陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

先日の出来事

2005-10-23 21:57:18 | weblog
【先日の出来事】

先日図書館の検索端末機の列に並んで、前の人が終わるのを待っていた。
おそらくレポートを書くのだろう、女子学生ふうの女の子が、印刷された紙をにらみながら、むずかしそうな顔をしている。

『楡の木陰の欲望』

これは岩波文庫だ、文庫の海外文学の棚ではなく、戯曲の棚にある。
検索するまでもなくわたしは知っているのだが、こういうとき、聞かれもしないのに自分から教えてあげる、ということがわたしはできないのだ。

ところがこの女の子は検索子を入力しようとしない。
ため息をつくばかりで、後ろに並んでいるこちらを気にしているようだ。
わたしはピンときた。「楡」が読めないのだ。おそらく北杜夫の『楡家の人々』もよんだことがないのだろう。

彼女が読み方を思いつくまで待っているわけにはいかなかったので、「すいません」と、思い切って後ろから声をかけた。

「ごめんなさい、のぞき見するつもりじゃなかったんですけど、その持ってらっしゃる紙が見えたから。ユージーン・オニールの『にれ(この言葉にアクセント)の木陰の欲望』なら、×番の、戯曲の棚にありますよ。オニールだから、シェイクスピアのちょっと前あたり。岩波文庫の薄い本だから、見つけにくいかもしれないけど、貸し出しされてなかったら、そこにありますから」

女の子は「ありがとうございます」とこちらに頭を下げて、端末を譲ってくれた。

図書館の棚というのは、自分が良く行く分野であれば、読んだことがない本でも、背表紙とはすっかりなじみになっているものだ。わたしが行くところは比較的動きが少ないということもあって、どこに何があるか、たいがい頭に入っている。

こういうとき、自分の記憶力というのは、なかなか捨てたものではないな、という気になってくる。

ところが、わたしの記憶力、というのは、どうやら局所的にしか働かないらしいのである。

わたしのカバンの中やポケットから、しばしば正体不明のメモがでてくる。今日、夏物のスーツをそろそろクリーニング屋に持って行かなくてはいけないな、と思って、ポケットを確かめていると、そこから「クリーニング:夏物のスーツ」と書いたメモが出てきた。おそらく、それはそろそろシーズンも終わるから、クリーニング屋に持っていこう、と思って、そのメモを書いたにちがいないのだ(書いた記憶はおぼろげにあるような……)。だが、いったいどうしてそんなものがそんなところに入っているのだろう(入れた記憶はまったくない)。少なくとも、どこに入れるにしても、スーツのポケットに入れてはいけない。

メモを作るようになったのは、二週間近く単4の乾電池を買い忘れる日々を続けてしまったためだ。毎日、明日こそ買ってこよう、と決心して、そのたび忘れて帰り、休みの日はまったく思いつかず、いよいよどうしようもなくなって、近所のドラッグストアに閉店二分前に駆け込んで、買ってきたのだった(「もう、レジ閉めたんですけど」、と思いっきり迷惑そうな顔をされた)。

どうもこういうことは、頭にまったく残らない。これではいけない、必要なことを忘れないようにメモしておこう、と決心したはずなのだ。

だが、クリーニング屋に持って行かなくては、というメモを、持っていくべきスーツのポケットにしまってしまう。自分自身の行動に、まったく理解不能な部分を発見してしまう、というのは、相当におそろしいことである。
記憶力の問題、と片づけて良いのかさえ、不安な今日このごろである。


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明日から新しい連載が始まります。
お楽しみに。