陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

日々忙しく……

2005-10-20 21:56:47 | weblog
【今日の出来事】

八月に、髪の毛を相当気合いを入れて切ってもらったのだが、二ヶ月もするとやっぱりうっとうしくなってきた。
なによりも、部分的に跳ね上がっているのを直すのに、毎朝苦労しなければならない。
ということで、仕事帰りに美容院に寄った。

いつもどおり、希望を伝えると、おもむろに本を読み始める。
こちらに話かけてくるんじゃない、と念を送っているのだが、一向に効き目なく、やはり美容師さんは話しかけてくる。

ところが今日担当になったお兄ちゃんは、それほど慣れていないらしく、しゃべり方もぎこちない。にも関わらず、明らかに努力をしつつ、話しかけてくるのである。

「何の本ですか?」
「『身体論集成』っていう本です」
「何が書いてあるんですか?」
(なんと答えたらいいんだろう、と頭を悩ませつつ)「昔の建物ってね、人間の身体をモデルにしてるんですって」(たまたまそういう箇所を読んでいた)
「むずかしいですね」
「おもしろいですよ」(だから読ませてね、という意図を言外に滲ませつつ)

(沈黙)

「ぼくもね、最近、本を読んだんです」
「…そうなんですか」
「『カーネギー語録』っていう本なんですけどね」
(また変わった本を……と思いつつ、それでも)「おもしろかったですか?」
「すごい、良かったです」
「それは良かった」(これで打ち切り、という意図を言外に滲ませつつ)
「感動しました」

(沈黙)

「あんまり本を読まなかったんだけど、読んでたら、勇気が湧いてきました」
「それは良かったですね……。どういうところが良かったんですか?」
「あ、……、と、ですね……。あの…」
(悪いことを聞いてしまった、と申し訳なさにかられ)「でも、そういうことってありますよね。ああいいなぁ、って思っても、なかなかどこがいい、なんて言えないこと」
「そうなんですよ! それですよ!! 良かったなぁ。わかってもらえて」

(沈黙)

「ぼく、これからどんな本、読んだらいいでしょう」
(え!? そ、そんなことを聞かれても……ギャツビーは『フランクリン自叙伝』を読んだけど、『フランクリン自叙伝』なんて一般に手に入るんだろうか、と思いつつ)「どうなんだろう、偉人伝みたいなの、お好きなんですか?」
「え、いじんでん、って何ですか?」
(泥沼に入っていくのを感じつつ)「偉い人の伝記です。カーネギーの伝記もあるんじゃないかなー。あの人が子供時代どうだったか、とか。だいたい子供向けの本のところにあるんですけどね、大人が読んでもおもしろいの、ありますよ」
「ああ、伝記ですか」
「語録がおもしろかったら、子供時代のこととか、読んでみたらどうですか」
「それおもしろそうですね」

(沈黙)

「紹介されたんです」
「は?」
「『カーネギー語録』読むといい、って」
「そうですか。それは良かったですね」
「何かいい本ないでしょうか」
「そうだなぁ、わたし普段、そんな本、読まないんですよ。だからよくわからないな、ごめんなさいね」

ところがこのあとも、『カーネギー語録』をめぐる話は、何の進展もないにもかかわらず、わたしのカットが終わるまで、延々と続くのであった。

『カーネギー語録』、つぎに行くときまでに、読んでおいた方がいいだろうか!?

向上心のある美容師さん、いいアドバイスできなくて、ごめんなさい。人には得意分野というものがあるのです。わたしが苦手なのは、そういう啓発書と、知らない人と話をする、とくに美容院で髪を切られながら話をすることなんです。

『ワインズバーグ・オハイオ』第二部、明日あたりにはアップできると思います……たぶん。

今日はつなぎ、ということで

2005-10-19 22:37:21 | weblog
こんばんは。
「ワインズバーグ・オハイオ」第二部は、いませっせと手を入れているところです。希望としては、明日あたりにはアップしたいのですが、やりだすとやはりキリがない領域なので、なかなかこれでいい、というところまでは行けなかったりします。どうかいましばらくお待ちください。

ところで、今日、自転車で狭い歩道の端を、通行人に気をつけながら走っていました。と、前を走っていた女の子が、急に止まった。あやうく追突しそうになって、「いきなり止まるなよ」という視線で追い越そうとしたのですが、彼女はうつむいたまま、こちらのことなど気がつきさえしませんでした。そうです、携帯メールを読んでたんです。

実に多くの人が、歩道に突っ立って、うつむいています。十年ほど前だったら、うつむいている人は、気分が悪くなった人か、落ちた百円玉をさがしている人だけでした(コンタクトレンズと五百円玉を落とした人は、さらにはいつくばることになります)。ところが今日では、あれ、あの人、調子悪いのかな、大丈夫かな、なんて思うことさえありません。

アメリカのコラムニスト、マイク・ロイコは'80年代の初めにこんなことを書いています。

 それでなくとも私はもともと電話というものを忌み嫌っている。たしかにオフィスには一台電話を置いているが、それは仕事上の必要があって仕方なく置いているにすぎない。家にも一台電話があるが、こちらのほうは、それがないとピザを注文できないから、これまた仕方なく取り付けてあるにすぎない。
 
 電話が一般に普及する前のほうが、世の中はどんなに住みやすかったことだろう。当時は、たとえ口うるさい人間が他人に向かってなにか愚かなことを口走りたくなっても、いったん机の前に座って手紙を書くか、相手の家まで何マイルか路面電車に乗って出かけて行かなければその目的を果たすことはできなかった。……

 しかし、電話だとそうは問屋が卸さない。電話の場合には、ボタンを七つ押せば、それだけでむこうはこちらの人生に土足で踏み込んでくることができる。ベルを何十回鳴らしっぱなしにしようが、五分おきに電話をかけてこようが、敵の思うがままである。……
(マイク・ロイコ『男のコラム2』井上一馬訳 河出文庫)


確かに携帯メールは一応、いつ出てもいいことになっています。急ぎの用件なら電話すればいいのだし。ただ、多くの場合、たとえメールでも、着信すればあたりかまわず携帯を開いている人の方が多いような気がする。

こうなると、電話と変わらない、なのにどうしてメールにするんでしょう。

喫茶店に座っている四人のグループが、みんな一斉に携帯を開いている、という摩訶不思議な光景もめずらしくありません。それよりは、一緒にいる子たちと話した方がいいんじゃないの、って、携帯を打つのが苦手な、年寄りのわたしはそう思ってしまいます。
何か、どんどん間接的なコミュニケーションの方向に行っているかなぁ、って。

なんだかなぁ、って思った、まぁただそれだけの話なんですけど。

そういえば、この間、薄暗い中、街灯の明かりの下で、近所のおじさんが、仕事の帰りらしいスーツ姿で、それはそれは幸せそうな顔で携帯に見入っていました。もちろん、生け花の会が次回展示会の会場が取れた、という案内だったのかもしれませんが……。なんとなく、見てはいけないものを見てしまったみたいで、気づかれないように(なんでわたしが……)そそくさと通り過ぎていきましたっけ。

ということで、それではまた♪

ワインズバーグ・オハイオ ―「誰も知らない」後編

2005-10-18 22:09:40 | 翻訳
(承前)


 この新米記者は、ルイーズ・トラニアンから手紙をもらったのだ。手紙は朝、「ワインズバーグ・イーグル」社に届いた。ごく短い手紙は「つきあいたいんだったらいいわよ」とある。だから、暗い柵のところで彼女が見せたあの態度には面食らってしまった。
「ずうずうしい女だなぁ。まったくなんてやつだ」ぶつぶついいながら、通りを歩いて、トウモロコシが植えてある空き地が続くところを通り過ぎた。とうもろこしは肩のあたりまで伸びていて、歩道ぎりぎりまで植えてあった。

 家の玄関から出てきたルイーズ・トラニアンの格好は、皿を洗っていたときに着ていたギンガムチェックの服のまま、帽子はかぶっていなかった。ドアノブに手をかけたまま、中にいるだれか、ジェイク・トラニアンじいさん以外にありえないが、と話している姿がよく見えた。ジェイク爺さんは耳が遠かったので、ルイーズは怒鳴っている。ドアがしまると、狭い横町は闇に閉ざされて静かになった。身体の震えはいっそうひどくなる。

 ウィリアムズの納屋の暗がりに、ジョージとルイーズは、口もきけないままつっ立っていた。ルイーズはとくに顔立ちが良いというわけでもなく、しかも鼻の横には黒いすすがついている。深鍋をどうにかしたあとに、鼻をこすったんだな、とジョージは思った。

 ジョージは神経質に笑い出した。「今日はあったかいよね」この手でルイーズに触れてみたい。度胸がないな、と思った。あの汚れたギンガムのドレスのひだのところにさわってみるだけでも、とびきりいい気持ちがするにちがいない。ところがルイーズは、はぐらかすようなことを言い出した。「あんた、自分はあたしなんかより上等だ、くらいに思ってるんでしょ。言わなくたってわかるんだから」そう言いながら、身を寄せてきた。

 ジョージ・ウィラードの口から、堰を切ったように言葉があふれだした。通りで会ったとき、ルイーズの目の奥に潜んでいた色を思い出し、それから寄越してきた手紙を思い出した。疑念が消えた。ルイーズをめぐって取りざたされた、町の噂を考えると、自信が湧いてくる。彼は大胆で攻撃的な、まったくの男になった。ルイーズに対する思いやりなどは、まったくないのだった。「こっちへこいよ。大丈夫だよ。誰にもわかりっこないさ。知りようがないんだから」とかき口説いた。

 ふたりは幅の狭い煉瓦の舗道を歩いていった。煉瓦の隙間から、丈の高い草が伸びている。煉瓦がはげてしまったところもあって、歩道は荒れてガタガタだった。ルイーズの手を取ると、その手もやはり荒れていたが、うれしくなるほど小さな手だった。「遠くには行けないもの」静かな落ち着いた声でそう言った。

小川にかかった橋をわたって、トウモロコシが植えてある、別の空き地の前をすぎた。そこで町の通りが終わって、歩道は小道になった。道の脇にウィル・オバートンのイチゴ畑があって、板が山積みになっていた。「ウィルはいちごの箱をいれておく小屋を、ここに建てるつもりなんだ」ジョージはそう言うと、ふたりは板の上に腰をおろした。



 ジョージ・ウィラードがメインストリートに戻ってきた時は、十時を過ぎていて、雨が降り始めていた。三度、メインストリートを端から端まで行ったり来たりする。シルヴェスター・ウェストのドラッグストアがまだ開いていたので、なかへ入って葉巻を一本買った。店員のショーティ・クランドールが出口で送ってくれたので、いい気分になった。日除けの下で雨を避けながら、ふたりは五分ほど立ち話をした。ジョージ・ウィラードは、満ち足りた気分だった。とにかくだれかと話したかったのだ。町が度を曲がって、ニュー・ウィラード旅館へと歩を進めながら、低く口笛を吹いた。

ウィニー洋品店の前の歩道は、高い板塀が立っていて、サーカスのポスターがべたべた貼ってある。口笛をやめて、暗がりの中、自分を呼ぶ声に耳を澄ますかのように、じっと動かずに立った。やがて、もういちど神経質な笑い声をあげた。
「文句を言われるようなことをしたわけじゃない。だれにもわかりゃしないさ」
意固地になってそうつぶやくと、家に向かった。


(この項終わり:近日中にここまでまとめてサイトにアップします)



-----【今日の出来事】-------

エレべーターに乗ろうと待っていると、後ろでとんでもなく大きな声が聞こえたので、驚いてそちらを見た。中年の女性が
「おじいちゃん、わかる? ここを、まっすぐ、行くの。そしたらね、信号があるからね、そこを渡ったら、××病院、あるからね」と、一語一語区切りながら、大きな声で教えている。
その道を尋ねたらしい老人は、お礼を言って、その女性が指さしていった方角へと、杖をつきながら歩いていったのだけれど、その女性は、大丈夫かなぁ、とひとりごとを言いながら見送っていた。
わたしも気になってそちらを見ると、信号までそれほど離れてはいないし、手前にその病院を隠すようにビルが建っていて、多少わかりにくいけれど、そこの看板は見える。
その看板を目指して行けば良いので、心配するほどのこともないだろうと思ったのだが、どうやらその人はわたしなどよりよほど親切だったようで、駆けだしていくと、老人の肘を取って、一緒に信号を渡り始めた。

ちょうどそのときエレベーターが来たので、それからどうなったのかわたしは知らないのだけれど、ちょっと、なんだかなぁ、と思ったのである。なんとなく、態度やものの言い方などからあの女性は看護婦さんなのではないかと思ったのだけれど、もちろんその真相はわからない。ただ、なんにせよ、高齢者と日常的に接している人なのだろう、という感じがうかがえた。

わたしが違和感を覚えたのは、ときどき見かける高齢者を幼児扱いする、というか、何もできない、わからない人間扱いする態度だ。おじいちゃん、という呼びかけもそうだし、看板が見えることを教えるだけでいいような気がする。まして、横断歩道を一緒に渡らせてあげる必要があるのだろうか。

もちろん、ほんの一瞬見ただけで、何らかの感想を持つのは良くないのだろうけれど。
もしかしたら、わたしの知らない事情があるのかもしれないけれど。

そんな態度を取るのは、相手にとってひどく失礼なことではないのだろうか。
そんなことをしばらく考えていた。

ワインズバーグ・オハイオ ―「誰も知らない」前編

2005-10-17 22:10:46 | 翻訳
今日と明日の二日間『ワインズバーグ・オハイオ』から「誰も知らない」を訳していきます。
原文はhttp://www.bartleby.com/156/6.htmlで読むことができます。

「誰も知らない」

 あたりを慎重に見まわしてから、ジョージ・ウィラードは「ワインズバーグ・イーグル」紙の編集部のデスクを離れ、急いで裏口から外へ出た。暖かく曇った夜で、八時にもならないというのに、新聞社の裏手の路地は、真っ暗闇だった。一台の馬車をひく馬の群れが、どこかの杭につながれているのだろう、闇の中、固い地面を踏むポクポクという音が聞こえた。ジョージ・ウィラードの足下から飛び出したネコが、闇の中へ消えていった。ウィラードは神経質になっていた。一日中、頭を一発殴られてぼーっとしたかのような仕事ぶりだった。路地に入ると、怯えでもしたかのように、身を震わせた。

 ジョージ・ウィラードは暗い路地を、注意深く、慎重に歩いていた。ワインズバーグの店の裏手のドアは開いており、人々が、店の明かりを背に、座っているのが見えた。マイヤーボウム雑貨店では、酒場のおかみ、ミセス・ウィリィが買い物かごをさげて、カウンターの近くに立っていた。店員のシド・グリーンが対応していた。カウンターに身を乗り出して、何か一生懸命になって話をしている。

 ジョージ・ウィラードは身体をかがめると、裏口から外へ伸びる明かりの帯を飛び越えた。闇の中を走り出す。エド・グリフィスの酒場の裏で、町一番の飲んだくれ、ジェリー・バードじいさんが地べたに寝っ転がっていた。投げ出した両足に、走ってきたウィラードはつまずくと、じいさんは、は、は、は、ととぎれとぎれに笑った。

 ジョージ・ウィラードは思い切ったことをやろうとしていた。一日中、なんとかその冒険をやりぬく決意を固めようとしてきて、ついに足を踏み出したのだ。「ワインズバーグ・イーグル」紙の編集室で、なんとか考えようとしながら、六時からずっと座っていた。

決心がついたわけではない。ただ、立ち上がり、印刷室で校正をしていたウィル・ヘンダースンの横を急いで通り過ぎると、路地を駆け抜けてきたのだ。

 すれちがう人々を避けながら、通りをつぎつぎと抜けて行く。道を何度も横切った。街灯の下を通るときは、帽子を目深にかぶった。思い切って考えることもできない。頭の中にあるのは、怖れ、それも、これまで知らなかった類の怖れだった。この冒険がうまくいかなかったらどうしよう、怖じ気づいて、引き返すようなことになったらどうしたらいいだろう、と考えていた。

 ルイーズ・トラニアンが父親の家の台所にいるのが見えた。ケロシンランプの灯で、皿を洗っている。家の裏手に建て増した小屋のような台所の、スクリーンドアの向こうにルイーズは立っている。ジョージ・ウィラードは柵のところで立ち止まり、身体の震えを鎮めようとした。自分と冒険を隔てているのは、ちっぽけなジャガイモ畑だけだ。呼ぶ勇気を奮い起こすまで、たっぷり五分かかった。
「ルイーズ! ルイーズったら!」
声が喉にひっかかる。かすれた囁き声にしかならない。

 ルイーズ・トラニアンは片手にふきんを持ったまま、ジャガイモ畑を横切ってやってきた。「あたしがあんたとデートしたいだなんて、なんでそんなこと思ったのよ」つっけんどんにそういう。「なんでそんなこと思ったわけ?」
 ジョージ・ウィラードは返事をしなかった。黙ったままふたりは柵を挟んで、闇の中に立つ。
「行きなよ。父さんが中にいる。あとで行くから。ウィリアムズの納屋で待っててよ」

(この項つづく)



-----【今日の出来事】------

今日は一日家にいて、ほとんど人にも会わず、話もせず、本を読んだり、文章を書いたりしていた。充実していたかどうかはさておき、とにかく疲れた。

ということで、今日はネタがありません。
キンギョも元気だし……。

あ、amazonでペーパーバックを一冊注文したのだけれど、このままだと送料がかかるから、と自分に言い訳して、Gonzalo RubalcabaのCDを注文した。働けど、働けど、ラクにならざるわが暮らし、って、根本的に問題あるじゃん。<わたし

この章が終わったら、手を入れて、なるべく早くサイトにアップします。
変化のないサイトで申し訳ないのですが、遊びにきてくださってるみなさま、どうもありがとうございます。ほんと、どれだけ力づけられてるかわかりません。
それじゃ、また♪

ワインズバーグ・オハイオ ―「哲学者」その4

2005-10-16 21:37:04 | 翻訳
 八月のある日、パーシヴァル医師はワインズバーグで予期せぬ出来事に遭遇する羽目になった。このひと月、ジョージ・ウィラードは、毎朝一時間、診療所で過ごすようになっていた。医者のほうが、ぜひ来てくれ、書きかけの小説を読んでほしい、と言い出したからだった。この本を書くために自分はワインズバーグに来て生活するようになったんだ、とまで、言い切ったのだった。

 八月のその日の朝は、ウィラードがやってくる前に、診療所ではひと騒動があった。まず、メインストリートで事故が起きた。馬車を牽いていた馬の群れが汽車に驚いて暴走した。そうして小さな女の子、百姓の娘が馬車から放り出されて死んだのだ。

 メインストリートにいた人々はみな動転し、医者を呼んでこい、という怒鳴り声があがった。町の開業医が三人、すぐにやってきたが、子供はすでに息がなかった。ひとだかりの中、ひとりがパーシヴァル医師の下に走ったのだが、医者のほうは、死んだ子供を見に、診療所を空けることはできない、とにべもなく断った。医者がその必要もないのに、無慈悲に断ったことは、だれにも知らされないままうやむやになってしまった。それどころか、医者を呼びに階段を上がって来た人間は、断りの返事を聞く前に、あわてふためいて引き上げていったのである。

 ジョージ・ウィラードが診療所に入っていくと、事情をまったく知らないウィラード医師は、恐慌を来してがたがたと震えていた。「おれが行くのを断ったもんだから、町の奴ら、怒鳴り込んでくるにちがいない」興奮した医者は言い張った。「おれが人間の本性を知らないとでも思うのか? どうなるってことも。おれが断った、っていうことは、噂になるだろう。そのうちみんなが集まって、その話をするようになる。そいつらはそうしてここに来るだろう。おれたちは言い争いになって、おれを吊してしまおう、と言い出す。つぎにここに来るときは、ロープを持って来るんだ」

 パーシヴァル医師は恐怖におののいていた。「胸騒ぎがするんだ」激しい調子で言った。「おれが言ったようなことは、午前中にはまだ起こらんかもしれん。夜まではもつかもしれん。だがいずれは縛り首になるんだ。みんな喜ぶだろうな。メインストリートの街灯に、おれは吊されるんだ」

 汚らしい診察室のドアまで行くと、パーシヴァル医師はおそるおそる、通りに通じる階段をのぞきこんだ。 戻ってきた医師の目には、先ほどまであった恐怖に替わって、いぶかるような色が浮かんでいた。つま先だって部屋を横切り、ジョージ・ウィラードの肩をぽん、と叩いた。「まぁ、いますぐじゃなくても、いつかは、だ」と、頭をふりながら囁き声で言う。「最後にはおれは磔にされるのさ。意味なんかちっともない磔に」

 パーシヴァル医師はジョージ・ウィラードに哀願するような口調になった。「おれが言うことをよく聞かなくちゃならん」まるでかき口説くように続けた。「もし何かあっても、おれが書けなかった本を、君なら書いてくれるよな。言いたいことは簡単なことなんだ。あんまり簡単すぎて、気をつけてなかったら、わすれてしまうくらいだ。つまり、この世の人間は、だれもがみなキリストで、みんな磔にされるんだよ。それがおれが言いたいことだ。忘れるんじゃないぞ。何が起ころうと、絶対に忘れるわけにはいかないことなんだ」

(この章おわり)


-----【今日の出来事】------

仕事仲間と休み時間、生徒がうじゃうじゃいる近くのスタバを避けて、ちょっと離れたところにお茶を飲みに行く。
ふと隣のテーブルを見ると、小綺麗な格好をしたふたり連れが、向かい合ってお茶を飲みながら、微妙に間のあく奇妙な会話を続けている。聞くつもりはなかったのだけれど、耳に入ってくる、どんなお仕事をなさってるんですか、というふうな内容から察するに、それはいわゆる「お見合い」なのである。

隣の空気がこちらにまで伝染したか、連れもわたしもなんとなくだまりがちになり、ぽつり、ぽつり、という話は、妙によく聞こえてきてしまうのだった。
そのうち、女の子のほうが携帯メールを始めた。

え!? こういうときに、そういうことするわけ?

相手の男性は腕を組んだまま、じっと待っている。

「『××』の十一月号、読んだ?」凍りついた空気をほぐそうと、わたしは連れに声をかけた。
「え?」相手も隣が気になって気もそぞろなのである。

「十一月号には▲▲が書いてる」
「そうかー」

「あー……それはそうとなー……」
「え、ごめん、 いま、なんて言った?」
こちらの話もどうにも盛り上がらないので、早々に切り上げて、店を出た。

「それにしても、ああいうときに携帯すんねんな」
「一種の意思表示かもね」
「そこまで考えてへんのちゃうかな」

お見合いのさなか、携帯メールを始めちゃう女の子に、わたしも同僚もたまげたのであった。それは、いくらなんでもまずくないか?

ワインズバーグ・オハイオ ―「哲学者」その3.

2005-10-15 21:16:09 | 翻訳
「兄貴のことを話さなくちゃな。いままでの話も全部、その話をするためだったんだ。それを言おうと思ってたんだ。兄貴は鉄道関係の塗装が専門で、ビッグ・フォー鉄道に勤めていた。このオハイオ州を走っている鉄道さ。ほかの男たちと一緒に、貨車に寝泊まりしちゃ、町から町へ、転轍機とか、遮断機とか、橋や駅なんかの鉄道の施設にペンキを塗りに移動していた。

「ビッグ・フォーは駅を気色の悪いオレンジに塗るんだ。まったくゾッとするような色さ。兄貴はいつもそのオレンジまみれになってたな。給料日には飲んだくれて、ペンキだらけの服のまま、金を持って家に帰ってきたもんだ。おふくろに渡すんじゃなくて、台所のテーブルに山を作っとくんだ。

「あの気色の悪いオレンジのペンキまみれの服で、家の中をうろうろとしてたな。いまでも目に浮かぶよ。おふくろの小さい目は、いつも充血して涙目になってたんだが、そのおふくろが裏の小屋から家に入ってくる。そこで他人の汚れ物を、たらいにかがんでごしごし洗ってたのさ。家に入ってきたおふくろは、テーブルのそばに立って、石けん染みだらけのエプロンで、目をこする。

「『さわるんじゃねえ! 金に指一本、ふれるんじゃねえぞ』って、兄貴は怒鳴るんだ。それから、自分で五ドルか十ドル取って、大股で飲み屋に行ってしまうんだ。自分が持ってった金をみんな使っちまうと、また取りに帰ってくる。おふくろにはびた一文わたさずに、ちょっとずつちょっとずつ持ち出していって、結局全部使い果たしてしまうまで、家にいた。それから仕事に戻って、ほかの連中といっしょに、また鉄道のペンキ塗りを始めるのさ。行ってしまうと、家にいろんなものが届くようになる。食い物とか、そんなものさ。ときにはおふくろの服や、おれの靴がとどいたこともあったなぁ。

「おかしな話だろ? おふくろはおれなんかより兄貴の方をずっと大切にしていた。兄貴はおれにもおふくろにも、優しい言葉のひとつもかけたりはしなかったし、おれたちが三日も置きっぱなしの金をちょっとでもいじろうもんなら、いつだって怒鳴り散らすわ、脅かすわ、で、大変だったんだ。

「なんのかんの言っても、うまくいっていた。おれは牧師になるために、勉強したり祈ったりしていた。まったくアホらしくなるほど祈祷の文句を口にしていたもんだ。聞かせてやりたかったなぁ。おやじが死んだときも、おれは一晩中祈った。ちょうど兄貴が町で飲んだくれたり、おふくろやおれのものを買ってくれたりしたときみたいに。晩飯が終わったら、金がのっかってるテーブルのわきに膝まずいて、何時間も祈った。だれも見てないときは、一ドルか二ドル、かっぱらってポケットに入れたりもした。いま考えりゃお笑いぐさだが、その当時はとんでもないことだと思ってたさ。いつだって忘れたことはなかった。おれは新聞社で働いて、週に六ドル稼いでだが、いつもそっくり持って帰って母親に渡していた。兄貴の金の山からくすねたはした金は、自分のために使ったが、つまらないものさ、菓子だとか、タバコだとか、そんなものさ。

「おやじがデイトンの精神病院で死んだときは、おれがそこに行った。社長から金を借りて、夜汽車で行ったんだ。雨が降っていた。精神病院では、おれのことを王様みたいに扱ってくれたよ。
「そこで働いてるやつらは、おれが新聞社の記者だって知ってたんだ。だからびびりまくってた。おやじが病気になったのは、職務怠慢だか不注意だか、何かのせいだったんだ。おそらくおれが新聞にそのことを書くんじゃないか、って思ったわけさ。そんなつもりは、毛ほどもなかったんだがな。

「ともかく、おれはおやじの遺体がある部屋に入っていって、亡骸に祝福を与えた。なんでそんなことを思いついたのか、自分でもよくわからん。まぁペンキ屋の兄貴でも、笑おうと思ったりはしなかっただろうがな。おれは遺体を見下ろして、両手を広げた。院長や職員がやってきて、羊みたいにビクつきながらつっ立ってたっけ。お笑いぐささ。おれは両手をひろげて『この死者に祝福あれ』と言った。それがおれが唱えた文句さ」

 はじかれたように立ち上がって話を打ち切ると、パーシヴァル医師はワインズバーグ・イーグル紙の編集室、ジョージ・ウィラードが座って聞いている部屋の中を、行ったり来たりし始めた。医者の動きは不器用で、しかも編集室は狭かったために、たえずいろんなものにぶつかった。「こんな話をしたりして、おれもバカだよな。ここに来て、なんとか君と知り合いになろうとしたのは、こんな話をするためじゃなかったんだ。ほかのことを考えてたんだ。君は以前のおれと同じ記者だから、君のことが気になったのさ。結局はほかのやつらみたいなバカで一生を終わるかもしれない、と思ったんだ。だから前もって言っておくし、これからも言い続ける。君を見つけたのも、そのためだ」

 パーシヴァル医師は、ジョージ・ウィラードの人に相対するときの態度について話し始めた。このひとは、たったひとつのことしか頭にないのかもしれない、とジョージ・ウィラードは思う。ぼくに、人間はみんな卑しいのだ、と思わせたいんだ。
「君がひとかどの人間になれるよう、胸を憎しみと軽蔑でいっぱいにしてやりたいな」とさえ、言ってのけた。「おれの兄貴を見てみろ。まったくたいしたタマだぜ、ええ? あいつはみんなを憎んでいた。どれほど馬鹿にしきった目つきで、おれやおふくろを見ていたか、君には見当もつかんだろうな。なら、兄貴は、おれやおふくろより偉くなかったか? 君だったらわかるだろう、実際に偉かったんだよ。兄貴には会ったことがなくても、おれの話を聞いたら、その感じもわかるだろう。その感じをわかってほしかったんだ。兄貴は死んだ。酔っぱらって線路に寝っ転がっているところを、貨車に轢かれて死んだ。ほら、兄貴やほかの仲間たちが寝泊まりしていたあの貨車さ」

(この項明日最終回)


-----【今日の出来事】-----
 
 わたしは持病があって、ときどきごく短期間、入院するのだが、六年前の六月にも、一週間ほど入院したことがある。無事、期間を勤め上げ(?)、退院を目前にして、体力を回復するために、外来の時間が終わった病院内を徘徊していたときのこと。救急車でわたしとほぼ同年代の女性が運び込まれていた。土気色の顔を歪めて横になっており、ストレッチャーの脇に不安そうな顔をして立っている二歳ぐらいの男の子の姿に胸が痛んだ。
 退院して、一週間後の定期検診に病院に行ったとき、寝間着姿のその女性を見た。相変わらず顔色が悪く、良くないのかな、あの小さな子はどうしているのかな、と思ったものだ。

先日、不意に、あの人はどうなったかな、元気でいるといいんだけど、と思い出した。それが虫の知らせ、というやつか、今日、電車のなかでその人を見かけたのだ。一緒にいる小学生の男の子が、あのときの小さな子なんだろう、その子ともうひとり、下の女の子を連れて、電車で子供にお菓子を食べさせながら、自分も脇でつまんでいた。それなりに顔に歳月は刻まれていたけれど(うぅ、わたしも人のことどころではないのである)、顔色も悪くなく、元気になったんだ、良かったな、と思った。

わたしは人の顔には強くて、昔のちょっとした知り合いでも忘れたりするようなことはない(子供はさすがにわからないけれど)。おまけに、「スーパーで会う薬剤師さん」とか、「ファストフードでハンバーガーを食べている郵便局の職員」とか、思いがけない場所で会っても、たいがい「場所」と「人」を結びつけることができる。

ところが、このわたしにも、ひとりだけわからない人がいる。
毎週水曜の朝、向こうからやってきて、頭を下げる年輩の女性がいるのだ。こちらも職場に急いでいるし、向こうもおそらく仕事に行くところ、という風体なので、わざわざ「大変失礼ですが、どなたでいらっしゃいますか」と聞くに聞けない(わけでもないが、そこまでしようとは思わない)人なのである。おそらくは、向こうが間違えているのだと思う。

ただ、最近、とみにあやしくなってきた自分の記憶力を思うにつけ、知り合いだったらどうしよう、と、一抹の不安は拭いきれない。そういうわけで、毎週わたしも挨拶を返しているのである。
……それにしても、だれなんだろう?

ワインズバーグ・オハイオ ―「哲学者」その2.

2005-10-14 22:06:03 | 翻訳
 医者はときどき、延々と自分の話をすることがあった。話のどれもが、ジョージ・ウィラードには、実際に起こった、意味深いものであるように思える。しだいにこの太った薄汚い男に引かれるようになり、午後になってウィル・ヘンダースンが出ていったあとで、医者がやってくるのを楽しみにするようになったのだった。

 パーシヴァル医師がワインズバーグにやってきたのは、五年前だった。シカゴから汽車に乗って、ここに着いたときは酔っぱらっており、さっそく手荷物係のアルバート・ロングワースと喧嘩を始めたのだった。トランクにまつわることがその原因で、医者が町の留置場に連行されて片がついた。釈放されると、メイン・ストリートの南側にある靴修理店の二階に部屋を借り、診療所の看板を出した。患者はほとんど来ず、来たとしても支払いもできないような、ひどく貧乏な連中ばかりだったのだが、彼の方は必要な金には困らない様子だった。夜は診察室で寝ていたが、そこはお話にならないほどの汚さで、食事は駅の反対側にある小さな木造の建物、ビフ・カーター食堂ですませていた。その食堂は夏になるとハエがいっぱい飛び回り、ビフ・カーターの白いエプロンは、床よりさらに汚い。パーシヴァル医師は一向に気にする様子もなかったが。すたすたと店に入ってくると、医者は20セントをカウンターに置くと、「なんでもいいから、この金で食わせてくれ」と言って笑った。「客に出せないような食い物を使い切っちまえばいいさ。おれにとっちゃ、なんだって一緒なんだ。おれのような一流人士にでもなると、何を食うかなんてことは、気にもならなくなるのさ」

 パーシヴァル医師がジョージ・ウィラードにする話は、どこが始まりということもなく、終わりというところもなかった。みんな作り話、嘘八百だと思うこともあったが、考え直して 、確かに真実のエッセンスのようなものがこめられている、とも思うのだった。

「おれはいまの君と同じように記者だったことがある」パーシヴァル医師は話し始めた。
「アイオワ、いや、イリノイだったかな、とにかくよく覚えちゃいないんだが、まぁどっちだっていい。もしかしたらおれは身元を隠そうとして、はっきりしたことが言いたくないのかもしれないぞ? 君はいままでオレのことを変なやつだと思ったことはないかね?何の仕事もしていないのに、必要な金は持ってるっていうのを、変だと思ったことはないか?」

「ここに来る前に、大金を盗んだのかもしれないし、人殺しに関わってるのかもしれない。そう疑うだけの根拠はあると思わないか? もし君が、ほんとうに頭の切れる記者だったら、おれのことを調べてみる気になるだろうな。シカゴでクローニンという医者が殺された事件があったな。聞いたことはないかい? 数人が医者を殺し、トランクに隠したんだ。朝早いうちにそのトランクを市街地から運び出した。それを急行便の荷馬車のうしろに積んで、連中は素知らぬ顔で運転席に座ってたんだ。みんながまだ寝ている静かな通りを抜けていった。そこへ太陽が湖からのぼったんだ。おかしいだろう? 考えてみろよ、荷馬車を走らせながら連中が、何食わぬ顔で、いまのおれと同じようにパイプをふかしたり、おしゃべりしてるところを。もしかしたらおれも連中のひとりだったのかもしれないな。もしそうだとしたら、話はずいぶん妙なものになってくるな。そうじゃないか?」
またパーシヴァルの話は、自分の身の上に戻っていく。
「まぁとにかく、そこにいること、おれも、いまの君と同じように、新聞記者だったんだ。走り回って、記事になるようなちっぽけな話を集めていたのさ。おれのおふくろもやっぱり貧乏で、洗濯物を引き受けていたんだ。おふくろの夢は、おれを長老派教会の牧師にすることで、おれもそれを目指して、せっせと勉強してたのさ。

「おやじは何年も前から頭がおかしくなっていた。オハイオ州デイトンの精神病院に入ってたんだ。おっと、うっかり口を滑らせてしまったな。これは実はなにもかもオハイオ、このオハイオでの話なのさ。おれのことを調べるつもりなら、これはおれという人間を組み立てるためのひとつの手がかりだな」

(この項つづく)




-----【今日の出来事】------

仕事が早く終わったので、明るいうちに帰ってきた。
インセンス・スティックを焚いて"Thelonious Himself"を聴く。なにしろ音源は学生時代に買ったLPなので、ひさしぶりに使うレコード・プレーヤーが鳴らなかったらどうしようと思ったが、なんとか大丈夫だった。聴く前から頭のなかでモンクのピアノが鳴っていたので、聴けなかったらすごいフラストレーションになるところだった。昼間から"round midnight"でもないのだけれど、「気持ちよく」落ち込みたかった。「癒し」などというものはいらない。落ち込んで、起きあがるだけ。

ということで起きあがって、晩ゴハンは気合いを入れてオッソ・ブッコを作る。名前は派手だが、要は牛のすね肉を炒めて野菜と煮るだけのもの。牛のかわりにラムを使えばアイリッシュ・シチュー、ウインナにしたらポトフ、魚介にしたらブイヤベース、つまり世界中あまねくある料理(日本だとおでんになるのかな?)。煮込む間はコンロの前に椅子を引っ張ってきて市川浩を読む(こうしないと、鍋を火にかけているのを忘れるから)。食べ過ぎた。

ワインズバーグ・オハイオ ―「哲学者」その1.

2005-10-13 21:54:02 | 翻訳
今日から数日に渡って『ワインズバーグ・オハイオ』のつづき「哲学者」を訳していきます。
原文はhttp://www.bartleby.com/156/5.htmlで読むことができます。 


パーシヴァル医師は、大柄な男で、金色の口ひげに半ばおおわれた口はだらしなく開いていた。いつも薄汚れた白いチョッキを着て、そのポケットにつっこんだ黒い安葉巻が、何本も頭をのぞかせていた。不揃いで虫歯だらけの歯をしていて、眼はいささか奇妙な具合だった。左のまぶたが痙攣しているのだ。まぶたがばたっと落ち、また急にパチンと開く。ちょうど窓の日よけそっくりで、まるで医者の頭の中にいるだれかがいたずらしてひもを引っ張っているみたいだった。

 パーシヴァル医師は、ジョージ・ウィラード青年が気に入っていた。ジョージが一年間、「ワインズバーグ・イーグル」紙で働いていたころにつきあいが始まったのだが、知り合いになったのも、一方的に医師のほうからのはたらきかけだった。

 午後も遅くなって、イーグル紙の経営者であり編集長でもあるウィル・ヘンダースンが、トム・ウィリィの酒場に出かけた。路地を抜けて、裏口から酒場へ滑り込むと、ジンのソーダ割りを飲み始めた。ウィル・ヘンダースンは漁色家で、四十五歳になっており、ジンは自分を若返らせる効果があるのではないかと思っていた。漁色家にありがちなことだが、彼も女の話が好きで、一時間もトム・ウィリィを相手にゴシップをだらだら話していた。酒場の主人は背の低い、肩幅の広い男で、両手に際だった特徴がある。男と言わず女と言わず、顔に赤く塗ったようなあざがある人がいるが、トム・ウィリィにはそれが指と両手の甲にあるのだった。カウンターに立って、ウィル・ヘンダースンと話しながらも、トムは両手をしきりにこすり合わせていた。話に夢中になればなるほど、その赤みも強くなるのだった。まるで血の中に浸した両手が、乾いて、色あせてきたようにも見えた。

 ウィル・ヘンダースンはカウンターにもたれ、赤い手を見ながら女の話をしているちょうどそのときに、助手のジョージ・ウィラードはワインズバーグ・イーグル紙の編集室で、パーシヴァル医師の話を聞いていた。

 ウィル・ヘンダースンが姿を消すやいなや、パーシヴァル医師が現れた。まるで診察室の窓から、編集長が路地を抜けるのをずっと監視していたのではないか、と思うほどだった。表のドアから入ってくると、椅子を見つけて自分から腰をおろし、安葉巻に火をつけて脚を組み、やおら話し出したのだった。君はひととおりの処世術を身につけなきゃいけないぞ、と青年を熱心に説得していたが、、自分自身、きちんと定義づけることもできないものだった。

「ちゃんと自分の目を持っている人間なら、おれが自分で医者だと言ってても、患者なんてほとんどいやしないことを知っているはずだ」とまず切り出した。「それにはわけがある。偶然じゃないし、おれの医学の知識なんて、ここの連中と似たり寄ったり、たいしてあるわけじゃないんだが、それが理由でもないんだ。理由ってのは、おれが患者を来させないようにしているからだ。もちろん表になんて、出しはしない。実はおれの性格なのさ。おれの性格、っていうやつは、考えてみりゃ奇妙なところがいっぱいある。どうしてこんな話を君に始めたんだろう。黙ってれば、君も信用の眼で自分を見てくれただろうに。君に尊敬してもらいたいんだ。ほんとだ。なんでだか、わからないんだが。だからこうやって話してるんだ。考えてみりゃ、おかしいことだよな?」
(この項 つづく)


-----【今日のおまけ】------

この間から図書館に行くたびに、延滞の本がありますよ、と言われていた。
めぼしい場所は探し尽くし、新聞の隙間に入り込んでないか、ストッカーのなかも探し、ありとあらゆる場所を探したのだが見つからない。外で忘れてきた可能性もほとんどないし、これは返却の際の処理の不手際にちがいない。そう結論を出して、仕事帰りに図書館に寄った。
事前に検索して書棚を確認し、一冊ずつ丁寧に背表紙を見ていく。ビンゴ! それをカウンターに持っていき、これ、書棚にありました、やっぱり返却していましたよ、と処理してもらう。
すいません、と職員の女性に頭を何度も下げられて、家捜ししていた時間はどうしてくれるんだ、という怒りの持って行き場がなくなってしまい、「あ、もういいです」と腰砕けになってしまった自分が悲しい……。
悔しいのでアイスクリームを食べて帰った。

ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その5.

2005-10-12 21:49:29 | 翻訳
 古ぼけたウィラード旅館の隅に押し込まれたような自分の部屋で、エリザベス・ウィラードはランプの灯りをともし、ドアの側の鏡台に置いた。

ふと思いついて、クロゼットに行き、小さな四角い箱を取り出してこれも鏡台に載せる。箱の中には化粧道具が入っていて、これはワインズバーグで二進も三進もいかなくなった劇団が、ほかのものと一緒に置いていったものだった。きれいになっておこう、と思ったのだ。髪の毛はまだ黒々と豊かで、三つ編みにして頭に巻きつけていた。階下の事務所で繰り広げられるであろう情景が、脳裏に徐々に鮮明になってくる。トム・ウィラードと向かい合うのに、幽霊じみ、くたびれはてた姿ではいけない、思いもよらないほどの、息を呑むほどの姿でなくては。長身で、高い頬骨が頬に影を落とし、豊かな髪が背中にかかる、そんな姿が、事務所でぼんやりと時間を過ごしている連中の前を、颯爽と行き過ぎていかなければ。静かなまま――素早く、残酷に。仔が危機に瀕しているときに現れる牝虎のように、物陰から音もなく、禍々しい大鋏を構えて登場するのだ。

 喉の奥でとぎれとぎれの嗚咽をもらしながら、エリザベス・ウィラードは鏡台の灯を吹き消すと、闇の中でがくがくと身を震わせながら立っていた。先ほどまで魔法のように身体にみなぎっていた力もいまは失せ、なかば倒れ込むようにして部屋を横切って椅子の背をつかんだ。自分が長い年月の間、トタン屋根ごしに、ワインズバーグのメインストリートを眺めたその椅子だ。足音が廊下に響き、ジョージ・ウィラードがドアを開けてはいってきた。母親の傍らに腰をおろすと話し始めた。
「家を出ようと思うんだ。どこへ行くか、わからないし、何をするかもわからないんだけど、とにかくどこかへ行かなくちゃ」

 椅子に座っていた母親はしばらく黙って震えていたが、衝動にかられたように言葉を発した。
「眼をさまさなきゃ。こんなこと、考えてるんじゃないの? 都会へ出てお金を稼ごう、みたいな。実業家にでもなって、見てくれが良くて気の利いた、楽しげな生活がしたい、なんていうことを」そういうと、身をわななかせながら、返事を待った。

 ジョージは首を横に振った。「母さんがわかるようにうまく言えないんだけど、でも、なんて言ったらいいのか、そんなふうにできたらいいと思うよ」真剣な面もちで言葉を継いだ。「父さんにはこんな話をするのさえ、ムリだからね。試してみる気にもならないけど。意味ないから。何をしたらいいか、わからないんだ。とにかく家を出て、人間を見て、考えてみたいんだ」

 静かな部屋の中に母親と息子は座っていた。これまで何度もこんな夜を過ごしたように、ふたりは居心地の悪い思いをしていた。やがてふたたび息子はぽつぽつと話し始めた。
「一年や二年はここにいなきゃいけないだろうけど、ずっとそう思ってたんだ」そう言うと、立ち上がってドアの方へ歩き出した。「父さんが話してるのを聞いて、ここにいちゃいけない、って思ったんだ」ドアノブを手さぐりする。部屋のなかの静けさが、母親には耐え難いものに思えてくる。息子の口から出た言葉がうれしくて、大声で叫びたい。だが、喜びを表すことなどもうとっくにできなくなってしまっていた。
「おまえもほかの男の子たちと一緒に出歩いた方がいいよ。家のなかにばっかりいるじゃないか」と母親は言った。
「散歩でもしてこようと思ってたんだ」息子はそう答えると、ぎこちなく部屋を出て、ドアを閉めた。

(この章終わり)



-----【今日のおまけ】------

駅から帰る道すがら、キンモクセイの香りが漂ってきた。
この匂いを嗅ぐと、どういうわけかかならず、高校のとき、授業をさぼって抜け出したときの記憶がよみがえってくる。

決して真面目な生徒ではなかったけれど、悪くもなかったわたしが授業をさぼったのはその一度だけ。それも、四時間目と五時間目が自習になって、六時間目の漢文をさぼっただけなのだけれど。

前の席の山沖君(仮名)と、右前の小坂君(仮名)と三人で、自習するのもかったるいなー、みたいなことを言い合って、なんとなく、帰ろうか、という話になったのだ。そうしてカバンを手に、教室をあとにした。

ところが正門近くで化学の先生に見つかった。戻るふりはしたものの、もう気持ちは校舎の外に出てしまっていて、いまさら教室には戻れない。三人して校舎の裏手にまわって、塀を乗り越えて脱走したのだ。
先にカバンを放り投げ、塀によじのぼっててっぺんから飛び降りると、キンモクセイの匂いがふわっと身体を包んだ。

そこから駅まで歩いていく途中の、足に羽が生えたようだったあの感覚は忘れられない。
「移民の歌」の冒頭を歌い出したいような気分だった。

駅でふたりと別れたあとは、どうしたんだろう。そのあとの記憶はまったく残っていない。それでも、キンモクセイの匂いを嗅ぐたびに、あの小春日和の午後を思い出す。

(※どうでもいいけど「移民の歌」、Led Zeppelinの公式サイトでフルコーラス聴けます)

ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その4.

2005-10-11 21:47:28 | 翻訳
 娘時代、トム・ウィラードと結婚する前のエリザベスには、ワインズバーグでいささか危なっかしい評判が立っていた。何年もの間いわゆる「芝居狂」で、父親の旅館に泊まっている旅回りの商人たちと連れだって闊歩したかと思うと、派手な服を着たり、泊まり客がこれまで行った都会の話をしてくれるようねだったりもした。男物の服を着て、メインストリートで自転車を乗り回し、町中をぎょっとさせたこともあった。

 当時、その背が高く、濃い色の髪をした娘の胸の内は、たいそうこんがらかっていたのだ。気持ちは絶えず揺れていて、それがふたつの方向に表れた。ひとつは変化を、自分の人生を決定的に動かすような何かを、不安な思いで待ちわびていた。この気持ちは、気持ちを舞台へと向かわせる。どこかの劇団に入って世間を回り、いろんな人々に会って、自分の内からわき上がってくるものを与えたい、と夢見るのだった。その考えに夢中になった夜には、何度かワインズバーグにやってきて、父親の旅館に泊まっている劇団員にそのことを話そうとしたのだが、結局はどうにもならなかった。エリザベスが何を言おうとしているのかなど、わかろうとはしてくれなかったし、たとえ自分の情熱をなんとか言葉にすることができたときでも、座員たちは笑うだけだった。
「そんなもんじゃないよ」と彼らは言った。「退屈でおもしろくないのは、ここにいるのといっしょだよ。なんにもなりはしないさ」

 旅回りの商人たちと歩いていると、そうしてのちにトム・ウィラードと歩いていると、まったくちがった。いつでもよくわかる、ほんとうにそうだよ、と言ってくれるのだった。町の横町や木陰の暗がりで、彼らはエリザベスの手を取る。そうすると内側にある言葉にできないものがあふれ出し、彼らの内にある言葉にされないものの一部になっていくような気がするのだった。

 そうして、揺れ動く気持ちがもうひとつの表れ方をしたのだ。そのときが訪れたとき、しばらくの間、救われたように思い、幸せだった。一緒に出歩いた人間のだれも責めようとは思わなかったし、のちのトム・ウィラードも責める気にはなれなかった。いつもまったく同じ、キスで始まり、奇妙で激しい感情が堰を切ったようにあふれ出したあと、穏やかに終わり、後悔してすすり泣く。すすり泣きながら、手で相手の男の顔にふれ、いつも同じ思いにとらわれるのだった。相手が大きく、ひげ面の男であっても、急に小さな男の子になったような気がするのだ。なぜこの人は一緒に泣いていないのか、不思議に思うのだった。
(明日この章最終回)


-----【おまけ:昨日のできごとの追加】------
ジュンク堂にはスーパーにあるような買い物かごが置いてある。わたしの夢は、その買い物かごが使えるほど、本をたくさん買うことだ。って、週に最低一回は寄って、そのたびに何か買ってるんだけど、たいていは一冊だし、昨日のようにたくさん買っても文庫本だと持って歩いてもしれてるので、ついぞ使ったことがない。
 ところで、昨日、レジでわたしの前に並んでいたおじさんは、そのあこがれの買い物かごを下げていた。カウンターにかごをのせて、レジのお姉さんが一冊ずつ取り出す。
「カバーご入り用でしょうか」
「ああ、カバーかけて」
わたしは散歩に連れて行ってもらうイヌのように、じっと待つ。
出てきた本。
『キャバクラの教科書』
『キャバクラのモテ方』
『大人の悦楽講座』
『文藝春秋』
『世界の中心で、愛をさけぶ』
すると後ろからお姉ちゃんが「これも~」と言いながら、本を追加した。
『骨盤教室』
つくづく世の中にはいろいろな本があるものだなぁ、と感心した。
それにしても。タイトルを並べるだけで、おぼろげに見えてくるものがありますね。

(ちなみにわたしが買ったのは市川浩『〈身〉の構造』、桑子敏雄『環境の哲学』、赤坂憲雄『境界の発生』『異人論序説』、竹内敏晴『動くことば動かすことば』……これもビミョ-に見えてくるものが、あるかなー)。