陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その3.

2005-10-10 21:10:25 | 翻訳
 廊下の暗がりのなか、ドアの前で、病んだ母親は立ち上がると自分の部屋に戻ろうとした。ドアが開いて、息子と出くわすのはいやだった。十分に距離をおいて、廊下の角で立ち止まると、先ほど不意に襲ってきた、身体が震えるほどの弱気を振り払おうと、手を止めて身をぐっと引き締めた。

息子が部屋にいたと思うと、幸せな気がした。長いことひとりで横になっていると、胸に兆したちょっとした怖れも、じきに巨大なものになってしまうのだ。いまやその怖れも霧散している。
「部屋に戻ったら、きっと眠れるわ」うれしそうにそうつぶやいた。

 だが、エリザベス・ウィラードはベッドに戻って休むことはなかった。暗がりのなか、身を震わせながら立っていると、息子の部屋のドアが開いて父親のトム・ウィラードが出てきたのである。ドアから漏れる光を浴びて、父親はドアノブに手をかけたまま話を続けた。その内容を聞いて、母親は胸が煮えかえりそうになった。

 トム・ウィラードは息子にたいそう期待していた。自分を成功した人間だと考えていたのだ。これまで実際にはうまくいったことなどなかったにもかかわらず。

だが、いったんニュー・ウィラード旅館が視界から消え、妻と出くわす心配がなくなると、肩で風を切って歩き出し、町の中心人物であるとでもいいたげな顔をし始める。息子にはひとかどの人間になってほしかった。息子を「ワインズバーグ・イーグル」新聞社に仕事口を見つけて押し込んだのも、父親がしたことだった。いまは熱のこもった声で、どう身を処していくか、助言しているところだ。

「ジョージ、よく聞くんだ。目を覚まさなきゃならんぞ」厳しい口調でそう言う。「そのことについちゃ、ウィル・ヘンダースンから三回も言われたぞ。おまえは何を言われても上の空が何時間も続く、まるっきり気のきかん娘っこみたいだ、ってな。いったい何の悩みがあるっていうんだ」そう言うと、トム・ウィラードは人が良さそうに笑ってみせた。
「まぁおまえなら大丈夫にちがいない、と思ってるぞ。ウィルにもそう言ってやったさ。うちのジョージは馬鹿者でもなければ女でもない。このトム・ウィラードの息子だし、そのうち目を覚ます、ってな。心配なんぞしとらんさ。おまえがひとこと言いさえしたら、ものごとははっきりするんだ。新聞記者になったことがもとで、作家の道に入るなんてことを思いついたのなら、それはそれで結構。ただそうするにしても、目だけはしっかりと覚ましておかなきゃな、そうだろう?」

 トム・ウィラードは大股で廊下を歩き、階段をおりて事務所に向かった。暗がりにたたずむ妻の耳に、客のひとりと談笑するその声が聞こえる。相手は事務所の戸口のすぐそばの椅子に坐ってまどろみながら、気怠い夕べのひとときをなんとかやりすごそうとしている男だ。母親は息子の部屋にきびすを返す。その身体からは、先ほどまでの弱々しさが魔法のように消え失せ、きっぱりとした足取りで歩いていたのだった。何千もの考えが頭の中を駆け抜ける。部屋の中から聞こえてくる椅子を引く音や、紙にペンを走らせる音を聞くと、もういちど自分の部屋に向かって廊下を帰っていった。

ワインズバーグで旅館を経営する男の細君の胸には、固い決意が生まれていた。長年、密かに、役にも立たない物思いを続けたあげく、生まれた決意だ。
「いまこそわたしが動かなくちゃ。わたしの子を脅かそうとしている何かを、わたしが追い払ってやるのだわ」

トム・ウィラードと息子の会話は、ごくおだやかで自然なもので、ふたりの間に一種の理解があるようなのが、エリザベスを苛立たせていた。夫を厭うようになってから何年にもなるけれど、その嫌悪感というのはこれまでのところ、一切感情とは無縁のものだった。夫は、自分が憎んでいるものではない存在の一部に過ぎなかったのだ。ところがドアのところでほんの二言、三言話しているのを聞いたために、夫は自分が憎むものを体現する存在になってしまった。暗い自室で両手を握りしめ、あたりを見回した。壁の釘にひっかけた布袋を取りに行くと、中から大きな裁ちばさみを出して、短剣のように構えた。
「あの人を止めなくちゃ」声に出してそう言った。「あの人が悪魔の声となることを選んだんだから、わたしがあの人の片をつけなくては。殺したりしたら、わたしの中の何かも切れてしまって、わたしも死んでしまうんだろうけれど。だけどわたしたちはみんな、それで救われるのだわ」



【おまけ:今日のできごと】
このところ何やかやと忙しい日が続いていたので、溜まっていた雑用は明日に回して、ひさしぶりに休みらしい休みの日を過ごす。
といってもジュンク堂へ行って、タワレコに行って、スタバでお茶飲んで、って、いつもと同じじゃないかぁぁ。
いや、本をたくさん買いました。全部文庫だったけど、講談社学術文庫三冊とちくま学芸文庫二冊買ったから、財布が一気に軽くなってしまった。うーん、"Live at Budokan"のDVDを買える日がまた遠のいた。ポートノイさん、待っててね。
またがんばって働こう。

今日のひとこと:物欲は人生というレースにおけるニンジンである。
そうか、物欲番長はわたしの守護天使だったのか……。