「嫌われる勇気」(19)

2015年01月13日 11時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<1月13日、那覇の気温は20-16度で空が美しい>

アドラーの「嫌われる勇気」 岸見一郎+古賀史健著より 222~229P

第5章 「いま、ここ」を真剣に生きる


a.過剰な「自意識」が、自分にブレーキをかける

アドラーが共同体感覚の概念を提唱した時、心理学は科学であるべきなのに、アドラーは「価値」の問題を語り、科学的ではないと反発が、たくさんありました。

いきなり宇宙や過去や未来を考えずに、まずは、「私」をしっかり理解する。続いて、「対人関係」を考える。そうしてようやく、大きな「共同体」が見えてくる。「私」に執着せず「他人への関心」に切り替えよ

例えば、会議の時、「なかなか手を上げられない」「こんな質問をしたら笑われるかも知れない」「的外れな意見だと馬鹿にされるかも知れない」と余計な事を考え、躊躇してしまう「私」がいる。

いつも自意識が自分にブレーキをかけ、その一挙手一投足をがんじがらめに締め付ける・・・。

b.自己肯定ではなく、自己受容

「自意識が自分にブレーキをかけ、無邪気に振る舞う事が出来ない」。これは多くの人が実感している悩みです。

では、もう一度原点に立ち返って、あなたの「目的」を考えてみましょう。あなたは、自分の振る舞いにブレーキをかける事で、何を得ようとしているのでしょうか?

「笑われたくない、馬鹿な奴だと思われたくない」?「自分は、無邪気でありのままの自分に自信が持てないという事」?そして、「ありのままの自分による対人関係を回避しょうとしている」?

一人であれば、自由に振る舞えるが、人前では出来ない。これは、「共同体感覚」の問題です。

それは、自己への執着を他者への関心に切り替え、共同体感覚を持てるようになる事です。

ここで必要になるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つです。

我々は、「私」という容れ物を捨てる事は出来ないし、交換する事も出来ない。

しかし、大切なものは「与えられた、ものをどう使うか」です。

「私」に対する見方を変え、いわば使い方を変えて行くのです。ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はない。

「自己肯定ではなく自己受容」です。

「自己肯定」とは、出来もしないのに「私は出来る」「私は強い」と、自らに暗示をかける事です。これは優越コンプレックスにも結び付く発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえます。

一方、「自己受容」は、仮に出来ないのだとしたら、その「出来ない自分」をありのままに受け入れ、出来るようになるべく、前に進んで行く事です。自らに嘘をつくものではありません。

もっと解り易く言えば、60点の自分に「今回は、たまたま運が悪かっただけで、本当の自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが「自己肯定」です。それに対して、60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが「自己受容」です。

「肯定的な諦め」と言う言葉を使いますが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。

交換不能なものを受け入れ、ありのままの「私」を受け入れる。そして変えられるものについては、変えて行く“勇気”を持つ事。それが「自己受容」です。我々は、何かの能力が足らないのではありません。ただ、“勇気”が足りていないだけです。すべては、“勇気”の問題なのです。

※アドラーの「嫌われる勇気」最終章に入りました。「自己肯定」ではなく「自己受容」の話です。昨年はやった「ありのまま」の自分を受け入れる勇気を持て。この章は、解り易いです。