日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

『歌物語 花の風』決定版(連続掲載)6章

2011年02月28日 | 日記
六の巻、結び

男は今、鬱蒼とした樹木に囲まれた森の中か、あるいは分厚いガラスに囲まれた温室のような、生活音の届かない空間の中で、物言わぬ女の面影を心に抱いて、暮らしていた。

かれてより いかにかすぐし たもうらん みるものごとに とわまくおもう
離れてより 如何にか過ぐし たまふらむ 見る物ごとに 問はまく思ふ
(お別れしてから、何かを見るにつけて、あなたはどこでどうしておられるかと、お聞きしたい思いです)

外の世界は、物事も人々も、歌に詠まれてこの静謐な空間に入るのを待っているだけの、気遠いものになっていた。

ながあめの やみたるもりの ゆうばえて たかえだのおれ おちしずむおと
長雨の 止みたる森の 夕映えて 高枝の折れ 落ち沈む音
(長い雨が止んだ夕方、夕映えが梢の網から噴出すような森の中を歩いているとき、上の方で乾いた音がして、ふと見上げると、先端の大きな枝が折れて、下の枝にからまりながら、落ちていきました)

 車で移動しているとき、真っ青な空を背景に、夕日に映えた紅葉が、突然目に入ってきた。

いりのひに もみじのおかの てりはえて まさおきそらわ くるるともなし
西の陽に 紅葉の丘の 照り映へて 真青き空は 暮るゝともなし
(西の空に傾いた太陽が、小高い丘の紅葉の木立を照らし、真っ青な空を背景に、燃えるような赤色が浮き上がって、日暮れまではまだ間がありそうです)

 山道を移動する車から、絶壁の下の湖が、絵の具を溶かしたように濁って、静まり返っているのが見えた。心の中の女と一緒に見るような気持ちで、男は外の景色を見ていた。

あわゆきの しろきみどりに にごりたる みやまのうみの おものしずけさ
淡雪の 白き碧に 濁りたる 深山の湖の 面の静けさ
(山には淡雪が降り、雪景色を映した湖面は、緑色が乳白色に濁って、音もなく静まり返っていました)

そらにみつ とおきものおと かつきこゆ こごりしきぎの えだをふるいて
空に満つ 遠き物音 かつ聞こゆ 凝りし木々の 枝を振るひて
(晴れた空に聞こえる遠い物音が、強くなったり弱くなったりして、落葉した木々の枝は、寒い風に震えているようでもあり、音に震えているようにも見えました)

 正月に大雪になり、町の交通が麻痺した。

はつはるの ふりしくゆきを よそおいて はなのさかりと たちなめるきぎ
初春の 降り重く雪を 装ひて 花の盛りと 立ち並める木々
(初春に思いがけず大雪になり、並木の枝も雪をまとって、花盛りのように見えています)

めじのかぎり ふりしくゆきに まぎらいて かつたえだえに かぜふきわたる
目路の限り 降り重く雪に 紛らひて かつ絶え絶えに 風吹き渡る
(降り続く大雪が、ときどき吹きすぎる風に巻かれて、一面の雪景色になっています)

 春が近づき、暖かさと寒さが繰り返していた。

おおかぜの はるまだきのを ふきてやまず すさまじきおと そらにみちみつ
大風の 春まだき野を 吹きて止まず 凄まじき音 空に満ち満つ
(早春の野を大風が吹いて、そのすさまじい風音が空に満ち満ちています)

おおかわの ぬるむみなもに かぜなぎて ほとけのごとき はるひのゆらぎ
大川の 温む水面に 風凪ぎて 仏の如き 春日の揺らぎ
(よく晴れて風もなく、暖かくなった春の昼下がり、大きな川の水面が、仏像のような黄金色にゆらいでいます)

 男は仕事で、めずらしく長い距離を移動することになった。

空気が湿り気を帯びた夜明け時、幹線沿いの町並みは、夢の中のようだった。

あさぎりに ものみなうかび にじみつつ あけそむるひに あわくとけゆく
朝霧に もの皆浮かび 滲みつゝ 明け初むる陽に 淡く融けゆく
(朝霧の中に、建物も木立も浮かんで見え、川も空も滲んで見えているのが、朝日が強くなってくると、淡雪のように融けて、しだいに輪郭がはっきりしてきます)

 バスが大きな公園を通り抜けると、木々の影が車窓に点滅した。

ちにそいて こだちをもるる あさのひの しろきはだえに うきてかげろう
地に添ひて 木立を漏るゝ 朝の陽の 白き肌に 浮きて影ろふ
(昇る朝日が、地面に平行に差し込み、木立を漏れてきて、白い肌の上に、陽炎のようにゆらゆらと浮いています)

 夜遅く帰宅した翌日、男は、昼過ぎまで寝て過ごした。人気のない昼下がり、男は近くの雑木林の中で、長い時間を過ごした。

ききいれば ながなくとりの こえやみて かれしくさはに あまおとのしく
聴きゐれば 長鳴く鳥の 声止みて 枯れし草葉に 雨音の布く
(耳をすまして聞き入っていると、鳴き交わす鳥の長い鳴き声が止んで、しばらくすると、枯れ草と枯葉の上に、一面の雨音がしずかに落ちはじめました)

したくさに ちりしくあめの おとやみて いさこうごとき とりなきかわす
下草に 散り布く雨の 音止みて 諍ふ如き 鳥鳴き交はす
(木立の下草に降り布いていた雨音が止んで、鳥が争っているように、やかましく鳴き始めました)

はるのあめわ もりのしずくと しただりて しずまるなかに とりなきわたる
春の雨は 森の雫と 下垂りて 静まる中に 鳥鳴き渡る
(春の雨が樹冠のまばらな森に降ってきて、ところどころで雫になって滴り、静かな音をたてる中に、鳥が一声長く鳴いて、飛んでいきました)

 雑木林を出ると、空を大きな雲が覆っていた。

うすずみの くもをこがねに ふちどりて あまてらすひの かげのみぞみる
薄墨の 雲を黄金に 縁どりて 天照らす陽の 影のみぞ見る
(大きな雲に覆い隠された太陽が、薄墨色の縁を黄金色に縁取って、仏像の光背のように輝いています)

この不思議に美しい時の過ぎ去ることが名残惜しく、男はたびたび足を止めて、周囲の花々や木々を見渡した。

とりなきて かぜしずかなる はるのひに ゆきこうひとの あしおともなく
鳥鳴きて 風静かなる 春の日に 道行く人の 足音もなく
(風が吹くともなく、日差しの暖かい春の昼下がり、近くで突然鳥の一声がした。耳をすましていると、少し離れた道を人が歩いていき、その足音はここまで聞こえてきません)

しろくあかく みなれしみちに さくはなの いろとりどりに かくわうれしき
白く赤く 見慣れし道に 咲く花の 色とりどりに かくは嬉しき
(白や赤や、さまざまな色の花があちこちに咲いて、見慣れた道がこんなにも華やいで、なんと嬉しいことでしょうか)

*   *   *

それから数年が過ぎたある日、女から長い便りが届いた。
この一年は精神的に辛い生活を送ったこと、仕事を辞めたこと、救いのない日々に一人の男性と出会い、理解し合って、結ばれたこと、近々自分の誕生日に入籍する予定であること、などが書かれていた。

読み終わったとき、男の心は大風の吹き荒れたあとのように、静かになっていた。

男は女に短いお祝いを書き送り、尽きせぬ思いをこめて、「次の世でまたお会いできますように」とだけ書き添えた。「その時は、お互いにそれと気づきますように」という言葉は、書いては消し、消してはまた書いているうち、最後はどうしたのだったか、忘れてしまった。

さようなら、この人生では結ばれることのなかった、運命の人。

なにをかも はなむけにせん よのなごり いでたついもを わすれがたみに
何をかも はなむけにせむ 世の名残り 出で発つ妹を 忘れ形見に
(花の季節に旅立つあなたへ、何を餞別にお送りしたらよいのでしょうか。私はなつかしいあなたの面影を、忘れることのできない形見にして、ずっと持っています)

のちのよも せめてあわんと ねがいたる おもいをいもや いかにききつる
のちの世も せめて会はむと 願ひたる 思ひを妹や 如何に聞きつる
(今度生まれ変わった世でも、せめてまた会いたいという私の思いを、あなたはどのように聞いたのですか?)


                           ―了―
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