日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

『歌物語 花の風』決定版(連続掲載)解説

2011年02月28日 | 日記
解説(物語について/感情教育/実作/発表の仕方)


   物語について
 この物語は、ほとんどの物語がそうであるように、作者の恋心から生まれたものですが、「プラトニック」とも言えないほど、現実感の薄い、無名の恋物語になっています。恋する男が自分なのか、恋の対象が一人なのか、二人だったのか、どこの出来事だったのか、すべて曖昧にしました。この物語を読んでくださった方が、人物を誰に置き換えても、場所や時間をどこに置き換えても、違和感はないだろうと思います。
 とはいえ、これは紛れもなく、私が自らの人生で味わった出会いと別れを、自らの歌で綴った、私にとって掛けがえのない物語です。人は同じような恋をする、というのは真実ですが、それでも、誰もが自分で恋をしなければなりません。他人の恋の歌が、まるで自分の気持ちを詠んでいるかのようなとき、それは他人の歌であっても、すでに自分の歌になりかかっています。本歌取りという技法があるのは、ただ機械的な遊びではなく、少し言葉や表現を替えるだけで、その本の歌の世界が新たな生命を得るからです。
この物語にも、そこかしこに、何かの歌の名残が響いているかもしれません。たとえば、「都路を/今は下り来れば/……」という歌は、ある人には、実朝の「箱根路を/わが越え来れば/……」の響きを連想させるかもしれません。じっさい、「都路を/今は下り来れば」という言葉が心に浮かんだとき、私は実朝の歌を連想しました。八〇〇年ほど前の実朝が、いったいどういう気持ちでこの歌を詠んだか、私たちに知る術はありませんが、私は「都路を/今は下り来れば/なつかしき/吾妻の海は/やはらぎにけり」と歌うことで、はじめて実朝の和歌の響きに寄り添うことができました。このように、古人の歌を親しく感じる経験は、同じような歌を詠むことで、頂点に達します。それは、同じような気持ちを持ったということです。
 「妹と我れ/名を呼び交はす/夢のあと/現つに会へば/恥づかしきかな」の歌から、貴方は何を連想されるでしょうか。じつはこの歌の最後の七字を詠んだとき、私が連想したのは和歌ではなく、堀辰雄の小説の「恥かしかった」という一節でした。「かくは嬉しき」という言葉が出てきたときは、夢野久作の短編『あやかしの鼓』を思い出しました。
もちろん、これらはもとになる歌や作品を素材に、技巧的に作ったというのではなく、結果的に本歌取りのようにも聞こえる、というにすぎません。
この物語のすべての歌は、恋心からそのまま生まれたものであり、あるいは恋心が景色に流れ込んで生まれた、いわば恋する者の叙景歌ばかりです。恋心に向き合う人は、その人に許された範囲内で、最も美しく生きています。稀なことですが、もし恋する相手が頂点的な人であって、そして自分がその人にふさわしく成長しようと願った場合、恋心はこの世のものとも思われないほど高みに達して、世界を美化することがあります。この世のものではない美は、この世のいかなる力によっても侵されません。
「侘び茶は心強くなければ保ちがたい」という利休の言葉を借りれば、恋歌はこの世ならず美しくなければなりません。財産や権力によって、華美に装うことはできますし、努力や知識によって、言葉を飾ることはできますが、それは世を超えて美しく生きることとは別のことです。ある古典で、芸術や恋愛で大事なのは、「あで」(華美)なることでもなく、「まめ」(誠実)なることでもなく、ただ「もののあわれ」を知るかどうかにある、と言っているのは、このことです。

   感情教育
 私たちの心は、内外の条件に応じて波がありますので、心境もいわば「山あり谷あり」を免れません。我ながら感心するような、なかなか高雅な作品ができることもありますし、我ながら気恥ずかしい、通俗歌謡のような作品ができることもあります。多くの作品をボツにしたいという気持ちは、一見もっともです。
しかし、一度は和歌の形を取ろうとした気持ちや情景には、最後までこだわって、彫琢を加えることをお勧めします。この『古語短歌物語』にも、流行歌のような言い回しが混ざっていますが、敢えて削除しませんでした。あるいはそれらは、長い時間を経て、推敲していくうちに、原型をとどめないまでに変形することがあるのかもしれません。それでも、最初の歌の断片が残るのは、私たちにはその意味が十分に自覚できないにせよ、なぜか心に残る思い出が、何かの形を取ろうとして、胎動しているのではないでしょうか。
こうして、恥ずかしいほど稚拙な作品が、言葉の組み換えによって様変わりすることがあります。失われかけた瞬間が、少なくとも私にとっては、永遠の情景となるのです。
 個人の歌集を読んでみるとわかりますが、名歌ばかりではありません。まるで散文のような、会話のような、つぶやきのような三十一文字のなかに、突然美しい和歌が立ち上がっています。あるいは、個人の歌集の中にあって埋もれている和歌が、勅撰和歌集に入ると、他との対比で浮かび上がることもあります。つまり、和歌集にも、流す部分と高まる部分があって、流す部分は名歌の背景、あるいは低音部になっています。高品質な背景・低音部なしに、高度な作品は立ち上がることができません。
 このような意味で、和歌を詠む私たちは、感情が形を取ろうとする機会を無駄にせず、それをできるかぎり美しく整えるよう努めるのです。和歌を詠むというこの努力は、生活の一瞬一瞬を少しでも美しく整えようとする姿勢につながります。美しい生活の中の出来事でなければ、美しい歌にならないからです。私たちは、美しい和歌を詠むために美しく生きようとするのか、美しく生きるために美しい和歌を詠もうとするのか、両者を区別できません。
 取るに足りないと思われた一瞬や感情、ふと思い浮かんだ大和言葉が、そのまま失われずに、自分を感動させるところまで、高められること、和歌を詠もうとする姿勢は、こういう感情教育につながります。和歌を詠み続けることで、私たちはいわば自らの感情を教育しているのです。
 読者にとっての効果を言えば、世阿弥が言ったように、全篇が錦織のような難しい文章の所々に、耳慣れた通俗歌謡を織り交ぜることで、幼い魂もその高雅な言葉の森に留まることができます。豊穣な言葉の森に留まっていれば、やがてその魂も美しい歌を詠むことになるでしょう。

   実作
 短歌を詠もうと思った人は、まずどの短歌の会に入ろうか、と考えることが多いようです。基本的にはご縁のあるところに行くしかないのですが、私の個人的な考えとしては、少なくとも一定以上の才能と能力を持った人は、古典を先生として、自ら学ぶことをお勧めします。右も左もわからない場合は、結社に入って、先生や先輩から教えてもらう必要がありますが、そういう方はこのような文章は読まないでしょうし、読んでもわからないでしょう。
私がここで述べていることの意味が多少ともわかるほどの人は、すでに一定以上の才能と能力がある人ですから、ぜひお一人で、古典を先生にして、古典と対話しつつ、短歌を詠んでください。
その場合、すべてを名歌として、宗派の経典のように崇拝する必要はありません。万葉から新古今、近現代の古語短歌を見るうちに、自分が詠む歌と近い感性、姿勢、スタイルをもっている歌人が、おのずと絞られてきます。その歌人と対話をするように、練習をされるとよいでしょう。画家の練習が、名画の模写から始まるのと、同じことです。
歌の推敲も、先人と対話をするようにされれば、同時代の師匠や先輩と対話をし、指導をしてもらうのと、同じことです。文字に書かれた作品を通して、先人と内的な対話ができる人は、すでにそのようにする資格があります。
私事を申して恐縮ですが、かつて『玉葉集』を読んでいて、「この歌は自分の好みに合う」「自分の詠んだ歌と似ている」と思ったものが、いくつかありました。そしてその多くは、京極為兼の歌でした。周知のように為兼は玉葉集の選者であり、私が自分の所属を「玉葉舎」と称しているのは、このような縁からです。生身の師匠や弟子がいるわけではなく、時空を超えた魂の結社だと考えています。同じ魂をもった方は、『玉葉集』を学び舎と思ってください。
もっと具体的なこととして、古語短歌を詠む場合、どの時代の言葉や意味で使うか、という問題があります。語義が変遷していたり、時代によって頻度が違ったり、中世以降、ほとんど使われなくなった言葉もあるからです。また万葉調なのか、新古今調なのか、「ますらおぶり」か、「たおやめぶり」かという、調べ(調性)に関する古い議論も思い出します。
私の個人的な作法としては、日本文化の遺産としての古語や調べは、時代や地域の区別なく、自由に用いたほうが、豊かさを増すと思います。伝統や流派に拘るのは、縄張り争いや組織防衛が、自己目的化したためではないでしょうか。現代人が、奈良時代特有の言葉と、江戸時代特有の言葉を混ぜて用いて、ある美しい作品ができたとすれば、その作品の勝利です。
言葉や調べは、和歌を詠むという一連の成り行きの結果であって、あらかじめ指定された目的のための道具ではありません。古語辞典を参考に、種々の用例を参考にしながら、自らの作品の出来高によって、また自分がその短歌を詠むことでどれほど高められるかによって、判断基準としてください。
和歌は、自分の心からあふれてくる思いを、自分の大切な思い出として形作る、誰の邪魔にもならない、言葉とイメージの記念碑です。美しい無形の記念碑を作るために、不必要な制約は少ないほうがよいのです。
なお、現代語を用いた短歌については、あえてコメントすることは避けたいと思います。それは別のジャンルであり、私の古い美意識では鑑賞できないからです。


   発表の仕方
 短歌を詠んだあと、歌集として発表されることを希望される方が多いのですが、私は物語形式の中に、歌を綴ることをお勧めします。理由は次のとおりです。
 俳句と短歌に対して、かつて「第二芸術論」という批判が出されたことがあります。批判者はフランス文学者の桑原武夫京都大学教授(当時)でしたが、趣旨としては、こういう短詩形式は、状況説明の補足なしに、そのものとしては十分な文学鑑賞に堪えない、というものでした。有名な短歌や俳句は、すでに多くの解説や紹介があって、そのおかげでわれわれも背景がわかって深く鑑賞できるわけですから、この批判は当たっているところもあります。
 反論としては、解釈が自由で鑑賞の幅が広いのが、短歌や俳句の長所であるとか、あるいは歌枕や季語、本歌取りなどの技法を知っていれば鑑賞できる、むしろそのような基礎知識を要するのが短歌や俳句の特徴だ、知識のない者が鑑賞できないのは当然だ、というものもありました。この反論も、一理あります。
 俳句が現在世界的に受容されているのは、周知の通りですが、短歌は外国人が理解するには難しすぎるところがあります。この意味で、俳句が「第二芸術」であることが流行の条件であった、と皮肉が言えるのかもしれません。ただし、作者の意図に沿った鑑賞をしようとすると、作者の生き方や考え方を探る必要があり、それは俳句の鑑賞においても、必ず起こってくる不可欠の作業です。
 したがって、俳句や短歌を、作者の意図に沿って鑑賞してもらうには、状況説明があるべきだろうと思います。和歌の伝統にある「詞書(ことばがき)」は、長短いずれも状況を説明するものでした。このような詞書をもった短歌をつなげたのが、『伊勢物語』にはじまる歌物語にほかなりません。芭蕉の『奥の細道』も、そのスタイルを踏襲したものです。
 自分が詠んだ歌を、まずは自分の意図に沿って受け取ってもらうのが、作者の第一の願いではないでしょうか。私たち歌詠みは、自分の人生から生まれた歌を、自分の外的なあるいは内的な歩みの記念碑として位置付けています。したがってそれは、必ずや一続きの物語になるはずです。人生の中に埋め込まれることで、自分にとっての意味が定まります。
万一、それが多くの人に鑑賞されるようになり、のちに本文から独立した歌となって流通すれば、作者の手を離れた共有財産になったということです。匿名の作品が万人のものとなること、これは創作者の最も大きな望みでしょう。
 なお、最も具体的な問題、つまり発表の媒体としては、伝統的な出版形式のほかに、私がここでやっているような、インターネット上の発表もお勧めします。最大の理由は、コストがほぼゼロということです。

*   *   *

どうぞあなたも古語短歌を詠んで、日本語が母語であることの喜びを味わい得る人になってください。時空を超えた不可視の結社「玉葉舎」に、もののあわれを知る魂たちがゆるやかに集い、そこかしこで折々に詠まれる古語短歌が、大和言葉の美しさ、大和心の美しさを、末永く伝える一助となりますよう、心から願っています。

                               日守 麟伍 (玉葉舎)

                              GOOブログ「日守麟伍の古語短歌茶話」版
2011年2月28日刊
Ⓒ2011 Ringo HIMORI
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