日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

『歌物語 花の風』決定版(連続掲載)5章

2011年02月28日 | 日記
五の巻、憂い

一夜が明け、目覚めてすぐなのに、心臓の鼓動が起きているときのように強く、一晩中神経が休まっていなかったのがわかった。

めざむれば まずいもがへぞ おもわるる ゆめのおとずれ たえてひさしきに
目覚むれば まず妹が辺ぞ 思はるゝ 夢の訪れ 絶えて久しきに
(あなたが夢に出てくることは、ずいぶん前からなくなりましたが、今でも目覚めると、まずあなたのことが思い出されます)

男は取り返しがつかないという気持ちと、何かをせずにはいられないという気持ちを数日もてあました。この世ではもう会うことはないかもしれないと思うと、それ以上は何も考えられなくなった。

気がつくと、男は女のことばかり考えていた。

よきものわ いもにつげんと おもわるる またおうことの ありとおもわなくに
佳きものは 妹に告げむと 思はるゝ また会ふことの ありと思はなくに
(よいものを見聞きすると、「こんなものがありましたよ」とあなたに告げたい気がします。また会うことがあろうとは、思っていないのですが)

いもさりて けながくなれど おもかげの うつつごころに うかびてやまず
妹去りて 日長くなれど 面影の 現つ心に 浮かびて止まず 
(あなたがいなくなってから、ずいぶん日が経ちますが、いつまでも、目覚めていながらあなたの面影が思い出されてなりません)

 男はかつて、幻影の中で、そのような人とこのような出会いをすると聞かされたことがあった。「まさか」と思っていたことが、その通りに起こった。

のちのよと つげらえしこと みなはてぬ きょうよりのちわ こころのままに
後の世と 告げらえしこと みな果てぬ けふよりのちは 心のまゝに
(「いつかこうなる」と告げられていたことが、みなその通りになりました。今日からは、あなたに惹かれる思いのままに、地図のない世界を生きていこうと思います)

 初夏になり、草木に覆われた地表では、風が生き物のように動いていた。

まくかぜに うればのゆらぎ においたつ たおりていもが かたみとやせん
巻く風に 末葉の揺らぎ 匂ひ立つ 手折りて妹が 形見とやせむ
(巻き上がった風が木の葉をゆらがせ、草のいい匂いがしました。枝を手折って、あなたを思い出すよすがに、持ち帰りましょう)

 夏の風は、愛しい人の息のように、暖かく湿り気を帯びていた。

かぐわしき といきのごとき なつのかぜ こころにおもき つゆをふふみて
芳しき 吐息の如き 夏の風 心に重き 露を含みて
(あなたの息のようによい香りのする夏の風は、湿り気が多く、心に憂いを含んだように、重く流れています)

 男は、わざと暑い盛りに外に出ては、木立の中で蝉しぐれの声を聞いて、長い時間を過ごした。

よのうれい ひとのうれいも なくせみの いまをかぎりと ねをのみぞきく
世の憂ひ 人の憂ひも 鳴く蝉の 今を限りと 音をのみぞ聴く
(世には多くの憂いがあり、人にも多くの憂いがあります。蝉はそんな憂いは何もないかのようにひたむきに鳴き、私はその蝉の音をひたむきに聴いています)

 秋になり、暑さで膨らんでいた大気が冷えてしぼみ、音が遠くで聞こえるようになり、男も急に老化したかのようだった。

おいぬれば のちのよばかり たのみつつ のこりしひびの うきをたえなん
老いぬれば のちの世ばかり 頼みつゝ 残りし日々の 憂きを堪えなむ
(年をとったので、あとは後の世のことを楽しみにして、残された辛い日々に堪えようと思います)

こいわびて やるせなきみの くるしさの やむべきときを まつぞくるおしき
恋ひ侘びて 遣る瀬無き身の 苦しさの 止むべきときを 待つぞ狂ほしき
(あなたを恋わびて、やるせない思いでいます。この苦しさがいつ止むのかと待っている時間はたまらなく辛いものです)

のちのよわ いかなるときに おうべくも せめてあわまく ほしきいもかも
後の世は 如何なる時に 会ふべくも せめて会はまく ほしき妹かも
(生まれ変わった次の世が、どのような世界でも、どのような時代でも、せめてあなたに会いたいものです)

いにしえも かくはありけん こんよにも かくてあるらん ひとこうるみわ
古へも かくはありけむ 来む世にも かくてあるらむ 人恋ふる身は
(人を恋する人間は、昔もこのように苦しく、後の世もこのように苦しいのでしょうか)

これもかも すぎゆくことと まちおれど ときのあゆみぞ かくすすまざる
これもかも 過ぎゆくことゝ 待ちをれど 時の歩みぞ かく進まざる
(なにもかも過ぎ行くことだと思っていますが、過ぎ去るのをこうして待っていると、時間の進みは何と遅いことでしょう)

すぎはてて おもいいずべき ひをまたん このこいわただ うつくしければ
過ぎ果てゝ 思ひ出づべき 日を待たむ この恋はたゞ 美しければ 
(なにもかもが過ぎ去って、思い出となる日を待ちましょう。美しいあたなを思うこの恋は、ほんとうに美しいのですから)

 男は時折、女に似た人を見てはっとすることがあった。

まれにみる いもがにすがたに めをとめて みしらぬひとに はしきなをよぶ
稀に見る 妹が似姿に 目を留めて 見知らぬ人に 愛しき名を呼ぶ
(ときおりあなたに似た人を見かけて、別人だとわかっても、あなたのいとしい名前を口ずさまずにはいられません)

その後の男の単調な人生は、遠ざかったり近づいたりする女の面影に向って、歌を詠むことだけが、折々の密かな祝祭になった。

さざなみの あとよりおそう おおなみに こころおどろき ひきしおをおう
さゞ波の あとより襲ふ 大波に 心驚き 引き潮を追ふ
(寄せては返すさざ波のあとから、大きな波が打ち寄せて、はっとした私は、その引き潮を目で追いました)

男は遠く離れた女に語りかけるように、一つ一つの歌を詠んだ。

おおはまの ながきみぎわに うちよする しきなみのおと いもときかなくに
大浜の 長き汀に 打ち寄する 頻波の音 妹と聞かなくに
(大きな砂浜の長い汀に、波がしきりに打ち寄せています。波が泡立つ快い音は、いつまでも途切れることはありませんが、この音をあなたといっしょに聞けたらどんなに喜ばしいでしょう)

おおはまの みぎわをわたる みずとりの さうにゆきかい ねをなきかわす
大浜の 汀を渡る 水鳥の 左右に行き交ひ 音を鳴き交はす
(大きな砂浜の汀を、水鳥があちこち飛び交い、鳴き交わしていますが、離れたり近づいたりする様子が、胸に迫ります)

おおはまの なみのまにまに うきしずむ にわのみずとり みえずなりにき
大浜の 波の間に間に 浮き沈む 二羽の水鳥 見えずなりにき
(大きな砂浜の、波間を飛び交って、浮き沈みして見えていた二羽の水鳥が、どこへいったのか、見えなくなりました)

この世の苦しさも惨めさも、つまらない景色もありふれた出来事も、歌の中では美しい形や動きとなって残った。

古今のなつかしい歌と、愛しい女の面影が、男の周りにいつも漂っていた。

あまおとの かくなつかしき ゆえしれず むなさわぎする きぎのうればに
雨音の かく懐かしき 故知れず 胸騒ぎする 木々の末葉に
(雨の音が、こんなに懐かしいのは、なぜでしょうか。木々の梢葉をみると、胸騒ぎがしてなりません)

あまおとに このはさやげる なにごとの かくなつかしき しるすべもなく
雨音に 木の葉さやげる 何事の かく懐かしき 知る術もなく
(雨の音に木の葉がざわめいています。何がこんなに懐かしいのか、知るすべもありません)

なおやまぬ しぐれぞかくわ なつかしき ふりにしよよの あとをたどりつ
なほ止まぬ 時雨ぞかくは 懐かしき 経りにし世々の 跡を辿りつ
(いつまでも降り止まない時雨が、このように懐かしいのはなぜか、過ぎ去った昔のことを、ひとつひとつ思い出してみましょう)

ふりやまぬ しぐれにぬるる こずえばの しずくとゆらぐ よよのさびしさ
降り止まぬ 時雨に濡るゝ 梢葉の 雫と揺らぐ 世々の寂しさ
(降り止まない時雨に、濡れた木々の梢葉から雨の雫が滴っています。ゆらめく雫が、過ぎ去った時代の、慰めようのない寂しさのようです)

さきつよの ことさまざまに おもいやる よよのうれいわ おくかもしらず
前つ世の こと様々に 思ひやる 夜々の憂ひは おくかも知らず
(昔のことをさまざまに思っても、どのようなことがあったのか思い出せないことばかりで、取り返しのつかない苦しみだけが果てしなく続きます)

めざむれば ゆめもうつつも へだてなき わがみひとつの おもいにぞある
目覚むれば 夢も現も 隔てなき 我が身一つの 思ひにぞある
(私は目覚めているときも、夢の中でもほとんど違いがなく、思うことにも変わりはなくなり、いつも同じことを考えています)
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『歌物語 花の風』決定版(... | トップ | 『歌物語 花の風』決定版(... »

日記」カテゴリの最新記事