陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その3.

2005-10-10 21:10:25 | 翻訳
 廊下の暗がりのなか、ドアの前で、病んだ母親は立ち上がると自分の部屋に戻ろうとした。ドアが開いて、息子と出くわすのはいやだった。十分に距離をおいて、廊下の角で立ち止まると、先ほど不意に襲ってきた、身体が震えるほどの弱気を振り払おうと、手を止めて身をぐっと引き締めた。

息子が部屋にいたと思うと、幸せな気がした。長いことひとりで横になっていると、胸に兆したちょっとした怖れも、じきに巨大なものになってしまうのだ。いまやその怖れも霧散している。
「部屋に戻ったら、きっと眠れるわ」うれしそうにそうつぶやいた。

 だが、エリザベス・ウィラードはベッドに戻って休むことはなかった。暗がりのなか、身を震わせながら立っていると、息子の部屋のドアが開いて父親のトム・ウィラードが出てきたのである。ドアから漏れる光を浴びて、父親はドアノブに手をかけたまま話を続けた。その内容を聞いて、母親は胸が煮えかえりそうになった。

 トム・ウィラードは息子にたいそう期待していた。自分を成功した人間だと考えていたのだ。これまで実際にはうまくいったことなどなかったにもかかわらず。

だが、いったんニュー・ウィラード旅館が視界から消え、妻と出くわす心配がなくなると、肩で風を切って歩き出し、町の中心人物であるとでもいいたげな顔をし始める。息子にはひとかどの人間になってほしかった。息子を「ワインズバーグ・イーグル」新聞社に仕事口を見つけて押し込んだのも、父親がしたことだった。いまは熱のこもった声で、どう身を処していくか、助言しているところだ。

「ジョージ、よく聞くんだ。目を覚まさなきゃならんぞ」厳しい口調でそう言う。「そのことについちゃ、ウィル・ヘンダースンから三回も言われたぞ。おまえは何を言われても上の空が何時間も続く、まるっきり気のきかん娘っこみたいだ、ってな。いったい何の悩みがあるっていうんだ」そう言うと、トム・ウィラードは人が良さそうに笑ってみせた。
「まぁおまえなら大丈夫にちがいない、と思ってるぞ。ウィルにもそう言ってやったさ。うちのジョージは馬鹿者でもなければ女でもない。このトム・ウィラードの息子だし、そのうち目を覚ます、ってな。心配なんぞしとらんさ。おまえがひとこと言いさえしたら、ものごとははっきりするんだ。新聞記者になったことがもとで、作家の道に入るなんてことを思いついたのなら、それはそれで結構。ただそうするにしても、目だけはしっかりと覚ましておかなきゃな、そうだろう?」

 トム・ウィラードは大股で廊下を歩き、階段をおりて事務所に向かった。暗がりにたたずむ妻の耳に、客のひとりと談笑するその声が聞こえる。相手は事務所の戸口のすぐそばの椅子に坐ってまどろみながら、気怠い夕べのひとときをなんとかやりすごそうとしている男だ。母親は息子の部屋にきびすを返す。その身体からは、先ほどまでの弱々しさが魔法のように消え失せ、きっぱりとした足取りで歩いていたのだった。何千もの考えが頭の中を駆け抜ける。部屋の中から聞こえてくる椅子を引く音や、紙にペンを走らせる音を聞くと、もういちど自分の部屋に向かって廊下を帰っていった。

ワインズバーグで旅館を経営する男の細君の胸には、固い決意が生まれていた。長年、密かに、役にも立たない物思いを続けたあげく、生まれた決意だ。
「いまこそわたしが動かなくちゃ。わたしの子を脅かそうとしている何かを、わたしが追い払ってやるのだわ」

トム・ウィラードと息子の会話は、ごくおだやかで自然なもので、ふたりの間に一種の理解があるようなのが、エリザベスを苛立たせていた。夫を厭うようになってから何年にもなるけれど、その嫌悪感というのはこれまでのところ、一切感情とは無縁のものだった。夫は、自分が憎んでいるものではない存在の一部に過ぎなかったのだ。ところがドアのところでほんの二言、三言話しているのを聞いたために、夫は自分が憎むものを体現する存在になってしまった。暗い自室で両手を握りしめ、あたりを見回した。壁の釘にひっかけた布袋を取りに行くと、中から大きな裁ちばさみを出して、短剣のように構えた。
「あの人を止めなくちゃ」声に出してそう言った。「あの人が悪魔の声となることを選んだんだから、わたしがあの人の片をつけなくては。殺したりしたら、わたしの中の何かも切れてしまって、わたしも死んでしまうんだろうけれど。だけどわたしたちはみんな、それで救われるのだわ」



【おまけ:今日のできごと】
このところ何やかやと忙しい日が続いていたので、溜まっていた雑用は明日に回して、ひさしぶりに休みらしい休みの日を過ごす。
といってもジュンク堂へ行って、タワレコに行って、スタバでお茶飲んで、って、いつもと同じじゃないかぁぁ。
いや、本をたくさん買いました。全部文庫だったけど、講談社学術文庫三冊とちくま学芸文庫二冊買ったから、財布が一気に軽くなってしまった。うーん、"Live at Budokan"のDVDを買える日がまた遠のいた。ポートノイさん、待っててね。
またがんばって働こう。

今日のひとこと:物欲は人生というレースにおけるニンジンである。
そうか、物欲番長はわたしの守護天使だったのか……。

ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その2.

2005-10-09 21:51:05 | 翻訳
 ジョージ・ウィラードと母親の結びつきは、表面的にはとりたてて言うほどのこともない、ありふれたものだった。母親の調子が悪く、自分の部屋の窓際に腰をおろしているようなときは、ときどき息子は夜になって様子を見に行くのだった。

母親と息子は、軒を並べる小さな家の屋根ごしにメイン・ストリートが見下ろせる窓辺に坐った。別の窓からは、メインストリートに構えた店の裏手を走る路地が見え、路地の突き当たりにはアブナー・グロッフのパン屋の裏口があった。ときどきふたりがそこに坐っていると、目の前には町の暮らしが織りなす絵模様が繰り広げられた。店の裏口に、アブナー・グロッフが棒きれか牛乳の空き瓶を手に姿をあらわす。パン屋と、薬屋のシルヴェスター・ウェストが飼っている灰色のネコとは、もう長いこと敵対関係にあるのだった。息子と母親は、ネコがこっそりパン屋の裏口から忍び込むと、じき、そこから飛び出してきて、そのあとからパン屋が罵り声をあげ、両手を振りまわしながら出てくるのを眺めた。パン屋の目は怒りで細められ、充血し、黒い頭髪もあごひげも粉まみれだ。ときにパン屋は怒りにまかせて、ネコは姿を消しているにもかかわらず、棒きれやガラスのかけらや、商売道具さえも投げつけたりもした。そうやってシニング金物店の裏窓をこわしたこともあったのだ。路地ではネコが、紙くずや壊れた瓶があふれそうな、ハエが真っ黒にたかっている樽のうしろに身を潜めていた。

以前、母親はひとりでいるとき、パン屋がネコの姿もないのにいつまでも、意味もなく大声で怒鳴り散らかしているのを見たあとで、指の長い、白い両手に顔を埋めてむせび泣いた。それから二度と路地の方を見ようとはしなくなり、パン屋とネコの諍いを、なんとか忘れようとした。その光景はまるで自分の人生を、恐ろしいほど鮮やかに先取りして見せてくれているように思えたからだった。

 ある日の夕方、息子と母親が一緒に部屋に坐っていると、あたりがあまりに静かだったので、ふたりともなんとなく気まずくなってしまっていた。暗闇が忍び寄り、夕方の汽車が駅に滑り込む。窓の下の通りからは、歩道を歩く足音が聞こえた。列車が出ていったあとの駅の構内は、重い沈黙がたれこめていた。おそらく運送屋のスキナー・リースンも、プラットフォームまで台車を押して行ってしまったのだろう。向こうのメインストリートから、男の笑い声がする。運送屋のドアがバタンと閉まった。

ジョージ・ウィラードは立ち上がって、部屋を横切ると、手探りでドアノブを探す。そこへいくまで何度か椅子にぶつかって、床をこする音を立てた。窓のそばでは病気の母親がいるかいないかさえわからないほど静かに、物憂げに坐っていた。指の長い手、白く血の気の失せた手が、肘掛けの端から垂れ下がっている。

「あなたも若い人たちのなかに混ざったほうがいいんじゃない? 家に居過ぎるのも考えものよ」息子が出ていくとき、あまり決まり悪く思わないでもすむようにしようとして、そう言った。
「ちょっと散歩してくるよ」ジョージ・ウィラードはぎこちなくもたもたと言った。

 七月のある晩、ニュー・ウィラード旅館を仮の宿としていた旅回りの客もまばらになったために、廊下にただひとつ灯っているケロシン・ランプの灯も、暗く落とされ、薄暗くなった中で、エリザベス・ウィラードは思い切った行動に出ることにした。ここ数日、ずっと調子が悪く寝ていたのだが、息子は顔を見せに来ない。エリザベスは危惧していた。身体に残った、か細い命の残り火が、不安に煽られてパッと燃え上がり、ベッドを抜け出して服を着て、大きくなりすぎた怖れに身を震わせながら、廊下を通って息子の部屋に向かった。廊下の壁紙に片手をすべらせながら、肩で息をし、身体をしっかり保っていようとした。歯の間から息が漏れる。息子の部屋に急ぎながら、自分はなんと愚かなことをしているのだろう、と思う。
「若い男が気になるようなことが気になっているだけよ」そう自分に言い聞かせる。「たぶん、最近は夜になると女の子と出歩くようになったのよ」

 エリザベス・ウィラードは旅館の客に見つかることを怖れていたのだが、その旅館はもともとは彼女の父親のもので、いまでも郡役場に登録されているのも、彼女の名前のほうだった。旅館はみすぼらしいために客が減っていく一方で、自分もみすぼらしいと思っていた。自室は人目に付かない角で、働けそうだと思うときは、自分から進んで客室のベッドの間を行き来して立ち働くのだが、客がワインズバーグの商売人たちを相手に取引をしに出かけている間に片づけることができるような仕事を、好んでやるのだった。

 息子の部屋の戸口まで来ると、母親は床にひざまずいて、中の物音に耳をすました。息子が動き回りながら低い声で話す声が聞こえてきたので、唇がほころんでくる。ジョージ・ウィラードはひとりごとを言う癖があり、その声を聞いていると、奇妙な話だけれど、母親はうれしくなってくるのだった。その癖が、母親と息子の秘密の絆を強くしているような気がしていたのだ。これまでに何千回も自分にこっそりと言い聞かせてきた。
「あの子は自分を見つけようとして、手探りしてるのよ。あの子は口先だけの才走った、凡庸なうすのろじゃない。あの子のなかには、なんとかして伸びていこうとする、隠れた何かがある。わたしが自分の中でだめにさせてしまった何かが」

(この項 つづく)

ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その1.

2005-10-08 21:39:29 | 翻訳
今日からしばらく『ワインズバーグ・オハイオ』の続きを訳していきます。
原文はhttp://www.bartleby.com/156/4.htmlで読むことができます。

* * *


ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その1.
 
 エリザベス・ウィラードは、ジョージ・ウィラードの母親で、痩せて背が高く、顔には天然痘の痕が残っていた。まだ四十五歳ではあったけれど、はっきりしない不調のせいで、その身体は火が消えたあとの燃えかすを思わせた。いかにも大儀そうに、ごたごたした古い旅館の中を歩き回り、色あせた壁紙や、ぼろぼろになったカーペットに眼を走らせ、できそうなときは、太った旅回りの商人たちが休んだあとの汚れたベッドを片づけるような、客室係のメイドがやるような仕事をした。

夫のトム・ウィラードは、細身であか抜けた男で、肩を張り、軍隊式にきびきびと歩き、黒い口ひげの両端を、いつもぴんとひねりあげ、つとめて妻のことを頭から閉め出そうとしているのだった。廊下をのろのろと歩く、背の高い幽霊のような妻の姿があると、何かなじられてでもいるような気がしてくるのだった。妻のことを考えると、腹が立ってきて、悪態を吐きそうになる。旅館は赤字続きで、もうずっといつ潰れるかわからないような状態が続いていて、投げ出せるものなら投げ出したいのだった。このふるびた旅館と、自分と一緒にそこに棲みついている女は、惨めに打ち負かされ、くたくたになったものの象徴のように思っていた。かつてあれほど希望に満ちて出発したここでの生活も、いまとなっては本来あるべき旅館の亡霊に過ぎない。ワインズバーグの通りを、ぱりっとした格好で、いかにも仕事があるという様子で歩いているときも、旅館と女の亡霊が、通りまでついてきているのではないか、と怖れでもしているように、ときどき立ち止まって、チラッと振り向く。そうして「クソッ、なんて毎日だ」と自棄的につぶやくのだった。

 トム・ウィラードは、町の政治に入れあげていて、共和党の勢力が強い地域で、長年、有力な民主党員として活躍しているのだった。いつか政治的な流れは自分の側に向いてくる、そうすれば長いこと報われなかった奉仕活動も、十分に評価され、報酬となって返ってくるにちがいない、と自分に言い聞かせるのだった。自分が連邦議員に、あわよくば知事になることまで夢に見ていた。その昔、政治集会の場でひとりの若い党員が立ち上がり、自分がいかに献身的に尽くしてきたか自慢を始めた。するとトム・ウィラードは怒りで顔面を蒼白にしながら、「いいかげんにしろ」とあたりをにらみつけながら、怒鳴ったのだった。
「尽くす、というのがどういうことか、一体何を知っているというんだ。おまえなんぞは、ただの小僧っ子じゃないか。わたしが長年ここでやってきたことを考えてみろ。民主党員であることが罪だったころから、ここワインズバーグで党員をやってきたんだぞ。昔は銃を持った連中にそれこそ追いかけられたことだってあったんだ」

 エリザベスと一人息子のジョージのあいだには、表面に表れることはなかったが、深く通じ合う気持ち、とうの昔に死に絶えた、娘時代の夢に根ざした思いがあった。息子がそばにいると、おどおどとして口数も少なくなったけれど、息子が新聞記者の仕事で必死に町中を駆け回っているころには、ときどき息子の部屋に入ってドアを閉めると、窓際の小さな机――元は台所のテーブルだったもの――のそばにひざまずく。この部屋、机の傍らで、祈りとも無心ともつかない一種の儀式を行うのだった。母親が願うのは、半ば忘れてしまったけれど、かつてはまぎれもなく自分自身の一部だったものが、息子の姿のなかにふたたび現れるのを見たい、ということ。祈りの内容はそういうことだった。
「もしわたしが死ぬようなことがあっても、どうにかしておまえが台無しになったりしないよう、守ってあげるから」そう声をうわずらせて言うと、固い決意に身を震わせるのだった。その眼をギラギラと輝かせ、手を強く握りしめる。
「もしわたしが死んで、息子がわたしのようにつまらない落ちこぼれになりでもしたら、死んだって戻ってきてやるから」ときっぱりと言い放った。
「神様、どうかわたしにその特別な権利をお与えください。絶対に、そうさせてもらいます。そのための報いは受けます。拳で殴ってくださってもかまいません。わたしの子供がわたしと自分のために何か書くのをお許しくださるのなら、たとえどれほど打たれようと、お受けいたします」不安になって口を閉ざし、母親は息子の部屋を見回した。
「それから、息子が小利口でうまく立ち回るような人間にならないようにしてください」と、こんどはおぼつかない調子で付け加えた。

(この項つづく)

「この話、したっけ ~わたし、プロになれますか?」加筆修正版のお知らせ

2005-10-07 21:46:43 | weblog
つい先日、こちらに掲載した
「この話、したっけ ~わたし、プロになれますか?」を加筆・修正してHTMLにしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/profession.html

まだ更新情報の文章を書いていないので(今日は疲れたので明日)、"Latest Issue"は「ワインズバーグ・オハイオ」のままにしていますが、「この話したっけ」からは入れますし、もちろん↑をクリックしてくだされば、読むことができます。

ふぅ、何を書こうかな。頭がもう働かないや。
あ、そういえば、昨日サイトにアップした記事は、全部日付がちがってました。直さなきゃいけないんだけど、それも明日です。すいません。

今日、スーパーへ行って、トマトの水煮缶を買おうとしたら、急にドキッとしたんです。
何にいったいドキッとしたんだろう、と思って見回したら、シチューだかなんだかの箱に[ZEPPELIN]と書いてあったんです。あ、これ見て、ドキッとしたんだ、とわかったんだけど、それにしてもシチューの名前がZEPPELINっていうのもすごいな、さすがにLEDつけるわけにはいかなかったんだろうな、みたいなことを考えてたんです。

シチュー作るのってカンタンだし、こんなインスタントのルーはあまりおいしくないから買ったことないんですけど、ZEPPELINっていう以上は、いちど買ってみなきゃダメかな、みたいなことをああだこうだ考えながら、それにしてもなんでZEPPELINなんだろう、と箱を手にとって、よくよく見てみました。

……ZEPPINだって。"L"がありませんでした。

だけど、これ、絶対ねらってると思うな。LED ZEPPELIN好きの主婦は、つい買ってしまうシチューの素。ジョン・ボーナム没後25周年記念。

いや、買いませんでしたけど。
ごめんなさい、今日の記事はスカです。
明日から「ワインズバーグ・オハイオ」の続き、訳していきます。
またちょっとずつ翻訳やることになるけど、良かったら見に来てくださいね。
それじゃ、また♪

サイト更新しました

2005-10-06 21:22:37 | weblog
――I've said too much,
  I haven't said enough
(R.E.M. "Losing My Religion")


サイト、更新しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/

『ワインズバーグ・オハイオ』ついにアップしました。
うぅ、大変でしたぁ。

「終わってしまえばどうということはありません」
この言葉を以前うかがったことがあって、おおっ、カッコイイ! って思ったんです。

自分が釣った魚は大きい、というかなんというか、自分がやったことって、すごーく大層なもののように思えませんか? わたしは少なくともそうです。大変だったら、あー、すんごい大変だった、もー、すんごいがんばっちゃった、なんて、すぐに言ってしまう。

これも一種の体験主義と言えるのかもしれないのだけれど、どうしてもわたしたちは、自分が見たもの、自分がやったこと、なにもかもそれを中心に、ものごとを組み立てていってしまう。もちろんそうしていかざるをえないのだけれど、その一方で、外から自分のやったことなしたことを見る目を持ちたいと思うんです。

気負わず、衒わず、「どうってことないです」って言えたらなー、って、その言葉を自分の中に大切にストックしておきました。

そしたら、願ってもない場面に遭遇したのです。
しんどい仕事を頼まれて、優に30時間を超えるほど、睡眠時間も削って、せっせと仕上げました。
できました、って持っていったら「どうもありがとう、大変だったでしょう」って。
一瞬、言おうか、って思いました。いまがチャンスだ!

だけどね、考えてみたら、ボランティアなんです。もちろん、なんにせよ仕事がいただけるのはありがたい、と思わなきゃならない。それでもね、期限とか、ほかの仕事とか考えると、必ずしもありがたいとばかりは言えない。
「終わってしまえば…」と言いかけた言葉を呑み込んで、「ええ、かなり大変でした」って言っちゃいました(笑)。

「それはご苦労様」って、おいしいお昼ゴハンをごちそうしてもらいました。
ええ、それが30時間を超える労働の対価です。てんぷら定食、三人分くらい食べてやろうかと思いましたが、悲しいことにわたしの胃袋は大きくはないんです。あきらめて、一人前、おいしくいただきました。

「終わってしまえば…」は、またつぎの機会にとっておきます。

この間書いた「プロになれますか」は、明らかにふたつ、別個のネタを盛り込んでしまったので、木に竹を接いだみたいになってます。それもなんとか書き直さなくちゃ。それもちかいうち、サイトにアップする予定です。あ、あと、フォークナー、あとがきが尻切れトンボだったんで、少し書き直しています。

ということで、それじゃ、また♪
昨夜、頭が痛かったんで、九時ごろ寝たら、今朝、四時前に目が覚めました。おかげでもう眠くて、目がふさがりそうです。だけど今日はがんばってもう少し起きていよう。四時前って、真っ暗で、深夜なんだか、夜明け前なんだかよくわかんなかったです。
 

この話、したっけ ~「わたし、プロになれますか?」後編

2005-10-04 22:13:12 | weblog
2.教える―教わるということ 

 バレリーナというのは、舞台を下りても、非常に立ち姿が美しいのをご存じだろうか。単に背筋が伸びている、というだけでなく、重力を感じさせない立ち方をする。群衆の中にいると、その姿は目立つ。ほかの人間がGに打ちひしがれたような格好で壁にもたれたり、柱によりかかって立っている中にあって、ひとり重力とは無縁に立っている。

 それが不思議で聞いてみたことがある。すると、初心者の指導もしているというその人は、最初に、頭のてっぺんからひもが出ていて、自分が常にそのひもにぶら下げられているところをイメージするように教えるのだそうだ。その人自身もそう教わったのだという。たしかにそういうイメージを持って立つと、その瞬間に、立ち方が変わる。

 あるいは、こんなこともあった。スイミングのインストラクターが、身体が沈んでうまく泳げない、という人に、「あごを引いて泳いでみて」とアドヴァイスするのを聞いたことがある。その一点に気をつけただけで、泳ぎがまったく変わったのには、端で見ていたわたしも驚いた。

 もうひとつ、これはわたし自身の経験なのだが、日本人が苦手とされる"L"と"R"の発音の区別、わたしはこれは比較的苦労することがなかった。というのも、英語を習っていたアイルランド人から、"R"を発音するときは、上唇の両端を緊張させること、という指導を受けたからなのだ。多くのテキストには、日本語にはない"L"の音の舌の位置については書いてあるけれど、"R"で上唇を緊張させる、ということは書いていない。だが、その一点、気をつけるだけで、発音はまったく変わってくる。自分が正しく発音できれば、聞くときもそれほどむずかしくはない。

 身体に関わることでまず言えるのは、わたしたちは自分の身体がどうなっているかを自分では見ることができない、ということなのである。自分の立ち姿のイメージは、外から与えられるまで思い描くことはできないし、うまく泳げない、身体がどんどん沈んでいく、という形でしか、意識することはできない。自分の身体がどうなっているかを俯瞰する外部の眼がどうしても必要なのだ。

 加えて、そうした点を的確に表現し、アドヴァイスを送る「身体的」な言語がどうしても必要になってくる。そうした言語の遣い手は、決して多くはない。「一緒に泳いでいるともだち」ではダメなのはもちろん、単に経験者というだけでもダメ、そういう言語運用能力に長けた人、あるいはそういう指導を受けている人に習うことが必要になってくる。

 ところがこうした明らかに核心をついたアドヴァイスを受けるチャンスというのは、実際にはそれほど多くない。わたしにしても、そのアイルランド人の先生の指導を、約三年間受けていたのだけれど、はっきりとしたアドヴァイス、これを聞いてほんとうにためになった、という情報は、その一点だけだ。ふり返ってみても多くのいい先生に恵まれてきたのだけれど、これを聞いてためになった、という形で自分の中に残っているものは、ほとんどない。

 つまり、核心をつくアドヴァイスを求めて、先生につこうと思っても、それは必ずしも効率が良いことではない。自分のためになる情報は、必ずしも得られるとは限らないのだ。

 そんな不確かなことならば、やはり先生など必要ないのか。そんなことはない。やはり技術の向上を目指そうと思うのなら、必ず先生につかなければならない、と、わたしは思う。

 二十歳のころからさまざまな場面で教えるという経験を重ねてきて、つくづく思うのは、教えられるほうは、自分の好きなことしか聞いていない、ということだ。ここが大切だ、とどれだけ口を酸っぱくして言っても、プリントを作っても、宿題を出しても、教わる側はちっとも聞いてはいない。好きなように、勝手に「理解」するし、勝手に「励まされた」と言ってくるし、「傷つけられた」と怒り出す。これはほんとうに心臓に悪い。全然言った記憶にないことで責められるのは、おそらくわたしの記憶に問題があるのではないのだろうと思っている。
 つまり聞いている側は、聞きたい情報をいくつかピックアップし、それをつなげて勝手に「物語」を作りあげ、身につけるのである。

 ここで言えるのは、教える―教えられる、という関係は、パッキングした知識を、宅配便のように教える側から教えられる側へと発送する、ということではないのだ。これをコミュニケーションという観点から見るならば、以前「絵本を読む」でも指摘したように、教師の発話を受け取った生徒の側からコミュニケーションは始まっていく。教える―教えられるという関係がコミュニケーションとして成立するか否かは、教えられる側にかかっているのである。

 つまり、教えられる側が、教わろうとしてその関係に入っていくとき、教える―教えられるの関係が初めて成立するのである。そうして、そこで何を学ぶか、というのも、教えられる側次第なのだ。 

 しばしば聞くことのひとつに、学校に行っている頃は勉強なんか楽しくなかったけれど、大人になってやってみると、これほど楽しいことはない、というのがある。それはひとえに教わる側のあり方が変わったにすぎない。教わる側が、やらされているか、自分から主体的にその場へ入っていったかのちがいなのだ。

 当然、ここにお金のもんだいも介在してくる。教える―教えられるという場を設定するときに、金銭を介在させる、というのは、非常にわかりやすいことなのだ。大人になって、自分が身銭を切っていく英会話教室や、カルチャースクールで「不登校」になる生徒はいない。講師が休めば、振り替えを求める。
 ところが義務教育のころは、自分が懐を痛めていないものだから、不承不承行かされているように思い、さぼり、教師が自習にすれば大喜びする。そうした意味で、自分は教えられる場に入っていく、という心構えをするためにも、お金を払う、というのは、必要なことなのだと思う。

 プロになる、つまり、その道で食べていくことができるほどの収入を得ようと思えば、技術の習得が前提となる。そうして、技術を習得しようと思えば、教える―教えられるの関係に入っていくことが必要なのである。そうして、その場に入っていくことは、お金がかかることも、了解しておく必要がある。

 そうしてその教える―教えられるという場で得た知識に、こんどは身体を与えていく作業が必要になってくる。つまりそれが繰り返しのトレーニングであり、いかにそれを効率よく、倦むことなく続けていけるかどうかがもんだいなのだと思う。その結果、「才能」が開花するかどうかは、だれにもわからない。

 さて、ここで教える側は、何を教えたらよいのだろうか。そのお金に見合うなにものかを提供するためには、何をしたらいいのだろうか。

 ここからは、わたし自身未だ模索している段階なのだけれど、そのうえで、いま考えていることをいくつか。

①場の雰囲気をコントロールする
もちろんこれはコミュニケーションの起点が教わる側であることを考えれば、教える側がどこまでコントロールできるかは、はなはだ心許ないものでもある。けれども、場の雰囲気を盛り上げる、少しでも学びの場に近づけることができるように努力だけはすべきだと思う。

②教える側が、自分なりの基準を持つ
どういうものを良いと思うのか、なぜそれが良いと言えるのか、そうした基準を教える側が持っていることは、必要不可欠だと思う。その基準がなければ、教えるのも場当たり的にならざるをえないし、まじめな受け手は混乱するだろう。その基準を受け手が批判してくる場合は、それに応酬していく必要がある。つまりそれを毅然と行えるほど、その基準は教える側にとって、確固たるものでなければならないと思う。

③「答え」ではなく、どういうふうに考えを進めたら良いのかを教える。受け手が知るべきは、いくつもある「答え」のひとつではなく、そこへいくまでのプロセス、さらにいえば、そこからつぎの質問を作り出していく道筋を示すことができたら、と思う。

以上のことを総合するに、結局教える側も学び続けなくてはいけない、ということなのだ。

 なんにしても、自分が思うとおりにできるようになるまで、時間がかかる。そこに至るまでには、同じことを、たったひとりで繰り返しやっていかなければならない。その繰り返しに方向付けをあたえ、飽きないように励まし、たったひとりではないのだ、と勇気づけることが、おそらく教える側のやらなければならないことだと思う。

 そうして、教える側も、思い通り教えられるようになるまで、時間がかかる、ということを覚悟しなくてはならないだろう。教える側は、同時に学ぶ側でもある。そうして、学ぼうと思うときは、つねに導き手を探さなければならない。

 教えるということは、むずかしい。けれど、教えることによって、勉強させてもらっている。これはつくづく思うことだ。

 こうやってがんばっていれば、何年かしたらもうちょっとましな先生になれるんじゃないかと思うのだ。だからどうか全国一斉教師能力検定試験をやるんだったら、一回きりじゃなく、少なくとも何年かおきに、繰り返してやってください。お願いします。

この話、したっけ ~わたし、プロになれますか?(前編)

2005-10-03 22:34:11 | weblog
この話、したっけ ~「わたし、プロになれますか?」

 一応、わたしは人にものを教えることを生業としている。立ち往生しないよう、いつもできるだけの準備はしているけれど、予想もしない質問が来て、思わず「はぁ?」とアゴをはずしかけたり、せっかく教えたはずなのに、答案を見て腰骨がうち砕かれるような思いに襲われたり、全国一斉教師能力検定試験、みたいなものが開催されたら、おそらく下から数えたほうが早いにちがいない。

 ところが、こんなわたしであるにもかかわらず、「先生、わたし、プロになれます?」と聞いてくる子が、かならず毎年何人かは現れるのである。答えは決まって「そんなことはわかりません」、ほんとうにそれ以外に答えようがないのだが、たいがい聞いてきた側は、おもしろくなさそうな顔をする。

 なんと言ってもらいたいんだろう。わたしが太鼓判を押したら、何かいいことがあるのだろうか。

 実際、安易に請け合う人たちもいるのだ。いわゆる「通信講座」とか、要は受講生に金をはき出させることを目的にしているところだ。
「いい調子ですよ。このまま続ければ、プロになれるかも」
こういうのはダイエットの広告と一緒で、一種の詐欺には当たらないんだろうか。

 青山南は『小説はゴシップが楽しい』(晶文社)のなかで、ウィリアム・ギャスのこんな言葉を紹介している。

 例外はもちろんあるが、かれら(アメリカの大学の創作科の学生のこと)はがいして文学にいささかも興味を示さない。そのかわり、書くことには興味がある……お皿みたいに薄っぺらな自己を表現することには興味があるのだ。……わたしが会った若者たちには、かつてわたしたちの世代が持っていたような、ロマンティックな大志がなかったので、彼らには野心がないのだ、とわたしは決めつけたものだ。しかし、それは間違いだった。彼らは野心の塊だったのだ。ただ、それはあまりにも通俗的で常識的な類のものだった。彼らは一山当てたがっている。

 才能、ということを考えるとき、いつもわたしは「ニューヨーク・ストーリー」という映画を思い出す。高校時代のわたしが、画家に扮したニック・ノルティ見たさに、繰り返し映画館で見た映画だ(そのころはまだビデオで見ることがなかったのだ……高校時代なんて、ついこの間のことのような気がするけれど、こうしてみると隔世の観があるなぁ)。

 ニック・ノルティが演じるのは、ジャクソン・ポロックを思わせるような、どでかいキャンバスに、速乾性のアクリル絵の具をたたきつけるように描く抽象表現主義の画家。画壇では大家とまではいかないのだろうけれど、相当に重きを置かれている中堅の画家なのである。
 その彼と同棲しているのが、画家のタマゴのロザンナ・アークウェット。彼女は、自分は画家としてやっていけるのだろうか、と疑問を持っていて、ある日、ノルティに迫る。
自分の絵を見てくれ。緊張感はあるか。才能はあるか。自分はプロとしてやっていけるか。才能がないのなら、田舎に帰る。

 それに対して、画家は「22歳でそんなことがどうしてわかる」と答える。
アークウェットが求めていたのはそんな言葉ではなかった。才能がある、ない、なんにせよ、決定的な言葉、託宣がほしかった。

 けれども、ほんとうにそんなことがどうしてだれかに言えよう。「才能」というものは、箱に入ってリボンがかかっているプレゼントではないのだ。ひたすらに描き、描き、描き続けるなかで線をすこしずつ洗練させていき、自分の色の組み合わせを見つけていく、それを続けていくしかない。そうして、それがどこかにたどりつけるか、どこにもたどりつけないかは、だれにもわからない。

 好きなことを見つけなさい、ということを、だれでも聞いたことがあるだろう。それはなぜかというと、好きなことでないと続けられないからだ。自分の思いどおりにできるようになるまで、たいがいのことは、アホらしいほど時間がかかる。同じことをひとりっきりで繰り返し繰り返し、延々とやっていかなければならないのだ。そんなことは死ぬほど好きでなくては、絶対にできない。だから「好きなこと」を作り出さなければいけないのだ。
 そうして、思い通りにできるようになったところが、ほんとうのスタートラインなのである。

 もうひとつ、『小説はゴシップが楽しい』の同じ章から引くことにしよう。今度はテッド・ソロタロフの言葉。

 書くこと自体が、誤解や誤用は禁物だが、書くこと自体を力づける方法にもなるのである。あてどない怒りや失望を意図的で頑丈な攻撃に変えることもできるし、これこそ作家の原動力である。傷つけられた純真さはアイロニーになるし、奇怪さは独創に、愚昧はウィットになる。ただ、そうなるまでには時間がかかるということだ。
 小説を書くことは、宗教的な意味で、ひとりの人間が選ぶ道になった。

 小説を書くことばかりではない。絵を描くことにせよ、楽器を演奏することにせよ、マンガの原作を書くことにせよ、ゲームのプログラムを書くことにせよ、それがなんであっても時間がかかる。そして、そこに行くまでに、気持ちが悪くなるくらい、失敗を続けて行かなくてはならないのだ。

 ここで、たいがい「わたしは努力ができないんです」という子がでてくる。
意志プラス努力で成功、という図式があるのかもしれないのだけれど、努力というものも、もちろん簡単にできるわけではないのだ。

 わたしたちは言葉でも自然に身につけているわけではない。親の話すのを、ものすごい集中力で聞きながら、何度も繰り返し繰り返し、まねをしながら、やっとしゃべれるようになってきたのを忘れてはいけない。

 どんな技術でも身につけようと思ったら、先生が必要なのだ。

(何かアタマにもやがかかってきたので、後半は明日。今日はもうへろへろ)

祝 もうすぐ一周年

2005-10-01 19:09:37 | weblog
ブログを始めた頃は、日々雑感みたいなことだけは書くまい、と思っていたのに……orz
堕落の一途をたどっています……。
いや、まじで忙しいっす。眼が血走ってます。じんわり、なんてのんきなこと言ってられない事態になってきました。
ブログ、下書きせずにぶっつけで書いてるので、文章、おかしいかもしれません。

そういえばもうすぐこの「陰陽師的日常」のブログを初めて一周年になります。
昔から記念日とか、全然気に留めるほうじゃなかったんですが、過去ログの一覧をふと見てみたら(←)去年の10月から始まってる。
あー、そうだったなぁ、って。

* * *


ここにわたしがいる、って見つけてもらえたらなぁ、と思って、始めたんです。

『山の上の火』(クーランダー、レスロー文 渡辺茂男訳 岩波書店 ちなみに子供向けの本です)というエチオピアの民話があるんです(この話はサイトのどこかに書いてるんですが、サイトに書いたのは半分だけなので、ここで全部紹介します)。
ひとりの奴隷が、主人と賭をする。冷たい風のふきつける山の上に、一晩中、身体を暖めるための火も、毛布も、服も、食べ物も飲み物もなしに、裸で立っていられたら、おまえを自由の身にしてやって、おまけに畑と牛もくれてやろう。

奴隷は村の物知りじいさんのところへ相談に行きます。
おじいさんは、向かいの山の岩の上で、おまえのために一晩中火を燃やしてやろうと言うのです。

ふきつける風に凍え死にそうになりながら、奴隷は一晩中、目を凝らしてその火を見、なんとか耐え抜くのです。

翌日そのことを主人に告げると、主人は不思議に思って「どうしてそんなことができたのか」と聞きます。奴隷が正直におじいさんが向かいの山で火を燃やしてくれていたことを話すと、主人は前言を翻す。「おまえは火を使ったではないか。おまえの負けだ」

奴隷は裁判所に訴える。ところが裁判官も主人の言うことを容れ、奴隷の訴えを退けるのです。

奴隷はふたたびおじいさんのところへ行きます。そこでおじいさんは一計を案じる。
みんなにごちそうをする、とおふれを出し、裁判官も、主人も、みんなを招くのです。
みんなはごちそうを楽しみにして集まってくる。

ところがいい匂いが漂ってくるばかりで、いっこうにごちそうは現れません。
みんなが文句を言い出したところ、おじいさんは言うのです。
「山の向こうの火が暖かいのなら、ごちそうの匂いだけでお腹も十分膨れるでしょう」

こうして裁判官も主人も、自分たちの非を悟り、奴隷は晴れて自由になる。

とまぁこういう話なんですが。

わたしも、ここで、小さな火を燃やしてみよう。
この火は、お腹をいっぱいにしたり、実際に身体を暖めたりすることはできません。

それでも、暗闇でちらちらと瞬いてるのが、見つけてもらえるんじゃないか。
そうして、だれかがそれを「暖かい」と思ってくれたら。

わたし自身、そんな火にずっと暖められてきました。
ずいぶん遠くなったけれど、それでも火はやっぱり燃やされているのだと思います。
少なくともわたしがそこに火の存在を感じている限り、わたしは凍えたりしない。
わたしは、大丈夫です。

わたしの火がどこまで届いているか、わからないけれど。
でも、ずっと燃やしています。

* * *


ところでこのブログのサブタイトルは、「読みながら歩き、歩きながら読む」です。
これはわたしが小学生のころ、毎日本を読みながら、学校から歩いて帰っていたことに基づいていますが、もちろんそれだけではなく、一種のメタファーでもあります。

読むということは、考えるということと不可分だし、逆もまた真なり、です。そうして、考えるということは、書き、それを読んでもらう、批判にさらされる、ということとも不可分です。
つまり、本を読む、ということは、当然、考え、それを自分ひとりの考えにするだけでなく、他者にうったえ、意見を聞き、批判を受ける、ということ一切を含んでいるのではないか、と思います。
そうした本の読みかたをしながら、自分自身の考えを作り、自分自身が変わっていけたらな、と。
まぁ「歩く」というのは、口幅ったく言っちゃえば、そうした意味あいもかねていたりします。

ということで、これからもよろしく。
また、遊びに来てください。
こう言っておいて、ナンですが、明日はおやすみです(笑)。

これから修羅場が待ってます。ねじりはちまき、はレトリックですが、コーヒー入れて、バンデリン用意して(ええ、肩凝るんです。もー寄る年波のおかげでパソコン叩いてると肩は凝るし、眼はかすむし、腰は痛くなってくるし…)、眠気覚ましの覚醒musicも用意したし、あとは仕事をするだけです。

生きて乗り越えられたら、月曜日、お会いしましょう。
それじゃ、また♪