1.あなたはだれですか?
大学の寮にいた頃、とある上級生からよく合コンに呼ばれた。アルコールがまったくダメなわたしは、参加してもおもしろくもなんともないのでいつも断っていたのだが、それでも一度、つきあいで出たことがある。相手は教養課程を終えて専門課程に進んだ医者のタマゴたちだったのだが、「ボクはセンター試験では数学と物理と英語で満点だった」と自己紹介されてほんとうに驚いた。
一年生の四月ならまだわかる。大学に入って三年目なのに、まだそんなことを言っているのが信じられなかった。すると、それを聞いたもうひとりが、「おれもそうだった。×年の数学は、その前年が易しすぎたぶん、難易度が増して、点数が取り辛い問題だったんだけど(以下略)」と言いだし、さらにほかの人間も加わって、すっかり点数の話で盛り上がってしまったのだった。
確かに合コンに参加した以上、相手の所属大学はわかっている。名前も知っている。将来は医者になる、ということもわかっている。そうして、それ以外に自分を語る「言葉」が、まずなによりも、何年も前に受けた試験の点数である、というのは、ものすごい話だな、と思ったのだった。
とはいえ自分がだれなのかを説明するのは、決して簡単なことではない。
ためしにやってみてほしい。
心理学方面に「20答法」というのがある。一種の「心理テスト」に近いものなのかもしれない。
ともかく、わたしは……である、という文章を二十作ることで、自分自身のアイデンティティにアプローチする、というものらしい。
たとえば、私は学生である、と書いてみたとしよう。けれども、塾でバイトをしていれば、生徒に対しては「先生」であり、塾の経営者に対しては、「バイト」である。家に帰って親の前に出れば「子供」であり、そこからコンビニに行けば「お客」となり、ボーイフレンドからメールが来れば「彼女」、その相手との関係が微妙になれば、「わたしってほんとうにカノジョなの?」と悩む。つまり、他者との関わりと、自分が活動する場面を抜きに、自分は語ることができないのだ。
この場面と相手によってさまざまに変わっていく「○○」をすべて集めると、自分はすべて覆いつくされるのだろうか。
そうではないだろう。試しに「わたしは優しい」と書いてみる。常に優しいか? 「優しくなかった」行動の経験はないか? わたしは内気である。常に内気か? 内気であるはずの自分が、意外なほどの積極性を見せた過去の出来事はなかったか? こうした「性格」を表す言葉も、決して「わたし」を覆い尽くすことはできない。
それはなぜなのだろう。
自分なり、親しい人なりを、知らない人に説明しようとして、なんとももどかしい思い、アレントが言うように、言葉が「するりと逃げてしまう」経験、言葉を費やせば費やすほど、その人の「唯一性」がどこかへいってしまい、ありきたりの人の描写になってしまう経験は、わたしたちだれもにあるのではないだろうか。
さて、それはどうしてなのだろう。
もう少しアレントに説明してもらおう。
わたしたちはさまざまなことをするし、他者に対して、さまざまな話をする。そうした行動はすべて、わたしたちが「だれ」であるかを反映したものにはちがいない。けれどもこの行動にしても、話にしても、ある場で他者に向けて、なされ、話された言葉であって、そうした場や、相手から切り離すことはできないのだ。
では、その人が「だれ」であるかを知る手段はないのか。
わたしたちは、自分自身や他者を「物語」で理解しているのだ。
では、この「物語」というのは、いったいなんなのだろう。
明日はこのことについて考えてみたい。
大学の寮にいた頃、とある上級生からよく合コンに呼ばれた。アルコールがまったくダメなわたしは、参加してもおもしろくもなんともないのでいつも断っていたのだが、それでも一度、つきあいで出たことがある。相手は教養課程を終えて専門課程に進んだ医者のタマゴたちだったのだが、「ボクはセンター試験では数学と物理と英語で満点だった」と自己紹介されてほんとうに驚いた。
一年生の四月ならまだわかる。大学に入って三年目なのに、まだそんなことを言っているのが信じられなかった。すると、それを聞いたもうひとりが、「おれもそうだった。×年の数学は、その前年が易しすぎたぶん、難易度が増して、点数が取り辛い問題だったんだけど(以下略)」と言いだし、さらにほかの人間も加わって、すっかり点数の話で盛り上がってしまったのだった。
確かに合コンに参加した以上、相手の所属大学はわかっている。名前も知っている。将来は医者になる、ということもわかっている。そうして、それ以外に自分を語る「言葉」が、まずなによりも、何年も前に受けた試験の点数である、というのは、ものすごい話だな、と思ったのだった。
とはいえ自分がだれなのかを説明するのは、決して簡単なことではない。
ためしにやってみてほしい。
心理学方面に「20答法」というのがある。一種の「心理テスト」に近いものなのかもしれない。
ともかく、わたしは……である、という文章を二十作ることで、自分自身のアイデンティティにアプローチする、というものらしい。
たとえば、私は学生である、と書いてみたとしよう。けれども、塾でバイトをしていれば、生徒に対しては「先生」であり、塾の経営者に対しては、「バイト」である。家に帰って親の前に出れば「子供」であり、そこからコンビニに行けば「お客」となり、ボーイフレンドからメールが来れば「彼女」、その相手との関係が微妙になれば、「わたしってほんとうにカノジョなの?」と悩む。つまり、他者との関わりと、自分が活動する場面を抜きに、自分は語ることができないのだ。
この場面と相手によってさまざまに変わっていく「○○」をすべて集めると、自分はすべて覆いつくされるのだろうか。
そうではないだろう。試しに「わたしは優しい」と書いてみる。常に優しいか? 「優しくなかった」行動の経験はないか? わたしは内気である。常に内気か? 内気であるはずの自分が、意外なほどの積極性を見せた過去の出来事はなかったか? こうした「性格」を表す言葉も、決して「わたし」を覆い尽くすことはできない。
それはなぜなのだろう。
言論者であり行為者である人間は、たしかに、その「正体」(who)をはっきりと示すし、それはだれの眼にも明らかなものである。ところがそれは奇妙にも触れてみることのできないもので、それを明瞭な言語で表現しようとしても、そう言う努力はすべて打ち砕かれてしまう。その人が「だれ」(who)であるか述べようとする途端、私たちは、語彙そのものによって、彼が「なに」(what)であるかを述べる方向に迷いこんでしまうのである。つまり、その人が他の同じような人と必ず共通にもっている特質の描写にもつれこんでしまい、タイプとか、あるいは古い意味の「性格」の描写を始めてしまう。その結果、その人の特殊な唯一性は私たちからするりと逃げてしまう。
(ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳 ちくま学芸文庫)
自分なり、親しい人なりを、知らない人に説明しようとして、なんとももどかしい思い、アレントが言うように、言葉が「するりと逃げてしまう」経験、言葉を費やせば費やすほど、その人の「唯一性」がどこかへいってしまい、ありきたりの人の描写になってしまう経験は、わたしたちだれもにあるのではないだろうか。
さて、それはどうしてなのだろう。
もう少しアレントに説明してもらおう。
ある種の事物は名称をつけることができるから、その本性を意のままに扱うことができる。ところが、活動と言論の中で示される人間の「正体」(who)は言葉で表現できないために、人間事象をこのように取り扱うことは、原理上不可能なのである。
わたしたちはさまざまなことをするし、他者に対して、さまざまな話をする。そうした行動はすべて、わたしたちが「だれ」であるかを反映したものにはちがいない。けれどもこの行動にしても、話にしても、ある場で他者に向けて、なされ、話された言葉であって、そうした場や、相手から切り離すことはできないのだ。
では、その人が「だれ」であるかを知る手段はないのか。
他人と異なる唯一の「正体」(who)は、もともとは触知できないものであるが、活動と言論を通じてそれを事後的に触知できるものにすることができる唯一の媒体、それが真の物語なのである。その人がだれ(who)であり、だれであったかということがわかるのは、ただその人自身が主人公である物語――いいかえればその人の伝記――を知る場合だけである。その人について知られるその他のことは、すべてその人がなに(what)であり、なにであったかということを語るにすぎない。
わたしたちは、自分自身や他者を「物語」で理解しているのだ。
では、この「物語」というのは、いったいなんなのだろう。
明日はこのことについて考えてみたい。
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