日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

シリーズ「夕暮れの歌」(3)

2011年05月25日 | 日記
前回の歌を再録します。

大枝に 積む雪のごとく 白き花 若葉の風に ゆれゆらぎつつ

これはとくに夕暮れ時の歌ではありませんが、詠んだのは夕方でした。


情景そのものが夕暮れの歌を3つ、推敲が済みましたので、やや時期遅れの冬の歌も、いっしょに載せておきましょう。



冬の野に 木立を漏るる 夕映えの たぎる黄金と あふれこぼるる
(冬の野の落葉した木立から、夕映えが黄金を溶かしたようにあふれ、木の間の網をこぼれそうに溜まっている)

夕空に 紅引く雲の 襞よりて 暗き木立の 薄衣を着る
(暮れようとする夕空に、暗く薄い紅色の雲が幾筋か、襞のようにたなびき、木立の上に薄衣のようにかかっている)

木漏れくる 光の筒に 音もなく 群れ飛ぶ虫の 映えゆらぎつつ
(木漏れ日が光の筒となった、洞窟の出口のようなところに、羽虫の群れが音もなく飛び回り、光に浮き上がって、ゆらゆらと揺らぎ続けている)

3つめの歌には、「ゆれ」「ゆらぐ」という、私の好きな言い回しが出てきます。羽虫のようなものでも、ゆらいでいるのを見ると、見入ってしまうようです。



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能「通小町」を見ながら

2011年05月18日 | 日記
昔、謡曲と仕舞を習っていたことがあり(能管もすこしかじりました)、よく能を見ていました。仲間にはプロ顔負けの名人もいて、女性が60代で羽衣を舞われたのを拝見したときは、あまりの見事さに驚きました。舞台のあと、お師匠さんが平伏して礼をされ、「本物の羽衣を舞いましたね」と感心されたそうです。プロアマ以前に、品格、人格、霊格の問題なのでしょう。

 私の知っているかぎり、現代の能楽師では梅若六郎さんが、頂点におられると思います。友人に誘われて、仕舞を拝見したことがあり、終わったあと、友人の一人が合掌しておられたほど、見事なものでした。映像では、NHKで「世界遺産に舞う」という番組で、梅若さんがフランスの古城の前で羽衣を舞っておられるのを見て、見事な芸術の力と感心いたしました。

最近、久しぶりに能のご招待をいただき、「通小町」を見てきました。「複式夢幻能」と呼ばれるようになった、世阿弥のお得意の演出ではなく、演劇としての完成度は低い、初歩的な作品とはいえ、恋をめぐる恨み、心残り、妄執が直截に描かれた、能の骨組みがわかりやすい、いわば教育的な作品だと思いました。

小野小町に恋慕し、百日間通ってくれば思いを遂げさせようと言われた深草少将が、最後の一日を残して死に、残念が妄執となって、死してのち「煩悩の犬となって」小町につきまとい、死後の小町の受戒、成仏を妨げようとする、という展開です。少将をシテ、小町がシテツレ、ワキが僧です。
僧の弔いに「嬉しのお僧の弔い」「戒授け給え」と言う小町の背後から、少将が「戒授け給わばうらみもうすべし」、小町だけ成仏すれば、自分の思いは晴れない、雨の日、月夜、暁に通った思いを述べ、このように「心を尽くし尽くして」通ったあげく、願いが叶わず死んでしまった、その恨みを述べ、僧の供養によって一度に悟り、小町とともに成仏した、というものです。
仏教の功徳が前面に出ていますが、背景にあるのは、相手をもてあそぶ恋の駆け引きが、予想もしない恨みを呼ぶという、ありふれた日常の悲喜劇です。拝見しながら思い出した和歌があります。以前にもご紹介したことがある、『玉葉集』の「恋歌一」にある、つぎの二つの和歌です。

先の世にたれ結びけむ下紐の解けぬつらさを身の契りとは(安嘉門院四条)
先の世に人の心をつくしける身の報いこそ思ひ知らるれ(藤原親方朝臣)

 前世の恋の思い(思われ)が、今生に報いるという、まさに「通小町」と同じ組み合わせをもった和歌です。とくに、「心を尽くし尽くして」という少将の文句を聞いて、二首めの「人の心を尽くしける」というくだりを連想しました。百日も人の心を尽くさせて、思いを遂げさせなかった、そのような他愛もない恋愛ゲームが、原因を作った側にとっても、それに悩んだ一見被害者と思われる側にとっても、「妄執」が長い不幸の種となることがあるようです。軽い気持ちが、重く長い報いを招く、こういう因果応報は、報いを受けてはじめて、思い知ることになるようです。恨まれていては幸せになれない、恨んでいても幸せになれない、という知恵を、つくづくと思い知ります。



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シリーズ「夕暮れの歌」(2)

2011年05月13日 | 日記
 前回の歌に関して、知人の作家の方から的確なコメントをいただきました。

 情景を再考して、つぎのように推敲し、これを決定版(本日時点の)としましょう。


あゆみこし ながきいえぢの つくるあたり おともなくひの ちにしずみゆく

歩み来し 長き家路の 尽くる辺り 音もなく陽の 地に沈み行く

(家へ続く長い路を歩いてきて、雑木林や野原から、家並みに入ろうとするところ、たそがれ時の静けさがきわまった中、遠くの山並みに、大きな夕日が重く静かに沈んで行くのを、しばらくたちどまって、見ていました。)


 * * * * * * *

 その後に詠んだ歌を1つ。私がよく使う「揺れ」「揺らぎ」という言葉が、出てきます。

 私は植物や動物の名前をあまり知らず、固有名詞ではなく、「○○色の花」「○○の鳥」と表現することが多いのですが、これは欠点である一方、抽象化が進むという意味では、好都合なことでもあります。勅撰集で、夏の歌を読むと、「ほととぎす」という言葉が頻出し、想像や鑑賞を限定するように思います。抽象化がきわまれば、場所や時代を問わない、誌的空間が実現するでしょう。
 場所は武蔵野の雑木林、5月はじめのころの情景です。大きな枝を横に広げた木の、枝の上のほうに、白い花がびっしりと咲いていて、雪が積もったようになっています。何という名前の木でしょうか? それが風にゆれていました。

おおえだに つむゆきのごとく しろきはな わかばのかぜに ゆれゆらぎつつ

大枝に 積む雪のごとく 白き花 若葉の風に 揺れ揺らぎつつ

(大きく枝を広げ木が、枝ごとに白い花をびっしりと咲かせ、雪が降り積もったように、重くなっています。その白い花と、まだ色淡い若葉が、森を吹く風に揺れて、いつまでも揺らいでいます)

 こういう歌を詠むときは、私自身がいっしょに揺らぐような気持ちを覚えます。この揺曳感は快く、言葉の力(言霊の響き)を実感します。




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シリーズ「夕暮れの歌」

2011年05月08日 | 日記
 夕方に散歩することが多く、結果的に夕暮れの歌が多くなります。しばらく前に詠んだ歌を1つ。散歩が終わって、家並みに入るまぎわが、ちょうど夕日が地平に没するときと、重なった情景です。


歩み来し 長き家路の 尽くるあたり 音もなき日の 地に沈み入る


4句めは「日の音もなく」、5句めは「地に沈み行く」と入れ替えると、やや雰囲気が違ってきます。そちらのほうが、時間の経過が長くなり、太陽の重い感じも伝わってくるような気がします。こちらを決定版としましょう。


歩み来し 長き家路の 尽くるあたり 日の音もなく 地に沈み行く


人間の騒ぎをよそに、時は音もなくめぐっています。




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