が終わっても、決して終わることはないのだ。

モーパッサンや、モームの短編のように、チェホフはおもしろくはない。筋を要約しても意味はないし、意味を取ろうと思えば苦労することさえある。それでも登場人物たちは、ストーリーを越え、わたしたちの内部で息づく。

夏目漱石は『道草』の最後で、主人公の健三にこのように言わせている。

世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

そう、漱石の言うように、チェホフの短編も片づかない。色々な形に変わって、わたしたちのなかに織り込まれていくのだ。まさに「世の中」のあらゆることどものように。

(この項つづく)

短編小説とはなんだろうか その2.

2005-05-21 19:45:38 | 
その2.わたしたちにふりかかるできごと

ポーが書き手が考えた効果を読み手に与えるのが短編小説の使命と考えたのに対して、まったくちがうふうに短編をとらえる作家もいる。

阿部昭は『短編小説礼賛』のなかで、短編集『わが名はアラム』を残したウィリアム・サローヤンのことばを、このようなかたちで紹介している。

サローヤンは、短編小説を文学作品とか書物とか考える前に、それをわれわれの生活の最もありふれた経験の一つと考えるのである。
「それは日々すべての人の身にふりかかる。それは形式(フォーム)と文体(スタイル)〔話しぶり〕とをもって人から人へと伝えられる。こんなことが起こった、こんなふうに起こった、こういうわけで起こった等々と。
 要するに、短編小説はおのずからにして、人間の経験に対して中枢の位置を占めている。詩や長編小説や戯曲もそれは同じだが、最も自然に短編小説はそうである。」


短編小説、あるいは長編小説と、読み手の“人生”を重ね合わせていく見方をしたのは、サローヤンばかりではない。アイルランドの作家で、短編小説の名手でもあるフランク・オコナー、「短編小説はアメリカの a national art formである」とも言ったオコナーは、短編小説をこのようにとらえていた。多少長いが、青山南『アメリカ短編小説興亡史』よりその部分を引用する。

で、長編だが、オコナーに言わせると、それは、読者が主人公にじぶんを重ね合わせていく小説のことである。長編の主人公というのは、夢見る者だったり不良だったり反逆者だったりといろいろだが、読者は、そんな主人公のなかにじぶんの一面をかんじとり、共鳴しながら読んでいくというのである。
 そして、この指摘が卓抜なのだが、長編の主人公は、たいがい、じぶんのいる社会を極度に意識していて、社会となんらかのかたちで折り合いをつけようとしている、とオコナーは言う。社会にたいする態度がどんなものであれ、主人公はノーマルな社会の存在をはっきりとかんじているというのだ。
「ノーマルな社会があるという概念がなかったら、長編は成立しえない、と言ってもいいだろう。」
 しかし、短編の場合は、そこに登場する人物は、たいてい、じぶんのいる社会を意識していない。じぶんはそんなものからはずれている、と考えている。短編ではいつも、社会からはぐれた者が社会の端っこをとぼとぼ歩いているのだ、とオコナーは言う。
「昨今、現代小説が話題になると、小説からヒーローがいなくなった、とよく言われる。しかし、短編には、もとから、ヒーローなどいたためしはないのだ。そこにいるのは、いまひとつ言葉がふさわしくないが、a submerged population group のひとたちである。」
 そう、オコナーの短編論のキーワードはこの a submerged population group である。訳すと、「人目につかないひとたち」とか、「とくに目立たないひとたち」とか「隅っこに追いやられているひとたち」ということになるだろうか。オコナーは、 the Little Man という言葉におきかえてもいるが、存在感の薄い、「あっ、きみ、そこにいたの」とでも言われそうな、そういうひとたちである、と考えていいだろう。
 オコナーによれば、短編は、帝政ロシア時代にロシアの作家ニコライ・ゴーゴリが書いた「外套」とともに始まった。ご存知のかたもきっと多いだろうけれど、古い外套を繕い繕い長いこと着てきた役所のしがない書記が、もう繕えないと言われ、必死でお金を工面して新しいのを買ったのに、盗まれてしまうという、悲惨な話である。あまりにも影の薄い、あまりにも恵まれない、死んでも(じっさい死ぬのだが)死にきれない(じっさいお化けになるのだが)その惨めな姿は、まったくもって submerged で little な人物そのものだ。
 なるほど、短編がそういう人物を中心に据えるのだというのなら、これはまさに先駆である。
 では、どうして「短編小説はアメリカの a national art formである」のか。いったいどこにどのくらい submerged で little な人物がいるというのだろうか。オコナーは、アメリカは移民の国なのだ、とばかりにこう言っている。
「アメリカにはたくさん submerged population group が住んでいる。アメリカ人特有の他人へのやさしさは――アメリカ人の横暴さと隣り合わせなのだが――不親切な社会で途方に暮れ、親切な社会など標準どころか例外であると思い知らされてきた先祖をもつひとびとのやさしさなのである。」


社会からはずれた者が主人公であるのが短編、確かに、そう言われてみると、心に残った短編のことごとくがそれに当てはまるように思えてくる。

わたしたちは、自分の物語のなかでは主人公だが、社会という大きな物語のなかでは、「端っこをとぼとぼ歩いている」人間だ。自分の人生を物語としてとらえるときは、長編小説としてとらえ、社会の一員として、日々起こる自分にふりかかるできごとを見るときは、短編小説としてとらえている、とも言えそうだ。

短編小説をこんなふうに眺めることもできるのである。

(この項つづく)

短編小説とはなんだろうか その1.

2005-05-19 22:12:42 | 
短編小説とはなんだろうか

その1.エドガー・アラン・ポー

小説の分類のやりかたとして、「長編小説」「短編小説」に分ける、という分類の仕方がある。
単に長さがちがうだけなのだろうか。
短編というのは、単に短い話なのか。
短編にしか扱えない物語というのがあるのではないのだろうか。

ここでは教科書的な定義を離れて、さまざまな人が語ることばのなかから、短編小説とはなにかを浮かび上がらせてみたい。

教科書的な定義を離れる、と書いておいて、いきなりそれに反することをやってしまうのだが、まず簡単に、文学史的な観点から見ておくと、今日の短編小説のようなスタイルが確立するのは、19世紀、雑誌の発達と密接に関連している。

都市に人々が集まるようになり、大衆層が生まれる。そうした人々に、手軽に娯楽を与えるものとして、雑誌が生まれる。

毎月発行される雑誌には、一回で読むことができて、楽しい、しかも目新しい読み物こそがふさわしい。
こうした雑誌の発達にあわせて、数多くの短編が求められたのである。

こうした短編小説の生みの親とも言われるのが、エドガー・アラン・ポーである。
彼は、一般的に流布されているイメージとは異なり、非常に精力的な短編小説の書き手でもあり、同時に雑誌の編集者でもあったのだ。

ポーによれば、三十分から一、二時間のうちに「一気に」(at one sitting) 読んでしまえるのが短編である、という。
短編はそこのところを十分に考慮して、書かれなければならないのだ、と。

長編小説というのは

一気に読まれることがないので、全体から生じる巨大な力を伝えることができない。読書の合間に割りこんでくる俗世間のあれやこれやが、大なり小なり、本の印象を歪めたり、台無しにしたり、弱めてしまう。読むのを中断したそのときに、全体のまとまりがたちまち損なわれてしまう。

それに対して短編小説というのは、

短い話の場合だと、書き手はじぶんの意図をおもいっきり打ち出せる。たとえ、それがどんなものであってもだ。本を読んでいる一時間、読み手の心は書き手の統制下にあるからだ。

そうして、短編小説はこのように書かれるべきだという。

まずは、念入りに、どういう効果をだしてやろうか、と考え、それから、いろいろな出来事をこしらえていくのだ。あらかじめ考えておいた効果をだすのにふさわしいように、出来事をこしらえるのだ。書き出しの文章が、その効果を際立たせられなかったら、第一歩からつまずいたことになる。作品には、すでに考えられた作戦に直接的ないしは間接的に貢献しない言葉はひとつもない。


こうしてポーは、読者を怖がらせる仕掛けに満ちた短編をつぎつぎに発表していったのだ。

(この項つづく)

不思議なサキ

2005-05-13 21:20:18 | 翻訳

この道を歩んで行った人たちは、ねえ酒姫(サーキィ)
もうあの誇らしい地のふところに臥したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
 あの人たちの言ったことはただの風だよ。
   (オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮訳 岩波文庫)


サキ、本名はヘクター・ヒュー・マンロー、ペンネームのサキ(Saki)は、11世紀ペルシャの詩人オマル・ハイヤームの詩『ルバイヤート』に出てくる酒姫にちなんでいる。酒姫とは酒の酌をする侍者、普通女性ではなく、美少年で、同性愛の対象とされた。このペンネームに、彼の性的嗜好を読み込む見方もある。

生まれたのは1870年イギリスの植民地ビルマ、スコットランド系の父親は当地で警官をしていた。この経歴はジョージ・オーウェルとも重なり合うのだが、オーウェルが生まれたのは1903年、ヘクターが生まれた時代とは、植民地もそれを取り巻く情勢も、ずいぶん異なっていただろう。

母親はヘクターが二歳の時、イギリスの田舎道で逃げ出した雌牛に殺される。その後兄や姉と一緒にイギリス本国の伯母のもとに引き取られ、そこで成長する。この伯母という人はしばしばムチを使う厳しい人物だったらしい。ここで紹介された“スレドニ・ヴァシター”のデ・ロップ夫人にも、おそらくこの伯母のイメージが投影されているのだろう。

ヘクターはベッドフォード・グラマースクール(グラマースクールとは、中世からある特権階級のための中等教育機関で、後にパブリック・スクールと枝分かれしていく)を終えたあと、1893年、ビルマ警察に勤務するようになる。三年間、そこで働いた後、健康を害して退職し、帰国。ジャーナリストとして活動を始める。

1900年、最初の書物を出版、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をモデルとした『ロシア帝国の台頭』を出版するが、黙殺される。続いて1902年、初めての短編集を出版、以降1908年まで、ジャーナリストとして活動しつつ、短編を中心に創作を続けていく。以降は創作に専念し、数多くの短篇集のほか、長篇小説や戯曲も発表した。

1911年第一次世界大戦勃発、ヘクターは41歳になっていたが、志願し、一兵卒として参戦し、1916年11月14日、フランスにて狙撃兵の銃弾に倒れ、死亡。最期のことばは「このいまいましいタバコの火を消してくれ」だったという。

ホモセクシュアル、かつ反ユダヤ主義者で保守主義者、ただし彼自身はあまり人生を重要なものとはとらえていなかったという。批評家のV.S.プリチェットはサキの作品をこのように語っている。「サキは書くことを目の敵にしていた。世の中には死ぬほどうんざりしていたし、その笑い声は、恐怖のためにあげた悲鳴が短く、ひとつかふたつ、連なったもののようだった」

***

短編のなかには、わたしたちが生きている一瞬を切り取ったようなものもあれば、すべてはラストシーンに向かって準備され、「その瞬間」が訪れたとき、一気に終わるような短編もある。

サキはもちろん後者に属する作家である。
ほぼ同時代にアメリカで活躍したO.ヘンリーと比較されることも多いが、ともに意外なオチを用意しているとはいえ、O.ヘンリーの持つ人生の暖かみは、サキとは無縁である。

恐怖を主題とした作品も多く、ここでも紹介した『開いた窓』は、恐怖と笑いの要素が入り交じった、巧妙なプロットとタイトな構成を持つ、短編小説の一種のモデルと言える作品だろう。

ここでは短編小説のお手本のような代表作『開いた窓』、コミカルな『ハツカネズミ』、そしてサキとなる前、ヘクター少年の幻想の世界を垣間見ることができるような『スレドニ・ヴァシター』の三篇を選んでみた。サキの魅力を少しでも感じていただければ、それに優る喜びはない。

最後にサキも愛した『ルバイヤート』からもうひとつ。

死んだらおれの屍は野辺にすてて、
美酒(うまざけ)を墓場の土に振りそそいで。
白骨が土と化したらその土から
瓦を焼いて、あの酒瓶(さかがめ)の蓋にして。

サキ 『スレドニ・ヴァシター』 最終回

2005-05-11 22:18:48 | 翻訳
コンラディンが物置に行くのをやめようとしないことに気がついたデ・ロップ夫人は、ある日もっとよく調べようとそこに行った。

「錠がかかっている檻のなかに、あなた、何を飼っているの。おおかたモルモットかなんかでしょうね。だけどそのうち全部片付けてしまいますからね」

コンラディンは押し黙って答えなかったが、「あの女」はコンラディンの寝室を徹底的に捜し回って、とうとう注意深く隠しておいた鍵を見つけ、すぐさまその成果を確かめに物置へ降りていったのだった。

寒い午後で、コンラディンは家でじっとしているように言いつけられていた。ダイニング・ルームの一番端の窓から、途切れた植え込みの向こう側に、物置の扉がうまいぐあいに見通せる。コンラディンはそこに陣取った。

「あの女」が入って行くのが見えた。コンラディンは想像する。「あの女」が聖なる檻の戸を開けて、近眼の目を凝らし、神のおわします積もったわらの床をのぞきこんでいるところを。気短かな「あの女」のことだから、おそらくわらをつついたりするだろう。コンラディンは必死の思いで最後の祈りを唱えた。だけど、ぼくがこうやって祈っているのは、ほんとは信じてなんかいないからだ――コンラディンはそのことを知っていた。「あの女」がいまにも、むかつくような「ほくそ笑み」を浮かべて出てくるにちがいない。一時間か、二時間もしたら、庭師が、偉大なる神を、いや、そうなるともはや神ではなく、ただの檻のなかの茶色いイタチを持っていってしまうのだろう。そうして、こんどみたいにぼくに勝って、これからだって勝ち続けるんだ、ぼくは「あの女」にまとわりつかれて、好き勝手にされて、バカにされるうちにだんだん弱って、医者の言ったとおりになっていくのだろう。コンラディンはうち負かされ、悔しく惨めな気持ちを抱えたまま、危機に瀕している神のために、大きな声で、昂然と詠唱を始めた。


スレドニ・ヴァシターは進む
胸の思いは熱くたぎる血の色、歯はきらめく白
敵は停戦を懇願したが、与えられたのは死
スレドニ・ヴァシター、美しきもの


不意にコンラディンは歌をやめて、ガラス窓に身を寄せた。物置の扉は半開きになったまま、もう何十分も過ぎている。ずいぶん長い時間がいつしか過ぎていたのだ。数羽のムクドリの群れが、芝生を走ったり、飛び回ったりしている。コンラディンはその数を、何度も何度も数えたが、片方の目はゆらゆらと揺れる扉をいつもとらえていた。

不機嫌な顔つきのメイドが入ってきて、テーブルにお茶の用意をしだしたが、コンラディンは立ったまま、じっと見守っていた。胸に希望がじわじわと兆してきて、さっきまで、打ちのめされ、恨めしげにじっとたえることしか知らなかった目に、勝利の色が浮かび始めていた。ひっそりと、内心天にものぼるような心地で、もういちど勝利と狼藉の凱歌をうたいはじめた。

やがて見守っていたコンラディンは報いられた。扉から、体の長い、丈の低い、黄褐色のけものが姿を現した。傾きかけた日の光に目をしばたかせ、顎から喉にかけてはべっとりとどす黒く濡れている。コンラディンは崩れるように跪いた。大きなケナガイタチは、庭のはずれを流れる小川に行って、しばらく水を飲んでいたが、板の橋を渡って、藪のなかに消えていった。それがスレドニ・ヴァシターを見た最後だった。

「お茶の支度ができたんですけど」仏頂面のメイドが言った。「奥様はどこへいらっしゃったんですか」
「ちょっと前に、物置へ行ったよ」
メイドがお茶の用意ができた、と女主人を呼びに行く間、コンラディンは食器棚の引き出しからトースト用のフォークを探し出し、自分のためにパンを一枚、焼き始めた。パンを焼いてからバターをたっぷり塗って、ゆっくり楽しみながら食べる。そうしているあいだもコンラディンは、ダイニング・ルームのドアの外が慌ただしくなったり、かと思うと急に静かになったりするのに耳を傾けていた。メイドがバカバカしいほどの大声で悲鳴をあげる、台所の方から、どうしたんだ、何かあったの、と聞く声がする。バタバタと走り回る音、外へ助けを求めて飛び出す音、それからしばらくの静寂ののちに、怯えたようなすすり泣きが始まり、重い荷物を家の中に引き入れるような音がした。

「いったいかわいそうなあの子にはだれが話すっていうの? とてもじゃないけどわたしにはできないわ!」
悲鳴のような声がそう言った。みながその相談をしているあいだ、コンラディンはもう一枚、自分のためにトーストを作った。

The End

サキ 『スレドニ・ヴァシター』 その3.

2005-05-10 21:18:17 | 翻訳
メンドリをスレドニ・ヴァシターの礼拝に参加させたことは一度もない。ずっと前にコンラディンはこのメンドリが「アナバプティスト」だと決めつけていたのだ。アナバプティストが何のことだかちっともわからなかったけれど、荒々しく、もったいぶってはいないものではないかとひそかに思っていた。デ・ロップ夫人は、コンラディンが想像し、かつ嫌い抜いている、あらゆるもったいぶったものの見本だったのだ。

そのうち、コンラディンが物置に夢中になっていることにデ・ロップ夫人が気がつくようになった。
「どんな天気の日だって、あんなところでぶらぶらしているのだもの、あの子には良くないわ」
早々にそう決心すると、ある朝、朝食の席で、昨夜のうちにメンドリは引き取ってもらいましたからね、と言い渡したのだった。夫人は近眼の目でコンラディンをねめつけ、怒ったり悲しんだりしてわっと泣き出すのを待ちかまえた。そうすれば、さっそくものごとの道理と教訓を説いて、びしびし叱ってやらなくちゃ、とてぐすね引いていたのだ。

ところがコンラディンは無言だった。言うべきことなど何もないのだ。青ざめ、強ばった表情を見て、さすがに夫人も多少なりとも気が咎めたらしく、午後のお茶の時間には、食卓にトースト、普段なら「コンラディンに良くない」という理由で禁じていたトーストが出されていた。トーストは「手間がかかる」という、中流階級の女性の目からすると許し難い欠陥を持つものである、という理由からでもあったのだが。

「トーストは好きだったはずじゃなかったの」
コンラディンが手を出さないのを見て、傷ついたような声を出した。

「そういうときもあるけど」とコンラディンは答えた。

その日の夕方、檻に棲む神に、まったく新しい礼拝を考え出した。いつもは賛美の詠唱をささげていたのだが、今日は願い事をしたのである。

「スレドニ・ヴァシター、どうかぼくの願いをひとつだけ叶えてください」

願いの中味は言わなかった。神であるスレドニ・ヴァシターなら、わかってくれているに相違ない。すすりなきをじっとこらえて、空っぽの一隅に目を凝らし、コンラディンは憎むべき世界に戻ったのだった。

それから毎晩、寝室の心落ち着く暗闇のなかで、あるいは夕方の物置の薄暗がりのなかで、コンラディンのせつない祈りは続いた。
「スレドニ・ヴァシター、どうかぼくの願いをひとつだけ叶えてください」

(コンラディンの祈りとは何か? そしてそれは叶えられるのか? 次回いよいよ最終回)

サキ 『スレドニ・ヴァシター』 その2.

2005-05-09 22:00:59 | 翻訳
生気のない、気が滅入りそうな庭にいても、庭に面したいくつもの窓のどれかがいまにも開いて、「こんなことしちゃいけませんよ」とか「あんなこともダメですよ」と注意が飛んできたり、「お薬を飲む時間ですよ」と呼び戻されたりしそうで、ちっとも楽しいことはなかった。ほんの二、三本、生えているくだものがなる木も、コンラディンがもいだりしないよう、大切に隔離されていた。まるで不毛の地にやっと花をつけた珍しい植物かなにかのように。だが、くだものを買い取ってやろう、などと言ってくれそうな果物屋なんて、一年間に収穫できる全部を10シリングでいいから、と言ったって、見つかりそうにはなかった。

だが、ほの暗い植え込みの陰、だれもが忘れてしまった一角に、いまは使っていない、かなり大きな物置があって、そこはコンラディンの隠れ家、遊び場にもなれば、大聖堂にもなる、さまざまな顔を持つ場所なのだった。そこにコンラディンは空想のともだちをたくさん住まわせていた。昔話からその一部を借りたもの、自分の頭のなかで作りだされたもの、それだけでなく、血肉を備えた二匹の生き物もいた。

一方の隅には毛むくじゃらのフーダン種の雌鶏が一羽いて、コンラディンはほかに持って行き場のない愛情を、ひたすらにこの雌鳥に注いでいた。ずっと奥の暗がりには、大きな檻があった。ふたつに仕切られていて、一方には前面に目の詰まった鉄格子がはめてある。そこは大きなケナガイタチの住処だった。なじみの肉屋の見習い小僧が、コンラディンが長いことかけてこっそり貯めておいた小銭と交換に、檻ごと、こっそりと持ち込んだのである。コンラディンはしなやかな、鋭い牙を持つこの獣がおそろしくてたまらなかったが、同時に最高の宝物であるとも思っていた。

物置にイタチがいる、ということは、秘密であると同時にこの上ない喜びでもあり、細心の注意を払って「あの女」――コンラディンはひそかに従姉妹のことをそう呼んでいた――を遠ざけておかなければならない。ある日、まったく自分だけの思いつきで、このイタチにすばらしい名前をつけてやった。そして、そのときからこの獣は神となり、信仰の対象となったのである。「あの女」は信心深く、週に一度近所の教会にせっせと通い、コンラディンも連れて行くのだが、教会の礼拝など、自分の信念に反する、まったくなじめないものだった。

毎週木曜日、薄暗く黴くさい、静かな物置のなかで、コンラディンは、偉大なるケナガイタチ、スレドニ・ヴァシターがおわします木の檻にぬかずいて、神秘的で念入りな儀式を行った。赤い花が咲く季節はその花を、そして冬には深紅の苺を神殿に供える。スレドニ・ヴァシターは、たいそう荒々しい側面をことのほか強調した神であり、「あの女」が信じる神とは正反対、コンラディンの見方によると、まったく逆の方向、はるか隔たったところにいるのだった。

重要な祝祭日には、ナツメグの粉を檻の前に撒く。このささげものの大切な点は、ナツメグは盗まれなければならない、ということだった。祝祭日は定期的なものではなく、たいていは何か祝い事が持ち上がるたびに定められた。デ・ロップ夫人が三日間、激しい歯痛に悩まされたときは、コンラディンも三日通じてお祝いをし、スレドニ・ヴァシターの力によって歯痛が起こったのだ、と半ば信じることに成功したほとだった。歯痛がもう一日続いたら、ナツメグはすっかりなくなってしまっただろう。

(この項続く)