ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

限界を感じて・・・地蔵の頭へ

2015年02月08日 23時25分49秒 | Weblog
行動食を摂り水分の補給。
そしてサーモスに入れておいた熱いチャイを数口程飲んだ。
冷え切った体の中を熱いチャイが胃袋へと流れ落ちて行く感覚がはっきりと分かった。
これは雪山のベテランである「腹ペコ山男さん」から、砂糖を多めに入れた紅茶が良いというアドバイスを頂いたことから始めたことだ。
普段は甘ったるくて飲めやしないだろうが、この冷え切った体には何よりだ。
ましてや糖分は疲労回復の即効性がある。

「よし、行くか・・・」
再びザックを背負いハーネスをきつく締めた。
きつく締めなければ、この強風で体を持って行かれそうだった。
風で体がふらついた時、ザックのハーネスが緩いとバランスを崩しそのまま滑落をも免れない。
それが怖かった。


ここまで予定していたルートタイムより30分以上遅れてしまっていた。
やはりラッセルで時間を費やしてしまったのだ。
しかし焦りだけは禁物だ。
この先はナイフリッジの登攀となるわけで、そのポイントで焦りから急いでしまうことだけは絶対に避けなければならない。
昨年の記憶が正しければ、登攀時におけるナイフリッジは右側が切れ落ちているはずだ。
焦りからリッジの右側には間違っても足を踏み入れてはならない。

ナイフリッジを見上げた。
去年の同じ時期よりも明らかに積雪量は多く、そして想像していたよりも距離は長かった。
だが、このナイフリッジの縦走こそが雪山登山の醍醐味ではないだろうか。
危険であることは当たり前だが、「俺は今雪山に来ている。そして雪山を登っている。」
そんな充実感のようなものを感じることができるのだ。

なぁ~んてことを感じているうちはまだまだ甘い。
その充実感を完膚無きまでに叩きのめされてしまう「危険」が、この後待ち受けていることなど思いもよらなかった。

ただ充実感を感じつつ地蔵の頭へと登り続けた。
トレースがある。
ありがたい・・・本当にありがたい。
そして何よりもここだけは雪が固かった。
アイゼンの爪が、心地よい程に雪を踏みしめる。

目の前には地蔵の頭の道標が目視できた。
「やっとここまで来たか・・・。」
強風で煽られながらもささやかな嬉しさを感じていた。

稜線へと辿り着いたということは、ここからいよいよ本格的な岩稜地帯へと入ったということだ。
しかしそんなことよりも、先ずはお地蔵様にお礼を言わなければ。

去年初めてこの場に着いた時、無意識でひざまずきお地蔵様にお礼を言っていた自分だった。
今回は無意識ではなかったが、去年以上の感謝の思いで一杯だった。
ひざまずき両手を合わせ、深々と頭を下げ感謝の言葉を言った。
ある意味、もっとメンタルが強ければそんな行為をすることなどないだろう。
どれほど天候やルートが厳しく苦しい登攀であったにせよ、すべては自分独りの実力で登り切ったのだから、そう割り切ればいいだけだ。
つまりはそれだけ自分はメンタルが弱いということに他ならない。
普段は神仏に手を合わせる行為など滅多にない。
初詣とか、おやじの命日とかお彼岸とか、そんな程度だ。
都合の良い時だけ感謝の言葉を言うこと自体、自分自身の弱さをさらけ出しているのではないだろうか。


南(右手)を見た。
赤岳はガスで全く見えない。
しかしトレースだけはしっかりとついていた。
おそらくはさっきの人のものだろう。
「このまま赤岳に登った方が楽なんだろうなぁ・・・。ルートは分かっているし、横岳縦走よりも危険度や難易度は低いしなぁ・・・。」

北(左手)を見た。
岩稜群のリッジが幾つも見えた。
トレースは・・・見えなかった。
どこを探しても見つからなかった。
「そっか、ここからまた完全に単独か・・・。」
単独が嫌なのではない。
トレースが無いことが不安でならないのだ。
事前の下調べはかなり綿密に行った。
地図だけでなく、画像や動画を何度も見てポイント毎にその状況や越え方をメモし資料を作成した。
されど雪山は怖い。
そして今、最も感じている怖さは「風と新雪」だった。
体が持ち上げられそうになる程の強風は何度も体験している。
それでも今感じている風は今まで体感したことのない強風だ。
どこかにしがみついていなければ飛ばされそうになってしまう風だった。


この風の中、新雪に埋もれたリッジを越えなければならない。
厳冬期の雪山に慣れている人にとっては、こんなことは当たり前過ぎるのだろうが、今までに感じたことのない「嫌な感じ」を覚えた。
それはゾッとするような身の危険だった。