陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

物語をモノガタってみる その4.

2005-10-28 21:51:45 | 
4.出来事、プロット、こんにゃく問答

物語を聞く、あるいは読むわたしたちは、ひとつの暗黙の約束事を踏まえている。それは、「この物語は意味がある」ということである。

たとえその物語が複雑であったとしても、不明瞭な部分や、つじつまの合わないところがあったとしても、なんとか筋道をつけて理解しようとする。別の言葉を使えば、プロットを発見しようとしているのである。

「女の子が泣いた。彼は彼女の肩を抱いた」

これだけの言説を読んだだけでも、わたしたちは根拠もないのに「女の子」=「彼女」と理解し、「泣く」と「肩を抱いた」を結びつけようとする。そうして、

「女の子が泣いたので、彼は肩を抱いてなぐさめた」

という筋立て(プロット)で理解しようとする。

「女の子が泣いた。彼は彼女に『構造人類学』を渡した」

これだけでは理解が困難な言説に対しても、おそらく彼女は税込み6,930円のレヴィ=ストロースの本が買えなくて泣いていたところを、彼がプレゼントしてあげたのだろう、とか、あるいは哲学のレポートが書けなくて泣いている彼女に、これで書くといい、と渡してあげたのかな、とか、あるいは彼女は本に対して一種のフェティシズムを抱いていて、みすず書房の白っぽい表紙に慰めを見いだすのだな、とか、なんとかさまざまなプロットを用意して、この言説が一定の意味をなすように補おうとする。

ここで重要なのは、「女の子が泣く」「彼が彼女の肩を抱く」という出来事と、わたしたちが理解するプロットとは、直接には何の関係もない、ということだ。

あるいは、、「女の子が泣く」「彼が彼女の肩を抱く」という出来事を元にして組み立てられた「女の子が泣いた。彼は彼女の肩を抱いた」という言説と、「女の子が泣いたので、彼は肩を抱いてなぐさめた」というプロットも、直接には何の関係もないものなのである。

ここで話者Aがいると仮定する。
Aは自分が目にした「女の子が泣いた」「共通の友人XがガールフレンドのYの肩を抱いた」という出来事を「女の子が泣いたのを見て、彼(X)は(女の子は泣かせてはいけないと考えて)彼女(Y)の肩を抱いた」というプロットでその出来事を理解し、「女の子が泣いたんだ。で、彼は彼女の肩を抱いた」と話したとする。

聞き手Bはそれを聞いて「女の子が泣いたから、(慰めようとして)Xはその子の肩を抱いたのだ」というプロットを組み立てて理解する。

つまり、語り手の「物語」と、聞き手の「物語」は、異なるものであるケースも起こりうるわけだ。

その食い違いをもとにしたのが、落語の「こんにゃく問答」だろう。

和尚になりすましたこんにゃく屋のおやじ六兵衛が、旅の雲水と「無言の行」で禅問答をすることになる。雲水は、仏教の哲理を問う身振りをするが、こんにゃく屋のほうは、それをことごとく自分の店の売り物のこんにゃくと受け取って、さまざまな手振りで答える。
雲水の方はそれを深遠な哲理と受け取って恐れ入る、というもの。

ただし、これは落語としてはおもしろくても、現実にはなかなか起こりうるものではない。

というのも、「物語」の受け手は、つねに「これは何の物語だろう」と推定し、その都度、修正を繰り返しながら聞いている。これから何が起こるのだろう、と、期待と関心を持っているかぎり、この修正は積極的に行われる。

もうひとつ、物語や通常の談話では、コンテクストが内容を大きく規定する。たとえば「わたしの娘は男だった」というものがあるけれど、孫の話をしているふたりの女性であれば、コンテクストから切り離してみれば、論理的に矛盾しているようなこの言葉も、そういう条件のもとでの会話であれば、意志疎通は可能なのである。

あるいはその物語のジャンルも、聞き手の理解を助ける。「太郎は殺されたが死ななかった」という文章も、ホラー小説(あるいは映画)のジャンルであれば、聞き手はその物語の意図を、その枠組みに沿って理解することができる。

先ほどの例にあげたAの物語にしても、この一文だけでは誤解していた聞き手Bも、聞き手は結末を予想しながら、情報が新たに加わるごとに、修正を続けていく。

ここで話をまとめてみよう。
物語が語られたとき、聞き手が最初に耳にするのは物語の言説である。けれども聞き手はまず、ストーリーを理解しようとし、その奥にあるプロットを見いだそうとする。そうして「何についての話か」「何が起きるか」をつきとめようとする。

これが、わたしたちが出来事を物語の形で理解しようとする、ということなのである。

(この調子でいくといつまでたっても終わらないので、明日からもう少しペースをあげていきます。)





【今日のおまけ】
-----知りもしないのに適当に書いてしまうレヴュー ver0.1-------

【♪Gonzalo Rubalcaba "diz" を聴いたよ♪】

とにかく音を聴いた瞬間、ルバルカバの手のイメージが浮かんだ。肉厚の、大きな手だ。指のほうではなく、てのひらのほう。
ピアニストというのは、もちろんギタリストでも、ヴァイオリニストでもそうなんだけど、手によって音が全然変わってくる。キース・ジャレットなんかのつよい、よくしなる指が連想される音もあるし、モンクだとわたしは固い関節をイメージしてしまう(この固い関節から繰り出されるぽろぽろという音が、なんだかよくわからないけれどその音の向こうに拡がりを感じさせて、わたしはとってもすきなんだけど)。ルバルカバの場合、その音から感じるのはふっくらとした手だった。もちろん現物はどうだかよくわからない、単に音からくる印象に過ぎないのだけれど。とにかく、肉厚で柔らかくて暖かい、さわってみたくなるような、もう少し言ってしまえば、頬に当ててみたくなるような手だ。

指がどれだけ速く鍵盤を駆け抜けても、ひとつぶずつ(音が確かにそう聞こえる)際だっている音は、非常に澄んでいて、しかも柔らかく、暖かい(ときに、熱い)。柔らかさ暖かさと透明感はなかなか共存しにくいのだけれど(たとえばビル・エヴァンスの音は大変にクリアだけれど、冷たい)、ルバルカバの複雑な音は、さまざまな相反する要素を含んでいる。これは大きな、肉厚のてのひらからしか絶対に出てこない音だ、と思った。

この音の複雑さは、ルバルカバの音楽の複雑さにも相通じるものがあって、もちろん圧倒的なテクニックもあるし、そのテクニックからくる、なんとも言えない自由さもあり、聴いていて心地よい、楽しい、解放感もあるのだけれど、それだけでは言い尽くせない、一種の難解さ、みたいなものがあるような気がする。あるところまで行って、ふっと理解を拒むようなところ。簡単にわかっちゃダメ、みたいなところ。
だって、"チュニジアの夜"なんてすごいもの。わたしはアート・ブレイキーのを持ってるけれど、あんな楽しい曲がここまで知的な、一種、ソリッドな曲になってるとは夢にも思わなかった。まぁロン・カーターもそういう音を出してるんだけど。なにしろピアニッシモで終わってしまうのだもの。

とにかくこの人の複雑さはすごくおもしろいし、しばらく気合いを入れて聴こうかな、とも思う。これは"憧憬"も聴かなくては。ところで"Inner voyage"と"憧憬"は同じアルバムなんでしょうか?

ただ問題は、朝もはよから聴く音楽じゃないんだよね。夜はブログ書き終えたら、もう眠くなってるし、なかなか時間をひねり出すのがむずかしい……。

(ver.02があるのかどうなのか不明)