日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

万葉集の恋歌

2010年08月25日 | 日記
万葉集の4巻、「相聞」(そうもん)は、後の歌集では「恋歌」に当たるものですが、直情的なものが多く、どの時代の若者、恋する者に共通のナイーブさがあふれていて、共感しやすいものです。
数十年前に、「夢で会いましょう」という番組がありましたが、あのような、時代の若さを感じさせます。

思はぬに 妹が笑ひを 夢に見て 心のうちに 燃えつつぞをる(718)
(思いがけず、貴方の笑顔を夢にみて、心の中の思いが、燃えるようにつのります)

暮さらば 屋戸開け設けて 吾待たむ 夢に相見に 来むといふ人を(744)
(夜になったら、家の戸を開けておいて、夢に会いに来るといった、あの人を待つことにしよう)

思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜毎に君が 夢にし見ゆる(2569)
(貴方を恋しく思っているからでしょうか、貴方が夜毎の夢に見えます)


いかがでしょうか。いつの時代も、恋する者は同じような思いに苦しむもののようです。

つぎの歌は、素敵な情景を見たときに、そばに恋する人がいない気持ちを歌ったものです。

吾背子と 二人見ませば いくばくか このふる雪の うれしからまし(1658)
(この降る雪を、恋しく思う貴方と、ここで二人で見ているのだったら、どんなに嬉しいことでしょうか。あなたは今どこにいるのですか)

同じような思いを詠んだのが、つぎの短歌です。情景は違いますが、恋しい人の不在を歌う気持ちは、よく似ているように思います。

大浜の 長き汀に 打ち寄する 頻波の音 妹と聞かなくに(『花の風』5-16)
(大きな砂浜に、寄せては返す波の音を、貴方と聞けたら、どんなにうれしいことでしょうか)

次回からは、『花の風』を、最初から最後まで、118首を解説したいと思います。





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玉葉の古代的な素朴さ

2010年08月21日 | 日記
『玉葉』10巻、恋歌2から、2首引いてみましょう。どちらも作為の少ない、ストレートな恋の歌です。

そなたより 吹きくる風ぞ 懐かしき 妹がたもとに 触れやしぬらん(清輔朝臣)
(向うから吹いてくる風が、とても懐かしいのは、貴方の袂に触れた風だからだろうか)

よるの雨の 音にたぐへる 君なれや 降りしまされば 我が恋まさる(院御製)
(夜に雨が降って、その音がどこかあなたを思わせるからだろうか、雨音が強くなると、私の恋心がつのることだ)

1つめに歌と似た風情を、『花の風』ではつぎのように詠んでいます。口語訳の必要もないほどの、ストレートな歌です。

この庭に 吹きゆく風も 咲く花も 幸に満てるは 妹ありてこそ(4-5)
妹が手に 妹が項に 黒髪に 春めく今日の 風吹きすぎて(4-10)

このような素朴な恋歌は、万葉集におびただしいものです。「恋歌」ではなく、「相聞」というジャンルでしたが、次回はそのなかから、若い人にもそのまま理解でき、共感できるようなものを、紹介してみましょう。万葉集の相聞を若い人が理解できるようになると、メールのレベルがあがるのではないでしょうか。


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古典(『玉葉集』)と現代(『花の風』)の対話

2010年08月16日 | 日記
猛暑が戻ってきました。皆様いかがお過ごしですか。

『玉葉集』には、「近代的」といわれる情景が多いので、はたしてどれくらい近代的なのか、現代の古語短歌と比べてみましょう。

春の歌の下巻に、つぎのような歌があります(前参議清雅)。注目している情景の面白さに比べて、歌の調べ、響きがあまりに単調で、密度が薄くなっています。

長閑なる 入相の鐘は ひびきくれ 音せぬ風に 花ぞちりくる
(のどかな響きの鐘が、夕暮れに消えてゆき、静まり返った中に、音のない風が、花を散らせている)


これと同じような、寺院の風景と花が風に散る情景を歌ったものを、私の『花の風』から引いてみましょう(歌集の名は、この歌の一節からとっています)。

立ち並める 岩屋に注ぐ 花の風 夢の名残を 弔ふごとく(3巻・15)
(死者の見果てぬ夢を、まるで貴方が静かになぐさめるかのように、音もない風が花びらを散らして、立ち並んだ墓石に注いでいます)

無音の風に花が散る情景を詠んだ二つの歌でも、調べによって、このように歌空間の密度が異なります。


* * *

もうひとつ、こちらは為兼の歌(夏の歌の巻)と、私の歌を並べてみましょう。どちらも、明け方の情景を詠んだものです。

為兼は朝日の届かない竹藪の奥を接写しています。

枝にもる 朝日の影の すくなさに 涼しさふかき 竹のおくかな
(わずかな朝日が枝にこぼれて、その少ない光は、竹藪の奥深くまで届かず、向うは小暗く涼しく見える)


私の歌は、木立をはさんで漏れてくる朝日が、人間の皮膚にゆらめくところを接写したものです。まったくの自然観照ではありませんが、人間をオブジェのように配しており、焦点は人間ではなく、光と影にあります。為兼が「涼しさ」という感覚に言及して、かえって人間的な歌になっているのに対して、私の歌は人間の感覚はいっさい排除して、かえって人気(ひとけ)のない調べになっていると思います。

地に沿ひて 木立を漏るる 朝の陽の 白き肌に 浮きてかげろふ(6巻・10)
(昇りかけた朝日が地面に平行に差し込み、木立を漏れてきて、白い肌の上に、陽炎のようにゆらゆらと浮いて見える)

次回も今回の続きで、同じようなモチーフが、どのような形と調べをとっているか、『玉葉集』と『花の風』を対比してみましょう。

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『玉葉集』選者、京極為兼の歌

2010年08月13日 | 日記
古語短歌をめぐる茶話をお読みいただき、ありがとうございます。
関係者も読んでいるようですが、コメントは受け付けておりませんので、直接お便りをくださるか、あるいは面識のない方は、心のうちでコメントくだされば、善意のものはこちらに通じると思います(悪意のものはご本人に帰っていくと思います)。

玉葉集の選者、京極為兼の歌を、いくつか見てみましょう。
玉葉集の特徴が出ているのは当然ですが、あまり韻律の良いものはありません。時が過ぎ去るのを惜しむような歌がいくつかあります。
たとえば巻2・春歌下の最後の歌は、調べも悪くなく、耳に入りやすいほうでしょう。

めぐり行かば 春にはまたも 逢うとても 今日のこよいは 後にしもあらじ
(年がめぐると、また春がくるとはいえ、今日のこの春の宵は、二度とないだろう)

これと比べて、巻5・秋歌下のつぎの歌は、趣旨は同じように、時の流れを惜しむ歌ですが、人為が前に出すぎて、調べも良くありません。

心とめて 草木の色も ながめおかん 面影にだに 秋や残ると
(この草木の色も、心して、しっかりと眺めておこう、秋が過ぎても、心に残る秋の面影だけは残るだろうから)

巻4・秋歌上の、つぎの叙景も、私が好きな歌の1つです。動画を見るような感じがするのではないでしょうか。

露おもる 小萩が末は なびき伏して 吹き返す風に 花ぞ色そふ
(露で重くなった萩の葉末は、風になびいてたおれ伏し、巻き返る風にあおられて元にもどると、花の色が美しく見える)

私が一番好きな歌は、巻5・秋歌下の、つぎの「月の歌」です。「めぐり行かば」の春の歌と趣が似ていますが、調べの強さはこちらが優れています。

秋ぞかはる 月と空とは むかしにて 世世へし影を さながらぞ見る
(この秋は昔の秋とは違っているけれども、月と空とは昔のままで、時を経たその姿を、そのままの姿で見ていることだ)

次回は、玉葉集の歌と私自身の歌を読み比べながら、状況や場面の似たようなものでも、表現がどう違うか、考えてみたいと思います。


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玉葉和歌集の鑑賞

2010年08月10日 | 日記
私自身の短歌は『古語短歌集 花の風[読み仮名・現代語訳付]』(まぐまぐマーケット)でご覧いただくことにして、これからしばらく玉葉和歌集の名歌を鑑賞したいと思います。
玉葉集は隠れた歌集で、人によっては最大限に評価されることもあります。特徴は、自然観照が長時間持続して、歌の中に時空が凝縮されるものが多いことです。叙景のピークと言ってよいでしょう。

春の歌下から2首。空と大地の間で、静謐な光と影が交錯しています。ここには、人事や人間くさい感情の入る余地はありません。

雲にうつる 日影の色も 薄くなりぬ 花の光の 夕ばえの空(藤原為顕)
さそひゆく 花のこずゑの 春風に くもらぬ雪ぞ 空にあまぎる(前右兵衛督為教)

すぐ近くにある次の歌は、古今集的な陳腐な風体で、これと比べることで、前の2首の境地のすぐれていることが、わかるのではないでしょうか。

雲となり 雪と降りしく 山桜 いづれを花の 色とかも見ん(常磐井入道前太政大臣)


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