日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

推敲の実例

2011年06月22日 | 日記
 いつものように寝付けない夜、ふと「故知れぬ」「浮かぶ影」という言葉が浮かんできました。目新しくもなく、よく見聞きする、むしろ陳腐な言い回しです。これを核にして、どうにか、自分の心にしっくりくる形を付けようとして、すこしずつ推敲したものが、つぎの4首です。

ゆゑ知れぬ うれひに浮かぶ 影もあれや 定めなるべき ゆくへも知らに
(理由もわからない憂いに、幻の姿が浮かんでくるのは、何かの定めがあってのことでしょうか。その定めがどう成り行くのかも、わからないのですが。)

ゆゑ知れぬ 定めに浮かぶ 影もあれや 波のまにまに 流れ果つべく
(理由もわからない、何かの定めがあって、幻の影が浮かんでくるのでしょうか。その物影は、波に浮かんで運ばれるように、どこかに流れていってしまう定めなのでしょうか)

ゆゑ知れぬ 定めに浮かぶ 影もあれや 波のまにまに うれひ果つべく

ゆゑ知れぬ 定めに浮かぶ 影もあれや 風のまにまに ゆらぎ果つべく

それぞれ趣向が少しずつ違った、でも同じ雰囲気の歌です。あなたはどれがお好きでしょうか。
 1首めが、最初にかなり自然にでてきたものです。あとの3つは、工夫しようとしたのですが、「波」や「風」という常套語が、悪い効果を出しています。「まにまに」も、効果はよくありません。推敲するほど悪くなる、あるいはぎりぎりまで推敲できていない、という実例です。
 並べてみると、3、4首めは、最悪に近い出来映です。1首がいちばん美しく、2首めがどうにかよい姿を取っているように思います。



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雨の歌

2011年06月17日 | 日記
 雨を詠んだ歌を『花の風』から抜き出してみましょう。1首目が第3巻から、あとはすべて第5巻からです。「夜の雨の・・」という勅撰集の歌は、これらを詠んだあとに見付けましたが、同質の歌空間にいた歌人と思います。


降る雨に しとゞものこそ 思はるれ 人の恋しき 晴れもやらずて
(降り続く雨にも、あなたのことが思われてなりません。あなたへの恋しさは晴れることがありません)


芳しき 吐息の如き 夏の風 心に重き 露を含みて
(あなたの息のようによい香りのする夏の風は、湿り気が多く、心に憂いを含んだように、重く流れています)


雨音の かく懐かしき 故知れず 胸騒ぎする 木々の末葉に
(雨の音が、こんなに懐かしいのは、なぜでしょうか。木々の梢葉をみると、胸騒ぎがしてなりません)


雨音に 木の葉さやげる 何事の かく懐かしき 知る術もなく
(雨の音に木の葉がざわめいています。何がこんなに懐かしいのか、知るすべもありません)


なほ止まぬ 時雨ぞかくは 懐かしき 経りにし世々の 跡を辿りつ
(いつまでも降り止まない時雨が、このように懐かしいのはなぜか、過ぎ去った昔のことを、ひとつひとつ思い出してみましょう)


降り止まぬ 時雨に濡るゝ 梢葉の 雫と揺らぐ 世々の寂しさ
(降り止まない時雨に、濡れた木々の梢葉から雨の雫が滴っています。ゆらめく雫が、過ぎ去った時代の、慰めようのない寂しさのようです)

 ショパンの「雨だれ」は、とても瞑想的とは言えませんが、和歌で示すことができる空間は、瞑想に誘うしめやかな雰囲気を持っています。雨音(水音)に耳を傾けることは、なんと心静まり、心深まることか、不思議に思われます。



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夏の歌

2011年06月15日 | 日記
日本の夏は高温多湿で、私辻哲郎が描いた「モンスーン型」の典型です。夏は蒸し暑いというのは、日本文化の初期条件になっており、これを「設定変更」することはできません。「家を作るときは、夏をどう過ごすかを、一番に考えるべきである」(『徒然草』)とあるように、日差しを避けるために軒を深く取り、柱で構造を作って壁は外せるようして風通しを確保し、床を高くし、といった工夫は、いわゆる日本建築の常識でした。エアコンの普及で高気密高断熱となって、快適になったようですが、災害時やその余波で電力供給に不安があるとなると、それがアダになったようでもあります。
 日本の漆器をお土産にしたアメリカ人が、自宅に持ち帰ったら、割れてしまったという話を聞いたことがあります。また音楽家の話で、ヨーロッパのバイオリニストは、夏の日本に来るときはいい楽器を持ってこない、という噂も聞いたことがあります。逆に、日本のバイオリニストがヨーロッパに行くと、楽器が乾燥して音がよく出て、演奏が一段うまくなったように錯覚する、という話も聞いたことがあります。ホールの音響の違いがあるにしても、音楽が湿度と関係するのは、間違いありません。日本に住んでみて、部屋にカビが生えてきたのを見た欧米人が、「日本の風土は、生命力に満ちている!」と驚いた、という都市伝説も聞いたことがあります。
 能の囃のうち、大鼓と小鼓は、湿度の好みが違います。大鼓は乾燥したほうが、硬く鋭い音が出るため、楽屋では皮を火鉢であぶっています。逆に、小鼓は湿って柔らかい音を出すため、お気付きでしょうか、演能中でも唾で湿らせていることがあります。
 高温多湿は、体感的にも快適とは言えません。汗が蒸発しにくく、着衣がまとわり付くからです。しかし、このじめじめした感じが、ときどき、奇妙な快感に思われることがあります。生まれたときから、慣れているからでしょうか。だいぶ前に、梅雨時のバスの中で、日本に来て間もないアメリカ人と話をしていて、「私たち日本人は、この高温多湿に、倒錯的な快感を覚えることがある」と言って、うまく通じなかったことがあります。「さまざまのこと思い出す桜かな」(芭蕉)の句のように、さまざまな思い出が、高温多湿の空間に浮かんでくるからです。
 梅雨の終わり、ときおり夏の日差しが強くなり、空気は高温多湿で、このような思い出を蘇らせる生命力に満ちています。そのような季節の、晴れ間と、夜の闇を詠んだのが、つぎの二首です。「夢に潤ふ」という文句がたいへん気に入って、「露に潤ふ」と使っていますが、斬新な(と自負します)言い回しのあとでは、陳腐な言い回しも、一味違った効果を持つようです。

夏の陽に こがるゝ草を 吹き伏せて 表も見せず 直照りの風
(夏の熱い陽射しに、水気が奪われてよじれた草が吹き伏せられて、裏を見せ、表は見えようとして見えず、熱風に吹かれている)

夏の夜の 露に潤ふ 草深く 踏みゆく跡も 絶え絶えの風
(夏の夜、丈高くなった草が露に濡れて、どこからか漏れてくる明かりに光り、人が歩いていくように、あるいは風が絶え絶えに吹いているように、揺らめいている)



 昨年の秋に詠んだ歌を、まだ発表していなかったようですので、季節外れで恐縮ですが、載せておきます。蒸し暑い中で、薄ら寒い雰囲気を想像して、ご鑑賞ください。

色淡き 花のおぼろに 群れ咲きて 白に紫の 混じりてやある
(薄色の花がぼんやりと群れ咲いているように見えるのに、次第に近付いていくと、白い花に、ところどころ紫の花が混じって、一塊に咲いて、風に揺れている)

 この歌は、近付いていく時間の経過と、対象にズームインしていく効果を、いっしょに出しています。また、自然な字余りになっています。
私はときどき、わざわざ言葉を工夫してまで、字余りにすることがあります。字余りの効果については、初心者にはわからないとされるように、説明が難しいのですが、音楽に喩えるわかりやすいいかもしれません。たとえば、作曲者の自作自演の演奏の特徴として、指定の速度よりも遅い傾向がある、とされます。これは、かみ締めるように、確認するように、楽譜に残された以外のことが、盛り込まれるからではないでしょうか。持ち歌を歌う歌手や、われわれの鼻歌が音を伸ばす傾向があるのも、これに似たものがあるのかもしれません。字数に収まるような言葉を使うと、既製品・規格品のようになって、自分が詠みたいと思う情景にそぐわないのです。



 古語短歌を詠んでいて、つくづくと思うのは、大和言葉は時を超える、ということです。万葉集以来の和歌が、見知らぬ人間の心を表わすものではなく、共感できる親しい友人、知人の心の声に聞こえます。和歌は、境涯の順逆も超えています。幸福の絶頂にあって、驚くべき美しい世界が形を取ることがあり、また不幸悲嘆の極みにあって、万人の魂を揺さぶる絶唱が生まれます。王侯貴族から無名の庶民まで、老若男女を超え、貴賎貧富を超え、隔てる境のない「大人の愉しみ」というべきは、日本において、和歌に勝るものないでしょう。絵画、彫刻、骨董、さらには庭、建築などは、費用がかかりますが、文芸には紙と鉛筆があればよく、その広がりはすべてを超えて、いわば無限です。限界がないという意味で、文芸の境地は信仰、宗教につながっています。



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水の歌

2011年06月10日 | 日記
 衣替えの季節、梅雨になり、しばらくぶりの晴れ間に森を歩くと、緑が濃くなったのに驚きました。そのときに詠んだ歌です。

雨の間に 森は緑を 装ひて 流れも見えぬ 絶え絶えの音
(降り続いた雨が止み、いつの間にか濃い緑に覆われた森の中で、どことも見えない低いところから、水の流れる音が途切れ途切れに聞こえてくる)

このような、流れの見えぬ水の音を詠んだ歌は、玉葉集にもいくつか佳作があり、玉葉集の特徴を表わしています。夏の歌から、三つ見てみましょう。どれも、暑い一日が暮れた、夕暮れから夜ふけの情景で、暗い空間に響いてくる水の音を響かせています。

松風も すずしき程に 吹きかへて 小夜ふけにけり 谷川の音(法印覚守)

風の音に すずしき声を あはすなり 夕山かげの 谷の下水(従三位為子)

小夜ふけて 岩もる水の 音きけば 涼しくなりぬ うたたねの床(式子内親王、)

 闇の中を聞こえてくる水の音は、瑞々しさに満ちています。夜の闇も、昼間の乾燥した空間と違って、水のような密度を持っているように感じられます。夢の空間も、そのような濃い水に湿っています。目覚めてから思い出す夢が、干からびて感じられるのは、夢が内的空間の水分で湿っているからではないでしょうか。つぎの歌は、そのような気持ちを、最近ようやく言葉にできたものです。

さめ際の 夢に潤ふ 花も風も 目覚めも果てに 色薄れつつ
(覚め際の夢では、花も風もすべてが瑞々しく潤っていたのが、まだすっかり目覚めきっていないのに、色を失って干からびていき、潤いを取り戻そうとして追いかけても、捉えられない)

 二句目の「夢に潤ふ」は、これまで感じていた夢空間の水々しさが、腑に落ちるような表現を取っています。何気なく出てきた言葉は、長年の推敲(無意識の、あるいはバックグラウンドの)が、表面化したものなのでしょう。


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