ジョージ・ウィラードと母親の結びつきは、表面的にはとりたてて言うほどのこともない、ありふれたものだった。母親の調子が悪く、自分の部屋の窓際に腰をおろしているようなときは、ときどき息子は夜になって様子を見に行くのだった。
母親と息子は、軒を並べる小さな家の屋根ごしにメイン・ストリートが見下ろせる窓辺に坐った。別の窓からは、メインストリートに構えた店の裏手を走る路地が見え、路地の突き当たりにはアブナー・グロッフのパン屋の裏口があった。ときどきふたりがそこに坐っていると、目の前には町の暮らしが織りなす絵模様が繰り広げられた。店の裏口に、アブナー・グロッフが棒きれか牛乳の空き瓶を手に姿をあらわす。パン屋と、薬屋のシルヴェスター・ウェストが飼っている灰色のネコとは、もう長いこと敵対関係にあるのだった。息子と母親は、ネコがこっそりパン屋の裏口から忍び込むと、じき、そこから飛び出してきて、そのあとからパン屋が罵り声をあげ、両手を振りまわしながら出てくるのを眺めた。パン屋の目は怒りで細められ、充血し、黒い頭髪もあごひげも粉まみれだ。ときにパン屋は怒りにまかせて、ネコは姿を消しているにもかかわらず、棒きれやガラスのかけらや、商売道具さえも投げつけたりもした。そうやってシニング金物店の裏窓をこわしたこともあったのだ。路地ではネコが、紙くずや壊れた瓶があふれそうな、ハエが真っ黒にたかっている樽のうしろに身を潜めていた。
以前、母親はひとりでいるとき、パン屋がネコの姿もないのにいつまでも、意味もなく大声で怒鳴り散らかしているのを見たあとで、指の長い、白い両手に顔を埋めてむせび泣いた。それから二度と路地の方を見ようとはしなくなり、パン屋とネコの諍いを、なんとか忘れようとした。その光景はまるで自分の人生を、恐ろしいほど鮮やかに先取りして見せてくれているように思えたからだった。
ある日の夕方、息子と母親が一緒に部屋に坐っていると、あたりがあまりに静かだったので、ふたりともなんとなく気まずくなってしまっていた。暗闇が忍び寄り、夕方の汽車が駅に滑り込む。窓の下の通りからは、歩道を歩く足音が聞こえた。列車が出ていったあとの駅の構内は、重い沈黙がたれこめていた。おそらく運送屋のスキナー・リースンも、プラットフォームまで台車を押して行ってしまったのだろう。向こうのメインストリートから、男の笑い声がする。運送屋のドアがバタンと閉まった。
ジョージ・ウィラードは立ち上がって、部屋を横切ると、手探りでドアノブを探す。そこへいくまで何度か椅子にぶつかって、床をこする音を立てた。窓のそばでは病気の母親がいるかいないかさえわからないほど静かに、物憂げに坐っていた。指の長い手、白く血の気の失せた手が、肘掛けの端から垂れ下がっている。
「あなたも若い人たちのなかに混ざったほうがいいんじゃない? 家に居過ぎるのも考えものよ」息子が出ていくとき、あまり決まり悪く思わないでもすむようにしようとして、そう言った。
「ちょっと散歩してくるよ」ジョージ・ウィラードはぎこちなくもたもたと言った。
七月のある晩、ニュー・ウィラード旅館を仮の宿としていた旅回りの客もまばらになったために、廊下にただひとつ灯っているケロシン・ランプの灯も、暗く落とされ、薄暗くなった中で、エリザベス・ウィラードは思い切った行動に出ることにした。ここ数日、ずっと調子が悪く寝ていたのだが、息子は顔を見せに来ない。エリザベスは危惧していた。身体に残った、か細い命の残り火が、不安に煽られてパッと燃え上がり、ベッドを抜け出して服を着て、大きくなりすぎた怖れに身を震わせながら、廊下を通って息子の部屋に向かった。廊下の壁紙に片手をすべらせながら、肩で息をし、身体をしっかり保っていようとした。歯の間から息が漏れる。息子の部屋に急ぎながら、自分はなんと愚かなことをしているのだろう、と思う。
「若い男が気になるようなことが気になっているだけよ」そう自分に言い聞かせる。「たぶん、最近は夜になると女の子と出歩くようになったのよ」
エリザベス・ウィラードは旅館の客に見つかることを怖れていたのだが、その旅館はもともとは彼女の父親のもので、いまでも郡役場に登録されているのも、彼女の名前のほうだった。旅館はみすぼらしいために客が減っていく一方で、自分もみすぼらしいと思っていた。自室は人目に付かない角で、働けそうだと思うときは、自分から進んで客室のベッドの間を行き来して立ち働くのだが、客がワインズバーグの商売人たちを相手に取引をしに出かけている間に片づけることができるような仕事を、好んでやるのだった。
息子の部屋の戸口まで来ると、母親は床にひざまずいて、中の物音に耳をすました。息子が動き回りながら低い声で話す声が聞こえてきたので、唇がほころんでくる。ジョージ・ウィラードはひとりごとを言う癖があり、その声を聞いていると、奇妙な話だけれど、母親はうれしくなってくるのだった。その癖が、母親と息子の秘密の絆を強くしているような気がしていたのだ。これまでに何千回も自分にこっそりと言い聞かせてきた。
「あの子は自分を見つけようとして、手探りしてるのよ。あの子は口先だけの才走った、凡庸なうすのろじゃない。あの子のなかには、なんとかして伸びていこうとする、隠れた何かがある。わたしが自分の中でだめにさせてしまった何かが」
(この項 つづく)
母親と息子は、軒を並べる小さな家の屋根ごしにメイン・ストリートが見下ろせる窓辺に坐った。別の窓からは、メインストリートに構えた店の裏手を走る路地が見え、路地の突き当たりにはアブナー・グロッフのパン屋の裏口があった。ときどきふたりがそこに坐っていると、目の前には町の暮らしが織りなす絵模様が繰り広げられた。店の裏口に、アブナー・グロッフが棒きれか牛乳の空き瓶を手に姿をあらわす。パン屋と、薬屋のシルヴェスター・ウェストが飼っている灰色のネコとは、もう長いこと敵対関係にあるのだった。息子と母親は、ネコがこっそりパン屋の裏口から忍び込むと、じき、そこから飛び出してきて、そのあとからパン屋が罵り声をあげ、両手を振りまわしながら出てくるのを眺めた。パン屋の目は怒りで細められ、充血し、黒い頭髪もあごひげも粉まみれだ。ときにパン屋は怒りにまかせて、ネコは姿を消しているにもかかわらず、棒きれやガラスのかけらや、商売道具さえも投げつけたりもした。そうやってシニング金物店の裏窓をこわしたこともあったのだ。路地ではネコが、紙くずや壊れた瓶があふれそうな、ハエが真っ黒にたかっている樽のうしろに身を潜めていた。
以前、母親はひとりでいるとき、パン屋がネコの姿もないのにいつまでも、意味もなく大声で怒鳴り散らかしているのを見たあとで、指の長い、白い両手に顔を埋めてむせび泣いた。それから二度と路地の方を見ようとはしなくなり、パン屋とネコの諍いを、なんとか忘れようとした。その光景はまるで自分の人生を、恐ろしいほど鮮やかに先取りして見せてくれているように思えたからだった。
ある日の夕方、息子と母親が一緒に部屋に坐っていると、あたりがあまりに静かだったので、ふたりともなんとなく気まずくなってしまっていた。暗闇が忍び寄り、夕方の汽車が駅に滑り込む。窓の下の通りからは、歩道を歩く足音が聞こえた。列車が出ていったあとの駅の構内は、重い沈黙がたれこめていた。おそらく運送屋のスキナー・リースンも、プラットフォームまで台車を押して行ってしまったのだろう。向こうのメインストリートから、男の笑い声がする。運送屋のドアがバタンと閉まった。
ジョージ・ウィラードは立ち上がって、部屋を横切ると、手探りでドアノブを探す。そこへいくまで何度か椅子にぶつかって、床をこする音を立てた。窓のそばでは病気の母親がいるかいないかさえわからないほど静かに、物憂げに坐っていた。指の長い手、白く血の気の失せた手が、肘掛けの端から垂れ下がっている。
「あなたも若い人たちのなかに混ざったほうがいいんじゃない? 家に居過ぎるのも考えものよ」息子が出ていくとき、あまり決まり悪く思わないでもすむようにしようとして、そう言った。
「ちょっと散歩してくるよ」ジョージ・ウィラードはぎこちなくもたもたと言った。
七月のある晩、ニュー・ウィラード旅館を仮の宿としていた旅回りの客もまばらになったために、廊下にただひとつ灯っているケロシン・ランプの灯も、暗く落とされ、薄暗くなった中で、エリザベス・ウィラードは思い切った行動に出ることにした。ここ数日、ずっと調子が悪く寝ていたのだが、息子は顔を見せに来ない。エリザベスは危惧していた。身体に残った、か細い命の残り火が、不安に煽られてパッと燃え上がり、ベッドを抜け出して服を着て、大きくなりすぎた怖れに身を震わせながら、廊下を通って息子の部屋に向かった。廊下の壁紙に片手をすべらせながら、肩で息をし、身体をしっかり保っていようとした。歯の間から息が漏れる。息子の部屋に急ぎながら、自分はなんと愚かなことをしているのだろう、と思う。
「若い男が気になるようなことが気になっているだけよ」そう自分に言い聞かせる。「たぶん、最近は夜になると女の子と出歩くようになったのよ」
エリザベス・ウィラードは旅館の客に見つかることを怖れていたのだが、その旅館はもともとは彼女の父親のもので、いまでも郡役場に登録されているのも、彼女の名前のほうだった。旅館はみすぼらしいために客が減っていく一方で、自分もみすぼらしいと思っていた。自室は人目に付かない角で、働けそうだと思うときは、自分から進んで客室のベッドの間を行き来して立ち働くのだが、客がワインズバーグの商売人たちを相手に取引をしに出かけている間に片づけることができるような仕事を、好んでやるのだった。
息子の部屋の戸口まで来ると、母親は床にひざまずいて、中の物音に耳をすました。息子が動き回りながら低い声で話す声が聞こえてきたので、唇がほころんでくる。ジョージ・ウィラードはひとりごとを言う癖があり、その声を聞いていると、奇妙な話だけれど、母親はうれしくなってくるのだった。その癖が、母親と息子の秘密の絆を強くしているような気がしていたのだ。これまでに何千回も自分にこっそりと言い聞かせてきた。
「あの子は自分を見つけようとして、手探りしてるのよ。あの子は口先だけの才走った、凡庸なうすのろじゃない。あの子のなかには、なんとかして伸びていこうとする、隠れた何かがある。わたしが自分の中でだめにさせてしまった何かが」
(この項 つづく)