陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~「わたし、プロになれますか?」後編

2005-10-04 22:13:12 | weblog
2.教える―教わるということ 

 バレリーナというのは、舞台を下りても、非常に立ち姿が美しいのをご存じだろうか。単に背筋が伸びている、というだけでなく、重力を感じさせない立ち方をする。群衆の中にいると、その姿は目立つ。ほかの人間がGに打ちひしがれたような格好で壁にもたれたり、柱によりかかって立っている中にあって、ひとり重力とは無縁に立っている。

 それが不思議で聞いてみたことがある。すると、初心者の指導もしているというその人は、最初に、頭のてっぺんからひもが出ていて、自分が常にそのひもにぶら下げられているところをイメージするように教えるのだそうだ。その人自身もそう教わったのだという。たしかにそういうイメージを持って立つと、その瞬間に、立ち方が変わる。

 あるいは、こんなこともあった。スイミングのインストラクターが、身体が沈んでうまく泳げない、という人に、「あごを引いて泳いでみて」とアドヴァイスするのを聞いたことがある。その一点に気をつけただけで、泳ぎがまったく変わったのには、端で見ていたわたしも驚いた。

 もうひとつ、これはわたし自身の経験なのだが、日本人が苦手とされる"L"と"R"の発音の区別、わたしはこれは比較的苦労することがなかった。というのも、英語を習っていたアイルランド人から、"R"を発音するときは、上唇の両端を緊張させること、という指導を受けたからなのだ。多くのテキストには、日本語にはない"L"の音の舌の位置については書いてあるけれど、"R"で上唇を緊張させる、ということは書いていない。だが、その一点、気をつけるだけで、発音はまったく変わってくる。自分が正しく発音できれば、聞くときもそれほどむずかしくはない。

 身体に関わることでまず言えるのは、わたしたちは自分の身体がどうなっているかを自分では見ることができない、ということなのである。自分の立ち姿のイメージは、外から与えられるまで思い描くことはできないし、うまく泳げない、身体がどんどん沈んでいく、という形でしか、意識することはできない。自分の身体がどうなっているかを俯瞰する外部の眼がどうしても必要なのだ。

 加えて、そうした点を的確に表現し、アドヴァイスを送る「身体的」な言語がどうしても必要になってくる。そうした言語の遣い手は、決して多くはない。「一緒に泳いでいるともだち」ではダメなのはもちろん、単に経験者というだけでもダメ、そういう言語運用能力に長けた人、あるいはそういう指導を受けている人に習うことが必要になってくる。

 ところがこうした明らかに核心をついたアドヴァイスを受けるチャンスというのは、実際にはそれほど多くない。わたしにしても、そのアイルランド人の先生の指導を、約三年間受けていたのだけれど、はっきりとしたアドヴァイス、これを聞いてほんとうにためになった、という情報は、その一点だけだ。ふり返ってみても多くのいい先生に恵まれてきたのだけれど、これを聞いてためになった、という形で自分の中に残っているものは、ほとんどない。

 つまり、核心をつくアドヴァイスを求めて、先生につこうと思っても、それは必ずしも効率が良いことではない。自分のためになる情報は、必ずしも得られるとは限らないのだ。

 そんな不確かなことならば、やはり先生など必要ないのか。そんなことはない。やはり技術の向上を目指そうと思うのなら、必ず先生につかなければならない、と、わたしは思う。

 二十歳のころからさまざまな場面で教えるという経験を重ねてきて、つくづく思うのは、教えられるほうは、自分の好きなことしか聞いていない、ということだ。ここが大切だ、とどれだけ口を酸っぱくして言っても、プリントを作っても、宿題を出しても、教わる側はちっとも聞いてはいない。好きなように、勝手に「理解」するし、勝手に「励まされた」と言ってくるし、「傷つけられた」と怒り出す。これはほんとうに心臓に悪い。全然言った記憶にないことで責められるのは、おそらくわたしの記憶に問題があるのではないのだろうと思っている。
 つまり聞いている側は、聞きたい情報をいくつかピックアップし、それをつなげて勝手に「物語」を作りあげ、身につけるのである。

 ここで言えるのは、教える―教えられる、という関係は、パッキングした知識を、宅配便のように教える側から教えられる側へと発送する、ということではないのだ。これをコミュニケーションという観点から見るならば、以前「絵本を読む」でも指摘したように、教師の発話を受け取った生徒の側からコミュニケーションは始まっていく。教える―教えられるという関係がコミュニケーションとして成立するか否かは、教えられる側にかかっているのである。

 つまり、教えられる側が、教わろうとしてその関係に入っていくとき、教える―教えられるの関係が初めて成立するのである。そうして、そこで何を学ぶか、というのも、教えられる側次第なのだ。 

 しばしば聞くことのひとつに、学校に行っている頃は勉強なんか楽しくなかったけれど、大人になってやってみると、これほど楽しいことはない、というのがある。それはひとえに教わる側のあり方が変わったにすぎない。教わる側が、やらされているか、自分から主体的にその場へ入っていったかのちがいなのだ。

 当然、ここにお金のもんだいも介在してくる。教える―教えられるという場を設定するときに、金銭を介在させる、というのは、非常にわかりやすいことなのだ。大人になって、自分が身銭を切っていく英会話教室や、カルチャースクールで「不登校」になる生徒はいない。講師が休めば、振り替えを求める。
 ところが義務教育のころは、自分が懐を痛めていないものだから、不承不承行かされているように思い、さぼり、教師が自習にすれば大喜びする。そうした意味で、自分は教えられる場に入っていく、という心構えをするためにも、お金を払う、というのは、必要なことなのだと思う。

 プロになる、つまり、その道で食べていくことができるほどの収入を得ようと思えば、技術の習得が前提となる。そうして、技術を習得しようと思えば、教える―教えられるの関係に入っていくことが必要なのである。そうして、その場に入っていくことは、お金がかかることも、了解しておく必要がある。

 そうしてその教える―教えられるという場で得た知識に、こんどは身体を与えていく作業が必要になってくる。つまりそれが繰り返しのトレーニングであり、いかにそれを効率よく、倦むことなく続けていけるかどうかがもんだいなのだと思う。その結果、「才能」が開花するかどうかは、だれにもわからない。

 さて、ここで教える側は、何を教えたらよいのだろうか。そのお金に見合うなにものかを提供するためには、何をしたらいいのだろうか。

 ここからは、わたし自身未だ模索している段階なのだけれど、そのうえで、いま考えていることをいくつか。

①場の雰囲気をコントロールする
もちろんこれはコミュニケーションの起点が教わる側であることを考えれば、教える側がどこまでコントロールできるかは、はなはだ心許ないものでもある。けれども、場の雰囲気を盛り上げる、少しでも学びの場に近づけることができるように努力だけはすべきだと思う。

②教える側が、自分なりの基準を持つ
どういうものを良いと思うのか、なぜそれが良いと言えるのか、そうした基準を教える側が持っていることは、必要不可欠だと思う。その基準がなければ、教えるのも場当たり的にならざるをえないし、まじめな受け手は混乱するだろう。その基準を受け手が批判してくる場合は、それに応酬していく必要がある。つまりそれを毅然と行えるほど、その基準は教える側にとって、確固たるものでなければならないと思う。

③「答え」ではなく、どういうふうに考えを進めたら良いのかを教える。受け手が知るべきは、いくつもある「答え」のひとつではなく、そこへいくまでのプロセス、さらにいえば、そこからつぎの質問を作り出していく道筋を示すことができたら、と思う。

以上のことを総合するに、結局教える側も学び続けなくてはいけない、ということなのだ。

 なんにしても、自分が思うとおりにできるようになるまで、時間がかかる。そこに至るまでには、同じことを、たったひとりで繰り返しやっていかなければならない。その繰り返しに方向付けをあたえ、飽きないように励まし、たったひとりではないのだ、と勇気づけることが、おそらく教える側のやらなければならないことだと思う。

 そうして、教える側も、思い通り教えられるようになるまで、時間がかかる、ということを覚悟しなくてはならないだろう。教える側は、同時に学ぶ側でもある。そうして、学ぼうと思うときは、つねに導き手を探さなければならない。

 教えるということは、むずかしい。けれど、教えることによって、勉強させてもらっている。これはつくづく思うことだ。

 こうやってがんばっていれば、何年かしたらもうちょっとましな先生になれるんじゃないかと思うのだ。だからどうか全国一斉教師能力検定試験をやるんだったら、一回きりじゃなく、少なくとも何年かおきに、繰り返してやってください。お願いします。