この話、したっけ ~「わたし、プロになれますか?」
一応、わたしは人にものを教えることを生業としている。立ち往生しないよう、いつもできるだけの準備はしているけれど、予想もしない質問が来て、思わず「はぁ?」とアゴをはずしかけたり、せっかく教えたはずなのに、答案を見て腰骨がうち砕かれるような思いに襲われたり、全国一斉教師能力検定試験、みたいなものが開催されたら、おそらく下から数えたほうが早いにちがいない。
ところが、こんなわたしであるにもかかわらず、「先生、わたし、プロになれます?」と聞いてくる子が、かならず毎年何人かは現れるのである。答えは決まって「そんなことはわかりません」、ほんとうにそれ以外に答えようがないのだが、たいがい聞いてきた側は、おもしろくなさそうな顔をする。
なんと言ってもらいたいんだろう。わたしが太鼓判を押したら、何かいいことがあるのだろうか。
実際、安易に請け合う人たちもいるのだ。いわゆる「通信講座」とか、要は受講生に金をはき出させることを目的にしているところだ。
「いい調子ですよ。このまま続ければ、プロになれるかも」
こういうのはダイエットの広告と一緒で、一種の詐欺には当たらないんだろうか。
青山南は『小説はゴシップが楽しい』(晶文社)のなかで、ウィリアム・ギャスのこんな言葉を紹介している。
才能、ということを考えるとき、いつもわたしは「ニューヨーク・ストーリー」という映画を思い出す。高校時代のわたしが、画家に扮したニック・ノルティ見たさに、繰り返し映画館で見た映画だ(そのころはまだビデオで見ることがなかったのだ……高校時代なんて、ついこの間のことのような気がするけれど、こうしてみると隔世の観があるなぁ)。
ニック・ノルティが演じるのは、ジャクソン・ポロックを思わせるような、どでかいキャンバスに、速乾性のアクリル絵の具をたたきつけるように描く抽象表現主義の画家。画壇では大家とまではいかないのだろうけれど、相当に重きを置かれている中堅の画家なのである。
その彼と同棲しているのが、画家のタマゴのロザンナ・アークウェット。彼女は、自分は画家としてやっていけるのだろうか、と疑問を持っていて、ある日、ノルティに迫る。
自分の絵を見てくれ。緊張感はあるか。才能はあるか。自分はプロとしてやっていけるか。才能がないのなら、田舎に帰る。
それに対して、画家は「22歳でそんなことがどうしてわかる」と答える。
アークウェットが求めていたのはそんな言葉ではなかった。才能がある、ない、なんにせよ、決定的な言葉、託宣がほしかった。
けれども、ほんとうにそんなことがどうしてだれかに言えよう。「才能」というものは、箱に入ってリボンがかかっているプレゼントではないのだ。ひたすらに描き、描き、描き続けるなかで線をすこしずつ洗練させていき、自分の色の組み合わせを見つけていく、それを続けていくしかない。そうして、それがどこかにたどりつけるか、どこにもたどりつけないかは、だれにもわからない。
好きなことを見つけなさい、ということを、だれでも聞いたことがあるだろう。それはなぜかというと、好きなことでないと続けられないからだ。自分の思いどおりにできるようになるまで、たいがいのことは、アホらしいほど時間がかかる。同じことをひとりっきりで繰り返し繰り返し、延々とやっていかなければならないのだ。そんなことは死ぬほど好きでなくては、絶対にできない。だから「好きなこと」を作り出さなければいけないのだ。
そうして、思い通りにできるようになったところが、ほんとうのスタートラインなのである。
もうひとつ、『小説はゴシップが楽しい』の同じ章から引くことにしよう。今度はテッド・ソロタロフの言葉。
小説を書くことばかりではない。絵を描くことにせよ、楽器を演奏することにせよ、マンガの原作を書くことにせよ、ゲームのプログラムを書くことにせよ、それがなんであっても時間がかかる。そして、そこに行くまでに、気持ちが悪くなるくらい、失敗を続けて行かなくてはならないのだ。
ここで、たいがい「わたしは努力ができないんです」という子がでてくる。
意志プラス努力で成功、という図式があるのかもしれないのだけれど、努力というものも、もちろん簡単にできるわけではないのだ。
わたしたちは言葉でも自然に身につけているわけではない。親の話すのを、ものすごい集中力で聞きながら、何度も繰り返し繰り返し、まねをしながら、やっとしゃべれるようになってきたのを忘れてはいけない。
どんな技術でも身につけようと思ったら、先生が必要なのだ。
(何かアタマにもやがかかってきたので、後半は明日。今日はもうへろへろ)
一応、わたしは人にものを教えることを生業としている。立ち往生しないよう、いつもできるだけの準備はしているけれど、予想もしない質問が来て、思わず「はぁ?」とアゴをはずしかけたり、せっかく教えたはずなのに、答案を見て腰骨がうち砕かれるような思いに襲われたり、全国一斉教師能力検定試験、みたいなものが開催されたら、おそらく下から数えたほうが早いにちがいない。
ところが、こんなわたしであるにもかかわらず、「先生、わたし、プロになれます?」と聞いてくる子が、かならず毎年何人かは現れるのである。答えは決まって「そんなことはわかりません」、ほんとうにそれ以外に答えようがないのだが、たいがい聞いてきた側は、おもしろくなさそうな顔をする。
なんと言ってもらいたいんだろう。わたしが太鼓判を押したら、何かいいことがあるのだろうか。
実際、安易に請け合う人たちもいるのだ。いわゆる「通信講座」とか、要は受講生に金をはき出させることを目的にしているところだ。
「いい調子ですよ。このまま続ければ、プロになれるかも」
こういうのはダイエットの広告と一緒で、一種の詐欺には当たらないんだろうか。
青山南は『小説はゴシップが楽しい』(晶文社)のなかで、ウィリアム・ギャスのこんな言葉を紹介している。
例外はもちろんあるが、かれら(アメリカの大学の創作科の学生のこと)はがいして文学にいささかも興味を示さない。そのかわり、書くことには興味がある……お皿みたいに薄っぺらな自己を表現することには興味があるのだ。……わたしが会った若者たちには、かつてわたしたちの世代が持っていたような、ロマンティックな大志がなかったので、彼らには野心がないのだ、とわたしは決めつけたものだ。しかし、それは間違いだった。彼らは野心の塊だったのだ。ただ、それはあまりにも通俗的で常識的な類のものだった。彼らは一山当てたがっている。
才能、ということを考えるとき、いつもわたしは「ニューヨーク・ストーリー」という映画を思い出す。高校時代のわたしが、画家に扮したニック・ノルティ見たさに、繰り返し映画館で見た映画だ(そのころはまだビデオで見ることがなかったのだ……高校時代なんて、ついこの間のことのような気がするけれど、こうしてみると隔世の観があるなぁ)。
ニック・ノルティが演じるのは、ジャクソン・ポロックを思わせるような、どでかいキャンバスに、速乾性のアクリル絵の具をたたきつけるように描く抽象表現主義の画家。画壇では大家とまではいかないのだろうけれど、相当に重きを置かれている中堅の画家なのである。
その彼と同棲しているのが、画家のタマゴのロザンナ・アークウェット。彼女は、自分は画家としてやっていけるのだろうか、と疑問を持っていて、ある日、ノルティに迫る。
自分の絵を見てくれ。緊張感はあるか。才能はあるか。自分はプロとしてやっていけるか。才能がないのなら、田舎に帰る。
それに対して、画家は「22歳でそんなことがどうしてわかる」と答える。
アークウェットが求めていたのはそんな言葉ではなかった。才能がある、ない、なんにせよ、決定的な言葉、託宣がほしかった。
けれども、ほんとうにそんなことがどうしてだれかに言えよう。「才能」というものは、箱に入ってリボンがかかっているプレゼントではないのだ。ひたすらに描き、描き、描き続けるなかで線をすこしずつ洗練させていき、自分の色の組み合わせを見つけていく、それを続けていくしかない。そうして、それがどこかにたどりつけるか、どこにもたどりつけないかは、だれにもわからない。
好きなことを見つけなさい、ということを、だれでも聞いたことがあるだろう。それはなぜかというと、好きなことでないと続けられないからだ。自分の思いどおりにできるようになるまで、たいがいのことは、アホらしいほど時間がかかる。同じことをひとりっきりで繰り返し繰り返し、延々とやっていかなければならないのだ。そんなことは死ぬほど好きでなくては、絶対にできない。だから「好きなこと」を作り出さなければいけないのだ。
そうして、思い通りにできるようになったところが、ほんとうのスタートラインなのである。
もうひとつ、『小説はゴシップが楽しい』の同じ章から引くことにしよう。今度はテッド・ソロタロフの言葉。
書くこと自体が、誤解や誤用は禁物だが、書くこと自体を力づける方法にもなるのである。あてどない怒りや失望を意図的で頑丈な攻撃に変えることもできるし、これこそ作家の原動力である。傷つけられた純真さはアイロニーになるし、奇怪さは独創に、愚昧はウィットになる。ただ、そうなるまでには時間がかかるということだ。
小説を書くことは、宗教的な意味で、ひとりの人間が選ぶ道になった。
小説を書くことばかりではない。絵を描くことにせよ、楽器を演奏することにせよ、マンガの原作を書くことにせよ、ゲームのプログラムを書くことにせよ、それがなんであっても時間がかかる。そして、そこに行くまでに、気持ちが悪くなるくらい、失敗を続けて行かなくてはならないのだ。
ここで、たいがい「わたしは努力ができないんです」という子がでてくる。
意志プラス努力で成功、という図式があるのかもしれないのだけれど、努力というものも、もちろん簡単にできるわけではないのだ。
わたしたちは言葉でも自然に身につけているわけではない。親の話すのを、ものすごい集中力で聞きながら、何度も繰り返し繰り返し、まねをしながら、やっとしゃべれるようになってきたのを忘れてはいけない。
どんな技術でも身につけようと思ったら、先生が必要なのだ。
(何かアタマにもやがかかってきたので、後半は明日。今日はもうへろへろ)