陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ワインズバーグ・オハイオ ―「誰も知らない」後編

2005-10-18 22:09:40 | 翻訳
(承前)


 この新米記者は、ルイーズ・トラニアンから手紙をもらったのだ。手紙は朝、「ワインズバーグ・イーグル」社に届いた。ごく短い手紙は「つきあいたいんだったらいいわよ」とある。だから、暗い柵のところで彼女が見せたあの態度には面食らってしまった。
「ずうずうしい女だなぁ。まったくなんてやつだ」ぶつぶついいながら、通りを歩いて、トウモロコシが植えてある空き地が続くところを通り過ぎた。とうもろこしは肩のあたりまで伸びていて、歩道ぎりぎりまで植えてあった。

 家の玄関から出てきたルイーズ・トラニアンの格好は、皿を洗っていたときに着ていたギンガムチェックの服のまま、帽子はかぶっていなかった。ドアノブに手をかけたまま、中にいるだれか、ジェイク・トラニアンじいさん以外にありえないが、と話している姿がよく見えた。ジェイク爺さんは耳が遠かったので、ルイーズは怒鳴っている。ドアがしまると、狭い横町は闇に閉ざされて静かになった。身体の震えはいっそうひどくなる。

 ウィリアムズの納屋の暗がりに、ジョージとルイーズは、口もきけないままつっ立っていた。ルイーズはとくに顔立ちが良いというわけでもなく、しかも鼻の横には黒いすすがついている。深鍋をどうにかしたあとに、鼻をこすったんだな、とジョージは思った。

 ジョージは神経質に笑い出した。「今日はあったかいよね」この手でルイーズに触れてみたい。度胸がないな、と思った。あの汚れたギンガムのドレスのひだのところにさわってみるだけでも、とびきりいい気持ちがするにちがいない。ところがルイーズは、はぐらかすようなことを言い出した。「あんた、自分はあたしなんかより上等だ、くらいに思ってるんでしょ。言わなくたってわかるんだから」そう言いながら、身を寄せてきた。

 ジョージ・ウィラードの口から、堰を切ったように言葉があふれだした。通りで会ったとき、ルイーズの目の奥に潜んでいた色を思い出し、それから寄越してきた手紙を思い出した。疑念が消えた。ルイーズをめぐって取りざたされた、町の噂を考えると、自信が湧いてくる。彼は大胆で攻撃的な、まったくの男になった。ルイーズに対する思いやりなどは、まったくないのだった。「こっちへこいよ。大丈夫だよ。誰にもわかりっこないさ。知りようがないんだから」とかき口説いた。

 ふたりは幅の狭い煉瓦の舗道を歩いていった。煉瓦の隙間から、丈の高い草が伸びている。煉瓦がはげてしまったところもあって、歩道は荒れてガタガタだった。ルイーズの手を取ると、その手もやはり荒れていたが、うれしくなるほど小さな手だった。「遠くには行けないもの」静かな落ち着いた声でそう言った。

小川にかかった橋をわたって、トウモロコシが植えてある、別の空き地の前をすぎた。そこで町の通りが終わって、歩道は小道になった。道の脇にウィル・オバートンのイチゴ畑があって、板が山積みになっていた。「ウィルはいちごの箱をいれておく小屋を、ここに建てるつもりなんだ」ジョージはそう言うと、ふたりは板の上に腰をおろした。



 ジョージ・ウィラードがメインストリートに戻ってきた時は、十時を過ぎていて、雨が降り始めていた。三度、メインストリートを端から端まで行ったり来たりする。シルヴェスター・ウェストのドラッグストアがまだ開いていたので、なかへ入って葉巻を一本買った。店員のショーティ・クランドールが出口で送ってくれたので、いい気分になった。日除けの下で雨を避けながら、ふたりは五分ほど立ち話をした。ジョージ・ウィラードは、満ち足りた気分だった。とにかくだれかと話したかったのだ。町が度を曲がって、ニュー・ウィラード旅館へと歩を進めながら、低く口笛を吹いた。

ウィニー洋品店の前の歩道は、高い板塀が立っていて、サーカスのポスターがべたべた貼ってある。口笛をやめて、暗がりの中、自分を呼ぶ声に耳を澄ますかのように、じっと動かずに立った。やがて、もういちど神経質な笑い声をあげた。
「文句を言われるようなことをしたわけじゃない。だれにもわかりゃしないさ」
意固地になってそうつぶやくと、家に向かった。


(この項終わり:近日中にここまでまとめてサイトにアップします)



-----【今日の出来事】-------

エレべーターに乗ろうと待っていると、後ろでとんでもなく大きな声が聞こえたので、驚いてそちらを見た。中年の女性が
「おじいちゃん、わかる? ここを、まっすぐ、行くの。そしたらね、信号があるからね、そこを渡ったら、××病院、あるからね」と、一語一語区切りながら、大きな声で教えている。
その道を尋ねたらしい老人は、お礼を言って、その女性が指さしていった方角へと、杖をつきながら歩いていったのだけれど、その女性は、大丈夫かなぁ、とひとりごとを言いながら見送っていた。
わたしも気になってそちらを見ると、信号までそれほど離れてはいないし、手前にその病院を隠すようにビルが建っていて、多少わかりにくいけれど、そこの看板は見える。
その看板を目指して行けば良いので、心配するほどのこともないだろうと思ったのだが、どうやらその人はわたしなどよりよほど親切だったようで、駆けだしていくと、老人の肘を取って、一緒に信号を渡り始めた。

ちょうどそのときエレベーターが来たので、それからどうなったのかわたしは知らないのだけれど、ちょっと、なんだかなぁ、と思ったのである。なんとなく、態度やものの言い方などからあの女性は看護婦さんなのではないかと思ったのだけれど、もちろんその真相はわからない。ただ、なんにせよ、高齢者と日常的に接している人なのだろう、という感じがうかがえた。

わたしが違和感を覚えたのは、ときどき見かける高齢者を幼児扱いする、というか、何もできない、わからない人間扱いする態度だ。おじいちゃん、という呼びかけもそうだし、看板が見えることを教えるだけでいいような気がする。まして、横断歩道を一緒に渡らせてあげる必要があるのだろうか。

もちろん、ほんの一瞬見ただけで、何らかの感想を持つのは良くないのだろうけれど。
もしかしたら、わたしの知らない事情があるのかもしれないけれど。

そんな態度を取るのは、相手にとってひどく失礼なことではないのだろうか。
そんなことをしばらく考えていた。

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