今日からしばらく『ワインズバーグ・オハイオ』の続きを訳していきます。
原文はhttp://www.bartleby.com/156/4.htmlで読むことができます。
ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その1.
エリザベス・ウィラードは、ジョージ・ウィラードの母親で、痩せて背が高く、顔には天然痘の痕が残っていた。まだ四十五歳ではあったけれど、はっきりしない不調のせいで、その身体は火が消えたあとの燃えかすを思わせた。いかにも大儀そうに、ごたごたした古い旅館の中を歩き回り、色あせた壁紙や、ぼろぼろになったカーペットに眼を走らせ、できそうなときは、太った旅回りの商人たちが休んだあとの汚れたベッドを片づけるような、客室係のメイドがやるような仕事をした。
夫のトム・ウィラードは、細身であか抜けた男で、肩を張り、軍隊式にきびきびと歩き、黒い口ひげの両端を、いつもぴんとひねりあげ、つとめて妻のことを頭から閉め出そうとしているのだった。廊下をのろのろと歩く、背の高い幽霊のような妻の姿があると、何かなじられてでもいるような気がしてくるのだった。妻のことを考えると、腹が立ってきて、悪態を吐きそうになる。旅館は赤字続きで、もうずっといつ潰れるかわからないような状態が続いていて、投げ出せるものなら投げ出したいのだった。このふるびた旅館と、自分と一緒にそこに棲みついている女は、惨めに打ち負かされ、くたくたになったものの象徴のように思っていた。かつてあれほど希望に満ちて出発したここでの生活も、いまとなっては本来あるべき旅館の亡霊に過ぎない。ワインズバーグの通りを、ぱりっとした格好で、いかにも仕事があるという様子で歩いているときも、旅館と女の亡霊が、通りまでついてきているのではないか、と怖れでもしているように、ときどき立ち止まって、チラッと振り向く。そうして「クソッ、なんて毎日だ」と自棄的につぶやくのだった。
トム・ウィラードは、町の政治に入れあげていて、共和党の勢力が強い地域で、長年、有力な民主党員として活躍しているのだった。いつか政治的な流れは自分の側に向いてくる、そうすれば長いこと報われなかった奉仕活動も、十分に評価され、報酬となって返ってくるにちがいない、と自分に言い聞かせるのだった。自分が連邦議員に、あわよくば知事になることまで夢に見ていた。その昔、政治集会の場でひとりの若い党員が立ち上がり、自分がいかに献身的に尽くしてきたか自慢を始めた。するとトム・ウィラードは怒りで顔面を蒼白にしながら、「いいかげんにしろ」とあたりをにらみつけながら、怒鳴ったのだった。
「尽くす、というのがどういうことか、一体何を知っているというんだ。おまえなんぞは、ただの小僧っ子じゃないか。わたしが長年ここでやってきたことを考えてみろ。民主党員であることが罪だったころから、ここワインズバーグで党員をやってきたんだぞ。昔は銃を持った連中にそれこそ追いかけられたことだってあったんだ」
エリザベスと一人息子のジョージのあいだには、表面に表れることはなかったが、深く通じ合う気持ち、とうの昔に死に絶えた、娘時代の夢に根ざした思いがあった。息子がそばにいると、おどおどとして口数も少なくなったけれど、息子が新聞記者の仕事で必死に町中を駆け回っているころには、ときどき息子の部屋に入ってドアを閉めると、窓際の小さな机――元は台所のテーブルだったもの――のそばにひざまずく。この部屋、机の傍らで、祈りとも無心ともつかない一種の儀式を行うのだった。母親が願うのは、半ば忘れてしまったけれど、かつてはまぎれもなく自分自身の一部だったものが、息子の姿のなかにふたたび現れるのを見たい、ということ。祈りの内容はそういうことだった。
「もしわたしが死ぬようなことがあっても、どうにかしておまえが台無しになったりしないよう、守ってあげるから」そう声をうわずらせて言うと、固い決意に身を震わせるのだった。その眼をギラギラと輝かせ、手を強く握りしめる。
「もしわたしが死んで、息子がわたしのようにつまらない落ちこぼれになりでもしたら、死んだって戻ってきてやるから」ときっぱりと言い放った。
「神様、どうかわたしにその特別な権利をお与えください。絶対に、そうさせてもらいます。そのための報いは受けます。拳で殴ってくださってもかまいません。わたしの子供がわたしと自分のために何か書くのをお許しくださるのなら、たとえどれほど打たれようと、お受けいたします」不安になって口を閉ざし、母親は息子の部屋を見回した。
「それから、息子が小利口でうまく立ち回るような人間にならないようにしてください」と、こんどはおぼつかない調子で付け加えた。
(この項つづく)
原文はhttp://www.bartleby.com/156/4.htmlで読むことができます。
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ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その1.
エリザベス・ウィラードは、ジョージ・ウィラードの母親で、痩せて背が高く、顔には天然痘の痕が残っていた。まだ四十五歳ではあったけれど、はっきりしない不調のせいで、その身体は火が消えたあとの燃えかすを思わせた。いかにも大儀そうに、ごたごたした古い旅館の中を歩き回り、色あせた壁紙や、ぼろぼろになったカーペットに眼を走らせ、できそうなときは、太った旅回りの商人たちが休んだあとの汚れたベッドを片づけるような、客室係のメイドがやるような仕事をした。
夫のトム・ウィラードは、細身であか抜けた男で、肩を張り、軍隊式にきびきびと歩き、黒い口ひげの両端を、いつもぴんとひねりあげ、つとめて妻のことを頭から閉め出そうとしているのだった。廊下をのろのろと歩く、背の高い幽霊のような妻の姿があると、何かなじられてでもいるような気がしてくるのだった。妻のことを考えると、腹が立ってきて、悪態を吐きそうになる。旅館は赤字続きで、もうずっといつ潰れるかわからないような状態が続いていて、投げ出せるものなら投げ出したいのだった。このふるびた旅館と、自分と一緒にそこに棲みついている女は、惨めに打ち負かされ、くたくたになったものの象徴のように思っていた。かつてあれほど希望に満ちて出発したここでの生活も、いまとなっては本来あるべき旅館の亡霊に過ぎない。ワインズバーグの通りを、ぱりっとした格好で、いかにも仕事があるという様子で歩いているときも、旅館と女の亡霊が、通りまでついてきているのではないか、と怖れでもしているように、ときどき立ち止まって、チラッと振り向く。そうして「クソッ、なんて毎日だ」と自棄的につぶやくのだった。
トム・ウィラードは、町の政治に入れあげていて、共和党の勢力が強い地域で、長年、有力な民主党員として活躍しているのだった。いつか政治的な流れは自分の側に向いてくる、そうすれば長いこと報われなかった奉仕活動も、十分に評価され、報酬となって返ってくるにちがいない、と自分に言い聞かせるのだった。自分が連邦議員に、あわよくば知事になることまで夢に見ていた。その昔、政治集会の場でひとりの若い党員が立ち上がり、自分がいかに献身的に尽くしてきたか自慢を始めた。するとトム・ウィラードは怒りで顔面を蒼白にしながら、「いいかげんにしろ」とあたりをにらみつけながら、怒鳴ったのだった。
「尽くす、というのがどういうことか、一体何を知っているというんだ。おまえなんぞは、ただの小僧っ子じゃないか。わたしが長年ここでやってきたことを考えてみろ。民主党員であることが罪だったころから、ここワインズバーグで党員をやってきたんだぞ。昔は銃を持った連中にそれこそ追いかけられたことだってあったんだ」
エリザベスと一人息子のジョージのあいだには、表面に表れることはなかったが、深く通じ合う気持ち、とうの昔に死に絶えた、娘時代の夢に根ざした思いがあった。息子がそばにいると、おどおどとして口数も少なくなったけれど、息子が新聞記者の仕事で必死に町中を駆け回っているころには、ときどき息子の部屋に入ってドアを閉めると、窓際の小さな机――元は台所のテーブルだったもの――のそばにひざまずく。この部屋、机の傍らで、祈りとも無心ともつかない一種の儀式を行うのだった。母親が願うのは、半ば忘れてしまったけれど、かつてはまぎれもなく自分自身の一部だったものが、息子の姿のなかにふたたび現れるのを見たい、ということ。祈りの内容はそういうことだった。
「もしわたしが死ぬようなことがあっても、どうにかしておまえが台無しになったりしないよう、守ってあげるから」そう声をうわずらせて言うと、固い決意に身を震わせるのだった。その眼をギラギラと輝かせ、手を強く握りしめる。
「もしわたしが死んで、息子がわたしのようにつまらない落ちこぼれになりでもしたら、死んだって戻ってきてやるから」ときっぱりと言い放った。
「神様、どうかわたしにその特別な権利をお与えください。絶対に、そうさせてもらいます。そのための報いは受けます。拳で殴ってくださってもかまいません。わたしの子供がわたしと自分のために何か書くのをお許しくださるのなら、たとえどれほど打たれようと、お受けいたします」不安になって口を閉ざし、母親は息子の部屋を見回した。
「それから、息子が小利口でうまく立ち回るような人間にならないようにしてください」と、こんどはおぼつかない調子で付け加えた。
(この項つづく)