陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ワインズバーグ・オハイオ ―「哲学者」その4

2005-10-16 21:37:04 | 翻訳
 八月のある日、パーシヴァル医師はワインズバーグで予期せぬ出来事に遭遇する羽目になった。このひと月、ジョージ・ウィラードは、毎朝一時間、診療所で過ごすようになっていた。医者のほうが、ぜひ来てくれ、書きかけの小説を読んでほしい、と言い出したからだった。この本を書くために自分はワインズバーグに来て生活するようになったんだ、とまで、言い切ったのだった。

 八月のその日の朝は、ウィラードがやってくる前に、診療所ではひと騒動があった。まず、メインストリートで事故が起きた。馬車を牽いていた馬の群れが汽車に驚いて暴走した。そうして小さな女の子、百姓の娘が馬車から放り出されて死んだのだ。

 メインストリートにいた人々はみな動転し、医者を呼んでこい、という怒鳴り声があがった。町の開業医が三人、すぐにやってきたが、子供はすでに息がなかった。ひとだかりの中、ひとりがパーシヴァル医師の下に走ったのだが、医者のほうは、死んだ子供を見に、診療所を空けることはできない、とにべもなく断った。医者がその必要もないのに、無慈悲に断ったことは、だれにも知らされないままうやむやになってしまった。それどころか、医者を呼びに階段を上がって来た人間は、断りの返事を聞く前に、あわてふためいて引き上げていったのである。

 ジョージ・ウィラードが診療所に入っていくと、事情をまったく知らないウィラード医師は、恐慌を来してがたがたと震えていた。「おれが行くのを断ったもんだから、町の奴ら、怒鳴り込んでくるにちがいない」興奮した医者は言い張った。「おれが人間の本性を知らないとでも思うのか? どうなるってことも。おれが断った、っていうことは、噂になるだろう。そのうちみんなが集まって、その話をするようになる。そいつらはそうしてここに来るだろう。おれたちは言い争いになって、おれを吊してしまおう、と言い出す。つぎにここに来るときは、ロープを持って来るんだ」

 パーシヴァル医師は恐怖におののいていた。「胸騒ぎがするんだ」激しい調子で言った。「おれが言ったようなことは、午前中にはまだ起こらんかもしれん。夜まではもつかもしれん。だがいずれは縛り首になるんだ。みんな喜ぶだろうな。メインストリートの街灯に、おれは吊されるんだ」

 汚らしい診察室のドアまで行くと、パーシヴァル医師はおそるおそる、通りに通じる階段をのぞきこんだ。 戻ってきた医師の目には、先ほどまであった恐怖に替わって、いぶかるような色が浮かんでいた。つま先だって部屋を横切り、ジョージ・ウィラードの肩をぽん、と叩いた。「まぁ、いますぐじゃなくても、いつかは、だ」と、頭をふりながら囁き声で言う。「最後にはおれは磔にされるのさ。意味なんかちっともない磔に」

 パーシヴァル医師はジョージ・ウィラードに哀願するような口調になった。「おれが言うことをよく聞かなくちゃならん」まるでかき口説くように続けた。「もし何かあっても、おれが書けなかった本を、君なら書いてくれるよな。言いたいことは簡単なことなんだ。あんまり簡単すぎて、気をつけてなかったら、わすれてしまうくらいだ。つまり、この世の人間は、だれもがみなキリストで、みんな磔にされるんだよ。それがおれが言いたいことだ。忘れるんじゃないぞ。何が起ころうと、絶対に忘れるわけにはいかないことなんだ」

(この章おわり)


-----【今日の出来事】------

仕事仲間と休み時間、生徒がうじゃうじゃいる近くのスタバを避けて、ちょっと離れたところにお茶を飲みに行く。
ふと隣のテーブルを見ると、小綺麗な格好をしたふたり連れが、向かい合ってお茶を飲みながら、微妙に間のあく奇妙な会話を続けている。聞くつもりはなかったのだけれど、耳に入ってくる、どんなお仕事をなさってるんですか、というふうな内容から察するに、それはいわゆる「お見合い」なのである。

隣の空気がこちらにまで伝染したか、連れもわたしもなんとなくだまりがちになり、ぽつり、ぽつり、という話は、妙によく聞こえてきてしまうのだった。
そのうち、女の子のほうが携帯メールを始めた。

え!? こういうときに、そういうことするわけ?

相手の男性は腕を組んだまま、じっと待っている。

「『××』の十一月号、読んだ?」凍りついた空気をほぐそうと、わたしは連れに声をかけた。
「え?」相手も隣が気になって気もそぞろなのである。

「十一月号には▲▲が書いてる」
「そうかー」

「あー……それはそうとなー……」
「え、ごめん、 いま、なんて言った?」
こちらの話もどうにも盛り上がらないので、早々に切り上げて、店を出た。

「それにしても、ああいうときに携帯すんねんな」
「一種の意思表示かもね」
「そこまで考えてへんのちゃうかな」

お見合いのさなか、携帯メールを始めちゃう女の子に、わたしも同僚もたまげたのであった。それは、いくらなんでもまずくないか?