陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ワインズバーグ・オハイオ ―「母親」 その4.

2005-10-11 21:47:28 | 翻訳
 娘時代、トム・ウィラードと結婚する前のエリザベスには、ワインズバーグでいささか危なっかしい評判が立っていた。何年もの間いわゆる「芝居狂」で、父親の旅館に泊まっている旅回りの商人たちと連れだって闊歩したかと思うと、派手な服を着たり、泊まり客がこれまで行った都会の話をしてくれるようねだったりもした。男物の服を着て、メインストリートで自転車を乗り回し、町中をぎょっとさせたこともあった。

 当時、その背が高く、濃い色の髪をした娘の胸の内は、たいそうこんがらかっていたのだ。気持ちは絶えず揺れていて、それがふたつの方向に表れた。ひとつは変化を、自分の人生を決定的に動かすような何かを、不安な思いで待ちわびていた。この気持ちは、気持ちを舞台へと向かわせる。どこかの劇団に入って世間を回り、いろんな人々に会って、自分の内からわき上がってくるものを与えたい、と夢見るのだった。その考えに夢中になった夜には、何度かワインズバーグにやってきて、父親の旅館に泊まっている劇団員にそのことを話そうとしたのだが、結局はどうにもならなかった。エリザベスが何を言おうとしているのかなど、わかろうとはしてくれなかったし、たとえ自分の情熱をなんとか言葉にすることができたときでも、座員たちは笑うだけだった。
「そんなもんじゃないよ」と彼らは言った。「退屈でおもしろくないのは、ここにいるのといっしょだよ。なんにもなりはしないさ」

 旅回りの商人たちと歩いていると、そうしてのちにトム・ウィラードと歩いていると、まったくちがった。いつでもよくわかる、ほんとうにそうだよ、と言ってくれるのだった。町の横町や木陰の暗がりで、彼らはエリザベスの手を取る。そうすると内側にある言葉にできないものがあふれ出し、彼らの内にある言葉にされないものの一部になっていくような気がするのだった。

 そうして、揺れ動く気持ちがもうひとつの表れ方をしたのだ。そのときが訪れたとき、しばらくの間、救われたように思い、幸せだった。一緒に出歩いた人間のだれも責めようとは思わなかったし、のちのトム・ウィラードも責める気にはなれなかった。いつもまったく同じ、キスで始まり、奇妙で激しい感情が堰を切ったようにあふれ出したあと、穏やかに終わり、後悔してすすり泣く。すすり泣きながら、手で相手の男の顔にふれ、いつも同じ思いにとらわれるのだった。相手が大きく、ひげ面の男であっても、急に小さな男の子になったような気がするのだ。なぜこの人は一緒に泣いていないのか、不思議に思うのだった。
(明日この章最終回)


-----【おまけ:昨日のできごとの追加】------
ジュンク堂にはスーパーにあるような買い物かごが置いてある。わたしの夢は、その買い物かごが使えるほど、本をたくさん買うことだ。って、週に最低一回は寄って、そのたびに何か買ってるんだけど、たいていは一冊だし、昨日のようにたくさん買っても文庫本だと持って歩いてもしれてるので、ついぞ使ったことがない。
 ところで、昨日、レジでわたしの前に並んでいたおじさんは、そのあこがれの買い物かごを下げていた。カウンターにかごをのせて、レジのお姉さんが一冊ずつ取り出す。
「カバーご入り用でしょうか」
「ああ、カバーかけて」
わたしは散歩に連れて行ってもらうイヌのように、じっと待つ。
出てきた本。
『キャバクラの教科書』
『キャバクラのモテ方』
『大人の悦楽講座』
『文藝春秋』
『世界の中心で、愛をさけぶ』
すると後ろからお姉ちゃんが「これも~」と言いながら、本を追加した。
『骨盤教室』
つくづく世の中にはいろいろな本があるものだなぁ、と感心した。
それにしても。タイトルを並べるだけで、おぼろげに見えてくるものがありますね。

(ちなみにわたしが買ったのは市川浩『〈身〉の構造』、桑子敏雄『環境の哲学』、赤坂憲雄『境界の発生』『異人論序説』、竹内敏晴『動くことば動かすことば』……これもビミョ-に見えてくるものが、あるかなー)。