陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

J.D.サリンジャー「ロイス・タゲットの長いデビュー」その5.

2010-03-31 23:28:53 | 翻訳
その5.



 夕食後、ロイスが電話を終えて戻ってくると、ミセス・タゲットは本から顔をあげてたずねた。「誰と話してたの? カール・カーフマンさんだった?」

「そうよ」ロイスはそう言うと、腰を下ろした。「バカなやつ」

「バカなんかじゃありません」ミセス・タゲットはうち消した。

 カール・カーフマンは、太い足首をした背の低い男で、いつも白い靴下をはいている。色ものの靴下をはくと炎症を起こすのだという。おそろしくいろんなことを知っていて、たとえば日曜日に車で試合を見に行くつもりだ、とでも言おうものなら、すかさず、どのルートで行くつもりか聞いてくるのだった。「まだ決めてないんだけど、国道26号線かな」と答えると、カールは、そっちより7号線の方が絶対いい、と主張して、ノートとエンピツを取り出し、あれこれ説明してくれる。手間をかけさせて悪かったね、とお礼を言うと、短くうなずき、たとえ道路標識が出ていても、クリーブランドの有料高速道路のところで曲がったりしちゃいけないよ、と念を押す。エンピツとノートを片づけているカールを見ていると、申し訳ないような気がしてくるのだった。

 リノから帰って数ヶ月が過ぎたころ、カールはロイスに結婚を申しこんだ。断られることを前提としているかのような言い方だった。〈ウォルドルフ・アストリア〉で開かれたチャリティダンスパーティから、一緒に帰っているときである。セダンのバッテリーが上がってしまい、どうにかしてスタートさせようと悪戦苦闘しているカールに、ロイスは「焦らなくていいわよ、カール。まずは一服しましょうよ」と声をかけた。ふたりが車の中でタバコをふかしているときに、カールが陰気な調子で切り出した。

「ぼくとなんて、結婚するのはきっといやでしょうね、ロイス」

 ロイスはタバコをふかしている彼を見ていた。煙を吸いこんでいない。

「あら、カール。そんなこと言ってくださるなんて、いい人ね」

「君を幸せにするためなら、ぼくは何だってしますよ、ロイス。できるだけのことをね」

 カールが坐り直したので、ロイスのところから彼の白い靴下が見えた。

「そう言ってくださって、ほんとにうれしいわ、カール」ロイスは言った。「だけど、しばらくあたし、結婚のことなんて考えたくないのよ」

「そうだろうね」カールはすかさずそう言った。

「そうだ」ロイスは言った。「五十丁目と三番街の角に修理工場があったわ。そこまで歩きましょう」

 そのつぎの週のある日、ロイスはミディ・ウィーヴァーと〈ストーク・クラブ〉で昼食を取った。ミディ・ウィーヴァーはうなずいたり、タバコの灰をトントンと落としたりしながら、話の相手をしてくれる。ロイスはミディに、最初のうちはカールってバカだと思ったのよね、と言った。まあ、ほんとはそんなにバカってわけじゃないんだけど、でもね、ほら、あたしが何が言いたいか、わかるでしょ。ミディはうなずき、タバコの灰を灰皿に落とした。だけどね、あの人、ちっともバカじゃないの。ちょっと神経質で内気なんだけど、すっごく優しいのよ。おまけに、とっても頭がいいし。ミディ、あなた〈カーフマン・アンド・サンズ〉を実際に切り回してるのはカールだって知ってた? ええ、そうなのよ、ほんとなの。おまけに彼、ダンスがそりゃもううまいのよ。髪の毛もステキだし。なでつけてないときは、天然パーマなの。それはそれはすてきな髪なのね。それに、たいして太ってないし。筋肉質なのよ。それに、とにかくとっても優しいの。

 ミディ・ウィーヴァーは言った。「そうよね。わたし、昔からずっとカールが好きよ。いい人だと思うわ」

 ロイスは家に帰るタクシーの中で、ミディ・ウィーヴァーのことを考えた。ミディっていい子だわ。ほんと、ちゃんとしてる。頭だっていいしね。頭がいい人なんて、そうそういるもんじゃないけど。ほんとうに賢い人となると。ミディは完璧。ロイスは、ボブ・ウォーカーがミディと結婚したらいい、と思った。あたしはボブなんかにはもったいなさすぎるもの。あんなドブネズミ。

 ロイスとカールは春に結婚し、結婚式から一ヶ月もしないうちに、カールは白い靴下をはくのをやめた。タキシードを着たときに、ウィング・カラーをつけるのもやめた。マナスカンに行く人に、海岸を避けて行くルートを教えてやることもやめた。海岸通りを行きたきゃ、勝手に行かせればいいじゃない、とロイスが言ったのである。ロイスはさらに、バド・マスターソンにはもうお金を貸しちゃダメ、とも言った。あとね、ダンスのときは、もう少し大きくステップを踏んで。気取って小さく踏んでる人なんて、チビの太っちょだけよ。それに、もしこれから先、あなたが頭をベタベタに固めたりしたら、あたし、頭が変になっちゃうわよ。

 ふたりが結婚して三ヶ月も経たないうちに、ロイスは朝の十一時になると、映画に行くようになった。ボックス席に坐って、ひっきりなしにタバコを吸う。たいくつなアパートに坐っているよりはましだった。自分の母親のところへ行くよりも、そっちの方が良かった。最近では母親ときたら、ひとつことしか言わないのだ。「あなた、痩せ過ぎよ」映画を見に行く方が女友だちに会うよりも良かった。実際には、ロイスがどこへに行こうが、かならず誰かに出くわしてしまう。ほんと、あの子たちバカばっかり。

 かくてロイスは朝の十一時に映画館に通うようになったのである。映画の間は腰を下ろし、それから化粧室へ行って髪の毛を梳かし、お化粧を直した。そのあとは、鏡の中の自分に向かって言うのだった。「さて、と。これから何をしたらいいのかしら」



(この項つづく)




J.D.サリンジャー「ロイス・タゲットの長いデビュー」その4.

2010-03-30 23:37:47 | 翻訳
その4.

 それでおしまいだった。ロイスは両親のアパートメントにそのまま残っていた、昔の自分の部屋に引っ越した。母親が新しい家具とカーテンを買いそろえてくれ、ロイスがまた歩けるようになると、父親はすぐに千ドルの小切手を渡した。「何か服でも買うんだな」と父親は言う。「さあ、行っておいで」そこでロイスはサックスデパートとボンウィット・テラーデパートに出向いて、その千ドルを蕩尽した。おかげでずいぶん衣装持ちになった。

 その年の冬、ニューヨークはさほど雪が降らず、セントラル・パークもいつもの姿にはならなかった。だが、気温は大変低かった。ある朝、五番街に面した自分の部屋の窓からロイスが外を眺めていると、ワイヤーヘアード・テリアを連れて散歩している人がいた。ロイスは独り言を言った。「犬がいたらいいな」その日の午後、ペット・ショップへ行くと、生後三ヶ月のスコッチ・テリヤを買った。明るい赤の首輪とリードをつけて、クンクン鳴くのをタクシーに乗せて帰ってきた。「かわいいでしょう」とドアマンのフレッドに見せてやる。フレッドは頭をぽんぽんと叩いてやると、ほんとにかわいい犬ですね、と言った。「ガス」とロイスは幸せそうに言った。「フレッドにご挨拶なさい。フレッド、この子はガスよ」彼女は犬を引きずってエレベーターに乗った。「おいで、ガスちゃん」ロイスは言う。「おいでったら、かわいいワンちゃん」ガスはエレベーターの真ん中で身震いしていたが、じきに床を濡らしてしまった。

 数日後、ロイスはガスを手放した。犬の方がどうやっても慣れようとしないので、ロイスもしだいに両親のいう、犬を街中で飼うのなんてかわいそうよ、という意見に同意するようになったのである。

 ガスを捨てに行った晩、ロイスは両親に、リノへ行くのを春まで待たなければならないなんてバカみたい、と言った。早く終わらせたいの、と。そうして一月の初め、ロイスは飛行機で西部へ向かった。リノ郊外の観光牧場に滞在し、シカゴ出身のベティ・ウォーカーと、ロチェスター出身のシルヴィア・ハガティと仲良くなった。ベティ・ウォーカーの洞察力たるや、ゴム製ナイフもかくやと思われるほどの鈍さではあったが、それでも男について、二、三の助言をしてくれた。シルヴィア・ハガティの方は、無口でずんぐりしたブルネットで、ほとんどしゃべらなかったが、ロイスが知っているどんな女の子より大量のスコッチ・ソーダを飲み干すことができた。三人の離婚がそれぞれに滞りなく片づくと、ベティ・ウォーカーはリノの〈バークリー〉でパーティを開いた。観光牧場にいた数人の男性も招待したところ、レッドというハンサムな青年が、ロイスに言い寄ってきたのである。羽目をはずしたりはしなかったのだが、ロイスは急に「あたしの近くへ来ないで!」と金切り声をあげた。みんなしてロイスの悪口を言ったが、ロイスが長身でハンサムな男を怖がっていることは、だれも知らなかったのだ。

 もちろんビルにはまた会った。リノから戻って二ヶ月ほど経ったとき、〈ストーク・クラブ〉の彼女のテーブルにビルやってきて、腰をおろしたのだった。

「こんにちは、ロイス」

「あら、ビル。ここに坐ったりしないでほしいんだけど」

「ぼくは精神分析医のところに通ってるんだ。医者が言うには、じきに良くなるんだって」

「良かったじゃない、ビル。あたし、待ってる人がいるの。あっちへ行ってもらえない?」

「またいつか、昼飯でも一緒に食わないか」ビルが聞いた。

「ビル、友だちが来たの。もう行ってちょうだい」

 ビルは立ちあがった。「電話してもいいかな」

「よして」

 ビルは向こうへ行き、ミディ・ウィーヴァーとリズ・ワトスンが腰をおろした。ロイスはスコッチ・ソーダを注文すると、それを飲み干し、さらに四杯、お代わりした。〈ストーク・クラブ〉を出るころには、自分でもかなり酔っていることに気がついていた。そのままどんどんどんどん歩き続ける。とうとう動物園のシマウマの檻の前までやってくると、ベンチに坐った。そうやって、酔いが醒めて膝頭のふるえがおさまるまで、そこにじっとしていた。やがて、家に戻った。

 家というのは、両親がいて、ラジオのニュース解説者の声が聞こえてきて、かしこまったメイドが左側にまわりこみ、よく冷えたトマト・ジュースのグラスを正面に置いてくれるところだった。





(この項つづく)



J.D.サリンジャー「ロイス・タゲットの長いデビュー」その3.

2010-03-29 23:33:23 | 翻訳
その3.

 ビルの発見から十五日間というもの、ロイスはサックスデパートの手袋のカウンターの前に立っているときでさえ、「ビギン・ザ・ビギン」のメロディを、口笛で歯の隙間から吹かずにはいられなかった。初めて、友だちの誰に対しても、心からいとおしく思えるようになった。五番街のバスに乗れば、車掌にほほえみかけたし、一ドル紙幣を手渡して、ごめんなさい、小銭の持ち合わせがないのよ、と言うのだった。動物園を散歩したし、母親には毎日電話で話した。お母さんってほんとうにすばらしい人ね。お父さんは――ロイスは気づいたのだ――働き過ぎよ。ふたり一緒に休暇旅行に行くといいわ。せめて金曜の夜には、うちに晩ご飯を食べに来てちょうだい、忙しいなんて言わないで、きっとよ。

 ビルがロイスに夢中になり始めて十六日目、恐ろしいことが起こった。十六日目の夜、ビルはリクライニング・チェアーに腰掛け、ロイスを膝にのせていた。ロイスの頭はビルの肩にあずけられている。ラジオからはチック・ウェスト・オーケストラの甘い調べが響く。チック自身が弱音器をつけたトランペットで、あのステキで古風な「煙が目にしみる」のリフレインを奏でていた。

「ねえ、あなた」ロイスがささやいた。

「どうしたんだい、ベイビー」ビルがやさしく答えた。

 固い抱擁から身をほどく。そこでまたロイスは、頭をビルの広い肩にあずけなおした。ビルは灰皿からタバコを取り上げた。だが、それを口に持っていく代わりに、エンピツを持つように指にはさみ、ロイスの手の甲のすぐ上で、小さく円を描いた。

「やだあ」ロイスは冗談めかしてやめさせようとした。「やけどしちゃうじゃない」

 だがビルは聞こえないかのように、ことさらにゆっくりと、というより物憂げな仕草でその行為を続けた。ロイスはぎょっとして悲鳴を上げ、身をふりほどいて立ちあがると、狂ったように部屋を飛び出した。

 ビルがバスルームのドアを叩いた。ロイスは鍵をかけている。

「ロイス、ロイス、ベイビー、かわいこちゃん、お願いだよ。自分でも何をしてるかわからなかったんだ、ロイス、ねえ、ドアを開けてくれよ」

 バスルームの中で、ロイスは浴槽の縁に腰をのせ、洗濯かごをじっと見つめていた。自分の右手でもう一方、やけどした方の手をぎゅっとつかんでいる。そうやっていれば、痛みがおさまるとでもいうように、すべてがなかったことにできるかのように。

 ドアの向こうでは、ビルがからからになったような声で呼び続けていた。

「ロイス、ロイス、頼むよ。おれ、気がつかなかったんだ、何が何だか。ロイス、頼むからドアを開けておくれ。お願いだ、後生だから」

 ついにロイスは出てくると、ビルの腕の中に戻った。

 だが、一週間後にまた、同じことが起こったのである。ちがったのは、こんどはタバコではなかった、というだけだ。ビルは、日曜日の午前中、ロイスにゴルフのスウィングを教えているところだった。みんながビルはとびきりゴルフがうまいと言うので、ロイスも「教えてよ」と言ったのだった。ふたりともパジャマを着たままで、裸足だった。とても楽しかった。クスクス笑ったり、キスしたり、笑い合ったり、実際、あんまり笑ったので、二度も坐りこまなければならなくなるほどだった。

 そのとき突然、ビルは二番ウッドの先を、ロイスのむきだしの足に振り下ろしたのである。彼のスウィングが正確ではなかったのは幸運だった。なにしろ渾身のスウィングだったのだから。





(この項つづく)


J.D.サリンジャー「ロイス・タゲットの長いデビュー」その2.

2010-03-27 23:21:21 | 翻訳
その2.

 ロイスは女の子たちと一緒にクルーズ船に乗り、マンハッタンには秋小口になるまで戻ってこなかった――まだ独り身のまま、3キロほど太り、エリー・ポッズとは絶交して。その年の残りはコロンビア大学で「オランダ―フランドル派の画家たち」「近代小説の技法」「日常スペイン語」の聴講生となった。

 ふたたび春がやってきて、〈ストーク・クラブ〉にエアコンが入るころになると、ロイスは恋に落ちた。相手は長身の劇場の広報係でビル・テダートンという、低い、しゃがれ声の青年だった。まちがっても家へ呼んでタゲット夫妻に紹介できるような相手ではなかったのだが、ロイスの目には、自分が家に連れて帰る相手はまちがいなくこの人だと映っていたのである。ロイスこそ夢中だったが、ビルの方は、カンザス・シティを出てからずいぶんあちこちを渡り歩いて、ロイスの目の奥深くをのぞきこみ、一族の金庫室に通じるドアを探すこつを身につけていた。

 ロイスはミセス・テダートンとなり、タゲット家は格別そのことで大騒ぎすることもなかった。自分の娘がアストービル家の立派な息子より、氷の配達人を選んだからといって、もはやあれこれ口出しするような時代ではないのだから。もちろん誰もが広報なんて氷屋のようなものだと知っていた。似たり寄ったりとはこのことだ。

 ロイスとビルはサットン・プレイスにアパートメントを見つけた。部屋が三つとキチネットがついていて、クローゼットはロイスとビルの肩幅の広いスーツを入れておけるだけの広さはあった。

 友だちに、幸せ? と聞かれれば、ロイスは「気がヘンになるくらいにね」と答えた。だが自分がほんとうに「気がヘンになるくらい幸せ」かどうかは、よくわからなかった。ビルのネクタイのラックにはゴージャスなネクタイがたくさんかかっていたし、贅沢なブロード生地のシャツを着ると、魅力的でたいそう立派に見えた。電話で誰かと話しているときはとくにそうだ。それに、ズボンを吊すときの手際はほれぼれするほどだし。それから、ええと、そうね、いつもとっても優しいし。でも……。

 それから急にロイスは自分が確かに「気がヘンになるくらい幸せ」であることに気がついた。というのも、結婚してから数日が過ぎたある日、ビルがロイスに恋をしたからである。

朝、仕事に行かなくては、と身を起こし、ベッドの反対側に目をやったビルは、これまで見たことのないロイスの姿をそこに見つけた。枕に顔を押しつけた顔ははれぼったく、寝顔はゆがみ、唇も乾いている。生まれてからこれほどひどい姿をロイスが人目にさらしたことはなかった――そうして、それを見た瞬間に、ビルは恋に落ちたのである。寝起きの顔を見せるような女とは、これまでつきあいがなかった。長いことロイスを見つめ、エレベーターで降りていくときも、その寝顔が離れなかった。地下鉄の中では、先夜、ロイスに聞かれた馬鹿げた質問のひとつを思い出した。ビルは思わず、電車のなかで声を上げて笑った。

 その夜、彼が家に帰ると、ロイスはリクライニング・チェアに腰掛けていた。赤いミュールをはいたまま、横ずわりしている。その格好で爪にやすりをかけながら、ラジオでサンチョのルンバに耳を傾けていた。それを見ていると、生まれてから今日まで、ただの一度も味わったこともないほどの幸福感が押し寄せてきた。宙を舞いたかった。歯がみしながら、気でも狂ったような、恍惚の叫び声をあげたいほどだ。だが、そんなことができるはずもない。そんなことでもしようものなら、厄介なことになるにちがいない。こんなことは言えるはずがなかった。「ロイス、初めて君のこと、ほんとうに好きになったよ。前はただのかわいいお堅い女の子だと思ってたんだけどね。結婚したのも金のためさ。だけどいまはもうそんなことはどうだっていいんだ。君はぼくのものだ。ぼくの恋人で、ぼくの奥さんで、ぼくのベイビーさ。ああ、神様、なんてぼくは幸せなんだろう」

もちろんそんなことはロイスには言えない。だから彼女が坐っているところまで、何気ないふうを装って歩いていった。かがみこんでキスして、やさしく引っ張り起こした。ロイスは「あら、どうしたっていうの?」と聞いた。ビルはロイスと一緒にルンバを踊り、部屋中をくるくる回った。



(この項つづく)



J.D.サリンジャー「ロイス・タゲットの長いデビュー」

2010-03-27 00:03:10 | 翻訳
今日からサリンジャーの初期の短篇である "The Long Debut of Lois Taggett" の翻訳をやっていきます。5日くらいで訳し終わりますので、まとめて読みたい方はそのくらいにのぞいてみてください。

原文はhttp://www.geocities.com/deadcaulfields/stories/The_Long_Debut_Of_Lois_Taggett.txtで読むことができます。


* * *

THE LONG DEBUT OF LOIS TAGGETT(ロイス・タゲットの長いデビュー)

by J. D. Salinger




 ロイス・タゲットは、ミス・ハスコムの私学を58人中26番目の成績で卒業し、秋になると両親は、彼らのいうところの社交界に、そろそろ娘の顔見せ、というか、売り出す時期だと考えた。そこでふたりは五桁の費用をかけて、かのホテル・ピエールにてパーティを開催し、ほんの数名の者たちを除けば――ひどい風邪を引きこんだり、「フレッドは最近具合がよくないんです」と返事をよこす連中である――、親しく行き来する人のほとんどが出席してくれた。

ロイスは白いドレスを着て、蘭のコサージュをつけ、物慣れない感じではあったけれど、まずまず魅力的な笑顔を浮かべていた。客の中でも年配の紳士たちは「確かにタゲット家の娘だな。まことに結構」と言い、年配のご婦人方は「とってもかわいい子じゃありませんか」とささやき合い、若い娘たちは「ほら、ロイスを見てごらんなさいよ。まあ、悪くないわよね。あの髪の毛、どこでやってもらったのかしら」などと噂し、若い男たちは「酒はどこだ」と言い合った。

 その年の冬、ロイスはマンハッタン界隈を、衣擦れの音を立てながらせっせと歩き回った。相手は〈ストーク・クラブ〉(※ニューヨークにある有名なナイトクラブ)のゴシップコラムニストが目を光らせている席で、ウィスキー・ソーダを飲む、とびきり写真写りの良い青年たちである。ロイスの評判は悪くなかった。スタイルは良かったし、金のかかった趣味の良い服を着て、“知的”と見なされていた。その冬初めて、“知的”がおしゃれなことになったのだ。

 春になると、伯父のロジャーが経営する会社のひとつで、受付係りとして働くことになった。その年、社交界にデビューした娘たちの間で「何かやること」が大流行し始めていた。サリー・ウォーカーは〈アルバーティ・クラブ〉で夜な夜な歌っていたし、フィル・マーサは服か何かのデザインをやった。アリ・タンブルストーンはスクリーン・テストを受けていた。そこでロイスもダウンタウンにあるロジャー伯父さんの会社の受付係として働くことになったのである。

ちょうど十一日間(そのうち三日は午前のみ)働いたところで、急にエリー・ポッズとヴェラ・ギャリショー、クッキー・ベンソンがクルーズ船でリオへ赴くという話を聞いた。そのニュースがロイスの耳に入ったのは木曜の晩のこと。誰もが、リオへ行けば、とびきりおもしろいことが待っているという。ロイスは翌朝、仕事に行かなかった。その代わりに部屋の床にすわりこんで足の爪を赤く塗りながら、ロジャー伯父さんのダウンタウンの会社に来るような男は、間抜けなやつらばっかりだ、と結論を出した。



(この項つづく)



おぬしも悪よのう

2010-03-25 23:22:31 | weblog
いまは時代劇そのものがテレビから駆逐されつつあるのかもしれないのだが、昔、テレビの時代劇が好きで『水戸黄門』だのなんだのの再放送を夕方やっているのを、ほぼ毎日のように見ていた友だちがいた。
何度かつきあって見たことがあるのだが、悪家老や悪代官などが悪徳商人と「越後屋、おぬしも悪じゃのう。ぐふふふ……」などと密談する、という場面が、毎回のように出てきていた。

そんな場面で何を密談するかというと、クーデターを画策しているなどということは全然なくて、たいていは私腹を肥やす算段なのである。それも、なぜもう少し深謀遠慮の画策をしないのか不思議なのだが、あきれるほど単純に、悪徳商人の便宜を図ってやるとか、人びとを苦しめる(違法な税金とか、日々の暮らしに必要なものの値段を釣り上げるとか)単純で見え見えの手口で金儲けを企むのである。そうして悪家老もしくは悪代官は「越後屋、おぬしも悪じゃのう。ぐふふふ……」と袖の下をもらって、片手で扇子をもてあそびながら、もう一方の手は脇息にもたせかけて笑うのである。「おぬしも」と副助詞「も」がついているのは、あなたもわたしも悪人ですね、という確認をしているのだ。

たいていは殿様は、自分の家来が人民を苦しめ、私腹を肥やしてていることを知らないほどボンクラである。ボンクラを頭に戴いて、家来たちはこぞって私腹を肥やしているのだ。まるでヴェトナム戦争の頃の南ヴェトナムのようだが、そこにはホー・チ・ミンは現れず、クーデターも起こらない。幕藩体制というのは、内実はともかく、システムとしては幕末になるまで揺るぎのないものだった、ということか。

ともかく、こうした悪家老と悪徳商人のタッグチームは、個人の資産としてはたいそうなものであっても、藩政レベルでいけば、たかの知れた金を手に入れようと、悪いことをし、人びとを苦しめる。そこで苦しんでいることに気が付いた正義の味方が、彼らが悪の張本人であることをつきとめる。だが、悪のタッグチームは罪の露見を怖れて、彼らを殺そうとする。実際に、レギュラーではない、その週だけ正義の味方と共に行動する人は、殺されてしまったりする。彼らの活躍によって動かぬ証拠をつきつけられた悪のタッグチームは、往生際の悪いことに正義の味方に反撃を試み、最後的にやられてしまう。ボンクラな殿様は、最後に自分の不明を恥じ、これからは心を入れ替えることを正義の味方に約束し、正義の味方は去っていく……という筋書きである。

当時、わたしは「ほんとうにこんな筋書きでいいのか?」と思っていた。

登場する悪人というのは、正義感もなければ倫理観もない。政治的理念など薬にするほどもない。組織力もなければ、人間的魅力もない。金に意地汚い割りには、みみっちい(悪事の露見を防ぐために、なにがしかの費用を割いて、適切な人員配置をしている気配もない)。なかでも最大の特徴は、頭が悪い、ということだ。こんな単純な手口しか考えつけなくて、よくその地位(豪商であるとか、代官職や家老職)に就けたなあ、と不思議になってしまうほどなのである。おまけに簡単にやられてしまうほど弱い。

こんな連中が「悪」の首魁だとしたら、こんな連中をのさばらせているような人たちというのは、どれほどしょぼいのだろう、とちょっと不安になってくるのだが、だからこそ「正義の味方」は毎週毎週、日本各地で出番があるのかもしれない、と思ったものだった。

時代劇のニーズは減ったのかもしれないが、こうした単純でわかりやすい「悪」というのは、未だにいろんなところでのさばっている。

映画『アバター』もそうだった。
『アバター』を観て、まず思ったのは、「おお、これはディズニー長編アニメーション『ホカポンタス』ではないか」ということだったのだが、最後はジョン・スミスが本国に帰る『ホカポンタス』ではなく、協力して新しい社会を作る『ダンス・ウィズ・ウルブス』だった。

ともかく、ここで「悪」はその星にある地下資源を狙う大企業の手先と、植民星の支配を目論む海兵隊なのである。彼らはなんの理念もなく、環境破壊に対する罪悪感もなければ、原住民に対する敬意もない。テレビドラマの悪家老一味とはちがって、機械文明を背景にしているため、確かに強くはあるのだが、立ちあがった自然の猛威を前にすれば、結局手もなくやられてしまう。

主人公は海兵隊の一員で、原住民の情報をスパイする役目を担っていたのだが、やがて自分が属する側こそが「悪」であることに気づき、悪の側と訣別する。
つまり、ここでも時代劇と同じく、どちらが「悪」でどちらがが「正義」なのか、が自明なのである。「悪」の側の代表格、悪代官に該当する海兵隊隊長も、越後屋に相当する大企業の手先すらも、自分たちが「悪」であることを知っているのだ。それを正当化する貧弱な論理はあるにはあるのだが。

だが、それにしても粗雑な理屈もあるものだ。自分が属している組織が「悪」なのか「正義」なのか、いったい何に照らし合わせてそんなことを言えるのか。誰にとっての「悪」なのか、誰にとっての「正義」なのか、そうしてその判断を下せるのは誰なのか。

確かに、わたしたちを取り巻く情況は、誰にもはっきりしたことがわからないものである。自分がどちらの側にいるのか、はっきり知っている人はどこにもいない。だからこそ、こうした娯楽作品があるのかもしれない。

だが、こうした単純な「悪」と「正義」の図式こそが、わたしたちのものの見方に、実のところひどく影響を与えているのではあるまいか。そんなのはドラマだ、現実はそんなものではない、といいながら、ニュースを見ても「悪いのはどちらか」という見方をしているのではないか。敵-味方の単純な構造に当てはめて、観客の位置に身を置いているのではないか。


ネコ道・獣道

2010-03-23 23:34:31 | weblog
わたしのところのベランダは、手すりではなく、幅30センチほどの縁が張り出しているのだが、そこはどうやらネコの散歩道でもあるらしく、たまに散歩中の彼らと顔を合わせることがある。

何種類かいるのだが、一番よく見かけるのはキジネコで、なかなか精悍な顔つきをしている。わたしが洗濯物を干している最中でも、平然と歩いてきて、わたしと目を合わせることはしないが、ぴんと伸びた尻尾から、こちらの様子を全身でうかがっていることがわかる。こちらも静かに洗濯物干しを続行していると、何食わぬ顔でそのまま歩いていく。

物干し竿に洗濯物がかかっているのは気にならないらしいが、散歩道を物でふさがれるのは不快なようだ。というのも、以前そこに洗ったスニーカーを乾かそうと載せていたら、放り出されてしまったことがあるのだ。部屋の奥にいたところ、ベランダでガタンと音がしたので、靴が風で落ちたのか、と思って見にいったら、くだんのキジネコがいた。下にスニーカーが一足、転がっていて、もう一方も邪魔だ、とばかりに、上品に片脚をあげたかと思うと、つま先の下に差しこんで、えいっ、とばかりにひっくり返して下に落としたのである。そのあと、こんなもの置くんじゃないぞ、とばかりにこちらをちらりと見て、悠然と歩いていった。先日訳したサキの「トバモリー」に出てくるネコであれば、皮肉な言葉のひとつやふたつ、投げかけられたかもしれない。以来、ネコくんの邪魔にならないよう、縁にはものを置かないようにしている。

井上靖は「道」という短篇のなかで、イヌの散歩道を「犬道」と名づけている。

井上靖を思わせる「私」という作家は、自分が仕事をしている部屋の窓から見える庭先が、犬の通り道になっていることに気がつく。そこから「獣道」ならぬ「犬道」という言葉を思いつくのである。

そこから話は、溝や水たまりなど、歩きにくいところばかり選んで歩くような小さな子供には、「犬道」ならぬ「子供道」があるという話に移り、ある画家にその話をしたところ、画家は、子供には野生の本能があって、そんな道を選ばせるのではないか、という。老人になっている画家は、自分同様、もはや若くない作家に対して、野生の動物が選ぶ「獣道」や「犬道」、その痕跡を残す「子供道」とは別に、健康のためにただただ機械的に歩く「馴染道」がわれわれには必要なのだ、と提唱する。

そこからやがて「私」の叔父の話が語られていく。
その叔父さんは明治時代、二十一歳で渡米して、アメリカ国籍も取得したのち、八十歳になったころアメリカ人のまま帰国して、郷里に小さい洋館を建ててそこにひとり暮らし、一年もしないうちに亡くなった。地元ではこの叔父さんは「アメリカさん」と呼ばれていた。というのも、毎日、きちんと背広を着て、ネクタイをしめ、磨いた革靴を履いた、りゅうとしたみなりでまったく同じコースを散歩していたからだった。

そのアメリカさんは、神社や小学校など人に会いそうな道を避けて、殺風景な野良道や、寂しげな裏道ばかりを縫うように歩いていくのである。なぜそんなことをするのか、誰もわからなかった。「馴染道」という言葉から「私」は叔父さんのことを思いだしたのだが、どうも「機械的」というのもちがう。あれはなんだったのだろう、と思っていたところに、作者の八十六歳になる母親が「あんな道は歩かない方がいい。いけない道だよ」と言い出す。

その道は過去、ふたりも神隠しに遭っている。あんな道を歩いていたから、アメリカさんも親戚廻りをするまもなく、死んでしまったのだ、と。

作者は母親の話から、こんなことを考える。

 今日、“いけない道”も“いけなくない道”もなくなっている。が、明治時代までは、“いけない道”というものがあったかも知れない。人間がふいに気が触れて山に向かって歩き出すような、そんな狂気を誘発しやすいような何らかの条件を持った道というものがあったかも知れない。
 今日、そうした道があろうとなかろうと、私には昼間歩いたアメリカさんの散歩道が、何の特色もない平凡な道でありながら、妙に魂胆でも持っている一筋縄では行かない道に見えて来た。そしてその道の上に置いてみると、私には、叔父という人間もまた全く異なった老人として目に映って来た。…(略)…

もちろん母の言った“いけない道”というものはたまたま叔父が自分の散歩道として選んだだけのことであって、叔父とその“いけない道”との間になんの関係もあろう筈はなかった。しかし、その“いけない道”というものの一点に叔父を置いてみると、叔父の姿はある烈しさを持ってくる。叔父は本当は山にでも向かって歩き出して行きたかったのではないかという気がしてくる。日本を棄ててアメリカに行き、アメリカを棄てて日本に来たのであるから、もうこの次は実際に山へでもはいってしまう以外、どこにも行き場所はなかったのである。
(井上靖『道・ローマの宿』新潮文庫)

この短篇は、この叔父さんの散歩道は「馴染道」などではなく、「犬道」や「子供道」に近い、「野生の臭いがする」という言葉で締めくくられている。

どこかに行くための道、たとえば学校へ行く道、駅へ行く道が一本しかない、という人の方が珍しいのではないか。たいていの場合、何種類かあるルートのなかのひとつをわたしたちは選んでいる。そうしてそのルートは、今日はあの道を通って帰ろう、今日はこの道を、といろいろ変えるというよりは、たいてい決まっている。

そのルートが決まっているのは、どうしてなのだろう。
もしかしたら、わたしたちの野生がその道を選ばせている……ということはないのだろうか。


ネタの話(※補筆)

2010-03-22 22:12:20 | weblog
わたしはこれまで、ここでいろんな人の話を書いてきたけれど、取り上げる人に確認が取れる場合は、書いてかまわないかどうか、かならず事前に相手に了承を取ってきたし、プライバシーにはできるだけ配慮してきたつもりだ。了承を取ることができないような昔の人や、直接面識のない人に関しては、設定や性別を変えたり、知っている複数の人を組み合わせたりしている。

だから、「こんなことがあった」とか「こんな話を聞いた」と書いている話は、わたしのそうした直接体験が元になっていることはもちろんなのだけれど、そこに登場する人は、かならずしも「事実そのまま」ではない。

一度、あるログで書いた人のことに関して、これは誰それさんの話ですよね、わたしもその人を知っています、いついつにどこそこでご一緒してたんですね、というメールをいただいたことがあって、すいません、それはちがいます、と返事を出したことがある。
なんだか嘘を垂れ流しているような気がした経験である。

けれど、逆に言えばわたしの捏造した人が、なんらかのリアリティがあるからこそ、読んでくださる方が実際に知っている誰かを思い出すわけで、文章の書き手としては、その意味で少しうれしい。

そういうことを明記していなくても、読んでくださる方にたぶん不都合はないと思うし、ある程度は理解してくださっているだろうと期待しているところもある。
反面、引っかかりがなかったわけではない。

コミュニケーションには、「過保護的協調原理」という原則がある。こう書くといかめしいけれど、実のところ、わたしたちが現実にいつも実践していることだ。簡単に言ってしまうと、コミュニケーションの参加者は互いに協力し合っている、ということである。

「宿題をやってきたか」と先生に聞かれて、
「昨日は試合前で部活の練習が遅くまであったんです」と生徒が答えた。
このとき、先生が「誰も部活の話を聞いているんじゃない」と言ったとする。

生徒は宿題をやってきたとも、やらなかったとも答えていない。けれども先生は、自分の質問に答えなかったことを問題にしているのではなく、生徒が宿題をしてきていないことを理解したうえで、その言い訳に部活動を持ち出したことを叱っているのである。

つまり、コミュニケーションの参加者は、相手と自分は協調しながら話をしているということを前提として、言葉の上では自分の話と相手の話が食い違っていても、想像力を駆使しながらその食い違いを埋めようとしているのだ。こうやってコミュニケーションがうまくいくよう、参加者は協力し合っている。コミュニケーションが「共同作業」と言われるゆえんだし、「空気が読めない」人とは、つまりこの共同作業をうまくやれない人のことだ。

話し手は、半ば無意識のうちに、相手に対して「聞くだけの価値がある」と思える話をする。自分の意見を言うときも、ただ相手を楽しませようとするときも、相手の反応をつねにうかがっている。

たとえば中学生が親に対して仏頂面で、何を聞かれても「別に」としか答えないのも、「別に」以外に何も言いたくない、といっているのではなく、「別に」としか答えない自分の不機嫌に気がついてほしい、汲みとってほしい、と相手に要求しているのだ。「別に」という返事も、その中学生にとっては「聞くだけの価値のある」話だと考えているのである。

ただ、ウェブ上の文章というのは、わたしたちは姿も肩書きもない、文章だけで判断してもらうしかない世界である。そこで自分の書いている文章が、わたしから切り離して、「聞くだけの価値のある話」なのだろうか、という疑問が出てくるのだ。

実際にあったことなら、少なくとも実際にあった、という価値はある。
さて、わたしの話にそれだけの価値があるのだろうか。やはりわたしは立ち止まってそこで考え込んでしまう。

こんなことを書いているのも、先日書き込んでくださったコメントの中に、「ネタ」ということがあったからである。
もちろんわたしもそれが、「話のネタ」という意味ではなく、「作り話」であるという意味であることは知っている。そうして、ちょうど漫才でやるボケとツッコミのように、「そんなのネタだろ」と突っこんでもらうための「ネタ」というのも。

けれども、それが成り立つのは、聞き手にとっての話の有効性が、そうした一種のたわむれにあると見なされる場合、という条件が必要だろう。

自意識過剰の中学生の時期を脱するなら、わたしたちは自分の存在に無条件の価値があるとは思わない。だから、特別の関係のない人に対して、親や先生に対する中学生のように、「別に」という返事の向こうにある自分の不満や不機嫌を読み取ることは要求しないのではないか。

わたしがその書き込みから受けた何ともいえない違和感というのは、「ネタ」であることを読み取ってほしい、という要求に、そんな自意識過剰を感じてしまったからなのである。
それが「ネタ」かどうかというのは、つまり、自分がどんな人間かというのは、相手にとって「聞くだけの価値のある話」なのだろうか。自分がどんな人間かというのは、自分にとってのみ、大きな問題なのではないか。

もう少し言ってしまえば、むしろ、人に「自分はこんな人間である」と見せようとすることによって、自分が向きあわなければならない「自分」というものから、どんどん目をそらせてしまうものではないのか。

いくつもの人を組み合わせたり、設定を変えた出来事を書いているわたしも、結局は「ネタ」を書いているということになるのかもしれない。
そんなことをしていながら、人の「ネタ」を聞くだけの価値がない、と批判しているのかもしれない。書き込んでくださった方に対して、非常に失礼なことなのかもしれない。
不快に思われる方がいらっしゃったら、お詫びします。

白川静の『孔子伝』の中に、こんな一節がある。

批判とは自他を区別することである。それは他者を媒介としてみずからをあらわすことであるが、自他の区別がはじめから明かである場合、批判という行為は生まれない。批判とは、自他を含む全体のうちにあって、自己を区別することである。それは従って、他を媒介としながら、つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、みずからを批判し形成する行為に外ならない。
(白川静『孔子伝』中公叢書)

おそらく「自意識過剰」な文章に、わたしが反応してしまうのは、誰でもない、わたし自身が「自意識過剰」な文章を書いていたからにちがいない。

自分で当時書いたものを読み返すと、なんともいえず読みにくい文章にうめきたくなってしまう。というのも、「自意識過剰な文章」は、読み手の反応を先回りしているからなのである。

文章の中に挿入された
「わたしってこんな馬鹿なことを書く人なんです(笑)」
という文章は、話の流れを断ち切ってしまう。しかもその判断は、本来なら読み手の反応のはずだ。それを回りこんで書き手が自分から先に言ってしまう。「馬鹿なことを書いていることはわかってるんです。わかってるわたしは馬鹿ではないでしょう?」と言うために。

こんなことを読まされる側はたまったものではない。読み手からしてみれば、「あなたが馬鹿であるかどうかがわたしにとってどうして重要な情報なのか」というのが、正直なところである。これは、協調原理ではなく、書き手の読み手の領域への侵犯だ。

なぜそんなことをするか。
自意識過剰な文章の書き手は、読み手の領域へ回りこむことによって、「わたしを知って」「わたしにかまって」と甘ったれて、もたれかかってくるのである。だから、読みにくいし、読んでいて不快になってくるのだ。

えらそうに書いているが、すべてわたしのことだ。そこに気がつくまで、ずいぶん時間がかかったけれど。

いまのわたしに言えることは、ほかの人に読んでもらえる文章を書こうと思うなら、その数倍の文章を一人で書いておくべきだろう、ということだ。ほかの人に何かを話そうと思うなら、その数十倍のことを、一人で考え、自分の考えの裏付けを、本を通じて取っておくべきだ、ということだ。仮に、それがほかの人からみれば、どれほど他愛のないことであっても。

そうやって、書き上げたものは、自分から切り離し、読み手の評価に委ねる。
むずかしいことだけれど。

いつもそれができているとは限らない。けれどもその目標を掲げることによって、『孔子伝』にある「みずからの批判の根拠を問うことであり、みずからを批判し形成する行為」が可能になっていくのではないかと思っている。



ロシアン・ルーレット

2010-03-20 22:38:03 | weblog
病院の定期検診で、たまに血液検査を受けることがある。ところがわたしの腕は血管が出にくいので、看護師さんに余分な苦労をかけることになる。
運が悪ければ、血管をさぐりあてるまでに、三度、四度と注射針を刺されることになる。

こういうのも相性というのがあるのか、以前、何度やってもうまくいかない人がいて、その人に会うと、こちらもあちゃーっという気持になるし、向こうも何ともいえない顔になって苦笑いしていたものだった。おそらく、また失敗したらどうしよう、というプレッシャーのせいで、よけいうまくいかなかったのだろうと思う。その人にやってもらうたびに、「ごめんね~」「ごめんね~」と言われながら、こちらも申し訳ない思いになっていたものだった。
ほかの人は、そこまで失敗するわけでもない。中には一発で成功する看護師さんもいて、こういうのはロシアン・ルーレットみたいなものだなあ、と思ったものだった。

とはいえ、ルース・レンデルだったか、バーバラ・ヴァイン名義の方だったかもしれないが、ともかく彼女の小説のなかで、ロシアン・ルーレットというのは、シリンダーを回転させるうちに、弾をこめた穴は重力で下に落ちるから、弾が当たる確率は実際には低い、というのを読んだことがある。だから実際には「ロシアン・ルーレット」という喩えは正確ではないのかもしれないが。

ともかく、スーパーに行ったときでも、図書館でも、美容院でも、対応してくれる相手によって、こちらが受けるサービスの質がものすごくちがう場合がある。スーパーのレジなら、手際の悪い人を避けることもできるが、美容院だったりすると、もう大変だ。ちっとも言ったとおりにしてくれない人に切ってもらって、一ヶ月ほど鏡を見るたびに憂鬱な思いをする羽目になる。髪を洗ってもらうときでも、そのまま眠り込んでしまいそうになるほど、気持ちよく洗ってくれる人もいれば、爪が当たって痛い人もいる。図書館で、書庫請求をしたのはいいが、待てど暮らせど帰ってこなくて、そのあげく、タイトルは同じでもまったくちがう作者の本を持ってこられたこともある。

自分の担当になった人が、明らかに技術の劣る人であったときは、いったいどうしたらいいのだろう、とわたしは昔から考えているのだが、いまだにその答えが出せていない。

苦情を言う、というやり方もあるだろう。だが、自分に能力が欠けていることは、おそらく誰よりも、その人が気がついているのではあるまいか。にもかかわらず、同じ人がなんの技術の向上も見られないまま、同じような不手際をされることが実に多いのだ。そんな人に苦情を言って、果たして効果があるものだろうか。

もうひとつ、苦情を言うというのは、こちらの側にもエネルギーがいる、という問題もある。言うことで、こちらもいやな気がするし、相手の不快な顔(たとえ表に出さないにしても、そう感じているのはどうしたって伝わる)と向きあわなくてはならない。ならばいっそ、関係を絶った方がいいのかもしれない。
事実、それが原因で美容院を変わったこともある。

看護師さんの場合、こちらがいやな顔をしたりすると、相手によけいにプレッシャーを与えることになるにちがいないと思って、わたしはことさらにニコニコして、いつもお世話をかけてすいませんねえ、気になさらず、どんどんやっちゃってください、などということを言っていたような記憶があるのだが、いま振り返るに、それもあまりいい対応ではなかったように思う。少なくとも、そうしたわたしの態度は、事態を好転させることにはなっていかなかったのだから。

マクドナルドは店員の接客マニュアルがあることで有名だが、おそらくそれはマニュアルを徹底することで、対応を均質化しようとしているのだろう。けれども、そうしたマニュアルで対応されると、何となくこちらもしゃべる機械に相手をしてもらっているような、こちらまで機械になってしまったような気分になるものだ。

やはりわたしたちがタッチパネルによるものではなく、人間に対応してもらうのを求めているのは、マニュアル以上のものを求めているからなのだろう。仮に、ロシアン・ルーレットより高い確率で、あちゃーっ、という人に対応されることがあったとしても。
そんなふうに考えると、その可能性があるおかげで、きちんとした人に対応してもらったときの喜びが増すのだろうか。


言葉と経験

2010-03-19 22:30:25 | weblog
さて、昨日の話のつづき。

わたしたちは自分の感じた曖昧な感覚を言葉にするために、さまざまな本を読んだり批評を読んだりする。そうして「西も東もわからない」というレトリックを知ることで「不安な、寄る辺ない気持」を自分の内側に発見した女の子のように、言葉をストックしながら、いろんなことを理解していく。そうして、今度はストックされた言葉を通して、さまざまな経験を見たり、理解したりするようになっていく。

ストックした言葉によって、自分が経験したのはこういうことだったのか、と理解するばかりではない。自分はやったことがなくても、単に言葉のみを蓄積することで、経験したような気になることもあるのだ。

たとえば実際にはボールをさわったことがない人でも、毎日毎日野球中継をテレビで見たり、ラジオで聞いたりしていれば、野球がどんなものかわかったような気になる。監督の采配を批判したり、あのバッターがどうして打てないか、もっともらしく話すこともできるようになる。

けれども、実際にやったことのない人は、ほんとうには経験していないので、わからない部分がどうしてもある。テレビの野球中継を欠かさず見て、いっぱしのことが言える「お茶の間野球評論家」には、硬球をバットで打ったとき、手がどれだけ痛いものか、決して知ることがない。だから「球を恐れちゃいかん」「向かっていけ」などということが平気で言える。自分がわからない部分があるということが、わからないのだ。自分がやっているのは、ただ、言葉を左から右へと動かし、組み合わせているだけで、自分の体を介在させていない、ということに気がついていない。

わたしが言いたいのは、あることの経験がない人が、批判や批評をしてはいけない、ということではない。小説を書いたことがなくても、自分がストックしている「借り物」の言葉を組み合わせて、自分の感想を言えば良いし、音楽にしても同じことだ。それでも、自分の理解は、自分の限られた知識と感受性と言葉という圧倒的な制約の内にいること、そうして、自分は小説の書き手や音楽の作り手とはちがって、その作品に自分の体を介在させてはいないことを忘れるべきではないだろう。

* * *

その昔、英会話教室のバイトをしていたときのこと。

何ヶ月かに一度の割合で、受講生に授業や講師の感想を書いてもらっていた。だいたい、おもしろかった、という類の当たり障りのない感想か、授業中に話すスピードが速すぎて聞き取れない、といった具体的な注文のどちらかであることがほとんどだったのだが、あるとき、講師に対する批判が出ていたことがあった。

彼の教え方は~で、そういうやり方をしていてはわからない、△△に関しては……としているのだが、それもよくない、といった具合である。

そう言われた講師は、見かけは若かったけれど(要するに、二十代の後半の、金髪碧眼のハンサムなお兄ちゃんだったわけだ)、教えることに関してはかなりのヴェテランで、経歴の面でも申し分のない人だったので、こちらも驚いて、すぐに情況を確かめた。

当該の講師はそれを聞いて、顔を真っ赤にして怒り出した。彼女(その批判をしたのは、若い女性だった)はいったい何をわかっているというのか。どこかで何ごとか、教えた経験があるのか。自分はどこそこの大学で修士号も取っているし、ここに来る前に、香港で何年、日本で何年教えている。何もわからないくせに、教え方の批判をするとは何ごとか。英語の教え方を生徒に教えてもらうには及ばない、といったのである。

自分はもうその生徒を教えるつもりはない、と言い出し、そんなアンケートを採ることまで批判は及んで、ほんとにもう大変だった。

それを書いた女の子にも話を聞いた。
話を聞く前には、そんな批判をするぐらいだから、てっきり別の講師に変わりたいのだろうとばかり思っていたのだが、そう切り出すと相手が驚いたのに、こちらも驚いた。
よくよく話を聞いてみてわかったのは、彼女はその講師に不満があったどころではない。逆に、自分がいかに英語がよくわかっているかを相手に印象づけようとして、「わたしはこんなによくわかっている、わたしはこんなにやる気がある」とアピールしようとして、そんなことを書いたのである。

そう言われてみれば、映画評などでも、映画の内容そっちのけで、自分がどれだけその映画に詳しいかのアピールに余念のないものを見ることがある。批判にしても、「それがわかっている自分」「こんなに詳しい自分」をアピールするためにやっている、批評だかなんだかよくわからないようなおしゃべりが、確かに少なくない。

そんなものを目にしたときは、つまらないものを読んでしまった、と舌打ちすればいいだけの話だが、そんな批評を受けた側はたまったものではないだろう。

教わっている側は、教えている側のことはわからない。
作品の受け手は、作り手の側のことはわからない。
そうして自分が両方の側に立ってみて初めて、わかることはたくさんあるのだ。

言葉をストックすることは、わたしたちに経験の意味を教えてくれる。けれども、言葉のストックは経験の変わりにはならない。

どんなヘボなプロ選手も、お茶の間野球評論家の技術論には耳を傾けないだろう。それがどれほどもっともらしく聞こえたとしても。