古ぼけたウィラード旅館の隅に押し込まれたような自分の部屋で、エリザベス・ウィラードはランプの灯りをともし、ドアの側の鏡台に置いた。
ふと思いついて、クロゼットに行き、小さな四角い箱を取り出してこれも鏡台に載せる。箱の中には化粧道具が入っていて、これはワインズバーグで二進も三進もいかなくなった劇団が、ほかのものと一緒に置いていったものだった。きれいになっておこう、と思ったのだ。髪の毛はまだ黒々と豊かで、三つ編みにして頭に巻きつけていた。階下の事務所で繰り広げられるであろう情景が、脳裏に徐々に鮮明になってくる。トム・ウィラードと向かい合うのに、幽霊じみ、くたびれはてた姿ではいけない、思いもよらないほどの、息を呑むほどの姿でなくては。長身で、高い頬骨が頬に影を落とし、豊かな髪が背中にかかる、そんな姿が、事務所でぼんやりと時間を過ごしている連中の前を、颯爽と行き過ぎていかなければ。静かなまま――素早く、残酷に。仔が危機に瀕しているときに現れる牝虎のように、物陰から音もなく、禍々しい大鋏を構えて登場するのだ。
喉の奥でとぎれとぎれの嗚咽をもらしながら、エリザベス・ウィラードは鏡台の灯を吹き消すと、闇の中でがくがくと身を震わせながら立っていた。先ほどまで魔法のように身体にみなぎっていた力もいまは失せ、なかば倒れ込むようにして部屋を横切って椅子の背をつかんだ。自分が長い年月の間、トタン屋根ごしに、ワインズバーグのメインストリートを眺めたその椅子だ。足音が廊下に響き、ジョージ・ウィラードがドアを開けてはいってきた。母親の傍らに腰をおろすと話し始めた。
「家を出ようと思うんだ。どこへ行くか、わからないし、何をするかもわからないんだけど、とにかくどこかへ行かなくちゃ」
椅子に座っていた母親はしばらく黙って震えていたが、衝動にかられたように言葉を発した。
「眼をさまさなきゃ。こんなこと、考えてるんじゃないの? 都会へ出てお金を稼ごう、みたいな。実業家にでもなって、見てくれが良くて気の利いた、楽しげな生活がしたい、なんていうことを」そういうと、身をわななかせながら、返事を待った。
ジョージは首を横に振った。「母さんがわかるようにうまく言えないんだけど、でも、なんて言ったらいいのか、そんなふうにできたらいいと思うよ」真剣な面もちで言葉を継いだ。「父さんにはこんな話をするのさえ、ムリだからね。試してみる気にもならないけど。意味ないから。何をしたらいいか、わからないんだ。とにかく家を出て、人間を見て、考えてみたいんだ」
静かな部屋の中に母親と息子は座っていた。これまで何度もこんな夜を過ごしたように、ふたりは居心地の悪い思いをしていた。やがてふたたび息子はぽつぽつと話し始めた。
「一年や二年はここにいなきゃいけないだろうけど、ずっとそう思ってたんだ」そう言うと、立ち上がってドアの方へ歩き出した。「父さんが話してるのを聞いて、ここにいちゃいけない、って思ったんだ」ドアノブを手さぐりする。部屋のなかの静けさが、母親には耐え難いものに思えてくる。息子の口から出た言葉がうれしくて、大声で叫びたい。だが、喜びを表すことなどもうとっくにできなくなってしまっていた。
「おまえもほかの男の子たちと一緒に出歩いた方がいいよ。家のなかにばっかりいるじゃないか」と母親は言った。
「散歩でもしてこようと思ってたんだ」息子はそう答えると、ぎこちなく部屋を出て、ドアを閉めた。
(この章終わり)
-----【今日のおまけ】------
駅から帰る道すがら、キンモクセイの香りが漂ってきた。
この匂いを嗅ぐと、どういうわけかかならず、高校のとき、授業をさぼって抜け出したときの記憶がよみがえってくる。
決して真面目な生徒ではなかったけれど、悪くもなかったわたしが授業をさぼったのはその一度だけ。それも、四時間目と五時間目が自習になって、六時間目の漢文をさぼっただけなのだけれど。
前の席の山沖君(仮名)と、右前の小坂君(仮名)と三人で、自習するのもかったるいなー、みたいなことを言い合って、なんとなく、帰ろうか、という話になったのだ。そうしてカバンを手に、教室をあとにした。
ところが正門近くで化学の先生に見つかった。戻るふりはしたものの、もう気持ちは校舎の外に出てしまっていて、いまさら教室には戻れない。三人して校舎の裏手にまわって、塀を乗り越えて脱走したのだ。
先にカバンを放り投げ、塀によじのぼっててっぺんから飛び降りると、キンモクセイの匂いがふわっと身体を包んだ。
そこから駅まで歩いていく途中の、足に羽が生えたようだったあの感覚は忘れられない。
「移民の歌」の冒頭を歌い出したいような気分だった。
駅でふたりと別れたあとは、どうしたんだろう。そのあとの記憶はまったく残っていない。それでも、キンモクセイの匂いを嗅ぐたびに、あの小春日和の午後を思い出す。
(※どうでもいいけど「移民の歌」、Led Zeppelinの公式サイトでフルコーラス聴けます)
ふと思いついて、クロゼットに行き、小さな四角い箱を取り出してこれも鏡台に載せる。箱の中には化粧道具が入っていて、これはワインズバーグで二進も三進もいかなくなった劇団が、ほかのものと一緒に置いていったものだった。きれいになっておこう、と思ったのだ。髪の毛はまだ黒々と豊かで、三つ編みにして頭に巻きつけていた。階下の事務所で繰り広げられるであろう情景が、脳裏に徐々に鮮明になってくる。トム・ウィラードと向かい合うのに、幽霊じみ、くたびれはてた姿ではいけない、思いもよらないほどの、息を呑むほどの姿でなくては。長身で、高い頬骨が頬に影を落とし、豊かな髪が背中にかかる、そんな姿が、事務所でぼんやりと時間を過ごしている連中の前を、颯爽と行き過ぎていかなければ。静かなまま――素早く、残酷に。仔が危機に瀕しているときに現れる牝虎のように、物陰から音もなく、禍々しい大鋏を構えて登場するのだ。
喉の奥でとぎれとぎれの嗚咽をもらしながら、エリザベス・ウィラードは鏡台の灯を吹き消すと、闇の中でがくがくと身を震わせながら立っていた。先ほどまで魔法のように身体にみなぎっていた力もいまは失せ、なかば倒れ込むようにして部屋を横切って椅子の背をつかんだ。自分が長い年月の間、トタン屋根ごしに、ワインズバーグのメインストリートを眺めたその椅子だ。足音が廊下に響き、ジョージ・ウィラードがドアを開けてはいってきた。母親の傍らに腰をおろすと話し始めた。
「家を出ようと思うんだ。どこへ行くか、わからないし、何をするかもわからないんだけど、とにかくどこかへ行かなくちゃ」
椅子に座っていた母親はしばらく黙って震えていたが、衝動にかられたように言葉を発した。
「眼をさまさなきゃ。こんなこと、考えてるんじゃないの? 都会へ出てお金を稼ごう、みたいな。実業家にでもなって、見てくれが良くて気の利いた、楽しげな生活がしたい、なんていうことを」そういうと、身をわななかせながら、返事を待った。
ジョージは首を横に振った。「母さんがわかるようにうまく言えないんだけど、でも、なんて言ったらいいのか、そんなふうにできたらいいと思うよ」真剣な面もちで言葉を継いだ。「父さんにはこんな話をするのさえ、ムリだからね。試してみる気にもならないけど。意味ないから。何をしたらいいか、わからないんだ。とにかく家を出て、人間を見て、考えてみたいんだ」
静かな部屋の中に母親と息子は座っていた。これまで何度もこんな夜を過ごしたように、ふたりは居心地の悪い思いをしていた。やがてふたたび息子はぽつぽつと話し始めた。
「一年や二年はここにいなきゃいけないだろうけど、ずっとそう思ってたんだ」そう言うと、立ち上がってドアの方へ歩き出した。「父さんが話してるのを聞いて、ここにいちゃいけない、って思ったんだ」ドアノブを手さぐりする。部屋のなかの静けさが、母親には耐え難いものに思えてくる。息子の口から出た言葉がうれしくて、大声で叫びたい。だが、喜びを表すことなどもうとっくにできなくなってしまっていた。
「おまえもほかの男の子たちと一緒に出歩いた方がいいよ。家のなかにばっかりいるじゃないか」と母親は言った。
「散歩でもしてこようと思ってたんだ」息子はそう答えると、ぎこちなく部屋を出て、ドアを閉めた。
(この章終わり)
-----【今日のおまけ】------
駅から帰る道すがら、キンモクセイの香りが漂ってきた。
この匂いを嗅ぐと、どういうわけかかならず、高校のとき、授業をさぼって抜け出したときの記憶がよみがえってくる。
決して真面目な生徒ではなかったけれど、悪くもなかったわたしが授業をさぼったのはその一度だけ。それも、四時間目と五時間目が自習になって、六時間目の漢文をさぼっただけなのだけれど。
前の席の山沖君(仮名)と、右前の小坂君(仮名)と三人で、自習するのもかったるいなー、みたいなことを言い合って、なんとなく、帰ろうか、という話になったのだ。そうしてカバンを手に、教室をあとにした。
ところが正門近くで化学の先生に見つかった。戻るふりはしたものの、もう気持ちは校舎の外に出てしまっていて、いまさら教室には戻れない。三人して校舎の裏手にまわって、塀を乗り越えて脱走したのだ。
先にカバンを放り投げ、塀によじのぼっててっぺんから飛び降りると、キンモクセイの匂いがふわっと身体を包んだ。
そこから駅まで歩いていく途中の、足に羽が生えたようだったあの感覚は忘れられない。
「移民の歌」の冒頭を歌い出したいような気分だった。
駅でふたりと別れたあとは、どうしたんだろう。そのあとの記憶はまったく残っていない。それでも、キンモクセイの匂いを嗅ぐたびに、あの小春日和の午後を思い出す。
(※どうでもいいけど「移民の歌」、Led Zeppelinの公式サイトでフルコーラス聴けます)