陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

物語をモノガタってみる その3.

2005-10-26 22:07:35 | 
3.ストーリーとプロット

わたしたちは物語を聞くとき、ただ、まったくの受け身で話の流れだけを追いかけているわけではない。

ルーシーがライナスにした「人が生まれました。生きて死にました。おしまい」、これはどんなに短くても、物語になっている、と思う。けれど、これはどうだろうか。「むかしむかしあるところに三つの石がありました。おとうさんの石、おかあさんの石、それから赤ちゃんの石です。おしまい」(※どうでもいいけどこれはいまわたしが作りました。ここまでオチのない話を作るのは、逆に大変だった)これは、物語ではないと思う。ためしに小さい子供にしてみてください。きっと「もっとちゃんとしたお話をして!」と怒られるはず。

これはどうしてなのだろう。
わたしたちの頭の中には、ある種の「あるべき物語像」というものがあるからではないか。そうして、物語を聞きながら、この「あるべき物語像」に当てはめながら、先を推測しながら聞いているのではあるまいか。だからこそ、この「あるべき物語像」と、自分が聞いている物語が食い違うと、「これはちがう」と思うのである。そうしてこの「あるべき物語像」というのは、相当小さいうちから、つまり、物語を理解できるようになるのとほぼ同時期に、わたしたちの内側に形成されているのではないだろうか。

今回はこのことを考えてみたい。

「人が生まれました。生きて死にました」というお話と、三つの石の話はどうちがうのか。
これはストーリーとプロットの問題に関わってくる。

E.M.フォースターは『小説の諸相』のなかで「好奇心は、人間の能力のなかでいちばん下等なもののひとつです。日常生活でお気づきと思いますが、好奇心の強い詮索好きな人は、たいてい記憶力の悪い人で、たいてい頭もあまり良くありません」と書いていて、このところがたがたと音が聞こえてくるくらい記憶力の低下を感じているわたしなど、もしかしてこれはわたしのことなのだろうか、とちょっと心配にもなってくるのだが、この部分につづいて、非常に明確に「プロット」と「ストーリー」を定義づけている。

ストーリーとは「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」です。たとえば、「朝食を食べ、それから夕食を食べた」、「月曜日がきて、それから火曜日がきた」、「死が訪れ、それから腐敗が始まった」というぐあいです。そして、ストーリーの美点はただひとつ、それからどうなるんだろう、という好奇心を読者に起こさせることです。)

プロットもストーリーと同じく、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものですが、ただしプロットは、それらの事件や出来事の因果関係に重点が置かれます。つまり、「王様が死に、それから王妃が芯だ」といえばストーリーですが、「王様が死に、そして悲しみのために王妃が芯だ」といえばプロットです。時間の進行は保たれていますが、ふたつの出来事のあいだに因果関係が影を落とします。あるいはまた、「王妃が死に、誰にもその原因がわからなかったが、やがて王様の死を悲しんで死んだのだとわかった」といえば、これは謎を含んだプロットであり、さらに高度な発展の可能性を秘めたプロットです。それは時間の進行を中断し、許容範囲内でできるだけストーリーから離れます。王妃の死を考えてください。ストーリーなら、「それから?」と聞きます。プロットなら「なぜ?」と聞きます。これがストーリーとプロットの根本的な違いです。
(E.M.フォースター『小説の諸相』E.M.フォースター著作集8 中野康司訳 みすず書房)



アリストテレスは『詩学』のなかで、プロットが物語のもっとも基本的な特徴であり、良いストーリーは始め、中間、終わりを持ち、その順序にリズムがあるために喜びを与える、と言った。

最初の情況があり(人が生まれました)、変化が起こり(生きて)、変化を意義のあるものにする解決がある(死にました)。
単なる出来事の連鎖ではなく、変化や動きがなければプロットにはならないのだ。

実は、物語の聞き手は、ストーリーを聞きながら、ストーリーの向こうにプロットを見いだそうとしている。

昨日もあげた『エマ』をもう一度引こう。

エマ・ウッドハウスは端正な顔立ちをした利口な女性であり、何不自由なく暮らしていけるだけの富を有し、加えるに温かい家庭と明るい気質を併せ持ち、まさに天の恵みを一身に集めているようであった。この世に生を受けて二十一年近くの間、悩みや失望とはほとんど無縁の生活を送ってきた。(ジェーン・オースティン『エマ』)

わたしたちはこの部分を読んで思うのは、エマは間違いなく、このままでは終わらない、という予感を持つ。小説の世界について、漠然と予感を持ちながら、読み進んでいく。
つまり、プロットを推測しながら、読んでいくのである。

人の話を聞いていて、肩すかしをくらったり、こんなはなしだったのか、と失望したりする経験は、だれにもあるだろう。つまり、わたしたちは聞きながら、その話をもとにプロットを組み立てている。そのプロットと、話が食い違ったとき、わたしたちは肩すかしや、失望を味わうことになる。

プロットというのは、物語のなかにはあらわれない。読み手が、あるいは聞き手が推測したり、構築するものなのである。

(この項つづく)