陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

物語をモノガタってみる その5.

2005-10-29 22:38:48 | 
5.「話す」と「語る」

先日のこと。
友人との会話のなかで、「あの人ったら、語るわけ。もう、語る語る」という言葉を聞いて、非常におもしろいと思った。ここでは、「話す」と「語る」は明らかに使い分けられている。その話に出てくる「あの人」が、おしゃべりと言いたいわけではないだろう。あるいは、その「語り」の内容の特異さを指摘したかったわけでもなかったはずだ。おそらく、その人物の話し方は一般的な「話す」という行為からみたときの逸脱があった。その逸脱を指して、彼女は「語る」という言葉で表現したのだと思う。

「語る」と「話す」はどちらも人間の言語活動をあらわす言葉でありながら、その含蓄は微妙な差異を見せている。例えば、「話し合い」は日常茶飯に行われるのに対し、「語り合い」はあったとしても稀であろう。また「話が合わない」ことはあっても、「語りが合わない」という言い方は見当たらない。さらに、「話の接ぎ穂」を見いだすのに苦労をしても、「語りの接ぎ穂」を見いだすことはそもそも意味をなさないであろう。むしろ、「語り」が推敲される場面では、それが他の語りと「合う」ことや、「合わない」ことは問題とはならず、「合の手」が入ることはあっても、はなから、「接ぎ穂」は不要なのである。
 以上のことからすれば、「話す」が話し手と聞き手の役割が自在に交換可能な「双方向的」な言語行為であるのに対し、「語る」は語り手と聴き手の役割がある程度固定的な「単方向的」な言語行為と言えそうである。視点を変えれば、「話す」がその都度の場面に拘束された「状況依存的」で「出来事的」な言語行為であるのに比べ、「語る」の方ははるかに、「状況独立的」であり、「構造的」な言語行為だと言うことができる。このことは、語源的に「話す」が「放つ」に由来し、「語る」が「象る」に由来するという事実からも、ひとつの傍証が得られるであろう。
(野家啓一 『物語の哲学 ―柳田國男と歴史の発見―』岩波書店)

つまり、「話す」のではなく「語る」という言葉で彼女が表現したかったのは、その人物の話しぶりが、相手からの反応や応答をもとより期待していない、一方的なもの、おそらくどこへ行っても何度となく繰り返されるような類のものだった、ということなのだろう。

「モノガタリ」であって、「モノバナシ」ではないのはなぜか。
それはこの「語る」と「話す」のちがいにほかならない。「話す」が双方向のコミュニケーションとして、行く先を定めていないのに対し、「語る」は、筋を持った言説を述べる行為であるからだ。「物語」は、まさしく話されるのではなく、語られるものなのである。

ところで、「語る」場合はかならず過去形で話される。経験を語る場合も、歴史を語る場合も、昔話を語る場合も。そうして、ある種実験的な作品を除いて、多くの小説も、過去形で語られる。それはたとえ、未来を舞台にした作品であってもそうなのだ。


 未来についての小説のほとんどが過去形で語られるのは、一見矛盾しているように見えて、実はそれなりの理由によるものである。マイケル・フレインの『きわめてプライベートな生活』(一九六八)は未来形で始まる(「いつかあるところに、アンカンバーという名の女の子が住んでいるでしょう」)が作者はその時制を長く続けることができず、すぐに現在形に切り替えている。小説の想像の世界に入り込むために、我々は登場人物と同じ時空に身を置かねばならないが、未来形ではそれができない。過去形は物語にとって「自然」な時制なのだ。現在形ですら、何となくしっくりとこない。なぜなら、何かが書かれているということは、論理的にそれがすでに起こっていることを前提としているからである。
(デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』柴田元幸・斉藤兆史訳 白水社)


ここで「物語」が扱う世界が鮮明になってくる。物語が扱うのは、過去の出来事だ。
すでに起こったことだから、物語として語ることができるのだ。

それでは、単なる過去に起こった「話」と「物語」はどうちがうのだろうか。

「昨日竹林に入っていったら、ぴかぴか光ってる竹があってさ、もうびっくりしたのなんのって」
これは「話」ではあるけれど、「物語」ではない。
聞き手は「まさか、おまえ、目は大丈夫? 眼医者、行った方がいいんじゃない? 眼医者は駅前の××眼科が良いって話だけど、おまえはいつもどこへ行ってる?」と、行方を定めないコミュニケーションとなっていく。
この話が「物語」になるためには、一定の枠組みが与えられなければならないのだ。

先に引いた野家はこう言っている。

 一度限りの個人的な体験は、経験のネットワークの中に組み入れられ、他の経験と結びつけられることによって、「構造化」され「共同化」されて記憶に値するものとなる。逆にいえば、信念体系の中に一定の位置価を要求しうる体験のみが、経験として語り伝えられ、記憶の中に残留するのである。したがって、繰り返せば、経験を語ることは過去の体験を正確に再生あるいは再現することではない。それはありのままの描写や記述ではなく、「解釈学的変形」ないしは「解釈学的再構成」の操作なのである。そして体験を経験へと解釈学的に変形し、再構成する言語装置こそが、われわれの主題である物語行為にほかならない。それゆえ物語行為は、孤立した体験に脈絡と屈折を与えることによって、それを新たに意味づける反省的な言語行為といえるであろう。言い換えれば、「体験」は物語られることによって、「経験」へと成熟を遂げるのである。(引用同)

同書で野家は「語る」は「話す」と「書く」の間にこそ位置づけられるべき独立した行為である、とするのである。